【港のケンジロウ 大牟田 三池】   profil



港健二郎(みなと けんじろう)
映画監督 脚本家

映像づくりを生業にして50年。

劇映画、
ドキメント番組、
PR映像と
様々な分野の映像を制作。

それにともなうシナリオも
ほぼ自前。

終生のテーマは、
三井三池闘争の完全映画化。

映画制作中に世を去るのが理想。




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   003 2021/03/10




 私の原点(その2)


 その日は晴れていた。桜も風にそよぐ・・・
 昭和35年春4月、私は金ピカの学生服で大牟田市立松原中学校の正門に入った。
 校庭にはこの日,入学する中友小学校と大正小学校出身の生徒たちが整列。私たちの隊列が、上学年を圧倒する。なにせ、昭和22、3年生まれ、ベビーブーマの登場なのだ。
 そんな中で、私は新入生を代表して「生徒宣誓」を読む。この年は、中友小の番で、私が後期の生徒会長を務めていたからだ・・・



 今度、ブログを書くことになって本当に久しぶりに思い出したのだが、一歩、校門を出ると大牟田の町は{戦乱}の最中にあった。
 この入学式から10日ほど前に、四山社宅正門にピケを張っていた久保清さんがスト破りの右翼に刺殺され、その局面が劇的に転換した三井三池争議の最中であったのだ!


  久保清さんの遺影と弟さん

 この争議について語り出したら切りがない。あの松本清張が、あるだけの資料を集めながら、遂に執筆に至らなかったという日本史を揺るがせた大事件。
 ただ、一言でいうと、「エネルギー源が石炭から石油に替わろうとする時代背景の中で、日本を『石油漬けの国』にしようとする国際金融資本とアメリカ支配層の意図を受けた日本の独占資本と支配層が、この国策遂行の『障害物』とみなした三井三池労組破壊に乗り出し、当時、『総資本対総労働』と呼ばれた一大政治決戦」であった。
 時、あたかも日米安保闘争の年でもあり日本中が騒然。戦後日本の進路を決める結節点の年ともなった。                                        
                                          
 その頃、大牟田の町には警察機動隊の姿があふれ、最近亡くなったシンガーソングライター・横井久美子さんが歌ったアイルランド民謡「私が愛した街」を聞くたびにその情景を思い出す。

  今度帰って目をうたぐった 酒場は焼け煙が舞い 
  なつかしいガス工場には 兵隊がたむろしていた 
  鉄条網がはりめぐらされ 戦車と銃剣の街に
  軍隊にひざまずいた 私が愛した街・・・

                                         

 当時、私の父は、三井天領病院の下級職制。三池労組に敵対するスタンスであったこともあって私も、この闘争には批判的。細かな経緯は忘れたが、「争議終息を求める」市民デモに参加。人垣を組んでデモ隊を迎えた労組の人に「子どもは、こんな処に来るんじゃない!家で勉強しとれ!」と怒鳴られ、それが、大きなトラウマ。
 おかげで、大学時代初期は、「日本学生同盟」という民族派学生運動に参加する動機ともなった。いわば「政治的青年」に成長していた訳で、三井三池争議が、私のその後の創作活動というか、映画の道に進む具体的なきっかけとなったのは、大学時代のある先輩との出会いがあってのことであった。(続く)

 「私が愛した街」横井久美子訳詞を、愛知のうたごえ「ネットでうたごえ喫茶」でお聴きいただきたい。






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