【港のケンジロウ 大牟田 三池】   profil



港健二郎(みなと けんじろう)
映画監督 脚本家

映像づくりを生業にして50年。

劇映画、
ドキメント番組、
PR映像と
様々な分野の映像を制作。

それにともなうシナリオも
ほぼ自前。

終生のテーマは、
三井三池闘争の完全映画化。

映画制作中に世を去るのが理想。




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   005 2021/04/29




 私の原点(その4)


 あの夜のことは、今も鮮烈に覚えている。

 大学3年か4年だから、1968か9年。学園闘争が吹き荒れる激動の時代だった。当時、『朝日ジャーナル』は、いわゆるリベラルな問題意識を全面にかかげ、ストレートな主張を持った記事を多く掲載していた。
 そのなかに、三井三池における『与論(よろん)差別』を特集した記事があった。地元では「ヨーロン」とも言う、その蔑称は、私たちの一族に向けられたものでもあった。私の祖父母は、明治時代、鹿児島県の最南端の島・与論島から三池炭鉱に移住し、『新港町社宅』に居住。周囲からゲットー(ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区。第二次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。 アメリカ合衆国などの大都市におけるマイノリティの密集居住地をさすこともある。)の如く扱われていた。








                                   与論島

 それが、三井鉱山の分断統治政策であるのは自明ではあったが、「与論の末裔」の一人である私は、この記事を目にして号泣した。祖母の姿が蘇った。
幼き日、我が家に遊びに来た友人の前で、唇に指を立て沈黙を貫いた祖母。自ら喋るであろう南島の方言で、「与論出身」がバレるのを恐れたからである。祖母の息子、つまり私の父は、刻苦勉励の末に、三井から職員に抜擢され、「新港町」の与論長屋からの脱出に成功。大牟田市民に紛れた生活を送っていた。そんな父をも慮(おもんばか)った祖母の沈黙・・・
 この号泣は、私の立脚点は何であるかを、はっきりと自覚させる「通過儀礼」であったのかもしれない。その後、右翼的思想を涙とともにさっぱりと洗い流した私は、次第に「べ平連」、小田実らが組織した「ベトナムに平和を!市民連合」のデモにも参加する「一般学生」へと進化していくのである。
 そして、このこともまた、7年間付き合い結納まで交わした彼女との別れに至る大きなターニングポイントともなったのだと思う。

 映画をやりたい!そう思い定めた私は、したたかにも、「右翼学生」時代のコネを活かしてフジテレビへの就職を果たそうとしていたのだが、映画への夢冷めやらず、「鹿島映画」に入社。いわゆるPR映画づくりの助監督を皮切りに、社内での労働組合作りに奔走する中で、「がんばろう」の荒木栄に出会うなど、今に至る50年を超える「映画人生」を歩むことになったのである。
                                     




 5月2日(日)「港健二郎まつり」 みなさんのご参加お待ちしています。



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