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人生は旅。 
知らない街を歩いてみたい 
知らない海をながめていたい 
どこか遠くへ行きたい 
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。

けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。

たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。

さて、どこまで放浪できるか ……






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  021  2019年12月19日

 思い出は映画と共にA
 〜本当に大切なものは失って初めて気づく 「道」(1954)〜


 高校生の頃私は1枚のLPレコードをよく聴いていた。ニニ・ロッソ(イタリア 1926〜1994)の吹くトランペットを。そこには「夜空のトランペット」「夕焼けのトランペット」「星空のブルース」等彼の代表作や「スターダスト」等の名曲を含む12曲が入っていた。「スターダスト」はそれまではザ・ピーナッツが歌う「シャボン玉ホリデー」のエンディングテーマだと思っていたが、実はジャズのスタンダードだということをこのレコードの解説で知った。

 この12曲の中の「テリーのテーマ」(アメリカ映画 チャールズ・チャップリン監督主演 クレア・ブルーム共演「ライムライト」主題歌)と「ジェルソミーナ」(イタリア映画 フェデリコ・フェリーニ監督 ジュリエッタ・マシーナ アンソニー・クイン主演「道」主題歌)は初めて聴いた曲なのだが、その美しい旋律がずっと心に残っていて、後にその映画を観ることになった。

 映画「道」(世界に誇る名作映画と評価が高く、世界中にファンも多い)を観たのはまだ20才代の頃で、NHKの教育テレビだったように記憶している。日本語字幕だったのか吹き替えだったのかも覚えていない。白黒で画質も音質も悪かった。ストーリーも全くおもしろみが無く、暗く悲しいので、「これが名作なのか?」と思わず首をひねった。
しかし我慢して最後まで観た。

 脚本家の猪俣勝人は著書「世界映画名作全史戦後編( 1974年)」でこう語っている。
「こんな映画をわれわれは見たことがなかった。どんなに高級な芸術映画でも、かりにもスターの演ずる主人公にはどこか必ず人に優れた何かがあるのが常だった。それがこの映画にはないのである。あるのは哀れな女のみじめさと、無知な男の獣のような粗暴さだけだ。しかもその間に人間的な心のふれ合いとか、素朴なよさとか、そんなものはいっさいない。われわれは可哀そうな女の地に這いつくばるような姿に次第に暗い思いにひきこまれるだけだ。主題歌のメロディがまたいっそう心をしめつけ、どうにもやりきれない思いに誘われる。」 
 私は全くその通りだと思った。気が滅入るので二度と観たくないと思った映画だった。

 ところが先日(12月13日 NHK BS3)テレビ放映されることを知り、とりあえず録画して深夜に観た。初めて観て以来約40年経って、若い頃に観た時と印象がどう変わっているのか確かめたかった。やっぱりつまらない映画だなと思ったら、途中でも観るのをやめて録画も消してしまおうと思っていた。
 昔観た時と違い、デジタル処理がしてあるのか画面は明るく白黒にメリハリがあり見やすかった。
自分でも驚いた、主人公のジェルソミーナが、年老いた母親や幼い妹達と手を振って別れる冒頭のシーンから涙が出てきた。(NHKの朝ドラ「おしん」で、主人公のおしんが7才で初めて奉公に行く設定とよく似ている)場面転換が見事で画面にくぎ付けになった。この映画は一度観ているし、物語の展開も知っているのになぜ涙が出るのだろう。いや知っているからこそ涙が止まらないのかもしれない。私は主人公のジェルソミーナに感情移入してしまって、彼女のセリフ、表情、動作に胸がしめつけられた。 

 あらすじを紹介する。
 イタリアの貧しい海辺の町で暮らすジェルソミーナは、姉のローザが死んだという報告を受ける。ローザは旅芸人のザンパノに買われて彼のアシスタントをしていた。母親はローザの代役としてジェルソミーナを二束三文でザンパノに売ってしまう。純真無垢な彼女は母親を助けるために彼のオート三輪に乗り込む。
 ザンパノは屈強な体をした粗暴な男で、胸部に巻いた鎖を胸筋だけで切るという芸で稼いでいた。ジェルソミーナは客の呼び込み方や太鼓の叩き方を教えてもらい、道化師として彼のアシスタントを務める。さらに男女の関係も強要されるが、彼女は黙って耐えていた。
稼ぎがいいとザンパノはレストランで食事をさせてくれた。ジェルソミーナはいつしかこの暮らしにも慣れ、彼の女房役に幸福さえ感じていた。
 しかしザンパノは行きずりの女と寝る時は、平気でジェルソミーナを置き去りにしてしまう。ジェルソミーナが自分の悲しみを訴えてもザンパノには伝わらない。ただ“一緒に居たいならつまらんことを言うな”と怒られるだけだった。
 ある結婚式で芸を披露した2人は使用人の女性に食事をふるまってもらう。ザンパノは未亡人だというその女性と何処かへ行ってしまい、帽子や服をもらって上機嫌で帰ってくる。あまりの孤独と悲しみに耐えられなくなったジェルソミーナは、ザンパノのもとを去る。
 途中で大きなお祭りに出くわしたジェルソミーナは、綱渡り芸人イル・マットの芸を見る。しかし祭りが終わっても彼女に行くあてはなく、道端で途方に暮れていた。そこへジェルソミーナを探していたザンパノがやってくる。彼女は“行きたくない”と逆らうが、結局彼のオート三輪に乗り込む。
ザンパノとジェルソミーナはサーカスで使ってもらえることになる。そのサーカスにはあのイル・マットがいた。イル・マットとザンパノは昔からの知り合いだが、仲が悪い。イル・マットはザンパノの芸にふざけたチャチャを入れ、彼を笑い者にする。イル・マットはなぜかザンパノをからかいたくなるのだった。
 翌日、ジェルソミーナはイル・マットがバイオリンで奏でる悲しいメロディに惹かれて彼のところへ行く。イル・マットは彼女にバイオリンを教えてくれる。それを見たザンパノは本気で怒り出し、ナイフを持ってイル・マットを追いかける。この騒ぎは警察沙汰となり、ザンパノは留置場に拘留される。サーカスの団長はジェルソミーナだけなら一緒に来てもいいと言ってくれる。しかし彼女は迷っていた。
 その夜、ジェルソミーナはイル・マットと話し込む。彼女は自分を無意味な存在だと感じ、生きるのが嫌になっていた。イル・マットは「ただの小石でもこの世にあるものは何かの役に立つ」と話してくれ、自分の相棒にならないかとジェルソミーナを誘う。しかしザンパノがジェルソミーナに惚れていることがわかると、吠えることしかできないザンパノを憐れむ。ジェルソミーナは自分がいないとザンパノは独りぼっちになってしまうのだと悟る。
 イル・マットはジェルソミーナに自分のネックレスをプレゼントして去っていく。ジェルソミーナは目に涙をいっぱいためてイル・マットを見送る。そして釈放されたザンパノに黙ってついていく。
ラッパが吹けるようになったジェルソミーナは、いつもイル・マットが奏でていた悲しい曲を吹いていた。修道院の納屋に泊めてもらった夜、彼女はザンパノに少しは自分を好きなのか聞いてみる。しかしザンパノは何も答えてくれない。それどころかお世話になった修道院で泥棒をしろと言われ、ジェルソミーナは傷つく。
 そんなある日、人気のない道でイル・マットと再会する。イル・マットは無邪気に声をかけてくるが、ザンパノはあの時の恨みを忘れておらず、いきなり彼を殴る。後頭部を強打したイル・マットはそのまま倒れこみ、ジェルソミーナの目の前で死んでしまう。ショックのあまり彼女は正気を失っていく。
 ジェルソミーナは食事もとらずに泣き続けていた。芸の途中でも“イル・マットの様子が変よ、ザンパノ”と口走り、泣き出してしまう。ザンパノはそんな彼女を持て余すようになる。そして野宿先で眠り込んだジェルソミーナを見捨てていく。ただ、少々のお金とラッパだけは彼女のそばに置いてやった。
 数年後、旅芸人を続けていたザンパノは、ある港町であの悲しい曲を耳にする。その曲を口ずさんでいた女性は、数年前ここにいた哀れな娘がいつもラッパで吹いていた曲だと教えてくれた。その娘はしばらくして死んだということだった。
 その夜、ザンパノは泥酔して酒場から追い出される。“誰もいなくても平気だ”と言いながら海辺に行き着いたザンパノは、砂をかきむしりながらひとりで泣き崩れる。


 見終わった時は、深夜2時を過ぎていた。104分のうち、30分以上は泣いていたように思う。ラスト近くのシーン、野宿先で眠り込んだジェルソミーナの少女のような穏やかな寝顔。その彼女を見捨てていくも、そっと毛布を掛けてやり、少々のお金とラッパだけは彼女のそばに置いてやるという優しさをみせたザンパノ。この間セリフは無い。しかしザンパノの心の動きやジェルソミーナの哀しさがよく伝わってくる。ここでは涙が溢れてきた。映画史に残る名シーンだと確信する。
ザンパノという大きくて黒い悪魔とジェルソミーナという小さくて白い天使の対比が見事に表現されている。この2人にイル・マットという神様が降臨する。神様はジェルソミーナには生きる希望を説き、ザンパノには生きる試練を与え、やがて消えていく。天使は悪魔を懸命に愛そうとするが、愛を知らない悪魔は天使を見捨てていく。天使がいなくなり初めて悪魔は本当の愛の意味と深さを知る。ああ、考えれば考えるほど奥の深い映画だ。
 悲惨で救いようのない話だと思っていたが、ジェルソミーナを演じるジュリエッタ・マシーナの豊かな表情や可愛らしい仕草が物語を明るくしていることに気が付いた。確かにジェルソミーナはザンパノ以外のたくさんの人に好かれ親切にされている。(ここも「おしん」の設定に似ている。)
 この映画はジュリエッタ・マシーナのために、彼女の魅力を存分に生かすためにつくられた映画なのかもしれない。彼女の名演技(この頃すでに30歳を過ぎていたが、20歳前後の少女に見える)を堪能するだけでもこの映画を観る価値がある。ちなみに、監督のフェリーニとジュリエッタ・マシーナは実の夫婦である、2人は1993年フェリーニが病死するまで連れ添った。マシーナが肺癌で他界したのはフェリーニの死から5ヶ月後のことであった。
 それからも、いろんな思いやいろんな人の顔が頭の中をグルグルまわっていた。はっきりと分かったことは、この映画はまぎれもなく名作であるということだ。観た人は誰もが、映画の場面・登場人物・セリフに思い当たることがあるだろう。
 若い頃は全く気付かなかったこの映画の持つ普遍的なテーマ「失っては見つけ、失っては見つけ、その繰り返しで道は続いていく」「人を捨てるということは、人に捨てられるということでもある」が理解できたように思う。また、脚本も場面設定・転換も役者の演技の素晴らしさも今ならよく分かる。これも私が人生経験をつんで年齢を重ねてきたからだろう。年をとるということは大切で素敵なことだと改めて思う。
本当に大切なものは失って初めて気づくという、理屈では分かっていてもいざ失うまではやっぱり気づかない、誰もが何度も思い知らされている人間の真実。」このことが最後のシーンに凝縮されている。
 全ての人にこの映画をお勧めする!

 最後に、サントラ盤の主題歌をお聴きください。