【港のケンジロウ 大牟田 三池】   profil



港健二郎(みなと けんじろう)
映画監督 脚本家

映像づくりを生業にして50年。

劇映画、
ドキメント番組、
PR映像と
様々な分野の映像を制作。

それにともなうシナリオも
ほぼ自前。

終生のテーマは、
三井三池闘争の完全映画化。

映画制作中に世を去るのが理想。




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  № 007 2021/06/01




 港謙二郎まつり(その2)


 催しそのものは、私の映画「ひだるか」の主演でピアニスト・作曲家の岡本美沙さんの「5月のうた」「花を贈ろう」の歌唱指導もあって、とても充実したものだったが、私的には一つだけ残念なことがあった。


             (写真提供は、いのち見つめて事務局 北村好弘プロカメラマン)

 それは時間が足りなくなって、荒木栄の『地底(じぞこ)のうた』について語る時間がなくなったのである。
 『地底のうた』は、栄の最高傑作の一つ。「三池闘争の芸術的総括」とも言われ、日本の労働者が楽譜なしで歌える唯一の組曲としての評価も高い。
  この歌を、私が初めて耳にしたのも、1970年後半「青年映画人の会」の飲み会での席であった。略称「青映会」は、当時、映画のいろいろな分野で働く若者が集まっていたサークルで、創設者のMさんとNさんが、一気に歌ってくれたのである。
「地底」は、栄が1962年10月に亡くなる前年の11月に作られたのだが、この歌の成立の背景には、ある出来事とそこで採択されたある文章が大きな影響を与えたと思っている。
 では、その出来事とは何か?
 
 その年の7月末。東京世田谷で日本共産党第8回大会が開かれ、「三井三池闘争は日本の労働者階級の英雄的闘いであった」と称賛しつつ、長い党内討議を経て綱領・規約を満場一致で採択した。
その綱領の骨子は、「日本は米国に半ば占領された従属国であり、これとの闘争の必要性、そして日本独占資本との闘争の必要性を述べたものだった。そして、直接社会主義革命を目指さず、『反帝・反独占の人民の民主主義革命』を達成し、それから段階的に社会主義革命へと移行する。」
 それは、今日にも続く日本共産党の革命路線を規定したものだったが、この綱領路線に、栄は激しく共感したに違いない。三池闘争の火ぶたが切られる寸前の1959年2月に自らの意志で、積極的に日本共産党に入党していたのである。その年の10月、三池ではその後の三池闘争の厳しさを予感させるある事件が起きた。三井鉱山による三井三池製作所の分離独立で新組合を結成するという明らかな三池労組潰しに対して、栄は22名の仲間とともに三池労組に残るという確固とした姿勢を貫くのだが、そうした確固たるバックボーンを築いていたからであった。

 そんな栄の日本共産党の綱領路線への確信は、『地底のうた』に見事に反映されている。
「 ♫ 労働強化と保安のサボで 次々と仲間の命が奪われていく」の後のシュプレヒコール。
「奪った奴は誰だ!?三井独占。殺した奴は誰だ!?アメリカ帝国主義。」
そして、終章の有名な歌詞「スクラムを捨てた仲間憎まず」。

 この「仲間」の中には、三池労組から脱落した第二組合員だけではなく、前年の安保闘争で挫折し国政革新の戦列から離れていった少なくない数の青年・学生も含まれていたのではないだろうか?

 国民的統一戦線結成への呼びかけ。今でいう「市民と野党の共闘」への先駆け的な視点だと思う。
 その一方での労働者階級としての怒り。
  ♫ 労働強化と保安のサボで 仲間の命がつぎつぎと奪われていく・・・
 栄の死後ほぼ一年後に三池三川鉱で起きた炭塵大爆発!死者458名、CO中毒患者を多数ふくむ負傷者839名。何故刑事告訴されなかったのか不思議だ!?・・・それは、今なお語り継がれる明らかな企業犯罪であった!!!

 『地底のうた』が、時代を越えて歌われ、愛される生命力の謎を解くカギの一つは、そうした荒木栄の共産主義者としての熱い情熱と深い洞察力によるものではないか・・・と、私は思っている。




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