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 008  2020年8月16日


 6月23日沖縄慰霊の日に考える 2
        〜映画「あゝひめゆりの塔」を観て 1〜


 映画・音楽を楽しむ会(会長 瀬谷優)が主催する第5回映画会「あゝひめゆりの塔」を平和のいえ(天理市守目堂町)で6月21日(日)に鑑賞した。

 解説

 映画『あゝひめゆりの塔』は1968年9月21日に公開された。監督は舛田利雄、主演は吉永小百合。日活青春スター総出演・芸術祭参加作品である。

 1968年といえば明治百年と言われた年、「明治は遠くなりにけり」と言われた昭和元禄のまっただ中。明治どころか20数年前の戦争の不幸な記憶も、戦後生まれの若者たちにとっては未知の出来事になり始めていた時代である。映画はゴーゴーを踊る若者たちの描写から始まる。クールな謎の青年渡哲也(20年8月10日死去)がリクエストした沖縄の唄「相思樹(そうしじゅ)の歌」が、ゴーゴーにアレンジされ、流れるタイトルバック。吉永小百合浜田光夫の青春コンビの映画を無邪気に楽しんできた若い世代に向けての、巧みなすべり出しである。

 「ひめゆり学徒隊」の悲劇の映画化は、1953年の今井正監督の『ひめゆりの塔』以来、これまで大蔵映画(1962年)でも描かれてきた。敗戦間際の沖縄戦で非武装の学徒が千五百数名も亡くなった悲惨な実話として、それぞれ真摯な姿勢で映画化がなされてきた。

 日活版はコンビとして数々の映画で共演してきた吉永小百合と浜田光夫。他にも和泉雅子、太田雅子(現・梶芽衣子)、音無美紀子、柚木れい子(のちの真木洋子)などのフレッシュな若手女優を配して綴られるドラマは、彼女たちの若いエネルギーが感じられ、胸に迫る。



 物語の前半は、若い男女の淡い恋心や、教育実習で小学校の教壇に立つ吉永の姿など、ごく普通の若者の戦時下の青春を描いている。

 1944年、本土・長崎へ疎開するために国民学校の生徒たちを乗せた貨物船「対馬丸」が、鹿児島県トカラ列島・悪石島沖で、米軍の潜水艦・ボーフィン号による攻撃で沈没したことは、映画で描かれているように当時は伏せられていた。家族の見送りも厳禁された霧の中の出港場面。子どもたちの唄う唱歌「ふるさと」が闇にこだまする。

 映画のクライマックス、女子たちが別れの宴をする場面に主題曲「相思樹の歌」が効果的に使われている。沖縄舞踊を踊る吉永小百合の美しさ。涙ながらにコーラスする女子たち。ゆったりしたメロディが、悲しみを誘う。 
 死と直面しながら、生きる望みを忘れなかった彼女たち。しかし彼女たちが選んだ最後の道が自決というのは、あまりにも重すぎる。1945年の日本が直面した悲しい現実を描いた作品である。

 あらすじ

 1943年、戦局はアメリカ軍の反攻によって日本には不利に展開していた。しかし沖縄ではまだ戦争感は薄かった。沖縄師範女子部の和子(吉永小百合)は級友のトミ(和泉雅子)らと運動会を楽しんでいた。和子が師範男子部の順一郎(浜田光夫)と知りあったのはその頃だった。



 1944年になると戦局は悪化、アメリカ軍の物量作戦の前に沖縄も戦場になろうとしていた。和子ら学生は、一日の半分を陣地構築に従事する毎日が続いた。やがてサイパン島が玉砕。学童は内地に疎開が決まり、教師である和子の母(音羽信子)はその船(対馬丸)に乗ったものの、潜水艦に撃沈されてしまった。和子は弟の武と二人きりになってしまった。

 グラマン機が那覇市を襲ったのは10月。師範学校の校舎も焼け、空襲は連日のように続いた。島には非常戦時体制がしかれ、女子学生は臨時看護婦として、男子学生は鉄血勤皇隊となって陸軍と行動を共にすることになった。

 1945年。和子たちはアメリカ軍上陸の直前、証書も賞状もないさびしい卒業式を行なった。間もなくアメリカ軍が上陸してから激戦が続き、負傷兵が増えたが、多くは満足に手当てもされずに死んでいった。アメリカ軍は日ましに島を制圧していった。病院は南に移動することになったが、歩けない患者には自決が求められる有様だった。

 そんな中で和子の級友光子は死に、勝江はあまりにも悲惨な状況の中で我を失った。またトミは下半身にグラマンの射撃を浴びて重傷を負い、迷惑をかけまいと自ら青酸カリを飲んだ。その頃、順一郎は伝令として銃火の中を走り回っていた。彼は、和子の弟の武が壮烈な最期を遂げるのを目撃したが、それを和子に告げることはできなかった。

 和子たちが新しい病院にしたのは真壁の大洞穴である。しかしもう医薬品もなく、重傷患者は次々と死んでいった。そんな時、師範学校の校長が死んだ。そして、その遺体を収容しようとした和子たちをかばって、順一郎は敵の機銃掃射で死んだ。和子たちは最後の時が近いのを知った。生き残った和子たち9人の女子学生と先生たちは円陣をつくり、思い出の歌「相思樹の歌」を歌うのだった。彼女たちの手には自決用の黒い手榴弾がにぎられていた。

 南部戦跡を訪ねて

 24年前に、平和学習・運動のツアーで沖縄に行った。最初に訪れたのがひめゆりの女学生が臨時看護婦として従事していた南風原(はえばる)町の陸軍病院跡だった。じめっとした森林の中にあり、あの蒸し暑さ、暗さ、そして独特の臭いを今も強烈に覚えている。この映画で描かれているよりずっと狭かったという印象がある。映像や文章で知ることも大事だが、現場に行ってこそ実感できることもある。



 この映画を観た人はもちろん、観ていない人も沖縄に行ったら、南風原の陸軍病院跡・ひめゆりの塔と祈念資料館・平和の礎がある平和祈念公園・沖縄本島最南端の喜屋武(きゃん)岬などの南部戦跡を是非訪れてほしい。映画とはまた違う戦争の実相を体感出来る。

 オキナワはヒロシマ・ナガサキ同様、「戦争と平和」を考える聖地である。

 最後に、「あゝひめゆりの塔」の予告編をご覧いただきたい。