【港のケンジロウ 大牟田 三池】   profil



港健二郎(みなと けんじろう)
映画監督 脚本家

映像づくりを生業にして50年。

劇映画、
ドキメント番組、
PR映像と
様々な分野の映像を制作。

それにともなうシナリオも
ほぼ自前。

終生のテーマは、
三井三池闘争の完全映画化。

映画制作中に世を去るのが理想。




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   004 2021/03/18




 私の原点(その3)


実は、親友から言われていることがある。
「監督、小説書きなはれ。筆は早いし、面白い。新機軸の小説、楽しみです」
ありがたい。そう。
ホンネのホンネは、文学の世界で生きたかったのかもしれない。


さて、その師匠。
学生時代に出会い巨大な影響を受けた。森清司郎さん。
同じ大牟田の出身。私が進学した早稲田一文の社会学ではなく、国文学。二年先輩で、徹底的に、「ものを表現する」ということを教えてもらった。
森さんは、俳人でもあり、俳句と映像の根幹との共通性や、その世界の広がりの豊かさに、彼の下宿先に押しかけては毎夜毎夜の桃源郷。
大酒飲みの私と、酒をたしなまない森さんとのコラボも理想的だったのかもしれない。
「アポロ的」VS「ディオニスソス的」という表現傾向の二大概念の教えなどは、今も深く心に刻まれている。

だが、私にとってもっと大きなことは、自分が表現すべき世界とは何かに目を開かされつつあったこと。それには、「お前は何者か?」という探究が欠かせない。
折しも私は、「恋の季節」。激しい恋愛に身を焦がしていた。彼女は、私の出身でもある三池高校の一級下。同じ大学の日本史科に入学してきた。たちまち恋愛関係に。同棲はしていなかったが、まさに南こうせつの『神田川』の世界。
あの歌の作詞者・喜多条忠は友だちの友だち。おまけに、私の下宿が神田川の傍にあったこともあって、歌のモデルにされたのでは・・・と噂したものだ。
事実は、喜多条自身の体験ではあったのだが、今もこの歌を聞くとあの時代の光景が切なく脳裏に蘇ってくる。



さて、くだんの彼女の父親は、大牟田の「染料」とばれた化学工場の幹部技術者で大阪大卒。
母親も、女優にスカウトされたことがあるというチャキチャキの江戸っ子。典型的な中産階級の
家庭育ち。大牟田は炭鉱地帯でもあるが、その石炭を使ってのコンビナート地帯でもあり、三池
高校には、そうした幹部職員の子弟も少なくなかったのである。

一方、私の父は、高等小学校卒。刻苦勉励を続け三井鉱山の職員に登用されていたとはいえ、れっきとした労働者階級の家庭。彼女の価値観との細かな違いが気になり、時折、剣呑(けんのん)な空気にもなった。
「白い家具のある家に住みたい」と彼女。今、思うと当たり前の願望だろうが、当時の私は、そんな言葉にも何故か苛立ちを募らせていた。

その頃には、右派学生運動の空疎で観念的な「理想論」に激しい違和感と嫌悪を抱くようになってはいた。といって、自分の中での強固な社会観を確立するまでは至っていない。

そんな私が、ある夜。衝撃的な文章に出会うことになる。当時発刊されていた週刊誌『朝日ジャーナル』に掲載された記事で、己の出目を鋭く抉(えぐ)るものであった。(続く)


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