【時の旅人】 の profil

 みなさん今日は、私は「ゆきやん」と申します。
 大和高原の小さな村に住み、高原の田畑と森を手入れする日々を送っています。
 森の木を最適な状況に管理し、間伐した枝を持ち帰り、薪(まき)と柴(しば)で風呂を焚きます。最近、「柴(しば)」と言っても若い人たちに伝わらなくなりました。ゴルフ場の芝ではなく、燃料にする「たき木」のことです。
 江戸時代の農民出身学者・新井白石のように柴を折り、燃料として利用する日々を過ごしています。海外から石炭や石油、天然ガスを輸入したり、原子力に頼らねば日々の生活が成り立たない現代社会にあって、江戸時代やはるか昔の縄文時代のような自然に近い生活を送っています。








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  022 2022/05/07

 柳本飛行場見学会 


 ◎お手紙をいただきました 

 去る4月17日、旧海軍大和飛行場(柳本飛行場)の現地見学会が行われました。ウィルスの新型株にさらされている昨今の状況で一般参加を大きく広告するわけにもいかず、20名足らずの参加でした。下の写真は現存する建物。



 2〜3日後、私の家に参加者の方から、お手紙をいただきました。
 私の資料「天理に戦争があった」を読んで下さり、次のような感想をいただきました。一部、抜粋をさせていただきます。

 「・・・・とくに青島(チンタオ)の地名に驚きました。私の父が戦争中青島(チンタオ)で教師をしていたと聞いていたからです。『海軍には行ったけれど、すぐに戦争は終わった』しか話は聞けませんでした。・・・・・・・いまだに私の父は一体何をしていたのだろうと考えてしまいます。教師はしていたようです。私が子どもの頃『○○会』という青島(チンタオ)時代の同窓会があり、当時の校長も出席していたと聞いています。海軍にはいたようで、一枚だけ、水兵の格好をして甲板で集合写真を撮影したものがありました。・・・・・・・昨夜、いただいた資料を読みました。チンタオという懐かしくすら感じられる響きの地名が戦争そのものの顔をした地名だったと改めて思いました。」


 ◎青島から来た航空隊 

 お手紙にあった青島で、命令にも等しい形で特攻の希望が取られ、25機ものゼロ戦が爆弾をだいて天理からアメリカ軍めがけて飛んでいったのです。ゼロ戦は一機も戻らなかったと言われています。(土佐沖航空戦1945年7月9日)
 一番先に帰ってきたのは「天山」だった。次は「一式陸攻」だったという目撃者の言葉から読み取れるのは、特攻を命じられていない航空機は、800sの航空魚雷を海に放り出して逃げ帰ってくることが出来た。しかし、特攻を命じられたゼロ戦は、機体に縛り付けた250s爆弾を放り投げることすら出来ずにアメリカ軍戦闘機の餌食になった・・・・ということです。奈良県天理の地で戦争末期、特攻の悲劇が実際にあったことを忘れてはなりません。