六  セザンヌの空        



 沢崎君はこの作文に実名で登場した最初の人物である。ある時期彼と私は、物とその影のように、ずっと一緒に行動していた。しかしお互いが無二の親友だと認めあっていたわけではない。外見でも気質でも、二人の間には何の共通項もなかった。

         (沢崎君)       (私)
 外見      色白・長身       色黒・小柄
 DNA     弥生系         縄文系
 成績      中の下         中の上
 得意技     ヒット・アンド・ウェイ カウンター狙い
 好きな行進曲  軍艦マーチ       道頓堀行進曲
 女の子の好み  年上・深窓の令嬢    年下・掃き溜めの鶴

 しかし共に行動したのには、はっきりとした理由があったのです。今となればとても良く分かる。少なくとも私の側の理由は。

 第一に、彼は絵が上手かった。
 この年代、小金持ちの子弟で油絵を習わされているのが結構いた。彼らは不思議なことに、学校で水彩画を書くときにも、油絵の先生に教わった通りのやり方をしたがるのだ。水彩絵の具を殆ど水で溶かないで、画用紙にべっとりと塗りたくる。描いている時は絵の具がペースト状であるから、ちょっと見、油絵の具の様に艶っぽく見える。しかし直ぐに乾いて干涸らび、パリパリになってひび割れる。画用紙もしわくちゃになってしまう。
 赤蝮先生は彼らの絵を見ると、何も言わずにサッとその場を立ち去った。先生が、こりゃ手が着けられんわと逃げて行ったのを、彼らは、自分たちの絵が上手いから直すところが無いんだ、と取り違えていたようだ。思い出すに、水彩絵の具には『サクラ・マット水彩』と書いてあった。あのマットとは、その上ででんぐり返りができるという意味では無く、艶消しの・テラテラ光らない、という意味じゃないのかな。どちらにしても一回で絵の具のチューブを使い切るような無駄遣いをして、小金持の子供である事を自慢していたとしか思えない。
 一方、沢崎君の絵は正統的な水彩画で、まさに惚れ惚れするほど上手かった。ずっと後年、安野光雅さんの津和野風景などを観たとき、もし沢崎君が今も絵を描いていたら、きっとこんな絵を描いているだろうと思ったものだ。

 第二に、彼はクラシック・ギターが上手かった。
 彼は、ソル、タレガ、と言った古典的な小品や、古賀メロディーなどを弾いて聴かせてくれた。ナイロン弦が普及する前のスティール弦のギターでしたね。反響がほとんどない和室でも、それは美しく響いた。畳のない廊下や天井の高い階段で鳴らすと、珠玉の音色が湧き出た。彼は私に、生の楽器の音がどんなに美しいかを教えてくれた、最初の人なのだ。

 それでは、沢崎君は誰に水彩画やギターを教わったのだろう。間違いなくお父さんですね。この点は大事な点。次の節で詳しく。

 第三に、彼は人と群れる事を好まなかった。思春期にありがちな事だけれど、群れて騒いで焦燥感をうすめ不安から逃れる事を、彼は望まなかった。今風に格好よく言えば、自分の問題と正面から向き合っていたのである。

 二年生になり、本校へ通うようになってすぐの頃、私たちのところへ番長が(私たちは、そう言う言い方をしなかったけれど)子分を五人ほど従えてやってきた。
 沢崎、お前この頃えらい態度大きいんとちゃうか。
 一寸屋上まで来いや。
 要するに、独立派の存在は認めない、我が軍門に下れ、と言っている訳で、すんまへん、ちょっといちびり過ぎました、堪忍しておくれやす、と言えば済むのだ。だが果たして沢崎のやつ、素直にそう言うだろうか。もし逆らって番長の手が出るような展開になれば、俺も殴られる訳や。まあ良いか、これは挨拶みたいなもんや。何れ一回は通らんといかん関門や。

 屋上で番長が凄む。
 舐めとったら承知せんぞ、このガキ。
 子分どもは、番長が無党派・独立系の悪ガキをどうあしらうか、お手並み拝見を決め込んでいる。番長とてドジは踏めない。番長張るのも辛いことだね。彼は家伝凄みの技を次々と繰り出す。が、沢崎君は一言も口を利かない、動きもしない。しばらくすると彼は『レイン・マン』でダスティン・ホフマンがやったみたいに、片方の肩を持ち上げ、もう片方の肩を下げ、身体を不自然に強ばらせる。それが段々ときつくなる。やがて半眼になり、引きつった笑いを浮かべる。ニカーッ。
 声変わりして間なしの子供が、八尾の浅吉親分みたいなドスの効いた声が出せるのは、ウルトラマンと同じ三分程度かな。自分の限界を見極めているのが、子供とはいえ番長の器量。形勢芳しからずと見るや、自分の方から話をまとめにかかる。
 もうちょっと大人しゅうしとったら、それでええのや。
 どや、よう分かったか。
 番長、分かったか、どや分かったか、と駄目を押す。相手は、ただ一言、分かりました、と言えば済むのだ。たいへんな譲歩である。
 
 しかし沢崎君は黙したまま。親分もう一度、分かったか、分かったか、を繰り返す。沢崎まだ無言。もう納まりがつかない、ほんなら殴るぞ、と親分が間を詰める。
 その時、
 
 沢崎 (小声でぽつりと)分かった、…… ぞ。
 番長 (ホッとして)  よし、ほんまに分かったんやな。
 沢崎 (放送禁止用語で)分かったぞ、…… ×××。
 番長 (驚いて)    何やと。今、何というた。
 沢崎 (ハッキリと)  分かったぞ。
             お前の×××臭いぞ。分かったぞ。
    (大声で怒鳴る) 前の×××、臭いぞぅ!。
             臭いぞーーー。
 番長 (しばし沈黙)  …… ……
    (狼狽えて)   きっ、きっ、気色悪う。
             もうこんなアホ相手にすんな。

 覚えてやがれ、と後ずさりし去っていく面々が階段の方へ消えた後、彼は言った。ふん、アホめが。
 そして私の方を向いて、お主にも心配かけたのう。
 
 悪ガキでいて、しかも孤高を守るというのは、かくの如く困難なのだ。だから群れなす一匹狼(?)が出来てしまう。でもこの時代の日活映画をみると『元気いっぱい暴れ者』とか『夢を抱いた渡り鳥』とか、結構類似品あります。この題名、信用しないでね。調べた訳じゃないから。
 この様に沢崎君は見事に番長を振り払った。次は私が同じ場所で、美術の教師と渡り合う事になる。しかし私は、彼ほど旨く立ち回れなかった。

      *       *       *     

 二年生最初の美術の実技は、本校屋上へ上がって周辺風景の写生。本校は現在アメリカ村と称されている場所にあった。現在は移転して跡地に商業ビルが建っている。
 数クラス合同の授業だったので、クラスの違う沢崎君が一緒にいた。狭い屋上へ数クラスの生徒が解き放たれるものだから、芋の子洗う賑わい。場所を選んでいる余裕はない。とにかく座れるところへ座る。駅前のパチンコ屋と同じ。画用紙は休憩時間の間にクラス委員が配っているので、忙しない連中は遮二無二描き始めている。もう描くもん決めたんか、ちょっと焦りすぎやで。
 さて、と周囲を見渡しても、絵に描ける風景ではない。第一に高さが悪い。見えるのは灰色の屋根ばかり。東を向けば、大丸・そごうの上半分が見える。だがそれをテーマに詳細を描くには、少し離れすぎ。西は屋根瓦の彼方、工場群の煤煙で雲とも霧ともつかぬ灰色の空。南側の眼下には、白昼堂々覚醒剤のやりとりが行われている通称三角公園。申しわけ程度の植林が冷たく湿った感じで侘びしい。

 沢崎君は現実の風景を一切無視して、彼の心の中にある美しい町並みを描き始めている。左から三、右から七、の位置に街角を置き、左と右の消失点に向かって町並みが続く。薄い黄色のおつゆ書きから始め、少しずつ色を濃くして全体を浮かび上がらせる。一旦紙を乾燥させる間に、たくさんの色を少しづつパレットの仕切に押し出す。今度は、一番手前の街角の家から順次奥の方へ、一軒ずつ家を仕上げて行く。手前は鮮やかに、奥へ行くに従って絵の具が混ざって濁り、色の遠近法が駆使される。絵はどんどん仕上がっていく。
 何時までも見とれている訳にはいかない。改めて風景を見渡す。やはり灰色ばかりだ。しかし絵心に貧する私にも霊感が訪れることがある。赤蝮先生の、上手い人を真似よ、という言葉は本当だった。沢崎君の絵が描かれていく課程を見ていると、彼が描き分けようとしている色彩の緻密さが理解できる。
 その眼で見ると、今まで灰色一色に見えた風景のあちこちに、様々な色が隠されているではないか。屋根瓦は確かに原初の土の色を残しているし、鉄材からは赤錆色が噴き出ている。そして煤煙の空からは、後ろの青がほんの少し透けて見えるではないか。これだ、これを描こう。この風景をあちこちに少しずつ別の色を潜ませた灰色のグラデーションで。私は画集で見たターナーの風景画を思い出し、次に水墨画を思い浮かべ、うん、これの中間を狙えば良い、と当たりをつけた。
 これは素敵な思いつきだった。私は生まれて初めて、絵を描く前に描きたいものを心に描く事が出来た。まず隠された色を少々濃く塗った。これも画集で見たシャガールを思いながら、色と輪郭は多少ずれてもいいと考えた。次に灰色を、重力の上下が逆転しないように考えて、上空から薄く塗り始めた。

 この時、2年生の美術担当教官Oが階段から姿を現した。私の視界の隅でOは周囲を一別すると、我々の姿を認め、ゆっくりとこちらへ歩いて来るようだった。悪ガキの沢崎君に少しばかり小言をぶつけて、自分がたっぷりと遅れて授業に来た心のやましさを打ち消したい、とでも考えたのだろう。しかし今日は安心だ。彼の絵は誰が見ても文句の付けようがない。案の定、彼は沢崎君の絵を見た瞬間、固まっている。ウッ、上手い、こんなはずでは …… 。
 しかしOは年期の入った虐め教師。直ぐさま攻撃対象を私に変える。私の画用紙を見ると、灰色に塗られた空を指さし、こう叫んだ。

 な、何じゃあ、こりゃああ!
 
 松田優作さんの有名なドラマは、ずっと後年の事です。だからこれはギャグではない。本気で怒った様な声を出す。しかし私はその声に、単なるやる気のなさを聞きとっていた。ちょっと逆ろうたれ。

 はぁ、何じゃ、て何がですか。
 こっ、これや、これ。空や。空はそんな色か。
 そんな色かて、 …… 。
 こんな色やと、思います。曇りですし、スモッグもひどい。
 空が灰色ちゅう事があるか。空は青色に決まっとるやろ。

 これは私の記憶にある珍問答集の、他を圧倒的に引き離しての、だんとつ1位だ。沢崎君はうつむきになって笑いを堪えている。こんなアホ、相手にするな、と眼が言っている。しかし私は折角のアィデアの出鼻をくじかれ、はなはだ不愉快である。ええわ、もっと言うたれ。
 センセこの間の授業で、見た通りに描け、思い切った表現せえ、と言わはったんとちゃいますか。今、空の色は灰色です。私はその通り描いとります。あのセザンヌも、空は灰色や、と言うとります。

 Oはそれに対し、セザンヌはそん事は言うとらん、とも、セザンヌのその言葉の意味はこうじゃ、とも、答えなかった。ぶるぶる身体を振るわせ、呼吸を荒くするばかりであった。怒りを爆発させようとしていたが、怒りを表現する適当な台詞は、彼の言語中枢には登録されていなかった様だ。なぜ教師は生徒をいたぶることが大好きなのに、ちょっと反論されるとあれ程までに激昂するのだろう。

 彼は画用紙の前にしゃがみ込むと、それ貸せ、と私の筆をひったくり、青の絵の具を、ニュル・ニュル・ニュル・ニュル、と絞り出した。あっ、センセ、それ空色と違う、水色や。と心中で叫んだが、何色であれ、そんなぞんざいに絵の具を使うたらあかんわ。うちは小金持や無いから、そう何遍も絵の具は買うてもらえんのじゃ。あー、まだ絞っとる。ニュル・ニュル・ニュル。
 Oは、素直でないとか、何を考えとるとか、心構えが出来ていないとか、さんざん悪態を突きながら、画用紙の上半分を水色でべったり塗りたくってしまった。赤蝮先生の筆使いは行書風の柔らかなものであったが、Oのそれは金釘流であった。
 けっこうな時間をかけて絵の修正は終わった。B級西部劇のワイアット・アープが相手を叩きのめしたあと、怪我がないか、返り血を浴びていないかを確かめるために、自分の両手を見る。そんな風にOは指先の汚れを左右見比べた。まだブツブツは止まない。しつこいぞ、終いにどつかれるで。やっと腰をあげ、又してもワイアット・アープ並みに、がに股で去っていった。次なる標的を求めて。オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン。
 沢崎君は、アホは相手にするな、と小声で言い、次に、あっはっは、と大きく笑って見せた。Oは声の主を確かめようと振り返ったが、沢崎君が真顔にもどり描画に熱中する振りをする方が、一瞬早かった。西部劇なら保安官が撃たれているタイミングであった。
 
 私の水彩画は灰色の上に水色を塗られて、無惨な姿になっていた。田舎のバスの屋根やがな、汚れきっちり落さんと上にペンキ塗りよった、修復不能や。私は描画的感覚からでなく(もともと、それは持ち合わせていないが)単なる意地で、その上にまた灰色を塗った。とうとう毛染めに失敗した白髪頭になってしまった。

 Oは教頭になってもおかしくない年齢だったが、学年主任にもなっていなかった。教科内容に関する力量は無く、見てくれも悪く、人望もなく、押し出しがきく訳でなく、生徒に嫌われ、寒さの夏はおろおろ歩いていた。どうやら教師仲間からも疎んじられていたようだった。
 大人になってから来阪した人に特有の、中途半端な関西弁を喋った。これを馬鹿にするのが大阪のいけずな風土だ。発音が曖昧で、特に、アと、オの、区別が付きにくかった。それなのに式典の司会を押しつけられていた。卒業式は特に惨めで、仰げば尊し、が、大毛歯十と四、としか聞こえなかった。生徒の間から失笑が漏れるのを彼が聞かなかったはずがない。他の教師たちも聞かなかったはずはない。晴れの舞台でわざと恥をかかせる。つまり教師間で彼は虐められていたのだ、と思う。
 それをOは、生徒を虐める事と、徹底的に仕事をさぼってみせることで、耐えたようである。生徒に対する虐めは他の教師の目の届かぬところで行われたが、さぼりは公然と行っていた。俺は不満足だという事をそれで表現していたようだ。そして教師仲間はそれを容認していた節がある。虐めに対する埋め合わせか。

 ある日私は、常にOが授業に遅れて現れ、おまけにお小言で前半を潰してしまうことに業を煮やし、教卓の横まで進んでいって抗議したことがある。先生、宿題を忘れて来たから全体の進度が遅れると言って説教をされるが、先生の遅刻が15分、説教が30分では、もっと進度が遅れますよ、と。
 しかしすぐに私は気付いた。彼にとっては、生徒を虐める事が快楽であるように、生徒から反抗を受けることも快楽なのだ。仲間とうち解ける事が出来ず、しかるべき社会的関係が築けない人は、反目しあい、攻撃しあう、ねじれた擬似的社会的関係によって、やっと自己実現を果たす。真摯に接しようとする者こそ「共依存」の悪しき循環に取り込まれてしまう。この人たちはつき合ってはならぬ人達だ。他者に取り憑くのは物の怪だけではない、人間だって取り憑くのだ。避けて通るに如くはなし。沢崎君流に言えば、アホがうつる。さっさと、おさらばだ。
 私たちの判断は正しかったようだ。幸い美術の2時間続きの授業は午後。課題はさっさと済まし、真面目のお兄いさんに提出を委ねて早引けや。家へ帰って漫画でも書こか。それとも今からやったら、大和川まで自転車こいで、魚釣りできるわ。



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 ◆◆◆ 2024/04/06 up ◆◆◆



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『味覚を問うは、国賊!』 目次へ






水彩絵の具には『サクラ・マット水彩』と

昔のがこれ
チューブは鉛製だった


安野光雅さんの津和野風景などを

安野光雅『津和野』(岩崎書店)より『機関車』 


同『沙羅の木』


ソル、タレガ、と言った古典的な小品や、古賀メロディーなどを

Fernando Sor: Les Adieux op. 21

Francisco TARREGA - Lagrima

懐かしの古賀メロディー

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Fernando Sor(1778〜1839)
フェルナンド・ソル


Francisco Tarrega(1852〜1909)
フランシスコ・タレガ


古賀政男(1904〜1978年)


『レイン・マン』でダスティン・ホフマンが

"Rain Man"(1988)


この時代の日活映画をみると



本校は現在アメリカ村と称されている

校舎跡にビッグ・ステップという商業施設が建っている
もうチョット気の利いた名前、なかったんか!


東を向けば、大丸・そごうの

これは当時の風景


西は屋根瓦の彼方、工場群の煤煙で

スモッグという言葉ができた頃だ


ターナーの風景画を

『雨、蒸気、スピード グレート・ウエスタン鉄道』


シャガールを

『ダフニスとクロエ』


あのセザンヌも、空は灰色や、と

『サント=ヴィクトワール山 と シャトー・ノワール』















B級西部劇のワイアット・アープが

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"My Darling Clementine" (1946)
この映画はA級です
監督は、あの John Ford