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 009  2020年8月18日


 6月23日沖縄慰霊の日に考える 2
        〜映画「あゝひめゆりの塔」を観て 2 〜


 映画を観た人のネット上での感想

 毎年この時期には長崎の祖父母の家に行き、祖父母の体験談、原爆を中心とした戦争の惨さに触れる夏休みだった。(今年は行けなくて悲しい…。)
 しかし、何だかんだ観ていなかった本作。触れていなかった沖縄戦。先日NHKBSで放送されていたので鑑賞。
 今でこそ戦争の風化が叫ばれるのに、たった20年ほどしかたっていない若者の、今と変わらない能天気な様子が描かれていたオープニングに驚いた。
 本作は、全体を通してかなり史実に忠実に描かれている気がした。何の罪もないひめゆり学徒隊の死期が段々近づく残酷さを、ドキュメンタリーのように描かれていた。

 修学旅行で行った沖縄のひめゆりの塔や防空壕。あまりにも当時の姿のままで、あまりにも当時の悲惨さを物語っていて、中にはパニックに陥ってしまう人がいたのをよく覚えている。現代の同年代の私たちがそのような気持ちになるのに…。本作を通じて戦争とはなんたるかを改めて痛感させられた。
 沖縄戦の最後の1か月は、出口のない戦いだった。島民の大部分が逃げ場を失い、軍と行動を共にし、命を落としたと言われているのが、この作品を観てその悲惨さ、無念さがよくわかった。対馬丸の悲劇、学童疎開の子供達が命を落としたことも。
 作品クオリティの高さに、驚いた。とても丁寧に作ってある。

 戦争ほど酷いものはない。この一言に尽きる。まだ若い10代の男子学生たち、女子学生たちが毎日命がけで国のために、いつ自分の命がなくなってもおかしくないような状況に脅かされながら生活している光景が見るに堪えなかった。
 この戦争さえなければ彼らはまだまだこれからそれぞれ夢や希望があっただろうに。1人ひとりがやりたいことをやって人生を謳歌できただろうに。

 ひめゆりの学徒たちが久しぶりの食事の際に「お米ってこんなに甘いのね。」、久しぶりに体を洗えるときに「水に浸かるってこんなに気持ちいいのね。」と言っていた。
 人間として、食べることは当たり前の行為だが、当時はそれさえもままならなかった。現代を生きる私たちが、今いかに贅沢な生活を送っているかということを思い知らされた。普通に食べ物がいただけること、笑っていられること、住む家があること。私たちはこのことに感謝しなくてはならない。
 毎日同じような平凡な日々の繰り返しに飽き飽きしたときには、戦時中の常に生死と隣り合わせの日常を思い返して、それに対して今はいかに幸せであるかを噛みしめたい。

 戦後20年以上が過ぎて作られた作品。戦後に生まれて育った当時の10代後半から20代前半に、悲惨な戦争のことを知ってもらうために作られた気がする。忘れてはいけないことをいかに継承していくか。その課題は年々重くなっていく気がする。沖縄戦に至る太平洋戦線の流れが丁寧に語られるのも後世にしっかり伝える意図があるからだろう。

 可愛らしい吉永小百合さんが泥だらけになって熱演して目が離せない。この作品が作られてから半世紀。今なら誰が演じるだろうか。リメイクされなくても十分に本作は今も通用するクオリティがあるけど。
 モノクロの美しい映像は若者の光と影のコントラストをこれでもかと際立たせる。
 カラーにするより効果的だと思う。黒い服を脱ぎ、白い下着を濡らし、川で笑い踊り歌う姿こそ本来の彼女らの姿なはずで、戦争になすすべもなく巻きこまれた不条理と悲劇に涙する。
 坂を転がり加速したものを止めたり逸らすには大変なパワーがいる。いかに転がさないか、早めに止めるか。

 銃をもって戦うわけではないので基本は逃げる、隠れるのだけど、野戦病院の様子が悲惨で、映画だからまだソフトなんだろう。実際はまさに地獄だったと想像できる。爆撃などもCGなんてない時代だけど怖さは十分伝わってきた。
 沖縄の言葉が使われていればもっとよかったかもしれない。

 元ひめゆり学徒隊 与那覇百子(よなは ももこ)さん

 30年も前のことだが、与那覇百子さんのお話を伺う機会を得た。講演会の冒頭、与那覇さんはこう言われた。
 「いま、主催者の方が私のことをひめゆり部隊の生存者と紹介されましたが、私達は武器を持って戦ったわけではありません。だから部隊ではないのです。負傷兵の手当てやお世話をする臨時の看護婦手伝い、として組織された学徒隊なのです。」
 部隊と学徒隊では意味が全然違うとその時初めて知った。その毅然とした立ち姿・口調は今もしっかりと覚えている。
 ひめゆり学徒隊の母体となった沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校は、設立当時の沖縄県の財政事情から併設校とされ、校長および一部の教師は兼任であった。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであったという。
 名前の「ひめゆり」とは、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来である。
 やがて与那覇さんのお話は、南風原陸軍病院での日常から、友人や先生の死と向かい合ったこと、解散後南へと逃げていったことと続いていく。
 映画やテレビドラマを観た時の印象とは違う、被爆者の方や空襲を体験した方の話とはまた違う、戦争の現実をより実感させられたお話だった。
  YouTubeで与那覇さんのお話を聴いていただきたい。






 戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えていくために

  “ひめゆりの声”を届けたい〜戦後75年 生まれ変わる資料館〜というNHKの番組を8月15日に観た。

 『沖縄戦の悲劇と平和の尊さを伝える「ひめゆり平和祈念資料館」がいま重い課題に直面している。若い世代にとって戦争は遠い昔の話で、展示を見ても実感が持てなくなっているのだ。リニューアルを決めた資料館。戦後生まれの職員が新たな展示を模索してきた。 しかし、元学徒らが作ってきた資料館を変える葛藤や、元学徒との意見の食い違い、そして 新型コロナウイルスの流行拡大など壁が次々と立ちはだかる。次の世代に“ひめゆりの 声”を残すために模索する資料館の500日を追った。』という内容である。

 若い世代にとって戦争は遠い昔の話というのは、「あゝひめゆりの塔」が公開された戦後23年でもそうだった。戦後75年経った今、若い世代が展示を見ても実感が持てなくなっているのはある意味当然である。もちろん、平和祈念資料館でしか果たせない大切な役割・メーッセージがあるが、資料館だけでその実相を十分に理解させることには無理がある。これはもちろんひめゆりや沖縄に限ったことではない。

 戦争の実相を若い世代に体感させるためには、資料館などの展示や写真を観る・戦争体験者の生のお話を聴く・現地を訪ねる・書籍を読む・映画などの映像を鑑賞する、といったものを効果的に組み合わせる総合的な取り組みが重要なのではないだろうか。

 YouTube 南部戦跡を訪ねて

https://www.youtube.com/watch?v=tQMTA5PucBs
ひめゆり平和祈念資料館の紹介ムービー (上の URLクリック で "YouTube" に移行します)


沖縄平和祈念公園〜平和の礎〜