有朋自遠方来 時の旅人(ときのたびびと)
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みなさん今日は、私は「ゆきやん」と申します。
大和高原の小さな村に住み、高原の田畑と森を手入れする日々を送っています。
森の木を最適な状況に管理し、間伐した枝を持ち帰り、薪(まき)と柴(しば)で風呂を焚きます。最近、「柴(しば)」と言っても若い人たちに伝わらなくなりました。ゴルフ場の芝ではなく、燃料にする「たき木」のことです。
江戸時代の農民出身学者・新井白石のように柴を折り、燃料として利用する日々を過ごしています。海外から石炭や石油、天然ガスを輸入したり、原子力に頼らねば日々の生活が成り立たない現代社会にあって、江戸時代やはるか昔の縄文時代のような自然に近い生活を送っています。
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023 2022/06/05
天理に戦争があった
◎天理に飛行機がやって来た(1945年2月1日)
1945年2月1日、天理の地に飛行機がやって来た。三重海軍航空隊奈良分遣隊として出発した大和基地は、後に大和航空隊となった。
◎飛行機は第2美保海軍航空隊峯山分遺隊からやって来た。
1945年2月1日、京都府(現在の京丹後市峯山町・大宮町)にあった峯山航空隊からやって来たのは54機の中間練習機だった。(1945年1月の豪雪で峯山分遣隊は福岡海軍航空隊へ移動)2月1日天理に到着後2月11日、大和海軍航空隊が天理に置かれた。
1944年3月、京丹後の山中に開隊された第2美保海軍航空隊峯山分遣隊は、兵士としての基礎教育を終えた者たちが集められ、航空機操縦の基礎を学ぶ所だった。
◎天理にやって来た飛行機は
基礎教育と共に飛行場建設にも携わっていた予科練習生たちは、自分たちもあの飛行機で訓練ができるのだ。厳しい訓練や建設作業は、この日のためだったのだ。と大いに期待を抱いたであろう。
1945年2月1日、天理の大和飛 行場にやって来た飛行機は、まさに予 科練の若者たちが待ちこがれた練習 機(左図93式中間練習機)でした。
しかし、この飛行機は天理基地の 予科練習生のためにこの地に来たの ではなかったのです。
◎練習機に乗っていたのは
天理の地にやって来た練習機に乗っていたのは、峯山基地で連日厳しい訓練に取り組んでいる搭乗員達でした。
・各地の予科練を卒業して「操縦」の専門に進んだ下士官たち。
・学徒出陣に象徴されるように大学・専門学校等の学業を2年に短 縮されて海軍に入った予備士官出身の将校たち。
・海軍兵学校出身のエリート将校たち。
もはや天理基地の予科練生たちの入り込む余地はなかったのです。
↑ 尾翼に第2美保基地所属を示す「ミホ」の文字が見える。
戦況の悪化から元々オレンジ色であった機体の上面が緑色に塗られている。「62」の数字と「ミホ」の文字にわずかにオレンジの色が残る。天理の地へ来た時、すでに上の写真のように上面緑色だったと考えられる。
◎特攻の希望が取られる(2月17日)
天理の地にやって来て間もなく、2月17日、全国の練習航空隊で特攻の希望が取られました。
各地の航空隊で程度の差があったようです。
「家族の様子を聞かれた。長男かどうか。」
と、温和な聞かれ方をした者たちもいれば、
「戦局の切迫した状況を聞かされた後、強制的に特攻の希望を取られた。」
など、長澤道雄著「ひよっこ特攻」(光人社)には当時の様子が描かれています。
上の図、月刊大和タイムス(1950年3月号)には、「格納庫地区」「滑走路」の文字が図面中に見て取れる。現在の竹之内町・三昧田町から長柄運動公園に至る東西の道付近で練習機が西風を受けて滑走していたことがうかがえる。
◎第10航空艦隊創設(3月1日)
1945年3月1日、全国の練習航空隊が特攻隊になるという新編成が発表され、第10航空艦隊司令部が特攻を連日繰り返していた鹿児島県鹿屋の第5航空艦隊司令部に併設されました。
アメリカ軍の九州上陸作戦開始に備えて天理の93式中間練習機は、四国松山基地などへ展開、特攻「千早隊」として出撃の時を待ちました。
上の写真は特攻「千早隊」。任務地への進出を見送る場面として特攻隊員の同窓会誌に掲載されている写真。背後に生駒山が見え、人びとの飛行機を見送る角度から大和基地の東西の滑走路が使われた様子。
◎村上益夫さんの証言
1945年7月9日、大和航空隊の飛行長から、
「日本の運命は決定的である。93式中間練習機で250s爆弾を抱いて米軍の上陸用舟艇に突入する。」
と、特攻の計画を示され、村上さんは郷里の愛媛県松山を最期の任務地に選ぶ。
松山基地には大和基地から20機の93式中間練習機が送られ、その日を待っていた。
◎逃亡した19歳の特攻兵
7月末、入院中の特攻隊員の下士官が姿を消した。愛媛の隣の高知県で間もなく憲兵に捕らえられた。しかし、普通の逃亡のケースではなかった。
「特攻隊として突入するまでに、一回親の顔を見たいという一念から誰にもわかるまいという幼稚な考えのもとに病室を抜け出し、バスで高知まで行ってくるということを計画・・・・。」
戦時逃亡罪に問われる事態である。
「私はどんなことでもしますから、特攻隊員だけは免じないで下さい。私を突っ込ませてください。」
親への愛情と軍律の板挟みになり、悩み抜いた末に親のもとに走ったのでしょう。いくら下士官(軍曹)といっても19才の少年です。
村上益夫さんは、松山派遣隊の人事を担当していたために、8月4日、判断を仰ぐため大和基地まで列車で19才の特攻兵を送りとどけました。
◎特攻機に改造された93式中間練習機
村上益夫さんが8月6日、松山に向かう6機の中間練習機に載ろうとしたところ、指導教官として口酸っぱく言ってきた落下傘(パラシュート)が無いのです。特攻機として必要の無いものとして取り外されてしまっていたのです。ひよっこの特攻兵に教官としてアドバイスしようにも教官席から操縦者席への伝声管すら取り外されて無かったのです。
特攻の際には、予科練出身の下士官である操縦者の後部座席に予備士官出身または海軍兵学校出身の将校が機長として乗り込み、2人の若者が練習機で共に命をなくすのです。
幸い大和航空隊の特攻「千早隊」は、終戦まで出撃命令を受けることはありませんでした。しかし、松山基地へ飛ぶ特攻機に改造された練習機の中で、若い兵士を送り出す立場にあった村上益夫さんは何を思ったでしょう。
天理に戦争があった
第2章 もともと何のための飛行場だったのか その2
◎天理に飛行機がやって来た(1945年2月1日)
1945年2月1日、天理の地に飛行機がやって来た。三重海軍航空隊奈良分遣隊として出発した大和基地は、後に大和航空隊となった。
◎飛行機は第2美保海軍航空隊峯山分遺隊からやって来た。
1945年2月1日、京都府(現在の京丹後市峯山町・大宮町)にあった峯山航空隊からやって来たのは54機の中間練習機だった。(1945年1月の豪雪で峯山分遣隊は福岡海軍航空隊へ移動)2月1日天理に到着後2月11日、大和海軍航空隊が天理に置かれた。
1944年3月、京丹後の山中に開隊された第2美保海軍航空隊峯山分遣隊は、兵士としての基礎教育を終えた者たちが集められ、航空機操縦の基礎を学ぶ所だった。
◎天理にやって来た飛行機は
基礎教育と共に飛行場建設にも携わっていた予科練習生たちは、自分たちもあの飛行機で訓練ができるのだ。厳しい訓練や建設作業は、この日のためだったのだ。と大いに期待を抱いたであろう。
1945年2月1日、天理の大和飛 行場にやって来た飛行機は、まさに予 科練の若者たちが待ちこがれた練習 機(左図93式中間練習機)でした。
しかし、この飛行機は天理基地の 予科練習生のためにこの地に来たの ではなかったのです。
◎練習機に乗っていたのは
天理の地にやって来た練習機に乗っていたのは、峯山基地で連日厳しい訓練に取り組んでいる搭乗員達でした。
・各地の予科練を卒業して「操縦」の専門に進んだ下士官たち。
・学徒出陣に象徴されるように大学・専門学校等の学業を2年に短 縮されて海軍に入った予備士官出身の将校たち。
・海軍兵学校出身のエリート将校たち。
もはや天理基地の予科練生たちの入り込む余地はなかったのです。
↑ 尾翼に第2美保基地所属を示す「ミホ」の文字が見える。
戦況の悪化から元々オレンジ色であった機体の上面が緑色に塗られている。「62」の数字と「ミホ」の文字にわずかにオレンジの色が残る。天理の地へ来た時、すでに上の写真のように上面緑色だったと考えられる。
◎特攻の希望が取られる(2月17日)
天理の地にやって来て間もなく、2月17日、全国の練習航空隊で特攻の希望が取られました。
各地の航空隊で程度の差があったようです。
「家族の様子を聞かれた。長男かどうか。」
と、温和な聞かれ方をした者たちもいれば、
「戦局の切迫した状況を聞かされた後、強制的に特攻の希望を取られた。」
など、長澤道雄著「ひよっこ特攻」(光人社)には当時の様子が描かれています。
上の図、月刊大和タイムス(1950年3月号)には、「格納庫地区」「滑走路」の文字が図面中に見て取れる。現在の竹之内町・三昧田町から長柄運動公園に至る東西の道付近で練習機が西風を受けて滑走していたことがうかがえる。
◎第10航空艦隊創設(3月1日)
1945年3月1日、全国の練習航空隊が特攻隊になるという新編成が発表され、第10航空艦隊司令部が特攻を連日繰り返していた鹿児島県鹿屋の第5航空艦隊司令部に併設されました。
アメリカ軍の九州上陸作戦開始に備えて天理の93式中間練習機は、四国松山基地などへ展開、特攻「千早隊」として出撃の時を待ちました。
上の写真は特攻「千早隊」。任務地への進出を見送る場面として特攻隊員の同窓会誌に掲載されている写真。背後に生駒山が見え、人びとの飛行機を見送る角度から大和基地の東西の滑走路が使われた様子。
◎村上益夫さんの証言
1945年7月9日、大和航空隊の飛行長から、
「日本の運命は決定的である。93式中間練習機で250s爆弾を抱いて米軍の上陸用舟艇に突入する。」
と、特攻の計画を示され、村上さんは郷里の愛媛県松山を最期の任務地に選ぶ。
松山基地には大和基地から20機の93式中間練習機が送られ、その日を待っていた。
◎逃亡した19歳の特攻兵
7月末、入院中の特攻隊員の下士官が姿を消した。愛媛の隣の高知県で間もなく憲兵に捕らえられた。しかし、普通の逃亡のケースではなかった。
「特攻隊として突入するまでに、一回親の顔を見たいという一念から誰にもわかるまいという幼稚な考えのもとに病室を抜け出し、バスで高知まで行ってくるということを計画・・・・。」
戦時逃亡罪に問われる事態である。
「私はどんなことでもしますから、特攻隊員だけは免じないで下さい。私を突っ込ませてください。」
親への愛情と軍律の板挟みになり、悩み抜いた末に親のもとに走ったのでしょう。いくら下士官(軍曹)といっても19才の少年です。
村上益夫さんは、松山派遣隊の人事を担当していたために、8月4日、判断を仰ぐため大和基地まで列車で19才の特攻兵を送りとどけました。
◎特攻機に改造された93式中間練習機
村上益夫さんが8月6日、松山に向かう6機の中間練習機に載ろうとしたところ、指導教官として口酸っぱく言ってきた落下傘(パラシュート)が無いのです。特攻機として必要の無いものとして取り外されてしまっていたのです。ひよっこの特攻兵に教官としてアドバイスしようにも教官席から操縦者席への伝声管すら取り外されて無かったのです。
特攻の際には、予科練出身の下士官である操縦者の後部座席に予備士官出身または海軍兵学校出身の将校が機長として乗り込み、2人の若者が練習機で共に命をなくすのです。
幸い大和航空隊の特攻「千早隊」は、終戦まで出撃命令を受けることはありませんでした。しかし、松山基地へ飛ぶ特攻機に改造された練習機の中で、若い兵士を送り出す立場にあった村上益夫さんは何を思ったでしょう。