◆◆ ギャラリー開設にあたって ◆◆ この度、山之辺(?)氏の思わぬ申し出によって、このような運びとなった事を大変嬉しく思っている、今日此の頃です。 彼にとっては、一円の儲けにもならぬ面倒な作業だと思うのですが、他人の好意は甘んじて受けるのが小生のモットーなので、そうさせてもらうことにしました。今から、できるのを楽しみにしております。 元々、絵は好きで、学生の頃に、油絵を少し描いたりした事がありましたが、社会人となってからは、生活に追われる毎日で、絵を描く事は封印したままになっていました。仕事をリタイヤするに当たって、六十の手習いよろしく、手軽に始めることができる、水彩画を選びました。やり始めると、やはり絵を描くことは楽しくて、人生で最高の時間だと思い知りました。 七十歳で、仕事を完全リタイアして、絵を描く時間がたっぷり出来ると思っている矢先に、病を得てしまいました。近頃は、思うに任せぬ体で、なんとか日常の事をこなしながら、ぼちぼちと絵を描いております。 素人ではあるけれど、手抜きはしない、納得いくまで描く、をモットーに、(まあそれしか取り柄はないけれど) 一枚でも見る人が、これは良い絵だと、思ってくれるような、絵が描けたらと思っております。 このサイトを見てくださる方々が、少しでも楽しい時間であったと思ってくれれば、とても幸せに思います。 最後になりましたが、この時代遅れの爺を助けて、ギャラリーを開設してくれる奇特な山之辺氏に、心より感謝の御礼を申し上げます。ありがとうございました。 岡田孝男 |
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◆◆ 山之辺三歩(本サイト管理人)より ◆◆ ◆ 作者略歴 1948年(昭和23年)、愛媛県越智郡宮窪町(現;今治市大島)にて出生。 県立大島高校、同志社大学文学部 哲学・倫理学専攻 卒。 大手流通会社に就職するも三ヶ月で退社。以後和食の調理人を目指す。 修行・研鑽を重ねて、愛媛県松山市で割烹『陣太鼓』を開業。板前としての人生を歩む。 リタイアの後、若い時に親しんでいた絵画創作を再開する。 2018年腎臓癌を発症。現在も加療継続中。体調との調和をはかりつつ創作を続けている。 ※ 岡田君とは同志社哲学での同窓である。専攻では年末毎に『同志社哲学』を刊行していたが、1972年、我々の卒業年度の表紙は、彼がデザインしたものである。 ※ 昨年秋から《モーツァルト》の音楽に対する論考を書き綴っているが、その第1回に登場する「愛媛に住むT君」とは彼のことである。 ◆ 『岡田孝男水彩画廊』開設にさいして 去る7月(2022年)、松山の岡田君の自宅を訪問する機会を持った。テーブルの上に置かれていたスケッチブックの絵がとても美しかったので、スマホで撮っておいた。 その帰路、彼の生まれ育った大島へ立ち寄る。海沿いの道を走って浜辺を眺めたり、亀老山展望台に登って空の雲と海の潮が流れる有様に見とれているいるうち、突然、彼が繰り返し絵筆で表現しようとしていたものが何であったか、に気づいた。彼の絵がとても美しいことの理由が分かった。これは、私のスマホに眠らせておいたのでは勿体ないぞ、是非、多くの人に観てもらわなければ! という思いがむくむくと頭をもたげてきた。そこで帰宅するなり、彼にサイトへの掲載を打診したところ、快く承諾してくれたわけである。 掲載する絵のうち41点は、このスマホ写真が元になっている。撮影は、採光も何も考えず、テーブルの上に拡げて、次々とページをめくって撮った。だから、上端にワイヤーや、左上に撮影者の指が写り込んでいる絵がある。ヘリが欠けているものもある。でも、あえてトリミングなどはしないで、写したままを掲載した。ただし”Photoshop”で(20年前のポンコツであるが)「レベル補正」だけは行っている。 ところが、画廊開設が決まってから、私が撮影した以外にも絵が保管されていることが分かった。また、すでに多くの絵が寄贈されてしまっていて、彼の手元に無い作品もたくさんある、とのこと。幸い、岡田君はそれらの絵のスナップを残していたので、そのファイルを送ってもらった。そこから絵の部分を切り取り、台形補正・カラー補正をした。古いレタッチ・ソフトが良い仕事をしてくれたわけである。その絵が35点ある。 この水彩画廊作成の時点で、作者の手元にある絵に《作者蔵》、寄贈されたものに《寄贈》という注記をつけておいた。《寄贈》の中には、私が撮影した直後に拝借してしまった一点も含まれている。 サイトへの掲載は、大急ぎで仕上げたやっつけ仕事である。でも、彼の絵の美しさは充分に味わっていただけると思う。 2022年8月 |
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