有朋自遠方来 放浪楽人(さすらひのがくと)
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人生は旅。
知らない街を歩いてみたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。
けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。
たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。
さて、どこまで放浪できるか ……

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笠置シズ子
〜哀しみをこらえ歌い踊った東京ブギウギ〜

戦後の「東京ブギウギ」のヒットで名実ともに大スターになるまでに、笠置シズ子は生涯たった一度の大恋愛をしている。相手は大阪の大企業の御曹司、いずれは社長になる人で笠置よりも9才年下。お互い一目惚れだったそうだ。当然周りは反対した。特に男性の母親は、息子がまだ学生であること、二人の釣り合いがとれないなど、強硬に反対した。しかし若い男女は周りが反対すればするほど愛は燃え上がる、というのが古今東西世の常である。
やがて二人は一緒に暮らすようになる。だがこの頃には男性の体は結核に侵され、喀血することもあった。1945年8月に戦争が終わると、男性は母親に認めてもらおうと、大学を中退し、実家の会社の東京支店の社員として必死に働き始める。笠置も、もっと活躍すれば認めてくれるのではと、作曲家・服部良一宅に間借りし音楽に集中した。

「もう仕事は終わった。兵庫にお見舞いに行きたい。」という笠置に、男性は「臨月も近いので、来るにおよばず」という手紙を送る。そのころ、結婚に反対していた母親は「孫ができるなら」と態度を軟化させる。人づてではあったが、笠置に何度も「体にきいつけて」「あんじょうしいや」とメッセージを送ったそうだ。

お腹の子の父の死の報が伝えられた悲しみのどん底で、32歳の初産に臨まなければならなかった。6月1日朝、笠置は元気な女児を出産する。男性の母親は、赤ちゃんを男性側の籍に入れる提案をしたが、笠置は自分の手で育てる決意をする。実は笠置自身も、両親が結婚を反対され未婚のまま生まれた女性だった。だから、そこだけは譲れなかった。養父母の元で育ち、17歳でその事実を知ったときのショック。自分の子どもに同じようなつらい体験をさせたくないとの思いが強かった。
笠置は、男性が生まれてくる子どものためにと遺していたお金以外、男性側からの資金援助を一切受け取らなかった。そして、再び舞台に立った。娘さんを楽屋において幕あいのたびにオッパイをあげながら。そんな健気な笠置に、目いっぱい明るい曲を歌わせたいと服部良一が作曲したのが「東京ブギウギ」であった。
曲は音楽史に残る大ヒット。笠置は、いつしか「ブギの女王」と呼ばれるようになった。

(以上 著者 砂古口早苗『ブギの女王・笠置シズ子』(現代書館)参照)
笠置シズ子が愛した男性とは、吉本穎右(よしもと えいすけ)のことである。彼は吉本興業の創始者吉本せいの一人息子で、吉本興業の跡取りであった。

事実の方がずっとドラマチックで感動的なのに、どうしてだろう。
二人の悲恋を知っている視聴者から「笠置シズ子の生涯を朝ドラでやれ!」という声がNHKに多数届いたそうだ。
私が心打たれるのは、笠置シズ子の生き方である。笠置シズ子は歌って踊る歌手のさきがけだけでなく、女性の自立をある意味実践したさきがけでもある。将来夫になるべき人を亡くし、その悲しみを胸にしまい込んで、明るく歌っていたのだ。乳飲み子を抱えオッパイを与えながら、ダイナミックに踊っていたのだ、いつも笑顔の絶えることなく。
そんなことを思いながら、ブギを歌い踊っていたころの映像を観ると、今までとはずいぶん違ったものにみえてくる。

余談だが、若い頃の笑福亭鶴瓶が自己紹介のつかみで「私の母は、笠置シズ子です。」と、メガネを外して言う時期があった(垂れ目で顔が似ているため)実際はこの二人に面識はなかったそうだが、笠置もどこかでそれを聞きつけ、知人などに「鶴瓶ちゃんて、ウチの隠し子やねんで。」と冗談めかして語ることがあった。この茶目っ気も笠置の魅力である。


死後34年経って、笠置シズ子の歌・踊り・明るさ・飾らない庶民性・茶目っ気、そして芸能人として、女性としての生き方は、今なお各方面に影響を与え続けている。