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人生は旅。 
知らない街を歩いてみたい 
知らない海をながめていたい 
どこか遠くへ行きたい 
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。

けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。

たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。

さて、どこまで放浪できるか ……







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 №061  2021年 9月 2日

 東京オリンピックの光と影 1
            心に残る 敗れざる日本人選手たち


 私は57年前の東京オリンピック(私の兄が結婚した年だ)をリアルタイムでテレビを見ていたギリギリの世代である。当時小学3年生。今も強く心に残っている外国人選手を挙げると。
 裸足の王者・マラソンのアベベ。ローマに続きオリンピック2連覇、考えながら走る哲学者とも言われた。
 女子体操の名花・チャフラフスカ。個人総合優勝、その優雅な演技は今その映像を見ても息をのむ美しさだ。
 日本に立ち塞がったオランダの巨人・柔道のヘーシンク。その強さ以上に武士道の心を持つ外国人と評価された。



 褐色の弾丸・陸上100mのヘイズ。10秒0の驚異的な記録はもはや人類の限界と絶賛された。
 泳げば優勝・水泳自由形ショランダー。現在より種目数が少ない中で、金メダル4つは驚異だった。

     

 みんな金メダリスト、すなわち勝者たちだ。
 
 しかし、日本人選手では、重量挙げの三宅、柔道の猪熊、体操の遠藤、バレーボールの東洋の魔女、レスリングのアニマル渡辺、といった勝者の金メダリストより、負けたけれども敗れざる選手たちのほうが強く心に残っている。

 最終聖火ランナーを務めた坂井義則。坂井は当時19才で陸上の400mの選手だったが、オリンピックの国内予選で敗退している。なぜ最終聖火ランナーに選ばれたかというと、1945年8月6日広島県(三次市)生まれである、原爆投下の日にヒロシマで生まれているというのがその理由である。理由の是非はともかくとして、坂井の複雑な心境は察するに余りある。2014年没69才。


 今回(2021年)の東京オリンピックは8月6日を期間中に迎えたにもかかわらず、午前8時15分に選手・大会関係者による黙祷すら無かった。オリンピックは平和の祭典では無かったのか。日本政府やJOCは何をしているのか、被爆国・開催国としての平和・反戦への主体性が全く感じられない。これは猛省を促したい。
 また、IOCのバッハ会長が、大会前にヒロシマの平和記念公園に行った。コロナ禍においてはヒロシマに行って多方面で迷惑をかける事より、大会の中で追悼・慰霊のイベントを催すべきだった、これは単なるバッハの独りよがりの行動で、情けないの一言だ。

 体操の小野喬。鉄棒ではオリンピック2連覇を果たし「鬼に金棒 小野に鉄棒」とまで称賛された。その後の「体操王国ニッポン」、また、月面宙返り(ムーンサルト)の塚原を始め、鉄棒を得意とする数々の日本人選手を生む土台をつくったレジェンドだ。
 東京オリンピックでは選手団主将として開会式の選手宣誓をしている。本番では大会前に痛めた肩に麻酔の注射を打って演技に臨んだが、個人でのメダル獲得はならなかった。残念ながら明らかに選手としてのピークは過ぎていた。現在90才

 柔道の神永昭夫。柔道が初めて採用された東京オリンピックで、日本中の期待を背負い無差別級で出場する事となるが、直前に左膝の靭帯を断裂してしまう。無差別級の試合当日は周囲にこの事実を隠して出場するも、決勝戦では体格ではるかに上回るオランダのアントン・ヘーシンク(神永の身長179cm・体重102kgに対し、ヘーシンクは身長196cm・体重120kg)と対戦、試合開始から数分過ぎに神永はヘーシンクに大内刈りから体落しを仕掛けるもヘーシンクに技を潰され、逆に袈裟固めで押さえ込まれて一本負けを喫して準優勝に終わってしまった。
 この抑え込まれていた25秒なり30秒は、神永の人生にとって最も長く苦しく屈辱的なものだったに違いない。軽量級の中谷、中量級の岡野、重量級の猪熊が金メダルを獲得したが、メディアからはヘーシンクに敗北を喫した事で “日本柔道の敗北” という批判が日本柔道界と神永に対し浴びせられたという。
 しかしその後指導者として数々の名選手を育てあげた。1993年没56才

 陸上80mハードルの依田郁子(よだ いくこ)。1960年のローマオリンピックの代表選考に漏れ、陸上選手団が帰国するという日に相模湖で睡眠薬による自殺を図ったが未遂に終わった。その後実力をつけて、東京オリンピックでは80mハードルの日本代表として出場し、5位入賞を果たした。なお日本の女子陸上競技史上、短距離個人種目での決勝進出者はこの時の依田のみである。東京オリンピック後に現役を引退する。
 依田はスタートする前に独特の "儀式"(ルーティーン)を必ず行うことで知られていた。サロメチールを全身に塗りたくる、唾を手に吐き、これも全身に塗りたくる、後転倒立を行う、とすれば奇行とも思えるような行動であるが、依田はこれらの行動により集中力を高めていたのである。また、村田英雄の「王将」を口笛で吹いていたらしい。市川崑監督の映画「東京オリンピック」では、決勝の場面で依田のこの仕草の一部を見ることができる。
 引退後、東京女子体育大学で後進の指導に当たっていたが、1983年に自宅にて自ら命を絶った。45才だった。自殺の理由は遺書を残していないため、知ることができない。同僚や親族は依田が自分にも他人にも厳しく、真面目で几帳面であったことを証言している。


 さて、この東京オリンピックで明らかに負けたのだが、ある意味勝者であるともいえる「敗れざる」選手が一人いる。負けたのにもかかわらず勝者のように扱われたことが、後にこの上なく痛ましい悲劇を生んでしまう。その選手のことが今でも私の頭を離れない。










では、市川崑監督の映画「東京オリンピック」から、開会式をご覧ください。





 ◆◆ 読者のみなさんからのレビュー(感想)第60話 ◆◆
   私の交友録 ~人との繋がりが一番の勉強です 財産です~

 登場人物が個性的で、各人の事を知りたくなるような物語でした。私まで登場させて頂き恐縮です。
 放浪楽人さんのブログを読んでいると、その人となりを深く知っているような感じにさえなります。まだお会いしたことのないバイオリニストの村田さん、そして山之辺さん、お会いしたことのないのにもかかわらず、すっかり知っているようです。
 私も放浪楽人さんと、その素晴らしいお仲間に触れさせていただけて幸せです。私のこれからの彩りになります
       (岡本美沙さん 映画「宙と土」監督)

 放浪楽人さんの交友録、すごい人脈ですねー。かけがえのない財産。
 端っこにちょっとだけ引っかかって繋げていただき、ありがとうございます。
       (村田隆子さん バイオリンプロ演奏家)

 なんで私が登場しとんじゃー!確かに閑古鳥が巣食ってる店やけど、これはコロナのせいにしとこう。
       (佐々木邦子さん シンフォニアのママ)

 楽しく読ませて頂きました。ご多忙でしょうがご無理のない程度で 頑張ってくださいね。
 応援しています。
       (やまとなでしこさん 70才代女性)

 どんどん人脈が広がり、つながっていく様子、素晴らしいですね。
       (コンサドーナさん 60才代女性)

 放浪楽人さんの人との出会いは天才的ですね。それは放浪楽人さんの惹きつけられる魅力があるからこそ・・・。私も出会い、ご縁はとても大切にしています。
       (ねむの花さん 70才代女性)

 放浪楽人さんの交友者に入れていただき光栄すぎて涙が出ます。
 何十年も交流が無かったのに今こうしてお付き合いが出来ているのは、やはり縁が切れていなかったと言う事ですね。
 いつもいつも思う事ですが、誰かも言ってるように放浪楽人さんの筆力には感心します。解りやすい言葉で的確に伝えられています。
 レビューは他の人の意見も聞けて参考になります。
       (みーちゃん 70才代女性)

 放浪楽人さんの広い交友関係、素晴らしいです。若い時からモテモテだっただけに、今も女性ファンの多いこと。さすがです、本当にうらやましい。
 欲を言えば、交友録パート2があるのなら、私を載せてください。よろしく。
       (中年ジェットさん 60才代男性)