【港のケンジロウ 大牟田 三池】   profil



港健二郎(みなと けんじろう)
映画監督 脚本家

映像づくりを生業にして50年。

劇映画、
ドキメント番組、
PR映像と
様々な分野の映像を制作。

それにともなうシナリオも
ほぼ自前。

終生のテーマは、
三井三池闘争の完全映画化。

映画制作中に世を去るのが理想。




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   002 2021/03/04




 私の原点(その1)


 「作家の作品創作は、所詮、その原点を繰り返し語っているだけだ」とも言われる。
 私も一応は「映像作家」のはしくれ。
 その原点とは?

 私は、1947年(昭和22年)8月22日。福岡県大牟田市の炭鉱社宅で生まれた。二歳上の兄・健彌を北朝鮮・新義州からの引き揚げで亡くした後に生まれた子どもだったので両親はじめ親戚を含めて大切に育てられたと思う。父は、三井鉱山の職員で、暮らしに困ることはなく、普通に伸びやかに育ったと思う。性格は、一人っ子ということもあって内向的で繊細。弱い部分もあったが、小中を通して、学級委員長を通すなどリーダー的側面もあって、今の「監督」としての映像づくりに必要な資質は備わっていたような気がする。

 勉強は数学がからきしダメで、現代国語や歴史・地理が大好物。音楽も好きで中学3年生から高校時代は、ブラスバンド一筋。周りは、音楽大学に行くものだと思っていたようで、私も密かに、それを夢見ていた。今思えば、ただの「棒振り」だったが、生意気にも指揮を担当しいたからだ。ところがである。ある練習時のこんなやりとりが、大袈裟にいえば私の人生を変えた。演奏が終わって、ふむふむまあまあかなって思っていると、一級上の先輩が私に声をかけた。彼はアルトという中音部の金管楽器の担当。行進曲などのリズムを刻む役割のパートを受け持っていた。「港!俺、今、半音上げて吹いたけど分かったか?」。立ち往生する私。ピアノやバイオリンも弾けず基礎的な音楽教育を受けた訳でもない私に分かる筈もないのだが、その屈辱感で、私は音楽への道を諦めたのだ。

 ではと、文学に沈溺したかというとそうでもない。家にあった日本文学全集で石川達三などを拾い読み。夏目漱石や芥川龍之介のような文豪の作品は代表作を齧った程度。そんな文学的教養の乏しさが、今日に至る私の大きな欠点ではあるのだが、今なお大きな影響を与え、私の創作意欲を?き立てる「原点」ともいえる大事件に遭遇していた。小学6年から中学1年にかけて。1959年から60年。時代は大きな激動を迎えていた。(続く)





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