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人生は旅。 
知らない街を歩いてみたい 
知らない海をながめていたい 
どこか遠くへ行きたい 
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。

けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。

たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。

さて、どこまで放浪できるか ……







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 026  2020年2月9日

 歌謡曲(フォークソング)と私 E 〜フォークル名曲3選〜


 フォーク・クルセダーズ(フォークル)といえば、1967年12月に発売し、300万枚近いヒットをかっ飛ばした(おらは死んじまっただー、で始まる)「帰って来たヨッパライ」が代表曲(デビュー曲)だ。何といってもグループサウンズ全盛のあの時代に、無名のフォークグループがメガヒットさせたのだからこれは快挙といえるだろう。多分兄が買ったのだろうと思うが、我が家にもこのレコードがあったのだから。
 しかし他にも名曲がたくさんある。今回は3曲紹介する。

イムジン河  朴世永作詞  高宗煥作曲  松山猛日本語訳

 それは新聞の社会面を揺るがす大事件となった。

 1968年2月、「帰って来たヨッパライ」で大ヒットを飛ばしたフォーク・クルセダーズ(フォークル)の第2弾シングルとして予定されていた『イムジン河(がわ)』が朝鮮総連のクレームを受け、発売中止となったというのである。

「帰って来たヨッパライ」の作詞者で、この歌も日本語の歌詞をつけフォークルのメンバーに教えた松山猛(たけし)はテレビでニュースを知った。「『エッ何で?』と訳が分からなかった。説明にきた担当者は『堪(こら)えてくれ』というばかり。『韓国で(関連会社製品の)不買運動が起きてしまう』とか『戦争になる…』なんていい出す人までいた」

 南北分断の悲劇をテーマにしたこの歌は1957年に北朝鮮で「リムジン江(臨津ガン)」(朴世永作詞、高宗煥作曲)として誕生した。主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。本国では評判を呼ばなかったが、約3年後総連系の歌集に掲載されて在日コリアンに広まってゆく。

 松山猛がこの曲と出会ったのは京都での中学時代。自分の中学校との喧嘩に明け暮れていた京都朝鮮中高級学校の生徒たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。松山はトランペットの練習を九条大橋でよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、この曲のメロディーと歌詞を教わり、さらに彼から、1番の歌詞の日本語訳が書かれたもの(彼の姉が書いた)と、朝日辞典を渡されたという。

 後年、松山はフォーク・クルセダーズのメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でこの曲のメロディーを伝え、それを加藤が採譜した。自分が教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた。それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。1966年のことであった。

 もうお分かりだと思うが、松山が在日コリアンの友人から教えられ、美しいメロディーと歌詞に魅せられた経緯は、映画「パッチギ」のモチーフとなったのである。

 ただ、松山はイムジン河の出自を知らず、新しい民謡だと思い込んでいた。「売るつもりなどなく、帰国事業で北へ渡った友達の望郷の思いや、世界で起きていることを知ってほしいという純情な気持ちだった」という。

 当時、総連・文芸同音楽部長だった李負J=現音楽プロデューサー=は「(総連側が求めたのは)作詞・作曲者の名前と正式国名をクレジットする2点だけだった」という。しかしレコード会社側は早々に発売中止を発表。政治的トラブルを懸念した親会社(東芝)の意向だったとされる。以後数十年、歌はタブー視され、表舞台から消えてしまう。

 「イムジン河」復権は2000年代まで待たねばならなかった。今や日、韓、朝の多くのアーティストが取り上げ、英、仏語訳まである。

 松山は言う。「当時、『盗作』と書かれたこともあってすごく傷つき、トラウマになった。ホントは僕が紹介したのになぁって…。いろいろあったけど今までよくぞ歌い継がれてきたと思う。驚くべき『歌の力』ですよ」

 映画「パッチギ」では、発売中止になったフォークルのオリジナル盤が使用された。

悲しくてやりきれない  サトウハチロー作詞  加藤和彦作曲

 1968年4月、「お昼のゴールデンショー」というバラエティー番組が(月〜金の正午から1時間生放送)フジテレビ系で始まった。司会は放送作家の前田武彦、レギュラーとしてお笑いのコント55号が抜擢された。彼らはこの番組と共に全国的な人気者となっていく。
 
その第1週目に今週の歌として選ばれたのが、「悲しくてやりきれない」だった。中学校1年生だった私は毎日テレビでその歌を聞いていた、平日正午なのになぜか。それは中学校に入学したばかりで、新入生は暫く半日で帰っていたからだ。
「帰って来たヨッパライ」とは随分感じが違うなという印象だった。

 2枚目のシングル曲として予定されていた「イムジン河」が発売中止となったため、それに代わる曲として制作された。当時パシフィック音楽出版(現フジパシフィック音楽出版)会長だった石田達郎から「イムジン河」に代わる新曲を急遽作曲するよう加藤和彦が強要され、会長室に3時間缶詰にされたときに作ったものである。

 テレビ朝日系『驚きももの木20世紀』にて「「イムジン河」のコードを反対からつなげて作った」と紹介されたが、作曲の加藤本人は否定している。これに関して、加藤は「某放送局の社長室みたいなところに、ギターだけ渡され、3時間で作曲を依頼され、部屋に鍵をかけられて軟禁状態だった。アイデアも湧かず1時間が過ぎ、とりあえず、イムジン河のメロディーを譜面に書き、音符を逆に辿ってみたところ、モチーフが出てきて、10分間ほどで作曲した。」と語っている。
さらに「その出来立ての曲を持って、そのままサトウハチロー宅へタクシーで向かった。本人とは初対面だったが、とくに曲の打合せはしなかった。1週間ほどで詞が自宅へ送られてきた。歌詞を見ると『悲しくてやりきれない』…。こんな詞で、いいんだろうかと思ったが、歌ってみると曲に語句がぴたっと合っていて驚いた」と告白している。

 映画「パッチギ」では、康介がお通夜の席から追い出され自宅に戻る途中、そのやりきれない思いをぶつけるため、愛用のギターを壊し鴨川に捨てる場面で使われている。康介の心情が歌の歌詞とメロディーにマッチして、悲しさと切なさと憤りがよく伝わるシーンだった。オダギリジョーが歌っている。

あの素晴しい愛をもう一度  北山修作詞  加藤和彦作曲

 ギター(特にフォークギター)を弾く者なら誰もが憧れ挑戦する奏法に「スリーフィンガー」と呼ばれるアルペジオ(和音を1音1音奏でる)がある。「あの素晴しい愛をもう一度」は
その「スリーフィンガー」の代名詞の曲である。私も高校時代に挑戦したが、とても難しくて出来なかった。

 この曲の成り立ちはシモンズのデビュー曲を依頼された加藤が作曲に1日、北山が作詞に1日で作り上げた。加藤は北山から送られてきた歌詞を見て北山に電話をし「最高だよ最高」とはしゃいだと、北山が加藤の追悼文に記している。結局、シモンズには別の曲「恋人もいないのに」が用意され、この楽曲は加藤と北山で歌うことになった。以上の経緯は、2010年7月のトークショーで北山が語っている。

 この曲のオリジナル録音(1971年)のきっかけは、東芝音楽工業がフォークルの再結成を図って加藤・北山の両人にはたらきかけたものであるとされる。当時、フォークルの再結成はあり得ないと明言していた2人は、レコードジャケットでもカメラを全く無視している。これには東芝に対する抗議の意味を込めていると加藤・北山ともに当時のラジオ番組で語った。

 オリジナル・ヴァージョンでは加藤による変則スリーフィンガーが展開されるが、「北山修25ばあすでい・こんさあと」に於いては「弾きながら歌える自信がない」と通常のスリーフィンガーで演奏された。
3番の歌詞の「あの時風が流れても変わらないと言った二人の」という一節は、「戦争を知らない子供たち」(ブロンズ社, 1971年)では「あの時星になりたいと夜明けまで泣いた二人の」となっている。ただし、この歌詞で歌われたことはない。
今では、中学や高校の教科書にも載る青春のスタンダード曲として定着している。
 映画「パッチギ」では、エンディングテーマとして北山・加藤の歌うオリジナル盤が使用された。

 では、「悲しくてやりきれない」はフォークルの、「あの素晴しい愛をもう一度」は北山修と加藤和彦の、それぞれオリジナル盤でお聴きください。





悲しくてやりきれない

1 
胸にしみる 空のかがやき  今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて     とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを  だれかに告げようか

2 
白い雲は 流れ流れて    今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて     とてもやりきれない
この限りないむなしさの   救いはないだろうか

3 
深い森の みどりにだかれ  今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて     とてもやりきれない
このもえたぎる苦しさは   あしたもつづくのか

あの素晴しい愛をもう一度

1 
命かけてと誓った日から   素敵な思い出残してきたのに
あの時同じ花を見て     美しいと言った二人の
心と心が今はもう通わない  あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

2 
赤トンボの唄をうたった空は なんにも変わっていないけれど
あの時ずっと夕焼けを    追いかけていった二人の
心と心が今はもう通わない  あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

3 
広い荒野にぽつんといるよで 涙が知らずにあふれてくるのさ
あの時風が流れても     変わらないと言った二人の
心と心が今はもう通わない  あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度



 最後に、私が事務局を務めています映画・音楽を楽しむ会では、先月1月は映画
「パッチギ」を上映しました。
今月2月23日(日)14時〜15時半まで第2回音楽会として「春呼ぶコンサート〜みんなで一緒に歌おう〜」を企画しています。イムジン河 悲しくてやりきれない あの素晴しい愛をもう一度など、懐かしい歌・季節の歌を予定しています。是非ご参加ください。