壱   ト長調の不思議



 私の通った小学校は、大阪はミナミ(南)高島屋の前から戎橋筋商店街を北に入ってすぐ、通りの右側にあった。校門は、というより校舎の入り口は、商店街から少し路地へ入ったところにあったので、下校時児童たちが戎橋筋へ吐き出されると、すでに多少酔いの回った男たちが、何やこんなところにガッコ(学校)あるやないか、と路地をのぞき込むのであった。

 今でも関西から遠く離れた地域では、大阪には漫才師とたこ焼き屋のおばちゃんとヤクザしかいない、と信じている人達がおられる。この学校に関する限り、それは当たらずと言えども遠からずであって、児童達の父兄はほとんどが商店主か飲食店・遊興店の経営者、もしくはそこの従業員、希に組の関係筋だった。農林水産業・工業従事者はゼロ、会社員は若干おられたが、なんぞ(何ぞ)の間違いでそうなってしまった人達だった。だから教科書に出てくる日本の歳時記的な風景や、父さんは出勤、母さんは掃除洗濯といった磯野さん的家族などは、すべて建前と見なして学習するのだということを、私たちは一年生の時から心得ていた。
 往きは飲食店の厨房から出されたゴミの山や嘔吐物の間を縫い、帰りは左右から酔客に絡み寄る客引きを避けながらの通学である。現在の常識的観点からすると、教育環境としてまこと宜しくないとされるだろうが、私はそうは思っていない。どんな環境であっても、子供の世界はきちんと存在するのだ。

 まだまだ街は静かであった。サンドイッチマンのカスタネットの音や、夏なら氷屋が氷を鋸で引く音が、何十メートルも手前から聞こえた。ダンスホールの屋上でバンドマンが練習するトランぺット、国鉄湊町駅の操車場で貨車の入れ替えをする蒸気機関車の汽笛、夕刻ともなれば大阪球場からは観客のどよめきや次の打者を告げるアナウンスが、のどかに聞こえてきた。遠くからの物音は、音量が減衰する分だけ感興を呼び起こすものらしく、私は少し感傷的になり、普段は行くことのない、ちょっと遠くの風景に思いを馳せた。これは悪い気持ちではなかったように思う。
 ただ遊び場が、教科書にあるような公園や寺社の境内でなく、昼間から営業している地下のアルサロ(アルバイト・サロンの略、独仏接合の難しい単語です、誰が考えたのかな)の屋上に当たるコンクリート面や、決まって二軒並んで小屋掛けされるストリップ小屋裏の空き地であったりしただけです。

 家の中も静かだった。テレビ放送はまだ始まっていなかった。ラジオはあったが、旅順陥落で提灯行列をしたという明治生まれの祖母が、聴きたい番組がある時だけスイッチをひねる、というのが我が家のしきたりであった。流行歌はつまらないから、と歌番組はめったに聞かれることがなく、歌舞伎・新派の舞台中継、長唄・清元・浄瑠璃等の邦楽、それに浪曲・講談・落語・漫才等の寄席芸をもっぱら聞いていた。私も側で結構楽しんでいた様に思う。
 その中でも私のお気に入りは寄席中継で、東京のスタジオからは江戸落語、大阪のスタジオからは上方漫才という組み合わせが、特に面白かった。落語の『目黒のさんま』に入れ込んで、一度聴いたきりの話を、思いだし、思いだし、して何とか繋げ、座敷の壁を背に座布団を敷き、目の前の架空のお客に一席のお付き合いを強要したものだ。普段は威張っている殿様が意外な行動をしてしまうのが、子供心によほど面白かったのであろう。

 私の家の中に洋楽の匂いは殆どなかった。西洋音楽、あるいは西洋音楽的なものには、学校の授業で出会うことになる。教科の名前こそ音楽というものの実際は唱歌の時間であり、結構楽しい授業であったと思う。
 当時の小学校の先生の多くは戦前の師範学校の出身者であったから、たいていの先生は唱歌のオルガン伴奏ぐらいは出来たはずである。右手で単音の旋律線を弾き、左手で和音を、四分音符(ブン・チャッ・チャッ・チャッ)か二分音符(ブーゥン・ブーゥン)で入れていく。街の教会の賛美歌伴奏と同じやり方。
 実際の感じを確かめたい人は、レンタル・ビデオ屋さんへ言って、日本初の総天然色カラー作品・木下恵介監督・高峰秀子さん主演の松竹映画『カルメン故郷へ帰る』を借りてみてください。佐野周二さん(関口宏さんのお父さんです)演ずる田口春雄先生が、それやってます。私は面白くない映画はお勧めしません。総天然色の効果をだすため、広角で撮る山川の風景の中に人物が小さく配置されているのが、都会が故郷の私にも懐かしい。

 しかし教室に置かれたオルガンはあまり使われることなく、たいていは音楽室に移動して、ピアノの得意な先生が授業をした。生徒たちとしては算数や国語の授業から逃れられてほっとしていたし、先生は年輩の女の人で優しかったから少しばかりくつろいでいたし、でも担任の先生とは勝手が違うからちょっと気恥ずかしく、神妙に良い声を出そうとしていた。すると何回か歌っているうちに歌声が揃ってくる。そういう時は唱っている自分でもこれはなかなか綺麗だと感じたし、歌い終わると先生も喜んで、今のは上手く歌えましたねと言うのであった。
 校舎は明治初期のものであったが、なかなか凝った造りになっていて、特別教室棟は普通教室棟より中心軸が10メートルほどづれており、お互いの出す音響が全館に響かないように工夫されていた。音楽室に真っ先に駆け込むと、床板の軋む音が大きく反響するのに、生徒たちで一杯になると、適度な反響に落ち着くのが、毎度のことながら不思議であった。

 しかし唱歌でなく音楽の勉強となると、もう一つ別の不思議な体験をする事になる。あのシャープ一つがト長調というのが、さっぱり理解できないのだ。
 これは算数の新しい問題が分からないというのとは、全く違った質の分かり難さであった。授業の後で、良く分かったという友人の説明を聞くと、言っていることは分かるのだが、そもそもト長調というものが何なのか、という疑問は一向に解決しないのだ。分からん、分からんと言っているうちに、シャープ一つがト長調という一句は自然と丸暗記してしまうから、テストは正解できるわけだが、それでも分からないものは、分からないのであった。
 さらに不思議なのは、こと音楽に関する限り、宿題をしていかなくても先生に叱られない、という事実であった。夏休みには『夏の友』という宿題帳があった。学校の授業の進度はいつも若干遅れ気味であるから、まだ習っていないところが出題されていたりする。でも慌てることは無い。近間にいる誰に訊ねても丁寧に教えてくれた。私の場合は、旅順陥落・提灯行列の祖母に聞けば、それで事足りた。漢字であっても、九九であっても、都道府県名であっても。ところが音楽に関しては誰も分からないのだ。さっぱり要領を得ないまま、たいてい音楽のページは白紙で提出したものだ。
 先生も一切それを咎めなかった。音楽以外の教科では絶対にあり得ない事であったのに。

 今となって思うのだが、何故シャープ一つがト長調なのかという疑問は、何でも良いから楽器に取り組めば自然と解消される。楽器を扱うというちょっとした豊かさが、戦争によって奪われた事が根本原因だったのでしょう。教育課程の作者は楽器の使用を盛り込んでいたのだが、まだまだ戦後、諸般の事情でそれが出来なかったのだ、そう総括しておこう。

 この様に小学校時代の私の音楽事情はのんびりしたものだった。
 2年毎に変わる学級担任の先生にも恵まれた。1・2年の先生は、凛とした美しい言葉で喋られる若い女の先生だったが、結婚して姓が変わり、2年生の半ばで退職された。
 引継ぎされた先生は、学校で一番怖いと噂されていた先生だった。生徒たちは、あの先生が新しい担任になるのは厭だなと、ひそひそ話し合ったものだ。まだ青年の面影を残す大柄な人で怒ると大層怖かったけれど、授業が始まると、これが面白いんだわ。生徒が喜ぶと自分も満面の笑みを浮かべて満足される。3・4年と引き続いて担任していただいたおかげで、わがままで、弱虫で、可愛げがなく、協調性に欠ける、と行動の評価良いところなしの私も、自信を持って学校に行けるようになった。
 この先生はクラス全体の中で叱責を与えた生徒には、その直後必ず自分の机の側に呼び、きちんと椅子に座らせて、その子の言い分を聞くのであった。この時にはどんなことを言おうが、口答えしようが、全く怒らないのであった。本当に腹を立てて怒るのだけれど、決して生徒を追いつめたりしないのである。

 5・6年生を受け持っていただいた先生は、逆に全校で一番優しいと言われた年輩の先生だった。ところが授業が始まると、とんでも無い、一番厳しい先生だった。生徒が、間違った言葉遣い、不真面目な文字遣い(上手い・下手で無く)、生半可な知識を振りまく、などの行いをすると、授業はしばしば中断し、それの矯正が行われた。しかし矯正にどれだけ時間を割こうが、黒板の左上から(国語・社会は右上から)始まった丁寧な板書は、授業終了時には黒板右下(同じく左下に)にきっちりと収まり、その節の話は終了するのである。これは見事な芸というしか無かった。
 芸といえば、先生というのは寄席の落語家のようなものだ。どの様な客がいようとも、どんなヤジや嫌がらせで邪魔されようが、お客を自分の流れにのせて、受け持ち時間内に下げまでもって行く。この先生は授業参観の時など、やんちゃな児童から、おおっ、先生今日は一張羅の背広や、とかけ声が掛かると、今日はご父兄の方もおられますので久々に背広は、と言いながら背広の前を拡げ裏生地を見せ、ごらんのように継ぎが当たっておりません、と応じるのだ。落語家そのものであった。

 この二人の先生に続けて担任していただければ、自分の頭で考えよ、本質は外観と異なる、大多数が正しいとは限らない、という真理追究の基本姿勢が、自ずと身に付く仕組みになっていたのである。私は、非常に幸運であったと言える。この時代でも、全ての先生が有能であったとは考えられないから。

      *       *       *     

 だが小学校も高学年になると、世の中の事情が少しずつ変わってくる。これから先、教育環境・音楽環境が激しく変化していくのではないか、と思われる社会の変化が現れる。実際中学校に進学すると私たちの教育環境は激変するのだが、確かにそれの予兆であった。

 その第一はテレビの出現である。
 初期の頃のテレビの思いでは、多くの人が語っているので繰り返さない。ここではブラウン管の前の、あの垂れ幕のような覆いについて少し述べよう。
 あれは鏡や鏡台からの連想だったのでしょうか。
 祖母は鏡には魔力があり、使わないときは覆いをしておかないと幽霊が映る、と真顔で話していた。確かに夜中に目を覚ました時、当時の暗い照明の下、鏡の中に突然自分の姿を見て、ギョッとする時がありましたね。
 覆いの上げ下げは、いま物を使っている、いまは使っていないという、けじめを付ける儀式的動作になっていたと思う。人が使わない間は、物にも休んでいただく。全ての物に神性が宿るとして物を大切に取り扱う、アミニズム信仰の現れだったのかもしれない。
 それともブラウン管の垂れ幕は、映画館の緞帳のテレビ版だったのでしょうか。音楽や演劇が始まる時には、それでは幻想の世界へどうぞと誘い、終了時には現実世界へ連れ戻し、やんわりと着地させる。そう言えば紙芝居にも観音開きの扉が付いていました。何時までも幕が下りず元へ戻れないなら、HALに宇宙空間へ放り出されたボーマン船長と同じだ。絵画に額縁があるように、歌舞音曲には幕開けと幕引きが必要なのだ。

 第二は、街が喧しくなり始めたこと。
 自動車の台数が増え、市街地では渋滞という現象が起こり始める。数珠繋ぎの自動車の列からクラクションが吼え、すす臭い排気ガスが遠慮なく側を行く人に吹き付けられる。市電は身動きがとれず、車内も身動きがとれず、すし詰めのまま梅田までのたった4キロに1時間以上も要した。歩くより遅いのである。その頃社会啓蒙ポスターを書くという図工の時間があったので、両手で耳を覆って騒音に耐えている人を画面一杯に描いて「街を静かに」と文字を入れた。先生がどこかのコンクールに出品してくれた。これが入選したのである。私は天才的に絵が下手で(これは後述)何かに入選して例え鉛筆の一本でも賞品として頂けたのは、前にも後にもこれ一回切りである。余程腹に据えかねていたのであろう。
 同時に道路工事が盛んとなる。圧搾空気によるハツリ機(エアー・ハンマーとか呼んでいた)のすざましい騒音が、あちこちで発生することになる。私たちにとって最悪だったのは、難波高島屋の前のJの字にカーブしている道路の下に、東洋初と銘打ってナンバ地下センターの建設が始まった事である。
 工事は路面をハツル事から始まった。不幸なことに私たちの教室は、下方45度の方向に工事現場を俯瞰する位置にあった。公害などという概念すらない時代、音を遮る物も無く騒音直撃の中、授業は進められた。夏場でも窓を閉め切った。先生は騒音に負けぬよう精一杯の大声で喋られたが、時々ふぅとため息をついて話を中止された。騒音のピークが過ぎるまで、クラス全員が両手で耳を覆い、ひたすら耐える時間が続いた。工事は完了まで2年近くを要したのである。

 第三に、ステレオLPレコードが普及し始めたこと。
 戦後とは次々と普及する電化製品を我が家にも備えることが、幸福という名のバスに乗り遅れないことであった時代。これらの商品群に限り、購買決定権はお父さんの側にあるようだった。月賦販売という仕組みに助けられて。月々千二百円でええんや、と持ち帰った商品を前にお父さんが言うと、お母さんも渋々承諾せざるを得なかった様である。
 私の家庭で言えば、ビクターの小さなステレオ・プレーヤーが置かれた。その後約半年かけて父が買ってきたレコードは、2枚の30センチLPを含め、合計10枚ほどのものであったが、私は忽ちそれに熱中した。殆どがモノラルの廉価盤だったけれど、私には驚異の音響であった。今までのSP盤のように、シャーシャーという針の音の向こうに、かすかに音を聞くのでなく、音が前へ前へとせり出してくる。一度針を乗せれば、30分近く音楽が続くのだ。機械の後ろへ回って背面ボードの隙間から覗くと、いくつもの真空管が鮮やかな橙色に発光しており、それは魔法の小箱のように思えた。

 当時はジャケット裏の解説も生真面目な曲の説明・解析で、主要主題の楽譜が添えられていることも多かった。家には父が妹の為と言って、古道具屋で見付けてきた足踏み式オルガンがあった。音の出ないところや押すと戻らない鍵盤もあったけれど、西洋音楽を楽しむには鍵盤楽器が最大の武器でしょう。私はジャケット裏の楽譜を、音符の一つ一つをなぞるように弾き、それができると今度は、ウン・ター・ター・ターと正確なリズムに乗せる、という作業を根気よくくりかえした。するとそれは突然音楽になるのだ。
 あのレコードから流れ出てくるメロディーと、全く同じものが自分の指先から出てくる。この快感は堪らない。私は忽ちの内に、#一つはト長調、の意味を理解し、和音の意味も理解した。そのうちに楽譜が付いていなくとも、レコードのメロディーを丸暗記し、忘れるまでにオルガンの鍵盤をなぞると、それがどの調性のメロディーなのか見当が付くようにもなった。不思議なことに手元にあるレコードからは、学校でおなじみの、#一つはト長調のメロディーが、なかなか検出されないのである。♭一つはへ長調、は結構あるんだけどね。

 この様に、学校の授業以外に西洋音楽を知るルートが出来た。この新ルートは豊かな実りを大量に運搬できる道筋であった。子供は児童・生徒であると同時に、音楽産業の顧客となりうる時代が来たのだ。学校教育の現場は変化し難いけれど、音楽産業は市場の拡大を目指してどんどん進化する。先生は去年と同じやり方で生徒を制御できると信じているが、児童・生徒は「音楽シーン」の先端にいる。だから学校教育がビートルズやユーミンで数周遅れの武装をしようが、まだ十代の歌姫一人に木っ端微塵に粉砕されてしまう。
 このズレのおかげで中学校では、音楽の教師と抜き差しならぬ対立関係に陥る事となる。そんな将来のことは予見できるはずもなく、私は学校から帰るとレコードを聴き、オルガンをいじり、どうにかして自分でレコードを買いたいものだと、真剣に考える様になっていた。

           ―― 壱 ト長調の不思議 (了)  

           ―― Page Top へ
           ―― 次章へ
 ◆◆◆ 2024/03/31 up ◆◆◆



『一握の知力』 TopPage へ


『山之辺古文書庵』 総目次 へ


『味覚を問うは、国賊!』 目次へ






私の通った小学校は、大阪はミナミ(南)高島屋の前から ……

大阪市立精華小学校
東北東上空から西南西方面を俯瞰
左上は難波高島屋
校舎の向こう側、戎橋筋沿いに校門があった
現在は家電量販店になっている


夏なら氷屋が氷を鋸で引く音が ……

氷運搬用の自転車
タイヤが太くて荷台が大きい
"特車"と呼んでいた


ダンスホールの屋上でバンドマンが練習するトランぺット ……

紳士の社交場『ユニバース』
左の入り口がキャバレー
右の入り口がダンスホール
これは宣伝用夜景写真
塗りかえられているが、建物は昔のままである
実際はもっとゴミゴミしています


国鉄湊町駅の操車場で ……

国鉄湊町駅
現在は地下に潜って、JR難波と改称
手前のどぶ川は道頓堀
この東300メートルに戎橋が架かっていて、某球団が優勝すると多くの人がダイブする


夕刻ともなれば大阪球場からは ……

大阪球場
狭い敷地に建っているので、内野席の傾斜が極端に急だった
左は南海電車難波駅の屋根


落語の『目黒のさんま』 ……
↓ 画像クリックで再生

三代目三遊亭金馬


木下恵介監督・高峰秀子さん主演の松竹映画『カルメン故郷へ帰る』 ……
↓ ポスタークリック

田口先生がオルガンを弾く場面です


校舎は明治初期のものであったが、 ……

これは私の間違い
開校は明治の初めであるが、校舎は昭和五年に改築されている
左手の、手前に出っ張った部分に音楽室があった







































その第一はテレビの出現である。 ……

白黒14インチが標準であった
ノートパソコンのディスプレイぐらいの大きさである
これを
一家で観て、
お金持ちの家の窓から観て、
街頭テレビで観た。
皆、目が良かったんだ!

































第三に、ステレオLPレコードが ……

ステレオ電蓄と称した
回路は真空管
ラジオはAM放送のみ


2枚の30センチLPを含め ……

ユージン・オーマンディ
フィラデルフィア・プロムナード・コンサート
今でも机の隣のキャビネットにあります。

ルドルフ・ケンペ
ウィーンの朝・昼・晩
すでに手元にはありません
オークションに出品されていたものから、画像をコピー。