有朋自遠方来 放浪楽人(さすらひのがくと)
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人生は旅。
知らない街を歩いてみたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。
けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。
たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。
さて、どこまで放浪できるか ……
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№039 2020年6月23日
「罪と罰と償い」について考える
人は生きていくうえで、大なり小なり何らかの罪を犯している。人は過ちを犯すものであるから、それはある意味仕方がない。しかし罪を犯すと当然のように何らかの形で罰を受けることになる。
例えば、13年前に世間を騒がした、いわゆる「船場吉兆事件」の場合。
当時船場吉兆の経営陣の一人だった湯木尚二さんは5年前に手記を発表している。
『07年10月、販売する惣菜などの食品偽装が判明したことを皮切りに、原材料偽装や料理の使い回しが発覚する大騒動を起こした、大阪の老舗料亭「船場吉兆」。同年12月に開いた謝罪会見で、記者からの質問に答えられずにいた取締役の湯木喜久郎氏を助けようと、名物女将である母の佐知子氏が隣で、
「大きい声で」「記者の眼を見て」「頭が真っ白になったと(言いなさい)」
と、コソコソと囁く姿が世間をにぎわせた。この「ささやき事件」後も船場吉兆は経営を続けたが、一度失った信頼は取り戻せず、08年5月に廃業した。
あれから7年。当時船場吉兆の取締役で、湯木喜久郎氏の弟・尚二氏が、大阪・北新地で飲食業を再開。あのとき、家族はどんな心境だったのか、尚二氏は、どん底からどうやって立ち上がったのか。いままで明かされなかった「船場吉兆ファミリー」のドラマについて、尚二氏が初めて口を開いた――。
母に怒った兄
先日、母と創業者である祖父のお墓参りに行ってきました。あの時の罪滅ぼしという気持ちもあるのでしょう。母は時間があれば神社仏閣に足を運んでおります。父も母も現在は年金暮らしで、飲食業にはまったく携わっていません。兄も飲食業から足を洗って、現在はまったく違う業界で勤め人をしています。もちろん、あの時お客様にかけた迷惑は忘れてはおりませんが、私たち家族にとっても、あれはつらい出来事で…。ようやく冷静に思い返して、家族であの事件について話せるようになったのは、最近のことです。
当時の吉兆は、イケイケドンドン、でした。料亭の経営だけでなく、有名百貨店でも「吉兆ブランド」の商品も手掛けていましたから。では、なぜ「料理の使い回し」などの問題を起こしてしまったのか。決して業績が悪かったわけではないのです。事業拡大にともない、ひとつひとつの現場に目が届かなくなっていたことが原因でした。
使い回しが発覚した時、その対応をめぐって家族が割れました。しっかりと世間様に向けて包み隠さずに話すべきだという意見と、愚直に商売をやっていればお客様にはわかってもらえるはずだという意見に分かれたのです。
そうやって身内でゴタゴタしているうちに、報道が周辺取材をはじめてしまい、内部事情がいろいろと書かれてしまった。なかには事実無根の報道もありました。そこで、しっかりと事実を伝え皆様に謝罪をしようと、あの会見を開いたのです。
ところが、いわゆる「ささやき」と言われる母の所作に、思わぬ注目が集まってしまった。兄は職人気質で、あまり多くを語らない人です。あれだけの報道陣が集まる中、さらに緊張してしまい、言葉が出てこなかった。そこで、母が兄を心配して助言をしたつもりが……。
会見の後に、兄は母に向かって怒っていましたね。「あんなこと(ささやき)をしなくても大丈夫だったのに!」と。家族みんな、あの時は感情的になっていたのです。ワイドショーも数えきれないほど取材に来ましたし、中には母のキャラクターに着目し、「お母さんの携帯ストラップを作りませんか」なんていう、人を馬鹿にしたようなオファーも来ました…。
月給15万円からの再スタート
会見後もしばらくは『船場吉兆』として商売を続けていましたが、失った信頼はなかなか取り戻せません。負債は8億円ほどに膨らみ、店を畳まざるを得ませんでした。08年5月のことです。これで一家離散かな…。そう思ったこともありました。廃業後数ヵ月は、なにも手につきませんでしたね。貯金は、100万円を切りました。
ああ、これからどうやって生きていくのか。そう途方に暮れていました。そんな時に、昔から懇意にしてくれた外食チェーンの経営者の方が「時間が余っているならうちの店を手伝ってくれ。『吉兆』で学んだ料理のイロハを生かしてほしい」と声をかけてくださったんです。08年秋のことでした。
月給は15万円。確かに、高くはありません。それでも、飛び上るほど嬉しかったんです。お金を貰って働くということの喜びを、もう一度かみしめたのです。
それを機に、人生の見え方が変わってきました。悩んでいても仕方ない、とにかく前を向いて歩こう。そう決意して、『(株)プラス思考』という個人会社を作りました。その外食チェーンで働いたことをきっかけに外食のコンサル業をはじめて、それで生計を立てていました。
飲食店の仕事を手伝ううちに、やっぱり自分でもう一度お店をやりたいという気持ちが強くなってきました。10年の秋に知り合いの不動産業者が「もともと小さな鮨屋だったところが空いたから、料理屋をやってみないか」と声をかけてくださったんです。
大阪・難波に、6坪、カウンター6席の、本当に小さな店を開きました。もう一度心を改めて、やりなおそう。一生懸命、初心に戻って働きました。そうすると、少しずつ、お客様が来てくれるようになったんです。吉兆時代のお客様も、足を運んでくれました。
『あの時は大変だったね。でも、この味をみると、君の気持が伝わってくる。絶対にまたやり直せるよ』と声をかけてくださる方もいて。それが嬉しくて嬉しくて…。
次第に商売も軌道に乗って、おかげさまで現在、3店舗を構えるまでになりました(北新地の『日本料理 湯木本店』『日本料理 湯木新店』肥後橋『ゆきや』)。吉兆時代のスタッフも、何人か戻ってきました。みんな、もう一度やり直そう、と意欲に燃えています。
いつかまた家族で
先日、昔懇意にしていただいた食器屋さんから連絡がありました。「昔、吉兆さんで使われていた器を見つけました。この器は、湯木さんに使ってもらいたいんや」涙が出ました。同時に、船場吉兆はこんなに多くの人に支えてもらってたんやな、と改めて気づきました。
7年前の事件は、絶対に忘れてはいけません。我々の慢心が、あの事件を招いたのですから。でも、だからといって船場吉兆のすべてを否定することは、私にはできないのです。祖父から受け継がれる、料理の味と食への探求心、それは引き継いでいきたい。『船場吉兆』と聞くと、いまでもいいイメージを持たれない方もいらっしゃるでしょう。そうした方々にも、いつかは『湯木』に足を運んでいただけるように、これからも精進していきます。父と母は時々お昼に私のお店に食べに来ます。いつかはまた兄弟で店をやることができれば…と思っています。』
(2015.8.26 現代ビジネス 講談社より引用)
湯木尚二氏も兄の喜久郎氏も料理人として厳しい修業をしたと思うが、結局は「老舗のぼんぼん」である。どこか見通しが甘く、世間を軽く見ていたと想像できる。
事件後は世間の手のひら返しに合い、いろんな人から後ろ指を指されたに違いない。それでも歯を食いしばって必死に生きてきたのであろう。
「捨てる神あれば拾う神あり」という。湯木尚二氏の誠実な仕事ぶりに心ある人達が救いの手を差し伸べ、エールを送る。確かに罪は犯した、罰も受けた。しかしお客様本位の料理をつくることで彼は償っているのだ。また良い結果も出ている。これは本当に素晴らしいことだ。
マスコミも含め世間は、人の犯した罪とその罰について目を向けるが、それ以降その人がどんな人生を送りどんな償いをしたかということにあまり目を向けない。
2019年参院選を巡る選挙違反事件で逮捕された参院議員の河井案里容疑者と夫で前法相の衆院議員克行容疑者は自らの罪を認めるのだろうか。もし罪を犯していたとしたら、国民にきちんと説明・謝罪し、今後償いの人生を歩もうとするのだろうか。大注目である。
妻子がありながら複数の女性と不倫したという報道がある、お笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部建はどうするのだろう。もし報道が事実だとすれば河合夫妻のように逃げないで、少なくとも彼のファンに向けて説明・謝罪した方がいい。そして時間をかけて、迷惑をかけた人に何年かけても償うべきである。彼の場合、再起は可能だ。
さてどうなることか。
人は誰でも生きていくうえで、自分の犯した罪の償いを何らかの形でしていると思う。大事なことは、それをどんな形でどれだけ誠実に誰にどう償っていくのかということだ。
失敗をしてもそれからどう立ち直ったか。あきらめなかった人の生き様から学ぶことは多いのである。
「罪と罰と償い」について考える
~船場吉兆 湯木尚二氏の場合~
人は生きていくうえで、大なり小なり何らかの罪を犯している。人は過ちを犯すものであるから、それはある意味仕方がない。しかし罪を犯すと当然のように何らかの形で罰を受けることになる。
例えば、13年前に世間を騒がした、いわゆる「船場吉兆事件」の場合。
当時船場吉兆の経営陣の一人だった湯木尚二さんは5年前に手記を発表している。
『07年10月、販売する惣菜などの食品偽装が判明したことを皮切りに、原材料偽装や料理の使い回しが発覚する大騒動を起こした、大阪の老舗料亭「船場吉兆」。同年12月に開いた謝罪会見で、記者からの質問に答えられずにいた取締役の湯木喜久郎氏を助けようと、名物女将である母の佐知子氏が隣で、
「大きい声で」「記者の眼を見て」「頭が真っ白になったと(言いなさい)」
と、コソコソと囁く姿が世間をにぎわせた。この「ささやき事件」後も船場吉兆は経営を続けたが、一度失った信頼は取り戻せず、08年5月に廃業した。
あれから7年。当時船場吉兆の取締役で、湯木喜久郎氏の弟・尚二氏が、大阪・北新地で飲食業を再開。あのとき、家族はどんな心境だったのか、尚二氏は、どん底からどうやって立ち上がったのか。いままで明かされなかった「船場吉兆ファミリー」のドラマについて、尚二氏が初めて口を開いた――。
母に怒った兄
先日、母と創業者である祖父のお墓参りに行ってきました。あの時の罪滅ぼしという気持ちもあるのでしょう。母は時間があれば神社仏閣に足を運んでおります。父も母も現在は年金暮らしで、飲食業にはまったく携わっていません。兄も飲食業から足を洗って、現在はまったく違う業界で勤め人をしています。もちろん、あの時お客様にかけた迷惑は忘れてはおりませんが、私たち家族にとっても、あれはつらい出来事で…。ようやく冷静に思い返して、家族であの事件について話せるようになったのは、最近のことです。
当時の吉兆は、イケイケドンドン、でした。料亭の経営だけでなく、有名百貨店でも「吉兆ブランド」の商品も手掛けていましたから。では、なぜ「料理の使い回し」などの問題を起こしてしまったのか。決して業績が悪かったわけではないのです。事業拡大にともない、ひとつひとつの現場に目が届かなくなっていたことが原因でした。
使い回しが発覚した時、その対応をめぐって家族が割れました。しっかりと世間様に向けて包み隠さずに話すべきだという意見と、愚直に商売をやっていればお客様にはわかってもらえるはずだという意見に分かれたのです。
そうやって身内でゴタゴタしているうちに、報道が周辺取材をはじめてしまい、内部事情がいろいろと書かれてしまった。なかには事実無根の報道もありました。そこで、しっかりと事実を伝え皆様に謝罪をしようと、あの会見を開いたのです。
ところが、いわゆる「ささやき」と言われる母の所作に、思わぬ注目が集まってしまった。兄は職人気質で、あまり多くを語らない人です。あれだけの報道陣が集まる中、さらに緊張してしまい、言葉が出てこなかった。そこで、母が兄を心配して助言をしたつもりが……。
会見の後に、兄は母に向かって怒っていましたね。「あんなこと(ささやき)をしなくても大丈夫だったのに!」と。家族みんな、あの時は感情的になっていたのです。ワイドショーも数えきれないほど取材に来ましたし、中には母のキャラクターに着目し、「お母さんの携帯ストラップを作りませんか」なんていう、人を馬鹿にしたようなオファーも来ました…。
月給15万円からの再スタート
会見後もしばらくは『船場吉兆』として商売を続けていましたが、失った信頼はなかなか取り戻せません。負債は8億円ほどに膨らみ、店を畳まざるを得ませんでした。08年5月のことです。これで一家離散かな…。そう思ったこともありました。廃業後数ヵ月は、なにも手につきませんでしたね。貯金は、100万円を切りました。
ああ、これからどうやって生きていくのか。そう途方に暮れていました。そんな時に、昔から懇意にしてくれた外食チェーンの経営者の方が「時間が余っているならうちの店を手伝ってくれ。『吉兆』で学んだ料理のイロハを生かしてほしい」と声をかけてくださったんです。08年秋のことでした。
月給は15万円。確かに、高くはありません。それでも、飛び上るほど嬉しかったんです。お金を貰って働くということの喜びを、もう一度かみしめたのです。
それを機に、人生の見え方が変わってきました。悩んでいても仕方ない、とにかく前を向いて歩こう。そう決意して、『(株)プラス思考』という個人会社を作りました。その外食チェーンで働いたことをきっかけに外食のコンサル業をはじめて、それで生計を立てていました。
飲食店の仕事を手伝ううちに、やっぱり自分でもう一度お店をやりたいという気持ちが強くなってきました。10年の秋に知り合いの不動産業者が「もともと小さな鮨屋だったところが空いたから、料理屋をやってみないか」と声をかけてくださったんです。
大阪・難波に、6坪、カウンター6席の、本当に小さな店を開きました。もう一度心を改めて、やりなおそう。一生懸命、初心に戻って働きました。そうすると、少しずつ、お客様が来てくれるようになったんです。吉兆時代のお客様も、足を運んでくれました。
『あの時は大変だったね。でも、この味をみると、君の気持が伝わってくる。絶対にまたやり直せるよ』と声をかけてくださる方もいて。それが嬉しくて嬉しくて…。
次第に商売も軌道に乗って、おかげさまで現在、3店舗を構えるまでになりました(北新地の『日本料理 湯木本店』『日本料理 湯木新店』肥後橋『ゆきや』)。吉兆時代のスタッフも、何人か戻ってきました。みんな、もう一度やり直そう、と意欲に燃えています。
いつかまた家族で
先日、昔懇意にしていただいた食器屋さんから連絡がありました。「昔、吉兆さんで使われていた器を見つけました。この器は、湯木さんに使ってもらいたいんや」涙が出ました。同時に、船場吉兆はこんなに多くの人に支えてもらってたんやな、と改めて気づきました。
7年前の事件は、絶対に忘れてはいけません。我々の慢心が、あの事件を招いたのですから。でも、だからといって船場吉兆のすべてを否定することは、私にはできないのです。祖父から受け継がれる、料理の味と食への探求心、それは引き継いでいきたい。『船場吉兆』と聞くと、いまでもいいイメージを持たれない方もいらっしゃるでしょう。そうした方々にも、いつかは『湯木』に足を運んでいただけるように、これからも精進していきます。父と母は時々お昼に私のお店に食べに来ます。いつかはまた兄弟で店をやることができれば…と思っています。』
(2015.8.26 現代ビジネス 講談社より引用)
湯木尚二氏も兄の喜久郎氏も料理人として厳しい修業をしたと思うが、結局は「老舗のぼんぼん」である。どこか見通しが甘く、世間を軽く見ていたと想像できる。
事件後は世間の手のひら返しに合い、いろんな人から後ろ指を指されたに違いない。それでも歯を食いしばって必死に生きてきたのであろう。
「捨てる神あれば拾う神あり」という。湯木尚二氏の誠実な仕事ぶりに心ある人達が救いの手を差し伸べ、エールを送る。確かに罪は犯した、罰も受けた。しかしお客様本位の料理をつくることで彼は償っているのだ。また良い結果も出ている。これは本当に素晴らしいことだ。
マスコミも含め世間は、人の犯した罪とその罰について目を向けるが、それ以降その人がどんな人生を送りどんな償いをしたかということにあまり目を向けない。
2019年参院選を巡る選挙違反事件で逮捕された参院議員の河井案里容疑者と夫で前法相の衆院議員克行容疑者は自らの罪を認めるのだろうか。もし罪を犯していたとしたら、国民にきちんと説明・謝罪し、今後償いの人生を歩もうとするのだろうか。大注目である。
妻子がありながら複数の女性と不倫したという報道がある、お笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部建はどうするのだろう。もし報道が事実だとすれば河合夫妻のように逃げないで、少なくとも彼のファンに向けて説明・謝罪した方がいい。そして時間をかけて、迷惑をかけた人に何年かけても償うべきである。彼の場合、再起は可能だ。
さてどうなることか。
人は誰でも生きていくうえで、自分の犯した罪の償いを何らかの形でしていると思う。大事なことは、それをどんな形でどれだけ誠実に誰にどう償っていくのかということだ。
失敗をしてもそれからどう立ち直ったか。あきらめなかった人の生き様から学ぶことは多いのである。