『西部戦線異常なし』(1930年)


ラストシーン。
目の前に蝶が停まる。
主人公は塹壕から手をさしのべるが …

 ドイツの文学者レマルクは、自分の経験を基にしてこの映画の原作を書いた。戦争に向かう世相のなか、教師の凡庸なアジテーションに煽られて生徒たちは自ら志願して戦場に行く。
 この映画の後10年も経たないうちに、ナチスはポーランドに攻め入り、原作者はアメリカに亡命する。




パブロ・ピカソ『ゲルニカ(1937年)

 パリで万博用の絵を描いていたピカソは、ゲルニカ空爆の知らせを聞いて、急遽この絵を仕上げた。以後、この絵は反戦・平和を象徴するものとなる。
 ある時ピカソの動向を探るためアトリエに公安警察がやって来た。ピカソがゲルニカの絵はがきを差し出すと、これは良いものを貰ったと、喜んで帰っていたと言う。この逸話は随分昔何かで読んだもの。正確なところを知りたくて調べてみましたが、見つかりませんでした。詳細が間違っていたらごめんなさい。



















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                                 平成27年 10月 1日 記

 安倍晋三とその一派は、とうとう『安全保障関連法案』を成立させてしまった。
 政府・与党というものは、もともと必要悪的存在であるから、愚法・悪法を次々と成立させようとするものである。しかしこれは、その水準を超えている。悪法などと呼んで済ますことができるような、お上品な代物ではない。

 これは、日本という極東の島国に住まう我々の、戦後七十年の肉体的・精神的営為を、根底から覆そうとするものである。我々の人格・生活・文明史そのものの否定である。今までのお前であることを止めよ、という暴力的命令である。
 この法律はまた、諸外国の(特に、アジアの)人々の、日本に対する評価を変えてしまうだろう。清国と戦い、ロシアと戦い、アメリカと戦い、最後にはほとんど全世界を敵に回して崩壊した国が、敗戦後、戦争放棄を旗印にして経済活動に邁進し、欧米に比する国となった。そんな日本に対するアジアの人々の、幾ばくかの幸運な誤解と贔屓目を含んだ眼差しも無くなってしまうだろう。不問に付されてきた事柄が、改めて遺恨として吹き出してくるかもしれない。欧米諸国と同じように、テロの標的とされることも覚悟せねばならぬ。
 安倍は大変なことをしてくれたのである。

 自民党は長らく与党第一党であった。しかるに、民主党政権という3年3ヶ月のブランクの後、復活した自民党政権は、とんでもない魔物に変身していた。
 その党首安倍晋三は、何かに取り憑かれたように疾走し始める。だが当初より、国会の答弁や記者団の質問に答える安倍の口調は、早口で、投げ遣りで、その真意の計りかねるものだった。質問者に野次を飛ばしたり、突然キレてしまうこともしばしばだった。
 この男は、いったい何に苛立っているのだろう? やがて私は気づいた。彼はこう言いたいのを、ずっと我慢しているのだ、と。

 ーー 御政道に逆らう輩は国賊 ーー

 かってナチスはゲシュタポ(秘密国家警察)という悪しき組織を擁していた。しかし今の日本では、安倍内閣そのものがゲシュタポ的なのだ。ゲシュタポ的原理とは、身内を敵として炙り出し、自分の権力が維持できるのなら国家の実体が崩壊してもよい、という本末転倒の上に成立している。そして今回の『安全保障関連法』は、まさに、いがみ合うべき理由も持たぬ人々を対立させ、市民社会的原理を崩壊させようとするものなのだ。

 私事になるが、最近はテレビをほとんど見ない。ネット上のニュースもチラリとのぞき見するだけだ。そんなチラ見だけでも、私を不愉快にさせ、不安がらせるものが、どんどんと侵入してくる。出来事が不愉快なだけではない。マスコミの報道姿勢は第二次世界大戦の開戦前なみである。聞こえてくる声も、嘲笑・揶揄・罵り合いばかり。あぁ、これでは駄目だ、放ってはおけない、という思いが群雲のごとく沸き上がり、そうなると、日常生活もごく当たり前に過ごせなくなる。そんな日々が続く中での『安全保障関連法案』採決である。もう黙っている訳にはいかない。

 これが、このページを立ち上げる理由である。
 だが、床屋談義をしたいのではない。ネット上に交錯している批判・反批判を、後追い的に繰り返してみたいのでもない。こちらで仕入れた情報とやらを、ちょいと端折って、あちらにはき出してみる、というのでもない。そんな遠吠えゴッコに荷担するつもりはない。
 私が問うてみたいのは、現在の社会情勢を「知力」をもって語ることが可能か、ということである。

 知力をもって語る、とはどういうことか?

 例えば「いじめ」である。いじめを繰り返す人は、そのことを指摘されても、決して改心しようとしない。なぜならいじめを繰り返すという行為こそ、その人間の存在基盤・自己同一性(アイデンティティー)なのであるから。
 ところが、安倍が繰り返し使う理屈の構造は、実は「いじめ」の構造とまったく同じだ。(この点は、出来るだけ早い機会に、詳しく展開したい)だから、安倍は自らの弄する論理の不備・陥穽を指摘されても一切耳を貸さない。それどころか、それを反撃材料として批判者を新たな標的としていく。さらに、マス・メディアに巣くう似非文化人やネトウヨ族など、安倍のエピーゴーネンたちすべてが、この手口を安易に模倣している。
 このゾンビ的スパイラルを断ち切るには「知性・知力」が必要だ、と私は主張したいのだ。

 知性・知力とは、専門的知識を多く蓄えて、その用語・術語でもって相手を威嚇することではない。また、弁論術と詭弁を取り混ぜて、論争相手に対して優位に立つことでもない。さらには、ステルス・マーケティングで人々を誘導したり、アジテーションで扇動したりすることでもない。総じて、相手を言い負かすことなど、どうでも良いことなのです。そんなことで自己の正当性は証明できないし、相手に影響を与える事もできない。
 知性・知力とは、自分が主張しようとしていることは本当に正しいのだろうか、本当に根拠のあることなのか、と絶えず自己検証する持続力のことだ。つまり「内に向かう武器」と言い変えて良い。そしてこれは、自分の思想表現について「本当にこれで良いのだろうか」と悩んだことのある人にだけ、天が与えたもう才能なのだ。

 しかるに、今の世ほど知性・知力が枯渇した時代はない。あのバブル経済とか呼ばれた時代に、人々は、人間が生得的にもっている生きることの困難さの自覚を、あっさりと放棄してしまった。経済的状況はすぐに変化したのに、我々は一度手に入れた ”お気楽さ” に浸りきったままだった。その結果が知性・知力の払底となり、そんな枯渇状態が長く続いたから、安倍や橋下などといった、知性・知力のひとかけらも持ち合わせていない人たちのとんでも無い発言を、別に無礼とも奇異とも思わなくなったのだろう。

 政治的言辞は、知性・知力で濾過されて始めて、他者の精神に触れる可能性を持つ。世界を語るなら、そう言う風に言葉を発していきたい。
 私にはその知性が備わっている、とは思わない。しかし、知性でもって語らなければ言葉は思想にはならない、ということを理解できる程度には、経験と思索を積んできているつもりだ。
 これがページの標題を『一握の知力』とした理由である。
 
 私は最初、標題を『馬鹿に付ける薬』にしようと考えていた。
 安倍の政策、その取り巻きのおべっか論評、あるいはネトウヨたちのまき散らす嘔吐物等はすべて ーー 御政道に逆らう輩は国賊 ーー という一行に行き着く。極めて醜悪である。だからそれに対する論評も決して品格あるものとはならないだろう。正気ではやっておれない。そう思ったから。
 でも、それは止める。そのような、投げ遣りで、斜に構えた、人をからかうようなモノの言い方こそ、知力を欠いた人たちの特質であるから。わざわざ手間暇かけてページを立ち上げるのに、邪悪なものを真似ることはない。
 私はきちんと丁寧に話して行くことにする。堅苦しくなること、大げさで古くさい表現になることを恐れず、誠意を込めて表現しよう。そうすることで初めて、他者と通じる道が開けるのだと信じよう。
 思い出してみよう、貧しくとも人々が元気だった時代には、みんなそう信じていたじゃないか。

 なお、ネット上にある写真・画像等を、挿絵代わりに使わせていただきます。取得場所はいちいち明記しません。どれがオリジナルか、良く分かりませんから。


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