profil

生まれ
 1948年(昭和23年)
 ベビーブームの真っただ中
生活エリア  
 大阪 奈良 京都
趣味等
 本を読む事、
 音楽を聴く事
 (クラシック,ジャズ,中島みゆき)、
 山歩き、テニス、バイク、等






【素浪人暇仁】Top へ


【有朋自遠方来】Top へ


【一握の知力】Top へ

















































































































   一つ前の記事へ


   次の記事へ   
  №036 2021/11/16

  “バンドゥーラ” (ウクライナの民族楽器)


 ◆ 演奏者ナターシャ・グジー ◆ 

 YouTubeで見つけたナターシャ・グジーの動画、見たことのない楽器。バララカとは、音色も弦の張り方も違い、チターやリュートを合体したようなバンドゥーラ、その音色は透き通り、物悲しいほど…

 ネットで見ると、ナターシャ・グジーはウクライナのドニエプロペトロフスク州(現ドニプロペトロウシク州)の村に生まれ、チェルノブイリ原子力発電所から3.5kmのプリピャチに転居した。1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故によって6歳で被爆した後(妹カテリーナは生後6カ月)、避難生活で各地を転々としてキエフ市に移住。

 ウクライナの民族楽器バンドゥーラを8歳より音楽学校で学ぶ。チェルノブイリ原発事故で被災した少年少女を中心に結成された民族音楽団「チェルボナカリーナ」(チェルノブイリの赤いカリーナの実)のメンバーとして、1996年、1998年に来日し、全国で救援コンサートを行う。2000年からは日本語を学びながら日本で本格的な活動を開始。

k

 ナターシャ・グジーは、2011年3月11日東北大震災の10日後、チェルノブイリでの体験から、原発の危険性を訴える動画メッセージを送っている。



 ナターシャは4人姉妹、末っ子がカテリナー・グジー。彼女も姉ナターシャと同じようにバンドゥーラを弾く、ナターシャに呼ばれて日本で演奏活動している。二人とも透き通った歌声でバンドゥーラの弦の響きと合って素晴らしい。












 バンドゥーラは12世紀頃にウクライナで弾き始められ、ちょうど日本の琵琶語り弾きと同時期だと言われている。バンドゥーラの弦は20本から70本まであり、伴奏とメロデイに分けて弾くピアノに似ている。音色は美しく、透明感があり、少し物悲しい。弾き手も琵琶と同じように目の不自由な人が多かったようだ。

 バンドゥーラには悲しい歴史がある。ソ連時代、スターリンがウクライナのバンドゥーラ奏者約300人を演奏会開催と偽り、集結させて虐殺、バンドゥーラも焼いてしまった。ウクライナの民族的文化発信を圧殺したと伝わっている。
この話を聞くとバンドゥーラの響が、余計に物悲しく聞こえてくる。

 ウクライナには隠ぺいされた虐殺の歴史(ホロドモール)がある。その虐殺の歴史の流れからバンドゥーラ演奏者の虐殺もスターリンの圧政によるものだろう。

 ◆ ホロドモールとは ◆ 

 飢饉を意味する「ホロド」と、疫病や苦死を表す「モール」を合わせて、「ホロドモール」、オスマン帝国のアルメニア人虐殺や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対するホロコーストなどのように、20世紀最大の悲劇のひとつであるが、世界的にはあまり知られていない。

 ウクライナの2度の大飢饉(1921年 - 1922年、1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ)、1932年から1933年にかけての大飢饉=ホロドモールは、当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによって計画された、ウクライナ人へのジェノサイドだと言われている。

 ホロドモールは、ソ連が1929年から行なった農業集団化(コルホーズ)のシステムが原因とされている。ウクライナの自営農家(クラーク)の土地は没収、農民は集団農場と国営農場に組織された。農業の集団化政策、コルホーズ、ソホーズで農作物を収奪して輸出、ウクライナの工業化のしわ寄せと凶作で農民が飢え、飢饉によってウクライナでは人口の20%(国民の5人に1人)が餓死し、正確な犠牲者数は記録されてないが、400万から1450万人以上が亡くなったと言われている。

 ソ連では長い間ホロドモールの事実が隠蔽され、語られることはなかった。ソ連政府がこの大飢饉を認めたのは1980年代になってからである。しかしソ連政府は飢饉の存在自体は認めたが、被害を被ったのはウクライナ人だけではないとして、虐殺については否定している。

 私的なことだが、1969年頃にウクライナのキエフとコルホーズを訪れたことがあるが、閑散として、暗い感じがした。当時はソビエト全体がそんな雰囲気だったが、前記の虐殺、ホロドモールの数十年後だったと分かり、暗いイメージが理解できる。

 現在、ナターシャと妹のカテリナーは日本で演奏活動しながら、チェルノブイリ原発事故体験を通して世界の平和とウクライナの民族文化を伝えている。

 ウクライナでは、つい最近も国境付近にロシア軍9万人が集結したと報道され、ソ連からロシアへ変わっても独裁政権の武力でのやり方は同じで問題解決はされてない。(注1)

*(注1)ウクライナとロシアの争いは9世紀頃から始まり、1918年のロシア革命によりソ連に取り込まれ、1991年にソ連が崩壊し、8月24日にウクライナはソ連から独立を宣言した。12月5日にロシアはウクライナ独立を承認したが、ウクライナとロシアの間に、歴史認識の問題(ホロドモール、第二次世界大戦におけるウクライナ蜂起軍とNKVD(KGB)の評価の差異)、ウクライナ国内におけるロシア語の公用語化の問題、ロシア国内におけるウクライナ人のロシア化の問題、ロシアによるウクライナのクリミア半島占領・NATO・EU・関税同盟へのウクライナ加入の問題などが未解決の問題が多数存在する。