有朋自遠方来 時の旅人(ときのたびびと)
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みなさん今日は、私は「ゆきやん」と申します。
大和高原の小さな村に住み、高原の田畑と森を手入れする日々を送っています。
森の木を最適な状況に管理し、間伐した枝を持ち帰り、薪(まき)と柴(しば)で風呂を焚きます。最近、「柴(しば)」と言っても若い人たちに伝わらなくなりました。ゴルフ場の芝ではなく、燃料にする「たき木」のことです。
江戸時代の農民出身学者・新井白石のように柴を折り、燃料として利用する日々を過ごしています。海外から石炭や石油、天然ガスを輸入したり、原子力に頼らねば日々の生活が成り立たない現代社会にあって、江戸時代やはるか昔の縄文時代のような自然に近い生活を送っています。
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天理と戦争 防空掩体について 【訂正版】
◎大和飛行場南西の防空掩体には

前回、1945年7月28日に天理・大和飛行場を飛び立ち、帰らぬ人となった学徒出陣兵士・林尹夫(はやしただお)のことを記事にしました。
彼の部隊が、滑走路に近い田原本町で民泊していたのではないかという私の私見を述べさせて頂きました。
また、飛行場の南西にある2つの防空掩体に、彼の部隊の一式陸上攻撃機が入っていたのではないか、ということも書かせて頂きました。
しかし、当時この飛行場で601航空隊所属戦闘308部隊の隊員であった森継正治さん(故人)への聞き取りによれば、「南西の防空掩体には偵察機『彩雲』が入っていた。」と証言されています。
またHさん(桧垣町)は、
「小学校から飛行場の草刈り作業に向かったとき、飛行機から偉い軍人さんが降りてきて、労働奉仕で通りかかった自分たち小学生も、その軍人さんを出迎えた。何でも基地司令官・中将という立場の偉いさんだったと聞いた。・・・・・大きな飛行機ではなく、戦闘機のような小柄な飛行機から降りてきた。」
と、森継さんの証言を裏付ける話をされている。
飛行場南西の防空掩体のひとつには、当時、高級将校の連絡用に使用されていた高速偵察機『彩雲』(次ページは参考資料)が入っていた。前回紹介した林尹夫(はやしただお)の乗機は、もう一つの防空掩体(下の図 EまたはE’)ないしは、周辺の神社の森などに隠されていたと思われる。
↓偵察機『彩雲』

◎今も残る防空掩体

左図のEとE’が2つの防空掩体を現在の住宅地図の上に示したものである。E’は老人施設の建設により撤去され見ることは出来ないが、Eの防空掩体はため池の堤防からその一部をのぞかせている。図中Dは、幅約50mの滑走路であったところ。現在は、当時のコンクリートの上にアスファルト舗装がされて、交互通行の道路となっている。東西南北の条里制に慣れた奈良県民には不思議な北西方向の道。滑走路がそのまま道路として利用されている。
◎防空掩体の証言を頂いた元戦闘308部隊・隊員の方に感謝
「天理に戦争があった」の原稿が出来たとき、長柄町の住所に森継さんはおられず、息子さんのお宅を訪問して仏前に原稿を供えることとなりました。それまで電話のインタビューしか受け付けておられなかった森継さんでしたが、地域の中学生の訪問を快く受けてくださったことを深く感謝します。
◆ 参考文献・資料 ◆
「戦没学徒 林尹夫日記 わがいのち月明に燃ゆ」(三人社)
「朝鮮人 強制連行・強制労働ガイドブック 奈良編」田中寛治 編・著 (解放出版社)
「世界の傑作機 彩雲」(文林堂)