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人生は旅。 
知らない街を歩いてみたい 
知らない海をながめていたい 
どこか遠くへ行きたい 
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。

けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。

たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。

さて、どこまで放浪できるか ……






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 011  2019年8月28日

 笠置シズ子
    〜東京ブギウギをヒットさせた浪花のおばちゃん〜


 

 笠置シズ子。1914年生まれ、今もし生きていたら105才。私の年代でも笠置シズ子といえば、関西弁のおばちゃん女優のイメージしかない。女優の彼女がなぜ「家族そろって歌合戦(1966年〜80年)」の審査員をやっているのか当時子どもだった私には不思議だった。

 後年大人になって昔の白黒の映画を見て、「ブギの女王」といわれた大歌手だったと知る。それもリンゴの唄の並木路子と並び称される戦後を代表する歌姫だったと分かり。歌番組で審査員をする理由が理解できた。並木路子は「リンゴの唄」だけのいわゆる一発屋だが、笠置シズ子は「東京ブギウギ」「ジャングルブギー」「ヘイヘイブギー」「買物ブギー」等々ヒット曲が多数あり、戦前から戦後にかけてのスターだった。

  

 「東京ブギウギ(1947年)」♪東京ブギウギリズムウキウキ 心ズキズキワクワク♪はブギのリズムによる歌謡曲であり、「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、戦後の日本を象徴する曲として有名である。現在テレビで放映中のトークバラエティ「ダウンタウンなう〜本音ではしご酒」のテーマソングに使われている。笠置シズ子のヒット曲が吉本のダウンタウンの番組のテーマソングとはなんとも面白い。

 三船敏郎のデビュー映画「酔いどれ天使」で、笠置シズ子が「ジャングルブギー(1948年)」を酒場で歌い踊るシーンがある。戦後の混沌とした雰囲気を上手く表現している。♪ウワオ ワオワオ 私は女豹だ〜♪この曲を作詞したのは監督の黒澤明である。歌詞の「骨も溶けるような恋」は元々「腰も抜けるような恋」だった。笠置が「(卑猥すぎて)歌えない」と拒絶したために黒澤が書き換えたものである。
暫くして、子役だった美空ひばりがある映画で♪ウワオ ワオワオ 私は子どもだ〜♪と歌うシーンがあり、後にいろいろと問題になったそうである。

 「買物ブギー(1949年)」♪今日は朝から私のお家は てんやわんやの大さわぎ♪は、浪花のおばちゃん笠置シズ子の真骨頂である。松竹映画『ペ子ちゃんとデン助』劇中に、今でいうプロモーションビデオのような映像が存在し、その中には若き日の黒柳徹子も出演している。後年、服部良一を描いたドラマの中で、笠置シズ子を演じた研ナオコが歌っていて、下駄履きに買い物かごの扮装がとても可愛かった。

 宇崎竜童のダウンタウンブギウギバンドの曲「賣物ブギ」♪あたしゃ元々山の手育ちよ デッカイ御殿に住んでます♪は、買物ブギのアンサーソングと思われる。







 「ヘイヘイブギー(1948年)」♪あなたがほほえむ時は私も楽し あなたが笑えば私も笑うヘイヘイ♪では、笠置シズ子が「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると観客が「ヘーイ・ヘイ」と唱和し、文字通り舞台と客席が一体となるパフォーマンスを繰り広げた。











 フィンガー5の「学園天国」(作詞 阿久悠)はこのパクリなのかも。









 いきものがかりの吉岡聖恵は、2018年にこの曲をカバーしている。






 ちなみに1949年に高峰秀子(びっくりするほどの美人)との競演で笠置シズ子の代表作となった映画『銀座カンカン娘』。もちろん笠置は劇中歌い踊っているが、戦前からの大女優高峰秀子の歌と踊りは当時新鮮な驚きであっただろう。

 
 笠置シズ子といえば、それまでの東海林太郎(とうかいりんたろうではなくしょうじたろうと読む)や淡谷のり子といった直立不動の動かない歌い手ではなく、所狭ましと踊り歌う歌手のさきがけである。山本リンダともピンクレディーとも違う、その明るさ、パワフルさ、ダイナミックさ、サービス精神、観る者を引き込み圧倒させ、とにかく楽しく幸せな気分にさせてくれる唯一無二の存在であろうと、昔の白黒映像からでも十分感じさせてくれる凄い歌手である。今の音楽界のアーティストからみれば、レジェンドのような存在であるといえる。

   
 笠置シズ子は1927年、小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)を受験、歌・踊りは申し分ない実力をもちながら不合格となる。理由は当時の笠置が上背が小さい上、極度の痩せ型であったため、過酷な宝塚生活に耐えられないのではとの学校側の判断があったという。
しかし同年「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身)を受験し合格、娘役・三笠静子の芸名で初舞台を踏む。その後、1933年『秋のおどり・女鳴神』の演技でスターの仲間入りを果たす。

 1935年、崇仁親王(昭和天皇の弟)が結婚し三笠宮を名乗ったのを機に、「三笠を名乗るのは恐れ多い」と笠置シズ子に改名した。(三笠静子では演歌歌手と勘違いするかも)ちなみに当時奈良の三笠山も「若草山」と改名させられている。しかし改名しなかったものもある。それは「三笠饅頭」だ。








  1938年帝国劇場で旗揚げした「松竹楽劇団」(SGD)に参加。服部良一と出会う。のち服部と組んでジャズ歌手として売り出すが、「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代、3cmもある長い付け睫毛に派手な化粧と、身振りが警察から睨まれることとなり、1939年丸の内の劇場への出演を禁じられる。





 実は淡谷のり子も似たようなエピソードを持っていた。しかし笠置も淡谷も権力を前に一歩も引かないプロ歌手としての根性があった。今の吉本興業のように権力に忖度する姿勢とは大違いだ。実際、現地の兵隊は軍歌ではなく、笠置の元気の出るジャズや淡谷の切ないブルースに癒され励まされたという。


 1941年にSGDが解散してからは、「笠置シズ子とその楽団」を結成して慰問活動などを行う。服部良一によってコロムビア専属に迎えられ、「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌う笠置のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の三尺(約90cm)前後の範囲内で歌うことを強要されるなどの辛酸をなめた。


 服部は笠置との出会いについて、自伝でこう書いている。
大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」のだが やって来たのは、髪を無造作に束ね、薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの関西弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「全くの別人だった」。







 三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。



 1945年11月、再開場した日本劇場の最初のショーから出演し、1947年の日劇のショー『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で歌った、服部良一作曲(笠置の歌曲のほとんどを手がけた)の『東京ブギウギ』が大ヒットした。以後『大阪ブギウギ』や『ホームランブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれる。

 美空ひばりが登場するまでスーパースターとして芸能界に君臨した(ひばりは笠置のものまねで有名になった)。笠置のマネージャーをしていた男がひばりを笠置より先にハワイでの公演をさせたため、真似されている本人が「美空ひばりの持ち歌を歌っている大人」として現地に誤解を招くという事態を招き、ひばりにブギを歌わせなかったと言われているが、当の笠置自身がそうした営利を目的とした人物の被害者であったことはあまり知られていない。いずれにしても子役時代の美空ひばりを上から見下ろすことの出来た唯一の歌手である。
 

 さて、笠置シズ子のそれまでの歌手にはみられない底抜けの明るさ、ダイナミックさはどこから来るのであろうかと、いろいろ調べていくと、哀しくも切ない衝撃の、あるエピソードにたどり着いた。