壱拾壱  さあ、これでもか。        



 ある日音楽担当教諭U女史は、図体の大きい機械を腕に抱え、意気揚々と教室に入ってきた。彼女は教卓の上にドカッと機械を置くと、今日は好いもの聴かしてあげる、最後までおとなしく聴くのよ、いいこと、と言った。

 その機械はどうやらテープ・レコーダーのようであった。まだカセット・テープのない時代、オープン・リールのレコーダーは大きくて重く、さほど普及していなかった。
 Uはいそいそと準備を始める。プラグを黒板左下のコンセントにさし、リールをセットし、ボリューム・ダイヤルをチョコチョコといじくった。生徒たちは見慣れぬ機械を訝しげに眺め、それ以上に今日の授業の展開が読めないので、すでにプレ・パニック状態に陥りかけている。私は厭な予感がした。
 Uは教卓の後ろに腰をおろすと、役者が舞台で口上を述べるときのように、隅から隅までずずずいっと生徒たちを見渡し、不気味な笑みを浮かべてレコーダのスイッチを押した。パチン。
 テープにテンションがかかると、リールの空回りが止み、順調に回り始める。しばらくするとU自身の声が聞こえてきた。

 ………びぜー さっきょく …… あるるのおんな
 ………だいいっきょく …… ぜんそうきょく ……
 
 予感的中である。Uは必ず先手必勝の攪乱戦術で生徒を攻めてくるが、『鑑賞』の授業までその手で来るとは、全く想定外であった。
 Uは、生徒が自分の意向をくみ取って先に先にと機敏に行動するのを、自分の躾の成果だと自負していたが、これは上位権力者に対するお追従の作法を育てていたに過ぎない。残念ながら何時の時代でも実社会は、国家機構から塀の中まで、この作法に律せられている。好むと好まざるとに関わらず、ある程度はこの作法に馴染まなければならない。
 それはどの様な社会制度においても、上位権力者が責任を負うことで組織は動くからである。たとえ横暴でも社長は案外社員から好かれ、部課長がとことん嫌われるのは、いざとなれば社長は責任を全うしようとするが部課長はそうでないことを、社員は見抜いているからである。
 しかしそんな話は、社会に出てからでいいじゃないか。お追従が賢者を育てた試しは無いのだ。

 機敏な生徒は、正確なメモは取れなくても、とにかく鉛筆を動かし始める。機敏でない生徒もそれをまね、メモを取ろうとする。しかし如何に速記の達人といえども、何を言っているのかが聞き取れなければ、メモは取れない。

 ………だいにきょく  …… めぬえっと ……
 ………だいさんきょく …… あだーじぇっと ……
 ………だいよんきょく …… かね ……

 私がクラシック音楽好きなことは周りの生徒たちがよく知っていた。数人が左右から小声で訊ねてくる。私はノートになるべく大きな字で「アルルの女」「前奏曲」と書いて、周りから読めるようにした。
 しかしこの「かね」で周囲は一斉にパニックになった。
 えっ、かね、て何や。かね? 金か? おカネさん、昔の女の名前か?

 私はこの「かね」で完全に腹を立ててしまった。「きょうかいのかね」とか「かねとたいこ」とか言えば「鐘」と聞き取れるかもしれぬが、この流れで突然「かね」では何のことだか分からない。カリオン、これは教会の鐘のこと、原題がカリオン、日本語で鐘、せめてこれくらい言うたれや。相手に通じていないことが分かっていながら、澄まし顔で話を進める。いたずらに生徒を戸惑わせ焦らせる。姑息な虐めがそれほど快感か。
 しかし私がもっと腹を立てたのは、いたぶられて狼狽するだけの生徒たちだ。お前たち、今日も、やられっぱなし、か。何回やられたら悟るのか。みんなで虐められるのなら自尊心は傷つかないのか。動揺を隠せ。澄まし顔でメモをとれ。フェイントにはフェイントを返してやれ。
 私は周囲の生徒たちに、潜めた声であったが、語気を強めてこう言った。
 後できちんと教えるから、今はメモを取れ、メモを。
 すると間髪を入れず、Uから叱責の声が飛ぶ。

 そこぅ、何、喋ってんだ。真面目にしろぅ。

 真面目に対応しようとしているから喋るんやないか。
 私は今度は動作で、メモを取れ、と周りに示して、この場をやり過ごそうとした。Uもそれ以上何も言わなかった。

 テープ・レコーダーは、U女史の犯罪的無気力さの曲目紹介を終えると、おぞましい音色で第一曲『前奏曲』3人の王の行進の旋律を吐き出しはじめた。Uは曲目の口述を終えると、そのままマイクロフォンをLP再生装置のスピーカーのすぐ前へ置き、レコードを回しはじめたようだ。音が割れてしまっている。メゾ・フォルテ(やや強く)以上はすべて騒音と化している。
 その頃の家庭用ステレオには音声出力端子などは付いていなかった。しかし電器屋さんのテープ・レコーダーの売場には、スピーカーとスピーカー・ケーブルの結線部分から音声信号を抜くためのコードが売られていた、と記憶する。Uはそれを活用する事をしなかったようだ。再生してみて、これはまずいと、録音し直すこともしなかった。まあ馬鹿な事をいくら想像しても無意味だけれど。
 わうわうわう、ぎゃんぎゃんぎゃん、不愉快な音が教室に充満する。
 録音会場の反響音は当然レコードに入っている。テープに録音された時の部屋の反響音が加わっている。それがダビングでさらに劣化し、テープ・レコーダーの直径8センチほどのスピーカーから金属音となって発射され、いま教室で反響しあっている。考えるだけで頭が痛い。農村でのんびり育った犬が聞いたら悶絶死しただろう。幸いそこにいたのは、騒音の中で産まれ、騒音を友に育ち、その結果、騒音に対する驚くべき耐性を獲得したミュータント(突然変異体)のような悪ガキばかりだった。

 例によって、感想文が宿題となる。これ日本の悪い習慣ですね。何が感想文だ。まず自分の感想を言え。何も教えていないのに、はいキチンと教わりましたと、虚偽の自白調書を強要しているのと同じだ。音が悪かったです、ではダメなんだろう。

      *       *       *     

 その日の放課後、私の周りにいた何人かの生徒たちは、私のソノシート4枚で『アルルの女』を聴き直した。普段はそんな真面目な連中じゃありませんよ。授業中Uに理不尽に怒鳴られ、見返してやれとばかり、にわかに真面目になったのだ。解説を熱心に読むやつもいた。当然立派な感想文が書けました。中に一人、度の過ぎた立派さを示したやつがいた。彼は終曲の『ファランドール』がいたく気にいり、そこをたいそう詳しく書いた。
 ニ短調の「3人の王の行進」の旋律と、二長調の「ファランドール」の旋律が交互に演奏され、最期にこの2つの旋律が同時に演奏される、というド派手な終わり方をする曲だ。その部分のことを、それまで同主調の関係であった2つの旋律を、同時に演奏するために「3人の王の行進」のほうを二長調に転調している、とマニアックな事を書いたのだ。
 彼は解説文を丸写ししたのではありません。何度も『ファランドール』を聴き直して、ほんまや、長調に変わっとる、長調に変えたら変なフシやで、これ、と叫んでいたのである。きちんと理解しているではないか! 主音が『二音』であるという部分だけ解説文から借りた訳であるが、この様に少しずつ背伸びをして、知識とは獲得されるのだ。かれは正道を歩んだのである。

 これがU女史の逆鱗に触れたようであった。自分より美人がいることが許せぬ白雪姫のおっかさん見たいな心理だ。私たちのささやかな反撃に再攻撃をかけてきた。
 なんとこれらの立派な感想文すべてに、最低点を付けて返却したのである。40点ぐらいだったかな。同じ点を取り続けたら、落第させますよ、と言うメッセージである。曰く、

 どこかの書物を写してくるような不届きものには、点数をあげないから。

 アホぬかせ。どの書物の、どの部分に知りたいことが書いてあるのか、それを理解するのも能力だ。それが蔵書の意味じゃないか。世の中の文化人はすべて不届きものか。

 それにしても、点数をあげない、落第させる、という脅しは、最期の手段でしょう。いろいろ手を尽くし万策尽きた後、これで改まらないのなら、教師と生徒という関係が保てませんよと、最期の札をちらつかせる。逆に言えば、悪いようにはしないから私の言うとおりにしなさい、という一つの納め方の提示でもある。逆らっている生徒も、それで潮時というものがあることを悟るのだ。
 だが今回はまだ何も始まっていないじゃないか。こっちが言いたいわ、きちんと宿題をやり遂げただろう、何が不服だ。

 もうこのオバハンの根性は読めた。もうつき合わされるのはイヤだ、どうせろくな事は無いだろう。人間関係への厭世観がじわっと浸出してくる。美術担当教諭Oはテッテ的なさぼりであったから、課題を提出してエスケープという回避方法があった。しかしUの授業から抜けたりすると、彼女に原級留置(落第のことです)の格好の理由を与えてしまう。厭な思考が循環し出口が見えない。いったいどう振る舞えば良いのか。
 不届きもの、点数をあげない、不届きもの、点数をあげない、Uの言葉が何度もよみがえる。Uは今頃、してやったり、とほくそ笑んでいる事だろう。下校の途中思わず口汚い罵りの言葉がでる。罵ると余計に気分が悪い。何故こんな下らぬ事に悩まされているのか。

 さあ、これでもか。
 どうだ、腹が立つか。
 逆らってみてごらんよ、この意気地なしども。


           ―― 壱拾壱 さあ、これでもか。 (了)  
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 ◆◆◆ 2024/04/12 up ◆◆◆



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その機械はどうやらテープ・レコーダーのようで

民生用のテープレコーダーは、発売されて間なしの頃だった
中央に小さい「ナショナル」のロゴがある


………びぜー さっきょく
…… あるるのおんな


『アルルの女』は「劇付随音楽」
原作は、アルフォンス・ドーデ
Alphonse Daudet (1840〜1897)


この本のなかの短い逸話の一つ
それを作者自身が戯曲にした



ジョルジュ・ビゼー
Georges Bizet (1838〜1875)


………だいいっきょく
…… ぜんそうきょく

第1組曲
  1; 前奏曲
  2; メヌエット
  3; アダージェット
  4; 鐘(カリオン)
第2組曲
  1; パストラール
  2; 間奏曲
  3; メヌエット
  4; ファランドール

全曲の内容がこれ
ビゼー自身が四曲を選んで組曲とした
後、エルネスト・ギローという作曲家が、残りの断片を組み合わせて第2組曲とした




















私のソノシート4枚で

その時のソノシートがこれ
机の横のキャビネットに眠っていた
つまり60年以上前のものです


彼は終曲の『ファランドール』が

『ファランドール』は4枚目の後半 楽譜が二段見えるが
上段;「3人の王の行進」
下段;「ファランドール」
解説は宇野功芳さん なかなか熱のこもった文章だった


それ以外に、45回転ドーナツ盤を持っていた 第1組曲から3曲
エルネスト・アンセルメ
スイス・ロマンド管弦楽団
レコード番号は "SLW 7" 発売されていたレコードが、いかに少なかったかが分かる


自分より美人がいることが許せぬ

白雪姫のおっかさん



『アルルの女』を聴いておこう
↓ クリック

『アルルの女全曲』
Nathalie Stutzmann
Royal Stockholm Phil


『ファランドール』のみ
Lorin Maazel;
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks