難波駅を出た電車がわずかに右にカーヴすると、つり革に掴まっていた男たちは一斉に右側の窓から外を見やった。
 ほんの一瞬、大阪球場のスコアボールドが見えるからだ。
 私の家は球場から1キロ以上も離れていたが、物干し場にあがると、観客のあげる歓声が風に乗って流れてきた。
 確かに昭和のある時代まで、私たちは「自分の五感で直接」社会の動きを感じとっていたのだ。


 コロナ・パンデミックから何を学ぶか? 
 


 序破急の「破」  『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』 その1 (2020/04/26)
 行き倒れて亡くなった人や孤独死した人の死因を調べたら、新型コロナウイルスの感染者だった。この約1ヶ月全国で15人。( 4月23日の報道) じりじりとただ耐えているあいだに、コロナ・ウィルス (COVID-19) によるパンデミックは、ここまで進行してしまった。ソナタ形式ならば「展開部」に、日本の舞楽風に云うなら序破急の「破」の段階に突入している。このまま進めば、ある時点で感染は一気に拡大するだろう。新型肺炎発生が伝えられた初期の頃から抱いていた生活者としての不安が、ここに来てなまなましい現実となった。だが依然としてお上は、手を洗え、とか、蜜を避けよ、といった、当初からの啓蒙的合い言葉以上のなにものをも示していない。我が身を守るために、私たちはどのように行動すればよいのか。
 


「新型コロナウイルス感染症対策本部」という名のプロモーション 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その2 (2020/05/03)
 日本国内で、海外への渡航歴のない人への感染が初めて確認されたのは、1月28日・29日であった。1月30日、政府は『新型コロナウイルス感染症対策本部』の第1回会合を開く。安倍君の報告は「我が国でも、昨日までに武漢滞在歴がない患者が2名報告されており、その方を含め8名の患者が確認されています」と始められる。しかしその後に続く対策は「武漢市などに滞在歴がある全ての入国者を対象として、日本国内での連絡先等を確認し、健康状態をフォローアップする」など「水際対策などのフェーズを、もう一段引き上げる」というだけのものであった。オイ、オイ、すでに日本に侵入しているウイルスはどうするんだ、放っておくのかよ?



 この国を守りぬく、なんて言ったのは誰だった? 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その3  (2020/05/16)
 2011年公開の映画『コンテイジョン』は、まるで今のコロナ・パンデミックを予言しているみたいだ、と評される。制作者は、パンデミックについて徹底的にリサーチした、という。彼らは現在の状況に対して、優れた公衆衛生の専門家に対応の指揮を任せていないこと、十分な数の検査キットがないこと、パンデミックに対する政府の事前対策チームがどういうわけか解散させられていたこと、でトランプ政権を批判する。また、2015年、ビル・ゲイツは講演で、核戦争という現実には存在しない恐怖に備えることを止め、感染症という差し迫った現実の恐怖に備えよ、と提言している。今回は、医療・感染症の専門家以外の人の、賢い言葉に耳を傾けてみよう。

 


「夜の街」は魔女の夜宴? フェイク・ニュース化するコロナ報道 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その4(2020/07/05)
 首都圏を中心に、新型コロナウィルス(COVID-19)感染がジワリと再拡大している。しかし、政治家も、行政も、マスメディアも、初期の緊張感をすっかり失ってしまったようだ。さらに忌々しきことに、ウィルス感染拡大以上の速度で蔓延し始めているものが二つある。一つは、根拠の希薄な楽観論。もう一つは、コイツが悪いという「感染源捜し」である。報道がフェイク・ニュース化している。泥酔者の与太話のような小池百合子の見解を、メディアが無批判に拡散している。若年層の罹患率が高くなったのは吉兆だと言うのだ。ついこの間までは、若年層の罹患率は低いから安心しろ、と言っていたのではなかったか? さらに、医療態勢には余裕がある、とか。「夜の街」が感染源だとか、ウソと差別をばらまいている。

 


政権中枢と専門家、無能化の相互感染が進行! 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その5(2020/07/24)
 菅義偉は「東京の感染者が増えたのは東京都の問題だ」と言い、小池百合子は「検査数を増やしたから感染者数が増えたのよ」と言い返す。まるで痴話喧嘩である。コロナ専門家会議では、専門家が「少しやり過ぎたかもしれない」と反省してみせると、その横で西村康稔は「だから専門家会議は廃止する」と言い出し、専門家は「そんなこと聞いてないよ!」と驚いてみせる。ダチョウ倶楽部のコントかよ。安倍晋三は国会が終わると引きこもってしまい記者会見すら行わない。やっと口を開いたら「とにかく、3密を避けるなど、感染予防を徹底していただく。国民の皆様の御協力を頂きながら、慎重に経済活動を再開していく。その方針に変わりはありません」だって。嗚呼、合掌。

 


「感染予防か、経済活動か、」は「國体護持」と同じ 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その6(2020/08/13)
 太平洋戦争の末期、「國体護持」という言葉を金科玉条として判断停止をズルズルと続けた結果、どれほどの国民が無駄死にを強いられたのか、を思い出そう。この「國体護持か否か」という二者択一の論理が、今また「感染予防か、経済活動か、」という形で復活している。経済活動は、人々が健康で自由に交流できる状態を前提とする。だから「感染予防か、経済活動か、」という二者択一の論理は成立しないのだ。政権の言う「経済活動」とは、「言葉の正しい意味での経済活動」ではない。パンデミックなどの非常時を想定せずに形成されている金儲けの仕組みを、パンデミックの状態になっている今でも、しばらくはそのまま続けておきたいという、問題先送りの怠惰的精神を「経済活動を守る」と称しているだけのことである。

 


「安倍首相、お疲れ様」という欺瞞 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その7(2020/09/01)
 安倍晋三が辞任の意を表明した。マスコミ・世論は当然「安倍政治8年間の総括」に向かうだろう。だがこれは政権・与党にとっては具合が悪い。安倍には「未解決の罪」の部分が多すぎる。いつまで、モリ・カケ・サクラの追及をしているのだ、という民衆の飽きやすさに便乗した世論誘導と、時間経過による緊張の風化によって、やっと臭い物にフタができた状態なのに、「安倍政治8年間の総括」となれば、またぞろこれが復活するだろう。そこで考え出されたのが、「安倍首相、お疲れ様 キャンペーン」である。安倍さんは、働きすぎなのだ、病気なのだ。みんな良識ある大人だろう。今は、何も言わず、何も咎めず、ご苦労さま、ゆっくりご静養ください、と言ってあげよう。うっ、何、これ?

 


「菅義偉 新内閣総理大臣 選出」という欺瞞 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その8(2020/09/18)
 おおかたの予想通り、というより、メディアが流しまくった風評どおり、菅義偉が内閣総理大臣になった。だが、このことを、ああ良かったと胸なでおろし、素直に喜んでいる国民はいったいどれほどいるだろう。菅義偉という個人に対する好き嫌いのことではない。それより先に、われわれ国民の手の届かないところで、われわれには理解しがたい方法で、国家元首が選ばれている、しかも、そうなって久しい、という無力感に捕らわれてしまう。気が滅入るのは、私だけではないだろう。日本国憲法「第67条」には「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。」と書かれている。この議会制民主主義の理念は正しく具現化されているのだろうか?

 


小番頭菅義偉の初仕事 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その9(2020/11/22)
 安倍の退陣によって、内閣の小番頭から大番頭に昇格した菅義偉の初仕事は、日本学術会議新会員の任命拒否であった。菅の本質は「思想統制好き、公安警察風、地味に実行型ポピュリズム」であるから、さもありなん、と妙に納得させられてしまうのであるが、これは決して菅個人の責任問題ではない。コロナ感染拡大第3波襲来という現実を、政治的争点としないための目くらましである。日本学術会議側の反批判も、野党・ジャーナリズムからのものも含めて、理由をきちんと説明せよとか、これを許せば全体主義化につながるとか言うような、カビ臭いリベラル派臭プンプンのものばかり。このご時世に、こんな常套句を吐いて、安心していられるのは、いったい何故か?

 


ガースーの “薄ら笑い” 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その10(2020/12/20)
 菅義偉は、“GoToトラベル”の年末・年始2週間の停止を決めた。だが依然として、このキャンペーンが「感染拡大の主要な要因であるとのエビデンスは現在のところ存在しない」と言いはっている。だが証拠の有る無しは単なる方便、実態はこうだ。今までずっと全国旅行業協会とその会長である二階俊博のご機嫌を取ってきたわけだが、衆院解散・総選挙の期日がせまり、そろそろ日程調整に入らねばならぬいうタイミングで、あれよあれよと言う間に、内閣支持率がダダ下がり。今度は、当落線上ギリギリにいる議員たちが、このまま“GoTo”続けると支持率がさらに落ちるぞ、良いのかよ、オイ、と騒ぎだす。で、やむを得ず、今度はそっちに向いた。ただ、それだけの話。

 


菅よ、似非文化人と疑似科学吹聴者に依存するのを止めよ。『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その11(2021/01/21)
 我が国における新型コロナ感染症対応は、「感染者および感染の疑いのある者」と「医療機関」との間に「保健所」を介在させる仕組みで行われてきた。だが、早くから指摘されているように、その「保健所」に担わせた機能がキャパシティ・オーバーになっている。さらに感染の第3次拡大により、日本中至る所で、その機能が崩壊状態に陥っている。感染したことが判明した人や、症状が進んでいる人、つまり入院を希求している人たちが、孤立無援のまま自宅に放置され、死の危殆に瀕している。それがコロナ感染の現実であるのに、1月18日に招集された国会では、何とまあ、「コロナ感染したにも関わらず入院を拒む者を牢屋に入れる」法律を作ろうとしている。

 


さざ波、笑笑、屁みたいな、そしてデータ捏造 『コロナ・パンデミックから何を学ぶか?』その12(2021/05/30)
 高橋洋一。この男、往生際が悪いというか、しんそこ性根が腐っているというか、まだ、オレは悪くない、オレの本心はこうだ、とほざいている。日本政府が十分なコロナパンデミック対応が出来ないのは、緊急事態項目の明記がない日本国憲法憲法のせい、なんだそうな。これ、落語風に言うなら、オレが仕事に行かないのは、ちょいと小粋な羽織がないからだ、と駄々をこねる飲んだくれ亭主に似ている。コロナパンデミック対応が不十分なのは、ただ単に、政治家と官僚が著しく実務遂行能力を欠いているからであって、憲法条項とは何の関係もない。憲法は政治家の行動マニュアル集ではないぞ。改憲を吹聴する前に、憲法を読め。この似非文化人。




 

 カルロス・ゴーン vs 東京地検 ――― あぶり出される日本の法治国家水準 

    2019年の年末、カルロス・ゴーン氏は日本から脱出した。それが「不法な密出国」であったことから、これで自分の罪を認めたようなものだ、もし自分が無罪であるなら裁判で堂々と闘えば良かったはずだ、といった風な「常識的で分かりやすい憤懣感」が日本を覆い尽くした。法務大臣までもが「潔白を立証すべきである」と推定無罪の原則をぶち壊してみせた。だが、ゴーン氏は一体どのような容疑で逮捕されたのか? この刑事事件の本質に関しては、ほとんど議論されることがない。そこで、2018年11月のゴーン氏逮捕までさかのぼって検察の言う容疑内容を確かめてみた。すると明らかになってくるのはゴーン氏の容疑ではなかった。逆に、日本の司法制度の水準が炙り出されてくる。



 被告人に自らの無罪が証明できるのか?  『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その1 (2020/01/26)
 1月8日のカルロス・ゴーン氏の会見を受け、翌9日午前1時の記者会見で森まさこ法相は「ご自分が経済活動を行っていた、この我が国の司法制度のもとで、裁判を受け、身の潔白を主張するのであれば、堂々と証拠を出して、具体的に立証活動をするべきである」と述べた。ほとんどのメディアはこの発言の「違法性」に気付かず、トップ・ニュースとして日本中に流した。『推定無罪』という概念がある。「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される」という立証責任の所在を示す原則である。つまり「被告人は自らの無実を証明する責任を負わない」のである。日本の法治国家水準とはこの程度のものなのか? そもそもゴーン氏は、一体どのような容疑で逮捕されたのか?

 


 演出された「極悪人逮捕ショー」  『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その2 (2020/02/03)
 逃亡事件の是非(「是」と言う人は極めて希だが)だけが、スキャンダラスに喧しく論じられているが、そもそも「日産 = ゴーン事件」とは一体何だったのか? 調べてみても、いっこうに要領を得ない。そこで、2018年11月19日のゴーン氏逮捕の時点までさかのぼって、新聞記事を検証してみた。すると、ビックリ仰天。この一日の記事だけで先に進めなくなった。東京地検の発表は極端に短くしかも意味不明。しかるに、まだ任意同行の段階であったのに、メディアは羽田空港に陣取って、ゴーン氏機上のジェット機到着を待ち受け、身柄確保の模様を動画でニュース映像として流した。地検とメディアが協働して「極悪人逮捕ショー」を演出したのである。

 


えっ、いつの間に「司法取引」が?  『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その3 (2020/02/13)
 ゴーン氏逮捕の翌日、2018年11月20日の朝日新聞は「捜査には日産社員が協力したとみられ、見返りに刑事処分を軽くする司法取引制度が適用された」とサラッと書き流している。だが「司法取引」という言葉は「刑事事件報道における前代未聞の文言」ではなかろうか? しかも、本来の「司法取引」のあり方とは逆の適用がなされているのに。さらに、11月24日には「ゴーン前会長が退任後に報酬を受け取る契約書を日産と交わし、 …… (これが)将来の支払いが確定した報酬として開示義務があり、事実上の隠蔽(いんぺい)工作」と検察発表をそのまま伝えている。しかし「支払の約束をしただけの退任後の役員報酬を、有価証券報告書に記載する義務」などあるのだろうか? 専門家は前例が無いと断言している。

 


  葬り去られた「逮捕・勾留の一回性の原則」  『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その4 (2020/02/27)
 2018年12月10日、東京地検はゴーン氏を「再逮捕」する。なぜかマスコミはこの再逮捕を詳しく伝えていない。初回逮捕ですっかり大騒ぎをしてしまった後なので、ニュース・バリューは低下した、と判断したのだろうか? だが調べてビックリ。逮捕容疑は初回逮捕と全く同じ「役員報酬の過少申告」なのだ。ただ初回が「2010〜14年分」、再逮捕が「2015〜17年分」、と期間がずれているだけ。これは明らかに「逮捕・勾留の一回性の原則」からの逸脱ではないか。そのことを質す記者に向かって、東京地検次席検事(当時)の久木元伸(くきもと・しん)は、「理由は答えられない、適正な司法審査を経ている」と言い放つ。オイ、オイ、ちょっと待ちたまへ。

 


 
  検察の行動原理は「意地」と「メンツ」  『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その5 (2020年03月25日) 
 2018年12月21日、ゴーン氏は「再・再逮捕」される。それまでの1ヶ月間は、私のような素人でも、刑法の基本的な概念をおさらいすることで、何とかその経過を追認することができた。だが、この再・再逮捕以降の検察の行動は、カオス・混沌・支離滅裂、正気の沙汰とは思えない。彼らの集団的内面心理をアレコレと詮索することでしか、つまり「意地」とか「メンツ」で読み解くしか、事態を追うことが不可能となる。ゴーン氏は「日本で検察に逮捕されれば 99%有罪となる」と指摘する。いやそれは違う、 51%程度だと、司法制度の健全性を擁護する人たちがいるが、これはデータの恣意的な引用の結果である。「検察の意地」は、逮捕する限り起訴、起訴する限り有罪、なのだ。



 再・再逮捕! デリバティブ? 追加担保?  『カルロス・ゴーン vs 東京地検』 その6 (2020/03/30)
 東京地検特捜部はカルロス・ゴーン氏「再・再逮捕」の容疑は、1)ゴーン氏個人の契約したデリバティブで発生した損失を日産に負担させた、2)デリバティブをゴーン氏個人に戻した際、信用保証した海外企業に日産から賄賂を送金させた、の2点であると公表した。しかしデリバティブとは「金融派生商品」と訳されるように、その契約内容が具体的に示されないと、第三者には理解不能である。この点をめぐって記者会見では多くの質問が噴出したが、証拠内容は一切開示しない、質問にも答えない、という地検の態度は、ここでも一貫していた。次席検事 久木元伸は、捜査の内容に関わることなのでコメントできない、と平然と言ってのけた。江戸の高札(こうさつ)と何ら変わるところがないではないか。

 


 黒川弘務よ、辞任して済む話か? 『カルロス・ゴーン vs 東京地検』その7  (2020/06/08)
 東京高等検察庁検事長黒川弘務は、緊急事態宣言下に賭け麻雀をしていたことをスッパ抜かれて辞任した。賭け麻雀は悪い。絶対悪である。掛け金レートが低かろうが、常習性がなかろうが、国会議員の馬鹿どもが議論していたように「程度の濃淡で邪悪さが斟酌される」ようなものではない。定量的にある基準を超えれば悪に転ずるのでなく、定性的に悪なのである。しかもこの邪悪さは、博奕をした本人の人格と倫理性を毀損するに止まらない。彼の所属する組織と、その関係する社会的諸関係のすべてに害毒を及ぼす。多くの人々が長い時間をかけ、やっと築き上げてきた「社会的モラルの水準という貴重な成果物」を無遠慮に破壊するのである。だが、黒川と二人の記者は、このことがまったく分かっていないようである。



 
 

   関西電力 3.2億円収賄汚職 

    2019年9月末、メディアは一斉に『関西電力 3.2億円収賄汚職』を報じた。我が家も関電から電力を買っている。私も激怒して一本の記事を書いた。だが、書き終えたとたん、一つの疑問が湧いて出た。「なぜ、今、関電なのか?」 金沢国税局や関電社内の調査が行われたのは1年以上も前のこと、某氏の告発文が出たのも3月のことであった。10月4日の臨時国会招集というタイミングからみて、こう考えざるをえない。関電疑惑は、真剣に議論すべき課題から国民の関心をそらすためのリークではないのか、と。冷静になろう。今論ずべき最重要課題とは何か? フクシマ汚染水の海中放出案、消費税増税、対韓経済戦争の終結、対米自由貿易協定、などではなかったか。



 ウンコまみれの」二十人  『関西電力 3.2億円収賄汚職 その1』(2019/10/01) 
 関西電力の八木誠会長は、「常識を超えるような金品」を受領しながら、それを自宅に隠し持っていった理由を問われ、「受け取りを断ると激高された」からだ、と答えている。この弁解は、子供さんに対して失礼な言い方になるが、まるで「子供じみた」ものである。しかも「同じ穴の狢」が20匹もいるらしい。だが、どの新聞も、ころころ変わる関電側の言い訳をそのまま伝えるだけで、「悪質な汚職である」と糾弾する姿勢を見せようとはしない。内閣官房長官の菅義偉は、例によって「関電が説明責任を果たし、信頼回復を図るように対応していくことが必要だ」と、まるで対岸の火事を見るのような冷淡さである。関係諸官庁もまた然り。お前たち、「原子力村」の仲間内ではなかったのか?



 『疑惑のワルツ』 何故、今、関電?  『関西電力 3.2億円収賄汚職 その2』(2019/10/25) 
 前回、10月1日に『関電汚職』の記事を書いたのだが、書き終えたとたん、「何故、今、関電なのか?」という疑問が湧いてきた。今はもっと別に重要な論ずるべき課題があるのではなかったか? 何者かに「はめられて」その重要課題から眼をそらされたのではないか? 案の定、国会召集を前に、野党統一会派は「追及3点セット」なるものを持ち出してきた。1)あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付、2)かんぽ報道をめぐるNHK番組の続編見送り問題、3)関西電力の金品受領問題、がその3点なんだそうな。ごく当たり前の政治的感覚から云って、その3点が、最大の政治的争点であるとは思えない。完全に「はめられた」としか思えない。



 右も左も、“桜”と“エリカ”  『関西電力 3.2億円収賄汚職 その3』(2019/11/29) 
 女優の沢尻エリカさんが逮捕されたとき、ネット上には、これは「“桜を見る会”から関心をそらすための、政権による陰謀である」という意見・ツィートが続々と出現した。それに対して、インテリ面(づら)をひっさげた大学教授やジャーナリストたちが、「稚拙な意見である、日本の政治と司法の機構は、そんなに上手く、政権が容疑者の逮捕をコントロールできる仕組みにはなっていない」と反論した。だが、私には、“エリカ逮捕”どころか、“桜を見る会問題”も、最も重要な政治的局面から大衆の眼をそらすためのフェイク・ニュースであるように思える。桜とエリカに興じているまに、衆議院は、第二次大戦以降最悪の「屈辱的・売国的法案」を通過させてしまった。

 


 "Who done it?"  誰が東芝を殺したか?  『関西電力 3.2億円収賄汚職 その4』(2019/12/26) 
 2006年、経済産業省が出した『原子力立国計画』を第1次安倍内閣は閣議決定する。それに東芝は飛びついた。「国策」なのだから間違いなかろうと判断したのだろう。すでに死に体であったアメリカの PWR型原発の製造会社 "WH" を高値づかみで買収し、それ以降も原発関連事業の買収を止むことなく続けて行く。それ以降、東芝は転落の一途をたどる。2011年のフクシマ原発事故を経験しても、その政策が変更されることがなかった。首謀者は個人名で特定できる。国側は、資源エネルギー庁課長の今井尚哉。東芝側は、東芝電力システム社首席主監の田窪昭寛。えっ、今井尚哉? そう、安倍晋三の秘書官であり、この9月から首相補佐官も兼任している、あの今井だよ。



 
 
    もうオリンピックなんか、止めてしまえ。
                 
   五輪の東京招致が決定したとき、安倍や猪瀬のはしゃぎようは異様なほどだった。そこには、五輪後に必ず襲来する経済停滞を憂慮する気配など微塵も感じられなかった。案の定、予算消費の実績は計画より「一桁多い」ことが明らかになってきた。今の政治家や官僚たちは、計画の立案や予算の管理などの「実務能力」を完全に喪失しているのである。巨大化指向の新競技場は、歴史的景観を破壊し、子々孫々に負担を強いるホワイト・エレファント(無用の長物)となるという警告にも耳を貸さない。候補選手のサイボーグ的育成は、依然として旧態依然たる「体育会的体質」でもって行われている。今、世界的な奔流となっているパワハラ告発は、日本においては、ほとんどの組織体において支配的である「体育会的体質」への本質的批判であるにもかかわらず。



誰が憂へているか? 五輪後の経済停滞を   『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。その1』 (H.30/08/28)
 こんな話をすると、今頃になって何を言いだすのか、とか、この反日爺ぃめ、とか罵られそうだが、今の私には、根強く持続する『ある事柄』に関する違和感がある。それはきちんと表現しておいた方が良いと思う。その『ある事柄』とは、2020年夏に行われるという『東京オリンピック』のこと、である。あと2年! 金メダル何個! がんばれニッポン!…… 、世間が騒々しくなるにつれ、違和感は増殖し続け、今では押さえ込む事の出来ない嫌悪感にまで膨れあがっている。私は、もう、オリンピックなど止めてしまえ、とまで思っているのだ。(以下、本文に続く)


 五輪担当者は、なぜ、平気でウソがつけるのか?  『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その2』  (H.30/09/21)
 東京都の五輪招致計画担当者は「既存施設を改装して使うなど工夫する。運営費はチケット収入や国際オリンピック委員会の予算などで賄い、税金は使わない」などと話していた。こんな古典的オリンピック運営論は、1987年のモントリオールで破綻している。これは歴史に対する無知からくる嘘である。 IOCに提出した『立候補ファイル』は、8月の東京について「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と、真っ赤な嘘をついている。どうして五輪の関係者は平気で嘘がつけるのだろう。嘘がばれても平然としておれるのだろう。



 五輪計画とその計画数値は、愚者たちによる作文にすぎなかった。『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その3』 (H.30/10/15)
 五輪費用の総額は3兆円を超える可能性が出てきた …… 。新国立競技場の整備費用が約 790億円も不足することが分か った …… 。
 ここに来て、五輪費用の予算オーバーを伝えるニュースが続いている。もともとの計画のずさんさや、政治家 ・官僚・天下り連中の予算管理能力の劣悪なことなど周知の事実であるが、驚かされるのはその金額の大きさである。国の負担分では、予算消費進捗率 855%。すでに最初の1年で総予算を使い切っている勘定になる。さらに驚かされるのは、この 発表に対し、大手ジャーナリズムは平然としていて、何の批判も加えようとしないことである。東京新聞の若手記者は、こ の事態を「無責任国家・日本の縮図」と表現している。



 政府の五輪予算調査報告は、放蕩を繰り返すダメ亭主の言い訳に似ている。『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その4』 (H.30/11/17)
 ふつう企業と云うものは、売上げ高が計画を 10%下回れば決算は赤字となり、赤字が3期続けば倒産の危機にさらされる。家庭においても、亭主が少しでも放蕩の味を覚えれば、ローンの返済が滞り子供の教育に支障が生じ、たちまち家計破綻・一家離散の淵に立たされる。だから企業人も生活者も、自らの死活を賭けて予算を守ろうとする。方や、政府の場合はどうか? 五輪予算が大幅に計画超過しているという指摘に対し、稚拙な数値いじりをして、いえ、いえ、『大会に直接資する金額を算出することが困難な事業』を除外すれば、ほんの少しオーバーしているだけですよ、などど平然と反論し、恥じることもない。今回は怒り心頭に発してその批判をしているが、私が何に怒っているのか、彼らには想像も出来ないだろう。



 オリンピックや万国博の狂騒が、伝統的文化を破壊する。『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その5』 (H.30/12/25) 
 私はむかし大阪市南区御蔵跡町に住んでいた。地名とは文化的遺産であるはずなのに、今はその町名は無い。また近くには高津入堀川という堀があった。 200年以上「天下の台所」大坂の水運を担ってきた堀であったのに、戦争によってどぶ川と化し、最後は埋め立てられ高速道路に化けてしまった。1968年(昭和43年)、あの大阪万博の2年前のことである。これは単なる偶然ではない。政府も、地方行政も、オリンピックや万国博という国家的プロジェクトの狂騒のなかで、かけがえの無い伝統的文化を破壊することで、処理できぬ問題の解決を図ろうとする。つまり、政府・行政の無策・無能が、文化を破壊するのである。

    蹂躙された『日本橋』、消滅した『数寄屋橋』。『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その6』 (H.31/01/25) 
 ある業界紙が「1964年の東京オリンピックを機に出来た東京にとって最大規模の交通インフラストラクチャーは自動車専用道路である『首都高速道路』に違いない」と書いている。おかげで、あの『お江戸日本橋』の頭上に高速道路が覆いかぶさることとなった。今頃になって、道路を地下に埋めるという案が出現しては消滅する。その費用をどこが負担するのか、で行き詰まるのだ。御用学者どもは「日本橋に高速道路が覆いかぶさっていて何が悪い」と居直る始末。石油を焚きまくり、自動車を増産し、高速道路を延長し、それらの使用者・利用者から税金と使用料を搾り取り、公共投資と称して税金を使いまくることが経済なのだ、という幻想に取り込まれたままなのである。欧州の諸都市では、すでに別の動きが主流になっているのに。

  日本人は、何故、歴史的景観を平気で破壊するのか? 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その7』 (H.31/02/25) 
 大阪だって負けてはいなかった。同じ1964年、長堀川の東半分の埋めたてを完了。お江戸が高速道路なら、浪速は駐車場、ときた。それも地上と地下の二層構造。その結果、大阪ミナミの象徴『心斎橋』は消滅。その跡地に架けられた横断歩道橋に『心斎橋』というプレートが埋め込まれることになる。それにしても、われわれ日本人は、何故、何の躊躇もなく歴史的景観を破壊し、都心部に高速道路を造ることが出来たのだろう。まるで、何かに取り憑かれたかのように。一体、何に、取り憑かれたのか? 今回からその正体を探っていく。この問題に関しては、小学生であった私自身のささいな体験を掘り起こせば、その答えの端緒が見えてくるように思える。



 ワトキンス・レポートへの屈服 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その8』 (H.31/03/28) 
 名神高速道路は世界銀行からの借り入れで、建設費用の4分の1をまかなった。融資にあたって日本の道路事情を調査したのが、ワトキンスの率いる調査団だった。そのレポートは「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」と始まり、日本の道路事情の劣悪さを列挙したあと、「道路が悪いために輸送コストが高くつき、ひいては国際競争力を弱め、日本経済の発展を妨げている」と結論づける。驚かされるのは、その後の道路行政が見事にこの報告書の勧告通りに実施され、半世紀以上経過した現在でも、なお頑強にそのコンセプトが継続していることである。さらに驚かされるのは、このような報告内容を「事前に日本側が期待していた」ように思えることである。でも、ほんとうに、それで良かったのだろうか?



 いったい誰が、国立競技場の解体を決めたのか? 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その9』 (2019/05/05) 
 国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)の解体工事が始まったのは、2015年(平成27年)の1月であった。もう4年も前の話になる。しかとは思い出せないのだが、われわれ下々には十分な告知もないまま、いつのまにやら競技場の解体が始まっていた …… 、こんな感じだった。
 だが、一体誰が、どの様な権限で、国立競技場解体を決定したのだろう。下っ端役人どもは、いえ、いえ、しかるべき手続きを経て決定されました、それは官報できちんと告知されています、などとしたり顔で言うだろう。だが、これは、官報に記載があればそれで済み、というレベルの話ではない。競売物件の告知などとは訳が違う。国立競技場は、まさに国民の歴史的建築物だったのである。
 では、どの様な歴史的建築物だったのか?



 昭和18年10月21日、学徒出陣壮行会、進め悠久大義の道。 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その10』 (2019/06/05) 
 『国立競技場』が建てられる前、同じ場所に『明治神宮外苑競技場』があった。1943年(昭和18年)10月21日、そこで『学徒出陣壮行会』が執りおこなわれた。その日の朝日新聞夕刊を見てみる。二段ぶち抜き写真に、『沸る撃滅の血潮 けふ出陣學徒繰徒壯行大會』の見出し。東条英機の写真と『進め悠久大義の道』の小見出し。煽動的咆哮の羅列であるが、その中から『悠久大義』という語彙に注目し徹底的に分析してみる。なぜなら反動的保守派は、「大義」だとか「道義」だとかいう風に『義』の付く言葉に酔いしれて、たちまち判断停止・前後不覚に陥るようであるから。そもそも『義』とは何を意味するのか? それを《大》で修飾して《大義》とすることの意味は? その成立過程は?



 大東亜戦争完遂も、機密保持も、その振りをしていただけ。 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その11』 (2019/07/05) 
 『學徒出陣壮行会』を伝える『朝日新聞 夕刊』の記事は、出陣学徒の数を「○○名」と伏せ字にしている。兵力の具対的数値は国家的機密事項であるから、これは当然の措置と言えるが、本文を読んでみると、単純な引き算でそれが「35,000名」であることが容易に推察できるのである。「国家機密を守秘する」ことの現実的対応能力が減衰し、「機密保持を貫いています、という振りをすること」で万事OKとなっている。これが大日本帝國の実情であった。「戦争遂行に身も心も捧げています」というのも「振り」、「國体維持」もまた「振り」であった。だが、この茶番が続いているあいだ、兵士は、飢え、病み、機銃掃射に晒され、自死を強いられ、国土は焦土と化したのである。



 国立競技場は、なぜ解体されたのか? 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その12』 (2019/08/01) 
 国立競技場解体の理由は、1)老朽化が進んでいる、2)耐震基準を満たしていない、3)2020年のオリンピックに使用するには、機能と収容力の両面において不足がある、の三点であった。この何れもが納得のいくものではない。鉄骨鉄筋コンクリート造り体育館用の「法定耐用年数」は47年である。この償却期間が終了してから「儲けの出る期間」が始まる。これが常識である。 つまり、老朽化と言うものの、"JSC"の管理能力不足によるメンテナンス不備を「老朽化」と偽称しているだけのことではないのか。文科省は「学校の耐震化工事は100%近く完了している」と報告している。この「耐震化」とは「かすがい」による補強のことである。ならば国立競技場も「かすがい」で補強すれば良かったのではないか?



 槇文彦さんの “新国立競技場案批判” を熟読する 『もうオリンピッックなんか、止めてしまえ。その13』 (2019/09/01) 
 ザハ・ハディッド案が公表されたすぐ後、槇文彦さんは『新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える』という文章を書いた。だがどの出版メディアからもその掲載を断られたという。せっかくオリンピック誘致が決まり、日本全体がその成功に向けて動いている時に、その流れに水を差すようなものは掲載できない、という理屈である。槇さんは、この日本では、公共建築物建設の成否が市民社会の意思とは全く無関係に決定されることを、手厳しく批判している。出版メディアの責任者たちは、まさにその批判の対象となっている行為をそのまま繰り返していることを、恥とも思わなかったのだろうか? 今回は、この槇さんの論考を徹底的に熟読吟味しみてみる。



オリンピック? たかが、運動会じゃないの。『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。』その14(2021/02/28)
 オリンピックなんて、たかが大がかりな運動会じゃないの。アッサリと止めればいいのだ。もう、一日も早く、止める! と言うしかないはずなのに、今度は、誰に、どのタイミングで「止める」と言わせるのか、つまり誰を戦犯として差し出すのか、のチキン・ゲームにフェーズ移行している。ウンザリさせられる既視感にとらわれる。あれだけの事故を起こして、多くの原発稼働国に稼働停止を決断させる証拠を見せつけたのに、その当事者国であるにも関わらず、「原発は止める」と言い出せない日本。ミッドウェー海戦以降、反攻の目処など一切立たないのに、聖戦完遂! 國体護持! を叫び続け、死屍累々の惨状を座視し続けた大日本帝國。今、また、同じ負のスパイラルに陥っている。

 


狂気の沙汰も金次第 『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。』その15(2021/03/31)
 緊急事態宣言の解除と符合するかのように、全国いたる所で、コロナ・パンデミック第4波感染が拡大しつつある。まさに、このタイミングで、“聖火リレー”が始まった! しかし“聖火リレー”といっても、街なかや田園の中をトーチを掲げたランナーが粛々と走る、という古典的風景を想像してはならない。それは、オリンピック協賛企業の大型宣伝車輌「コンボイ」の隊列である。ほとんど軍事パレードのノリである。「オリンピックに協賛する」とは、五輪精神に共感したのでそれを支援する、というようなものではなかった。『電通』によって、オリンピックという国家的行事の場で、何はばかることなく、企業の宣伝活動をすることを保証されることだった、のである。

 


できます。やれば、できます。 『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。』その16(2021/04/30)
 1964年の東京オリンピック。“東洋の魔女”として騒がれ、金メダルを獲得した女子バレボールチームの一員だった井戸川(旧姓・谷田)絹子さんは、後年次のように語っている。---- それまでは、大松の指導も「誰のためでもない、自分のために勝つんや」というものだったし、自分たちもそう思ってやってきたのが、五輪までの2年間だけは違った。「純粋に『お国のためにやらなければ』と思いました。『負けたらもう日本にはいられないかも知れない』っていう思いもありましたーーー その他いくつかの証言をもとに、「ぜひ金メダルを」という国家的悲願が、いかに選手たちを追いつめたのか、また、形成された神話はその後の日本社会にどのような影響を及ぼしたのか、を概括する。

 


竹中平蔵曰く、世論が間違ってますよ。 『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。』その17(2021/06/20)
   竹中平蔵が、東京五輪の中止や再延期を求める世論が高まっていることに対し「世論が間違ってますよ。世論はしょっちゅう間違いますよ」と発言した。当然のことながら、批判の集中砲火を浴びている。だが、今に始まった事ではない。竹中はもう二十年近くも前、第二次小泉純一郎内閣で郵政民営化担当大臣になった時、露骨に国民蔑視思想を顕在化させる出来事をしでかしている。古くて新しいお話、なのだ。竹中を、政権べったりで財を成したことから「現代の政商」などど評する向きもあるが、彼はそんな玉ではない。国民を馬鹿だと規定し、政府要人も馬鹿扱いし、そう発言している自分自身が最も馬鹿であると言うことにまったく気付いていない馬鹿、これが竹中。ああ、ややこしい。

 


やるんか東京 やるんかオリ・パラ  『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。』その18(2021/07/20)
 いよいよ、一年遅れの『2020東京オリンピック』の開幕が間近に迫った。とは言っても、もちろん、期待をこめてそう言うのではありません。えーっ、それでもやるんか、オリ・パラ! という驚愕と慨嘆の言葉です。オリ・パラが始まってしまうのですから、この『もうオリンピックなんか、止めてしまえ。』シリーズも今回が最終回になります。2018年8月にスタート、今回で第18回。もう相当に白けているのですが、オリ・パラを強行開催することで、安倍晋三と菅義偉がどんな風に議会制民主主義を破壊しまくったかを、気力を振り絞って書き記しておきました。もう、どうなっても、知らんでぇ。




 
 

 「 …… が分かりました」で分かること−−自滅するジャーナリズム


    最近のテレビ・ニュースは、 …… であることが分かりました、という言い方を多用する。これは、ジャーナリズムが批判的精神を放棄して、正式に発表されたことをそのまま伝えるだけの立場に成り下がったことの正直な反映である。そのかわり、ちょっとした過ちを犯した有名人を次々と引っ捕らえ、寄って集って叩きまくる。日本国総務省公認の虐めショー、私刑(リンチ)の煽動、じゃないの、これ。



 その1 (H.28/02/17)
 ジャーナリズムは権力機構の広報室機能代行業に成り下がった。これを歴史的に紐解けば、グローバル・スタンダードの名において強行されてきた、対米従属型経済構造への屈服が原因であることが分かる。端的に言えば、訴訟の対象にさえならなければOKの責任論なのだ。



 その2 (H.28/02/27)
 中国の習近平がイギリスを訪問した際、正式な記者会見の場で習近平とキャメロン英首相に批判的な質問を投げかけたのは、BBC(英国放送協会)の女性記者であった。配信されている動画を見ると、イギリスにおいてはジャーナリズムとは権力に対する批判的精神である、という認識が政府の側にもあるように思える。今の日本に置き換えてみればどうか。NHKの記者が安倍晋三に噛みつく、なんて想像も出来ない。



 その3 (H.28/03/13)
タブロイド紙というジャンルの新聞メデイアがある。猟奇的な事件をことさら扇情的に報じたり、"セレブ"に関するゴシップの有る事無い事を書き立てたりすることで、売上げ部数の拡大を図ろうとする大衆紙のことである。このような媒体があっても良いとは思う。しかし、大組織のジャーナリズムやテレビ局がそれを真似して良い、とは決して言えない。






 街のやかましさは人間性を崩壊させる

    大正の中頃、萩原朔太郎は、とほい空でぴすとるが鳴る、と書いた。大正の終わり、梶井基次郎は、寺町二条で檸檬を買いそれを『丸善』の書棚に置いて新京極を歩く。戦後すぐの昭和、道頓堀を歩く小林秀雄の精神にモーツァルトが鳴り響いた。思春期の頃、そんな文芸の世界に憧れて、京都や大阪の街を歩いた。半世紀たった今でも、その頃の心を思い出したくて、時々は街に出かける。でも這々の体で逃げ帰ってくる。町が喧しすぎるのだ。



 その1 (H.27/11/05)
 ホームセンターの電器器具売り場で、作業服のおじさんが配線用パーツを何点か取り出して交互に見比べていた。仕様・規格を確かめているらしい。その時、急に放送の音量が大きくなった。彼は手にしていた商品を棚に投げ戻すなり、どこかへ行ってしまった。誰が、何の目的で、このような拷問的騒音システムをを造り上げたのだろう。


 その2 (H.27/11/15)
 人間は、五感をフルに働かせて記憶を形成し、認識という知的営為につなげてゆく。だから五感はストレスなく伸びやかに機能しなければならない。街の環境が五感を働かせる妨げになってはならない。五感のうち聴覚は、時間性という認識の枠組みを形成する媒体として機能しているから、とりわけデリケートである。





    
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