有朋自遠方来 放浪楽人(さすらひのがくと)
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人生は旅。
知らない街を歩いてみたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。
けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。
たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。
さて、どこまで放浪できるか ……
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030 2020年3月31日
私が子どもの頃の懐メロ番組は、最初と最後の曲は出演者全員で合唱するというスタイルがお決まりで、オープニングは並木路子が歌う「リンゴの唄」、エンディングは藤山一郎が歌う「青い山脈」が定番だった。NHKの「思い出のメロディー」が始まったのは1969年からで、当時40才代だった両親がテレビを観ながら「やっぱり昔の歌は良い、歌詞の意味がよく分かる、歌いやすい」とばかりに、楽しそうに懐かしそうに口ずさんでいたのを覚えている。あの時の両親の気持ちが今となってはよく理解できるし、思い出すと涙が出そうになる。
それから20数年が経ち、私が30才代になった頃の懐メロ番組のオープニングとエンディングは、飛行機事故で亡くなった坂本九を偲んで「上を向いて歩こう」と、いつの間にか消えてしまった舟木一夫のカンバックを期待して「高校三年生」に代わっていった。
私が舟木一夫のフアンであることは、第3話と第4話で書かせていただいたが、今回節目の第30話にあたり、また舟木一夫を語ること何とかお許しをいただきたい。やしきたかじんの歌ではないが、舟木一夫が「やっぱ好きやねん」
歌「高校三年生」は、1963年6月に発売された舟木一夫のデビューシングルであり、舟木の代表曲である。デビューシングルが発売1年でいきなり売上げ100万枚を越す大ヒットとなり、舟木一夫はこの曲で一躍スター歌手となった。累計売上は230万枚。
舟木は、1963年末の第5回日本レコード大賞・新人賞を受賞し、また大晦日の第14回NHK紅白歌合戦へ初出場。さらに1992年の第43回紅白歌合戦(1971年の第22回以来、21年ぶり10回目の紅白出演)にも、29年振りに「高校三年生」を披露している。
堀威夫(舟木が所属していたホリプロ創業者)によると、学校の校内放送で堂々と流行歌が流れるようになったのはこの曲からだという。
歌詞は、高校生活も残りわずかになった高校三年生の純朴な気持ちが綴られている。この曲を録音した当時、舟木は現役の高校三年生であった。レコードジャケットの舟木は学生服姿であるが、これは舞台で学生服を着ることがあった橋幸夫に対抗する意味合いがあった。「高校三年生」以降も「修学旅行」など舟木はいくつもの青春歌謡を発表しヒットさせている。
歌詞の中の赤い校舎は東京都の私立松蔭高校であるといわれ、現在同校には歌詞が書かれた歌碑がある。歌碑の由来文には「作詩家 丘灯至夫は1962年新聞記者として、高校の文化祭の取材に当たっていた」と書かれ、「取材先として訪れた松蔭学園では当時定時制高校があり、文化祭のリハーサルで、男女の生徒が手をつなぎフォークダンスを踊っていた。そこで最初に浮かんだのがフォークダンスの手を取れば甘くにおう黒髪のというフレーズであり、その後歌詞が作られ、作曲家 遠藤実氏とのコンビでこの歌が生まれるに至った」と続けられている。高校に進学できなかった丘灯至夫と遠藤実の、学園生活に憧れた思いもこの曲に込められているそうだ。
映画「高校三年生」は曲の発表と同じ1963年、歌詞をモチーフに大映により富島健夫の小説『明日への握手』を原作とした映画が制作され、こちらもヒットした。もちろん舟木一夫も出演している。(脇役で出番は少ないが)
残念ながら解説や批評するほどの映画ではない。出演俳優の演技力の無さはもう笑ってしまうし、映画「青い山脈」以来お決まりの、みんなで走る青春自転車シーンが何回も登場する。ただひとつだけ評価出来るのは、日活や東映の青春映画のような「甘酸っぱさや爽やかさ」を抑え気味にし、若い性の問題を正面から取り上げるという大映らしいまじめな映画作りをしているということだ。
舟木一夫以外の主な出演者を紹介する。
姿美千子。この映画の主演。吉永小百合のライバルとして大映の青春スターに。大映がセクシー路線に移行したとき、映画からテレビに移る。舞台でも舟木と共演が多い。後に、巨人の倉田誠投手と結婚して引退。
倉石功。舟木一夫に負けず劣らずの棒読みの演技だった。舟木の本職は歌手だから許せるが、倉石は俳優なのだから情けない。後に宇津井健主演のテレビドラマ「ザ・ガードマン」でそれなりの存在感を示す。
高田美和。戦前からの大スター高田浩吉の娘で大映の金の卵だった。当時17才でとにかく可愛い。歌舞伎の女形片岡秀太郎と結婚したが後に離婚。最近は片岡愛之助の育ての親と名乗っていて、藤原紀香の姑みたいな存在だとか。(愛之助は秀太郎の養子)
渚まゆみ。この映画はほとんどセリフ無しだが、後に悪女役で売る。歌手として「奪われたいの」という意味深なヒット曲をとばし、作詞作曲した浜口庫之助と結婚。
堺正章。嫌味なガリ勉役で出演。コミカルなシーンはとくに無かった。彼は舟木の映画にはよく出ている。たぶん二人とも当時ホリプロ所属だったからだろう。(いわゆるバーター出演か)
さて「高校三年生」といえば第28話で紹介した、私とマリンバ・ドラムが同門で去年私のドラムデビューの時隣でマリンバ演奏をしてくれたMさん。無事めでたく公立高校に合格しました。それがなんと私の母校で、入る予定のクラブでも私の後輩になるそうです。彼女とはよくよくご縁があるのでしょう。
第28話を読んでくれてこんな感想をくれました。「ワオ!語り口が面白いです。放浪楽人さんは正真正銘、嵐を呼ぶ男、いや幸せを運ぶ男ですよ。私も出演していて恥ずかしい。ちょっと嬉しいですけど。またまめにチェックしますね!」
彼女とのメールのやり取りは、過ぎし日の高校時代を思い出させてくれます。Mさん15才、私にとって一番若いメル友です。
では舟木一夫が歌うオリジナル盤「高校三年生」、シングル第2弾「修学旅行」、マンドリンオーケストラによる「高校三年生」をお聴きください。
「高校三年生」
1 赤い夕陽が 校舎をそめて ニレの木陰に はずむ声
ああ 高校三年生 ぼくら 離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも
2 泣いた日もある 怨んだことも 思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら フォーク・ダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が
3 残り少ない 日数を胸に 夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら 道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を
「修学旅行」 作詩 丘灯至夫 作曲遠藤実
1 二度とかえらぬ 思い出乗せて クラス友達 肩よせあえば
ベルが鳴る鳴る プラットホーム
ラララ…… 汽車はゆく 汽車はゆく はるばると はるばると
若いぼくらの 修学旅行
2 地図をひろげて 夢見た町よ 僕のカメラで 撮した君を
思い出すだろ いついつまでも
ラララ…… 汽車はゆく 汽車はゆく ひとすじに ひとすじに
若いぼくらの 修学旅行
3 霧の港に 湖畔の宿に 名残りつきない 手と手を振れば
あとを追うよな 小鳥の群よ
ラララ…… 汽車はゆく 汽車はゆく さようなら さようなら
若いぼくらの 修学旅行
舟木一夫が歌い演じた青春歌謡・青春映画@ 〜高校三年生〜
私が子どもの頃の懐メロ番組は、最初と最後の曲は出演者全員で合唱するというスタイルがお決まりで、オープニングは並木路子が歌う「リンゴの唄」、エンディングは藤山一郎が歌う「青い山脈」が定番だった。NHKの「思い出のメロディー」が始まったのは1969年からで、当時40才代だった両親がテレビを観ながら「やっぱり昔の歌は良い、歌詞の意味がよく分かる、歌いやすい」とばかりに、楽しそうに懐かしそうに口ずさんでいたのを覚えている。あの時の両親の気持ちが今となってはよく理解できるし、思い出すと涙が出そうになる。
それから20数年が経ち、私が30才代になった頃の懐メロ番組のオープニングとエンディングは、飛行機事故で亡くなった坂本九を偲んで「上を向いて歩こう」と、いつの間にか消えてしまった舟木一夫のカンバックを期待して「高校三年生」に代わっていった。
私が舟木一夫のフアンであることは、第3話と第4話で書かせていただいたが、今回節目の第30話にあたり、また舟木一夫を語ること何とかお許しをいただきたい。やしきたかじんの歌ではないが、舟木一夫が「やっぱ好きやねん」
歌「高校三年生」は、1963年6月に発売された舟木一夫のデビューシングルであり、舟木の代表曲である。デビューシングルが発売1年でいきなり売上げ100万枚を越す大ヒットとなり、舟木一夫はこの曲で一躍スター歌手となった。累計売上は230万枚。
舟木は、1963年末の第5回日本レコード大賞・新人賞を受賞し、また大晦日の第14回NHK紅白歌合戦へ初出場。さらに1992年の第43回紅白歌合戦(1971年の第22回以来、21年ぶり10回目の紅白出演)にも、29年振りに「高校三年生」を披露している。
堀威夫(舟木が所属していたホリプロ創業者)によると、学校の校内放送で堂々と流行歌が流れるようになったのはこの曲からだという。
歌詞は、高校生活も残りわずかになった高校三年生の純朴な気持ちが綴られている。この曲を録音した当時、舟木は現役の高校三年生であった。レコードジャケットの舟木は学生服姿であるが、これは舞台で学生服を着ることがあった橋幸夫に対抗する意味合いがあった。「高校三年生」以降も「修学旅行」など舟木はいくつもの青春歌謡を発表しヒットさせている。
歌詞の中の赤い校舎は東京都の私立松蔭高校であるといわれ、現在同校には歌詞が書かれた歌碑がある。歌碑の由来文には「作詩家 丘灯至夫は1962年新聞記者として、高校の文化祭の取材に当たっていた」と書かれ、「取材先として訪れた松蔭学園では当時定時制高校があり、文化祭のリハーサルで、男女の生徒が手をつなぎフォークダンスを踊っていた。そこで最初に浮かんだのがフォークダンスの手を取れば甘くにおう黒髪のというフレーズであり、その後歌詞が作られ、作曲家 遠藤実氏とのコンビでこの歌が生まれるに至った」と続けられている。高校に進学できなかった丘灯至夫と遠藤実の、学園生活に憧れた思いもこの曲に込められているそうだ。
映画「高校三年生」は曲の発表と同じ1963年、歌詞をモチーフに大映により富島健夫の小説『明日への握手』を原作とした映画が制作され、こちらもヒットした。もちろん舟木一夫も出演している。(脇役で出番は少ないが)
残念ながら解説や批評するほどの映画ではない。出演俳優の演技力の無さはもう笑ってしまうし、映画「青い山脈」以来お決まりの、みんなで走る青春自転車シーンが何回も登場する。ただひとつだけ評価出来るのは、日活や東映の青春映画のような「甘酸っぱさや爽やかさ」を抑え気味にし、若い性の問題を正面から取り上げるという大映らしいまじめな映画作りをしているということだ。
舟木一夫以外の主な出演者を紹介する。
姿美千子。この映画の主演。吉永小百合のライバルとして大映の青春スターに。大映がセクシー路線に移行したとき、映画からテレビに移る。舞台でも舟木と共演が多い。後に、巨人の倉田誠投手と結婚して引退。
倉石功。舟木一夫に負けず劣らずの棒読みの演技だった。舟木の本職は歌手だから許せるが、倉石は俳優なのだから情けない。後に宇津井健主演のテレビドラマ「ザ・ガードマン」でそれなりの存在感を示す。
高田美和。戦前からの大スター高田浩吉の娘で大映の金の卵だった。当時17才でとにかく可愛い。歌舞伎の女形片岡秀太郎と結婚したが後に離婚。最近は片岡愛之助の育ての親と名乗っていて、藤原紀香の姑みたいな存在だとか。(愛之助は秀太郎の養子)
渚まゆみ。この映画はほとんどセリフ無しだが、後に悪女役で売る。歌手として「奪われたいの」という意味深なヒット曲をとばし、作詞作曲した浜口庫之助と結婚。
堺正章。嫌味なガリ勉役で出演。コミカルなシーンはとくに無かった。彼は舟木の映画にはよく出ている。たぶん二人とも当時ホリプロ所属だったからだろう。(いわゆるバーター出演か)
さて「高校三年生」といえば第28話で紹介した、私とマリンバ・ドラムが同門で去年私のドラムデビューの時隣でマリンバ演奏をしてくれたMさん。無事めでたく公立高校に合格しました。それがなんと私の母校で、入る予定のクラブでも私の後輩になるそうです。彼女とはよくよくご縁があるのでしょう。
第28話を読んでくれてこんな感想をくれました。「ワオ!語り口が面白いです。放浪楽人さんは正真正銘、嵐を呼ぶ男、いや幸せを運ぶ男ですよ。私も出演していて恥ずかしい。ちょっと嬉しいですけど。またまめにチェックしますね!」
彼女とのメールのやり取りは、過ぎし日の高校時代を思い出させてくれます。Mさん15才、私にとって一番若いメル友です。
では舟木一夫が歌うオリジナル盤「高校三年生」、シングル第2弾「修学旅行」、マンドリンオーケストラによる「高校三年生」をお聴きください。
「高校三年生」
1 赤い夕陽が 校舎をそめて ニレの木陰に はずむ声
ああ 高校三年生 ぼくら 離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも
2 泣いた日もある 怨んだことも 思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら フォーク・ダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が
3 残り少ない 日数を胸に 夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら 道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を
「修学旅行」 作詩 丘灯至夫 作曲遠藤実
1 二度とかえらぬ 思い出乗せて クラス友達 肩よせあえば
ベルが鳴る鳴る プラットホーム
ラララ…… 汽車はゆく 汽車はゆく はるばると はるばると
若いぼくらの 修学旅行
2 地図をひろげて 夢見た町よ 僕のカメラで 撮した君を
思い出すだろ いついつまでも
ラララ…… 汽車はゆく 汽車はゆく ひとすじに ひとすじに
若いぼくらの 修学旅行
3 霧の港に 湖畔の宿に 名残りつきない 手と手を振れば
あとを追うよな 小鳥の群よ
ラララ…… 汽車はゆく 汽車はゆく さようなら さようなら
若いぼくらの 修学旅行