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人生は旅。 
知らない街を歩いてみたい 
知らない海をながめていたい 
どこか遠くへ行きたい 
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。

けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。

たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。

さて、どこまで放浪できるか ……







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 063  2021年 9月28日

 東京オリンピックの光と影 3
 長距離ランナー円谷幸吉U
       〜今なお彼の死が問いかけ 語りかけるもの〜


 1976年モントリオール五輪の年、大学生だった私はふと立ち寄った本屋で、ある本のタイトルに目が止まった。そのタイトルは「敗れざる者たち」(沢木耕太郎 著)だ。「敗れざる」とは結局負けたのか負けていないのか、どっちなんだろうと疑問に思い、とりあえず解説を読んでみた。
 ボクシング選手、野球選手など、勝負の世界にその青春のすべてを賭けて燃え尽きていった者たちを哀借こめて描くスポーツ・ノンフィクション。「肉体にとっての麻薬」ともいえる、スポーツのもつ残酷な毒を暴きだす。登場するのは、クレイになれなかった男・カシアス内藤、栄光の背番号3によって消えた三塁手など。
 なるほどスポーツ選手の話か、と納得してさらに読み進めると、自死したマラソンの星・円谷幸吉の記述に目がくぎ付けとなった。円谷の自死から8年が経っていた。なぜか4年に1度、しかもオリンピックの年に私の前に現れる円谷。不思議なめぐり合わせを感じ、早速この本を買って、円谷幸吉の章「長距離ランナーの遺書」を真っ先に読んだ。読み終えて深いため息をついた。そういうことだったのか、円谷の死から8年、やっと自死までの詳細をこの本で知ることが出来た。暫く涙が止まらなかった。




 東京オリンピックでのマラソン競技終了後のインタビューで、円谷は「次のオリンピックではアベベに勝つ、少なくても銅メダル以上の成績をあげる」と国民に約束する。円谷はその後もたびたびメキシコ五輪への抱負を語っており、この「国民との約束」は真面目で几帳面な円谷の双肩にプレッシャーとしてのしかかることになる。円谷の父親も「メキシコ五輪が終わるまではマラソンに専念させ、結婚はさせない」とマスコミの前で語ったという。

 東京オリンピック後、一躍国民的英雄となった円谷は、各種の公式行事に引っ張りだこになる。1964年末から65年始にかけては日本陸連の要請で南米に遠征し、親善競技に参加するなど忙しい日々を送った。
 1965年5月以降、自衛隊の実業団登録と中央大学(円谷は当時夜間部の学生でもあった)の学生登録の二重登録問題が露呈し、大会に出場できなくなった。だが7月、自衛隊体育学校長や陸上競技関係者の尽力により二重登録問題は早期に解決され、自衛隊選手の実業団登録として大会参加していくことが決まる。しかし解決後競技に復帰するも、北海タイムスマラソンで途中棄権するなど、この年は目立った成績を残せなかった。
 1966年、円谷は久留米の幹部候補生学校に入学する。かねてから円谷は自衛隊幹部、体育学校の教官となることを希望しており、したがって幹部候補生学校への入学は必須課程であった。だが学校の課程スケジュールは厳しく、マラソンの練習時間は著しく削られることになる。
 円谷は幹部候補生学校に在学中、郡山自衛隊時代に知り合った女性との結婚を希望し、マラソンコーチの畠野洋夫教官に相談する。女性は円谷より一歳年下で、円谷が19才で郡山自衛隊に入隊した際に知り合い、円谷が一目惚れし、体育学校時代に文通しやがて交際に発展した
 ただ、東京オリンピック後円谷の父・幸七の依頼により、体育学校関係者・円谷本人との間で、「メキシコ五輪までは結婚をせず競技に専念する」約束が交わされていた。そのため、教官の畠野は幸七を説得し、体育学校長に円谷の意向を報告した。しかし、校長はそれまで円谷の結婚について畠野から何の報告も受けていなかったうえ、メキシコ五輪まで結婚させないという円谷家との約束もあったため、納得しなかった。そこで、円谷家、校長、畠野、女性側との間で6月7日に話合いの場がもたれた。
 校長は当初は結婚をメキシコ五輪後まで延期するよう主張したが、結局最後には結婚を了承する。それにより、円谷は幹部候補生学校卒業後のこの年末に挙式の日程で縁談の準備を進める。
 だが結果的に縁談は破談する。
 女性は、一方的に挙式の日程を決めるなど縁談に前のめりになる円谷家との間に温度差を感じていたこと、そもそも円谷に好意を持っておらず、円谷から遠征先などから送られてきた贈り物もその都度返送していたことなどを後年証言しているが、本当のところはどうだったのだろう。


 東京オリンピック終了後から、円谷には多くのファンレターが届くようになっており、ファンレターがきっかけで円谷は中央大学の同級生の妹と交際している。
 1967年、前年に幹部候補生学校を卒業した円谷は、新体育学校長のもと、翌年に迫ったメキシコ五輪を目指し競技に集中するが、持病の腰痛の悪化や足の故障で満足いく成績が残せなくなる。実業団の合宿や体育学校でのトレーニング中にアキレス腱を一部断裂し、8月には持病の椎間板ヘルニアと両足アキレス腱を手術、3ヶ月の入院を余儀なくされる。
 入院中、円谷は世話役として家政婦会から派遣された女性と出会う。3ヶ月間付きっきりで身の回りを世話してくれる彼女と円谷は恋に落ち、結婚を誓い合う仲となった。退院後、円谷は女性のためにアパートを借り、彼女と半同棲の生活を送る。円谷は年末の帰省時には彼女のことを家族に話すつもりでいたという。


 手術後、再起をはかる円谷は別府駐屯地の療養所で療養も兼ねトレーニングに励んだが、かつての銅メダルに輝いた走りを取り戻すことはできなかった。円谷は手術前から長兄の敏雄や前教官の畠野洋夫に、もう一流の走りは無理であるとの手紙を送り、手術後には体育学校の関係者にも弱音を吐いている。体育学校に在籍していた三宅義信(重量挙げ金メダリスト)をはじめ周囲の関係者は円谷に、選手を諦め体育学校の教官(コーチ)になることを勧めていたという。1967年末には下田で合宿を行うが、まともに走ることはできず同僚のサポートに務める。この頃、「今後は後任の教育をやっていこうと思う」との旨を前教官の畠野への手紙に記している。
 しかし、メキシコ五輪へのプレッシャーに苛まれる円谷のもとには、全国のファンからメキシコへの期待や激励に満ちた手紙が送られてきていたという。メキシコ五輪代表選出への最終予選が迫る中、走れなくなった現実、アベベに勝つという国民との約束やファンの期待の狭間で円谷は苦しむことになる。
 メキシコ五輪の開催年となった1968年の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自死した。27才だった。
 円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評する。人一倍の努力家であり、責任感も強かった。円谷の部屋だけは、ふとんのたたみぐあい、掃除、整頓と、他の選手の部屋とは比較にならぬほどキチンとしていたという。そのまじめな性格はしばしば自らの不成績を責めるというかたちになって現れ、それを克服するためにオーバーワークを招きがちだったことが、自死という悲劇につながったとする見方も強くある。当時の日本陸上界は技術論より精神論を至上とすることがまだまだ多く、本人の意思にかかわらず過度の練習を美徳とする関係者の慣習もあった。
 円谷の自殺の原因については現在に至るまで様々議論されている。しかし真相は分からない。




 円谷幸吉の自死は日本のスポーツ史に最大級の痛恨事として記されている。円谷の悲劇の後、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体では、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポートやメンタルヘルスケアが実施されるようになっている。これは円谷の自殺が契機となった苦い教訓の産物でもある。

 出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があって、そこで円谷の父親が「円谷幸吉物語」という浪曲のレコードをいつも聴いていたらしい。やがて遺族の高齢化により、2006年6月に展示品を市に寄贈したのち秋に閉館した。その後、市によって市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、同年10月のメモリアルマラソン開催記念の特別展示を経て、2007年1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。



 2020年3月12日、郡山市で行われた東京オリンピックマラソン代表選手らの記者会見を前に、選手関係者らによる円谷への墓参りが行われたという。死後50年以上経っても、日本の陸上選手関係者には円谷に対する尊敬の念が強い。



 ゴジラやウルトラマンの生みの親、特撮映画監督の円谷(つぶらや)英二と円谷(つむらや)幸吉。2人は奇しくも福島県須賀川市出身で、今年2021年7月に2人の「円谷」は須賀川市から「名誉市民」号を贈られた。

 1968年のメキシコ五輪マラソン、まるで夢遊病者のように、まるで何かに取り憑かれるようにして2位でゴールした日本人選手がいる。君原健二だ。東京オリンピックでは8位であり、メキシコ五輪でも円谷と代表を争っていた。君原と円谷は同い年だ。
 君原は円谷の告別式に「円谷君、安らかに眠れ。君の無念は僕がメキシコで晴らす」という弔辞をうった。まさに有言実行だ
 ちなみに君原はメキシコの次のミュンヘン五輪でもマラソンで5位入賞している。ライバルであり友でもあったこの二人の距離がもっと近かったら、円谷は果たして自死していただろうか。










 アベベはローマ・東京とオリンピックマラソン2連覇を果たし、メキシコでも3大会連続でエチオピアのマラソン代表に選ばれたが、トレーニング中に左膝を痛めていた。走り込みの不足や36才という年齢による体力の衰えもあり、マラソン本番では16kmで歩き出し、17km地点で棄権した。
 メキシコ五輪から約半年後の1969年3月23日の夜、アベベはアディスアベバから北に約70km離れたシャノという町の北方で、自動車運転中に事故を起こす。生命に別状は無かったが、第七頸椎が完全に脱臼する重傷を負ったことで、下半身不随となる。
 だが晩年のアベベは体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていた。しかしミュンヘン五輪から1年後の1973年10月25日、アベベは脳出血により41才でその生涯を閉じたのだった。因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられた。
 もし円谷が生きていて、ライバルであり目標でもあったアベベが、オリンピックのマラソンで棄権をする光景を見たとしたら、事故で下半身不随となりながらも車いすでスポーツに関わる姿を知ったとしたら、それでも円谷は果たして自死しただろうか。

 2014年10月9日に須賀川アリーナ内の「円谷幸吉メモリアルホール」を東京オリンピックマラソン銀メダリストのヒートリーが訪れ、実兄の喜久造と対談した。
 日本オリンピック委員会(JOC)が東京五輪50周年を記念して開催した祝賀祭に出席するために来日し、今も語り継がれるゴール直前での激戦を繰り広げた盟友円谷の出身地を「訪ねてみたい」とヒートリーが熱望し、実現したものだ。
 ヒートリーと喜久造は2人で肩を組み合い円谷選手の記録映像を観賞し、「円谷選手と最後まで競い合うことができ、走ることができたことが今でもうれしく思う」と振り返り、円谷選手の写真パネルの前でがっちりと握手を交わした。
 50年前を振り返りながら「レースの後でもっと幸吉選手と語りあう時間が取れれば良かった」と語り、若くして命を絶ったことに「まだ若かった円谷は、もっと強くなる時間がいくらでもあった」と早すぎる別れを惜しんだ。円谷の墓参りもした彼の胸中にはどのような思いが去来しただろうか。
 メモリアルホールには、ヒートリーが須賀川の子どもたちへと書いた「勝利はすばらしい。友情はさらに特別なものだ」の色紙が展示されている。もし、このイギリス紳士で世界記録保持者だったヒートリーと五輪後語り合う機会があったなら、円谷は果たして自死を選んだだろうか。

 ヒートリーは2019年8月3日、イギリス国内の親族宅で亡くなった。享年85才。訪日中に解体工事のスタジアムを見ながら「円谷の記憶は永遠に残る。今回彼の故郷を訪ねたことで、私には(東京五輪が)一層特別な思い出になった」と振り返ったと言う。天国で再会した2人はどんな会話を楽しんだのだろう。いやアベベも加わり、東京オリンピックマラソンメダリスト3人揃って笑顔でランニングをしているに違いない。

 君原健二は今も健在で元気である。今年80才。毎年円谷幸吉の墓参は欠かさず、東京オリンピックへのトレーニング中の思い出にまつわるビールを墓石にかけることが習慣となっているという。






      読者のみなさんからのレビュー(感想)第62話
  東京オリンピックの光と影2 長距離ランナー円谷幸吉T〜遺書 もう走れません〜


 円谷選手は「つぶらや」だと思ってました。ブログで鮮明に当時のことを思い出せます。古いことほどよくおぼえている。
 円谷選手が亡くなったニュースを聞いて受けた衝撃も思い出せます。でも細かい背景は今だからこそそうだったんだ・・と追認できます。
 今年はオリンピックもパラリンピックもほとんど見ていません。
去年オリンピックが開催されていたら、オリンピックの間、韓国へ行こうと計画していました。オリンピックの間、日本にいるのが嫌だから。思いがけないコロナ禍で鬱々の2年です。
 まぁ、それでも自粛しない面々のおかげで、それなりのコロナ禍様です。
          (みえちゃん 60才代女性)

 円谷選手といえば、「一人の道」という歌が、すぐ浮かびます。
 私は子供だったけど、自殺されたことが衝撃でした。
 「一人の道」という歌を聞くたび、円谷選手が走っている姿が目に浮かびます
 トラックに入って来るときに、アナウンサーが「後ろにヒートリー、ヒートリー」と連呼していたような。後ろに一人?(ヒートリー)と最初は勘違いしていました。
          (チアダン まるちゃん 60才代女性)

 円谷選手の輝かしい記録。私達はテレビに映る銅メダルの円谷選手に大拍手を送りました。数年後自らの命を絶たれたニュースには何故?どうして?私のような凡人にはその苦しみを理解できませんでした。唯々残念でした。
 [一人の道]の歌詞いいですね??何回も読ませて頂きました。有り難うございました。
          (やまとなでしこさん 70才代女性)

 円谷さんはオリンピックにでたのに何で亡くなったのか小学生の私にはわかりませんでした。
後に、ピンクピクルスの歌で心境が少しだけわかりました。このレコードは持っていました。
最後の歌詞が凄く悲しかった思い出があります
          (北の成人さん 60才代男性)

 円谷さん、三島由紀夫氏、川端康成氏がこんなに近い年に自死しているのに驚きました。まっすぐ過ぎた時代でした。懐かしいです
          (鳥さん 60才代男性)

 円谷選手の遺書、初めて全文読みました。今なお私たちに訴えてくるものとは何か、もはや言葉では表現出来ません。ご両親やご兄弟の無念さ後悔はいかばかりだったでしょうか。永遠の命を持ち続け今も生きている者に語りかけるという遺書の存在はこれ以外知りません。私が小学生の頃聴いたピンクピクルスの「一人の道」は素晴らしいメッセージソングだったのですね。
 放浪楽人さんのスポーツものって珍しいですね。初めてかな?今後も書いてくださいね。よろしく!
          (中年ジェットさん 60才代男性)

 円谷選手の自殺の事は覚えています。遺書の出だしの文章の父上様、母上様や、三日とろろおいしゅうございましたや、疲れきって走れませんなど読んでいると涙が出ますよね。
 それにピンクピクルスの歌詞などはジンときます。
 自分で自分の命を断つにはよほどの覚悟がいる事です。本当に辛かったんですね。
オリンピックって国の代表として闘うのですから、プレッシャーもすごいものだと思います。今回のオリンピックで野球の稲葉監督を見ていてそう思いました。
 選手がメダルを取って泣くのも、嬉しいだけでなくホットした部分が多々あるのでしょうね。
 やはり選ばれる事はいい事なのでしょうね?
          (みーちゃん 70才代女性)

 円谷選手の東京オリンピックマラソンのゴールは今でもハッキリと目に焼き付いています。最後に追い抜かれてしまったときはギャーと叫んでました。その彼が自殺したのはあまりに切なくて可哀想で慟哭したのを覚えています。フォークソングになった彼の遺書は、今聞いても涙が出ます。期待されすぎるプレッシャーは並の人間には耐えられないし、想像がつきません。あれ以来、競争が嫌になりました。スポーツ観戦は今でも苦手です。
          (佐々木邦子さん シンフォニアのママ)

 東京オリンピックマラソン円谷選手の話し読ませていただきました。私にも記憶が甦ってきました。放浪楽人を読ませていただくと、いつも感動をもらい色々考えさせられ本当に勉強になります。これからも応援しています。ありがとうございました。
          (おけいちゃん 60才代女性)