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人生は旅。 
知らない街を歩いてみたい 
知らない海をながめていたい 
どこか遠くへ行きたい 
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。

けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。

たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。

さて、どこまで放浪できるか ……







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 062  2021年 9月14日

 東京オリンピックの光と影 2
 長距離ランナー円谷幸吉T 〜遺書 もう走れません〜



 東京オリンピックのマラソン銅メダリスト円谷幸吉。この大会の数ある選手の中で心に残るただ一人の名前を挙げるとしたら、私は迷わず円谷を挙げる。
 円谷と書いて「つむらや」と読むのが本名らしい。円谷のマラソン選手としての「栄光と挫折」は東京オリンピック前年1963年あたりから、東京オリンピックの最終日最終種目「マラソン」があった1964年10月21日を経て、1968年1月9日までに凝縮される。わずか4年余りの年月だが、こんなにも輝かしく哀しく切ない人生を私は他に知らない。

 円谷幸吉(つむらや こうきち)、1940年福島県出身、7人兄弟の農家の末っ子として生まれる。1959年陸上自衛隊へ入隊。陸上選手として頭角を現す。
1963年8月には2万mで2位ながらも世界記録を更新。10月の競技会でも好記録を連発して1万mのオリンピック代表選手に選ばれた。この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。しかし日本陸上競技連盟の強化本部長は円谷のスピードに着目して、マラソンを走ることを勧めた。
 東京オリンピック開催年の1964年、3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦し、2時間23分31秒で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソンに出場、2時間18分20秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となった。驚くなかれ初マラソンからオリンピック本番までわずか7か月だった。
 オリンピック本番では、まず陸上競技初日に行われた男子1万mに出場する。
 マラソン選手として日本代表に選出された円谷であったが、1万mへの出場は円谷本人が希望し、陸上総監督が承認しての出場だった。円谷は1万mで6位入賞の健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。1万mで入賞した選手が同じ大会のマラソンに出場するなど、今では考えられないことだが。

 さて最終日に行われるマラソンについては、日本人では君原と寺沢徹の2人がメダル候補、と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。
 しかしマラソン本番では、有力視されていた君原と寺沢がメダル・入賞争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまりゴールの国立競技場になんと2位で戻ってくる。だが後ろに迫っていたイギリスのヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直なまでに守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きができなかったことが一因として考えられていた。
 しかし後に、円谷の4番目の兄の喜久造が「運動会で何度も振り向いて走るようなみっともないまねはするな、と父は言っていたけど、一度も振り向くなとは言っていません。弟は40キロで力尽きたと言っていました。あれが限界だったのでしょう。」と証言している。
 とはいえ、自己ベストの2時間16分22秒で3位となり、銅メダルを獲得した。



 優勝したアベベから4分以上遅れて2位で国立競技場に入ってくるも、多くの日本人の前で、世界中の人が最後のオリンピック種目としてテレビを通して注目する中、ヒートリーに抜かれて3位に甘んじた円谷は明らかに敗者と言えるだろう。

 しかしこれは東京オリンピックで日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに1万mと合わせて2種目入賞も果たして「円谷は日本陸上界を救った」とまで称賛された。また銅メダルではあったが、メイン会場である国立競技場で表彰されたのは、メダルを獲得した日本選手の中では円谷のみであった。しかもまだ24才、次は王者アベベに勝つかもしれないと多くの日本人に期待を抱かせた。
 こういう見方をすると、円谷はある意味勝者だったかも知れない。小学3年生の私だけではなく、多くの日本人にとってしばらくはマラソン選手といえば「アベベと円谷」だったのである。

 マラソンオリンピック2連覇のアベベが1位、2位で国立競技場に入って来た円谷を追い抜いて銀メダルに輝いた当時世界記録保持者のヒートリー、大健闘の円谷、3人から遅れて8位でゴールした君原。この時役者は揃い、舞台は整っていた。後のドラマチックな出来事は実はここに凝縮されていたのだ。
 思えば、これがあの悲劇の始まりだったのだ。映画「東京オリンピック」(監督 市川崑)
に映された円谷の表彰台での晴れがましくも少しはにかんだ笑顔を見ると、今も涙がこぼれる。 

    

 アベベ 円谷幸吉 マラソン  (64`東京五輪)(You Tubeで検索してください)

 それから4年後メキシコ五輪の年1968年1月9日、当時小学6年生の私は円谷の衝撃的なニュースを知りショックをうけた。自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切ったという。なぜだろう「随分と痛かっただろうな。」と体が震えたのを覚えている。
 彼の遺書を読んだとき、「小学生の作文みたいだな」と何か不思議な感じを抱いた。
 「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている。したためられた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に大きな衝撃を与え、円谷の関係者らに多くの涙を誘った。日本一有名な遺書とも言われた。メキシコ五輪最後のマラソン代表枠を円谷と争っていた君原も、大きなショックを受けたという。

 円谷の遺書を2人の文豪が評している。
 川端康成は、「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評した。
 当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られた。
 三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』の中でこれらの無責任な発言を「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」?と斬り捨て最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」?と締めくくった。
 不思議なことに、三島由紀夫はこの2年後、川端康成は4年後に自死している 



 円谷の自死から4年、ミュンヘン五輪の年1972年、巷にこんな歌が流れていた。ピンクピクルス(茶木みやこ)の歌う「一人の道」だ。円谷の遺書を参考に作った歌である。もう円谷のことなどすっかり忘れていた当時高校生だった私は、ラジオから流れてくるこの曲を連日のように聴いた。円谷の国立競技場での力走、表彰台の姿、自死と遺書をオーバーラップさせながら。そしてあの遺書には書かれていなかったものを少し理解出来たような気がした。


作詞 今江真三郎 
作曲 茶木みやこ

ある日走った その後で 僕は静かに 考えた
誰のために 走るのか 若い力を すり減らし
雨の降る日も 風の日も 一人の世界を 突っ走る
何のために 進むのか 痛い足を がまんして

大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪
日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ

父さん 許して下さいな 母さん 許して下さいね
あなたにもらった ものなのに 
そんな生命を 僕の手で

見てほしかった もう一度 表彰台の 晴れ姿
だけど 身体は動かない とっても もう 走れない

これ以上は 走れない


 歌詞も曲もすごくいい。「日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ」には特に共感できた。

 東京オリンピックのマラソンの栄光から自死へと、この3年余りの間円谷に一体何があったのだろう。彼の死の意味とその後の影響力とは何か。この歌はそれを考えるきっかけになったのだが、しかしこの歌だけでは何も分からなかった。





         読者のみなさんからのレビュー(感想)第61話
      東京オリンピックの光と影1 心に残る 敗れざる日本人選手たち

 すごい記憶力にびっくり。読んでいて思い出がよみがえる。僕は大学生だった。しかし放浪楽人さんほどもおぼえてない。
 何か、今年のオリンピックと比べたら、昔が光ってる感じ。今年はほとんど見なかった。やるべきでないの思いが強かったからだろう。
 久しぶりに放浪楽人節が読めてよかった。
          (頑固一徹さん 70才代男性)

 57年前の東京オリンピックでは、マラソンのアベベ、女子体操のチャスラフスカは私の記憶の中でも鮮明に覚えています。
 負けたけれども敗れざる選手達を称えたいと思います。
 最終聖火ランナーの坂井さんが、そのような理由で選ばれていたこと知りませんでした。
2021年東京オリンピックの中で8月7日の追悼、慰霊のイベントを催すべきであったのではとのご意見、本当にそう思います。
 放浪楽人さんには色々教えていただくことが一杯です。ありがとうございます。
          (おけいちゃん 60才代女性)

 変わらず、とても詳細にわたるご説明を受け、私も東京オリンピック思い出しました。
 何人かのお名前はテレビから流れてきて覚えています。とても小さかったからほんの少しですが…
色々なドラマがあったのですね。ありがとうございました。
          (村田隆子さん バイオリンプロ演奏家)

 久し振りですね。61話読ませて頂きました。1964年の東京大会は、アベベ選手、美しいチェコのチャスラフスカ選手、東京の魔女等々、今でも鮮明に覚えています。
 前回と違って今年は色々な問題を抱えながらの開催でしたが。正直始まってみれば、アスリートの皆さんの努力の究極の競技には、感動!感動!で今も興奮の日々ですが、バッハ会長のように私利の為のパフォーマンスは残念です。本当に平和を願うお気持ちがあるのなら、 楽人さんの言われるように大会の中で、追悼・慰霊の時があってほしかったと強くおもいました。コロナ禍の厳しいなかオリンピックパラリンピックで、感動・元気を頂きながら 一杯楽しませてもらえてる事には本当に感謝しています。

 時代と共に世界の国々が豊かになったことや、アマチュアではなくプロも参加出来るようになったことで、昔のような「参加する事に意義がある??」ではなく、参加して勝たねばならない??みたいになってきているので、純粋さがなくなってきたのかな?と私は勝手に思っています。
クーベルタン男爵が今のオリンピックをどう思われているのでしょうね。
          (やまとなでしこさん 70才代女性)

 天気の変化が激しく、ついて行けません。世の中の動きも善悪の変化も激しく、ついて行けません。
 オリンピックはもっと国民が楽しめる時期にやって欲しかったな。せっかく日本でやるなら行きたかったのに!人間が企画する事だから開催時期は何とでもなると思います。
 火事場の横で祭りは似合わない。ぶつぶつ。
          (北の成人さん 60才代男性)

 思い出しますねぇ、東京オリンピック。私は高校1年だったかな。入場行進・開会式いいですねぇ。今回のオリンピックは選手の名前はすぐに忘れそうですが、前回の選手は覚えています。
 アベベ、チャスラフスカ、ヘーシンクも。
          (プルメリアさん 70才代女性)

 61話、とても懐かしく拝見しました。57年前の東京大会は、私は東京の女子大生でしたよ。ブルーインパルスが青空に描いた五輪マークに感動した事をよく覚えています。TOKYO2020のブルーインパルスの五輪マークはテレビで見てすごく感慨深かかったです。コロナがなかったら絶対東京に行ってました。東洋の魔女、あの時凄く感動しました。
 今回は、パラリンピックに感動しています。人間の秘めた力ってすごいですね!
          (ねむの花さん 70才代女性)

 東京オリンピックって言うから、今回のだと思っていたら57年前の話で驚きました。
当時ピチピチの18歳だった私は、バレーボールの東洋の魔女の金メダルを賭けた闘いが鮮明に残っています。相手が反則をして呆気ない幕切れでした。
 それと、聖火のあの赤い色、忘れられません。
 今回のオリンピックでも野球とソフトボールの金メダルは涙が出ました。
          (みーちゃん 70才代女性)

 残念ながら前の東京オリンピックの思い出はありません。物心がついていなくて。
「負けたけれども敗れざる選手たちのほうが強く心に残っている。」という放浪楽人さんの言葉が実に奥深いです。勝負には負けたけど、負けたことを糧にその後どんな素晴らしい人生を歩んだかということですよね。敗れざるということは敗れていないということ。
 オリンピック選手にはなれなかったが、最終聖火ランナーとして戦後日本の平和の象徴として立派に務めを果たした坂井義則。小野喬も神永昭夫も依田郁子も後進を指導し立派に育てた実績がある。人生とはただ勝ち負けではなく、味わい深いものだということを改めて感じさせてくれた放浪楽人さん渾身の力作でした。たぶんマラソンの円谷選手を描くであろう続きが楽しみです。
          (中年ジェットさん 60才代男性)

 楽しく読ませて頂いてます。
 オリンピック大好き人間なので、今回の話も興味深く読ませて頂きました。
          (チアダン まるちゃん 60才代女性)

 東京オリンピック、私は小学校2年生で、アベベ選手や東洋の魔女くらいしか記憶になく、放浪楽人さんのブログをみさせてもらい、へーと、感心することばかりでした。
メダルをとった人の活躍、すごいですね!日本人選手も、各々に物語があったんですね。
 最終聖火ランナーの坂井選手、予選落ちしての、広島生まれで採用、なんか複雑ですね。本人どんな気持ちだったんだろう。
 開会式、昔は整然と入場して、今回はコロナの影響もあるのでしょうが、なんか以前のを見たら、大人と子供みたいな感じを受けました。
 君が代、なんか力強く、さざれのさざに太鼓の音入って、今まで聞いた中で、一番感激しました。
          (コンサドーナさん 60才代女性)