有朋自遠方来 放浪楽人(さすらひのがくと)
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人生は旅。
知らない街を歩いてみたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街遠い海
夢はるか一人旅。
けれど、
遠くへ行かなくても旅はできます。
たとえば、
近所を散歩して知人に出会い
雑談するのも旅。
誰かに読んでもらいたくて、
こうやって文を綴るのも
私にとっては旅。
さて、どこまで放浪できるか ……
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068 2022年 6月 27日
厳しい自然を愛す人への敬意と、亡くなった方への追悼を込めて
1970年〜71年にかけて、国鉄(現JR)の「ディスカバージャパン」というキャンペーンがあった。その一貫としてスタートした紀行番組「遠くへ行きたい」(番組当初、旅人は永六輔一人だった)の主題歌として、デュークエイセスが「遠くへ行きたい」(作詞 永六輔 作曲 中村八大)をリリースし、この曲を多くの人が知ることになった。
小柳ルミ子の「わたしの城下町」や「瀬戸の花嫁」もその時流に乗ったものといえる。この頃の日本人は、叙情的(じょじょうてき 感情や気持ちなどが、じんわりと外に現れるような雰囲気や文章などを表す)の歌を好んでいたようで、そんな時、加藤登紀子の歌う「知床旅情」や「琵琶湖周航の歌」が大ヒットした。
以下は、知床観光船の事故をうけ、加藤登紀子が朝日新聞に語った記事の抜粋である。
知床の岬に はまなすの咲く頃――。加藤登紀子さんが歌い、大ヒットした「知床旅情」1970年代、都会に出てきた若者たちの多くが、この曲を聴いては望郷の念に駆られた。
そんな曲の舞台となった知床の地で起きた観光船の事故。加藤さんが事故や知床への思い、そして「知床旅情」のこれからについて語ってくれた。
事故を受けて、まず思い出したのは、1959年に80人を超える死者・行方不明者が出た知床半島・羅臼(ラウス)での漁船の遭難事故です。
当時は東西冷戦中(資本主義国と社会主義国の対立)の時代。「風が吹いたらクナシリ(国後島)に逃げろ」と昔から言われていたのに、強烈な風が吹いて海が荒れる中、羅臼港に帰ろうとして事故に遭いました。船は、クナシリに逃げてソ連に拿捕(だほ)されることを恐れたのです。
この理不尽な悲劇を受け、森繁久彌(俳優・歌手)さん(2009年、96歳で死去)が知床のために動きました。
真冬の知床半島で漁師が集まる「番屋(ばんや)」に暮らす老人を描いた映画「地の涯(はて)に生きるもの」を、私財をはたいて自主制作しました。地元民の惜しみない協力に感激した森繁さんが、そのロケの置き土産として「知床旅情」を作詞作曲したのです。
今回の観光船事故は、無謀な出航のすえにたくさんの方々が犠牲になりました。私は、厳しい自然と向き合って生き抜いてきた知床の人たちは、船を出すことにとても慎重だと感じてきました。だからこそ残念でなりません。
「知床旅情」との出会いは68年3月でした。後に夫となる藤本敏夫(02年、58歳で死去)と初めて一緒にお酒を飲んだ日。東京・千駄ケ谷のマンションまで送ってくれて、別れるのが寂しくなった2人は、屋上に行きました。彼が夜空の下で朗々と歌ってくれたのが、この曲でした。
その1年後、私が「ひとり寝の子守唄」を歌った弾き語りのステージを森繁さんが見てくれていました。
舞台袖で「僕と同じ心で歌う人を見つけたよ」と言って抱きしめて下さった。この出会いから、私が「知床旅情」を歌うことになります。
私は戦中、森繁さんがアナウンサーをしていた旧満州(現 中国東北地区)で生まれました。
敗戦後には私も彼も引き揚げ船で日本に帰りました。当初は思いも寄りませんでしたが、なんという深い縁かと思います。
後に森繁さんはこう言ってくれました。
「君の声はあのツンドラの風の冷たさを知っている声だね」
「君に記憶はないだろう。でも君の身体は自分の故郷を知っているんだよ」
この言葉のおかげで、知床の冷たい風に当たると涙が流れてきます。「この冷たさが私の故郷だ」と思います。私にとって知床は、故郷を思う場所なのです。
この歌がヒットしていた71年8月、私は初めて知床を訪れました。夏なのにとっても寒かった。厳しい自然を肌で感じた思い出です。
でも、知床連山の向こうにクナシリが見え、見事な海と山と鳥たち、その美しい自然に心を奪われました。以来何度も訪れています。
「知床」が世界遺産に登録され、ある地元の人が言っていました。「知床の世界遺産は人間と自然が一緒に生きているということに価値がある」と。この秘境がありながら、人間が漁も出来る。そんな自然と一体となった営みがあることが評価されたはずです。
人間は自然との関わりの中で、厳しいけれど豊かな恵みをもらって生きている。この感覚を持ち続けなければいけないと思います。
出会い、愛し合い、別れ…。「知床旅情」には、人の人生を凝縮したものが詰まっています。
1番の歌詞に「思い出しておくれ、俺たちのことを」とあります。ともに生きた友達のことなんですよね。
人の人生に寄り添い、その全ての時間がいとおしいものだね、と語りかけるような歌です。
今回の事故直後、つらくて歌えませんでした。「知床」の名を持つこの歌の運命を一緒に抱いて寝ているような感覚でした。
でも、「知床旅情」が大好きだった私の夫と森繁さんも他界しています。私の心の中では、歌の中の「出会い」と「別れ」は、他界した人を送るという意味に少しずつ変化しています。
命は出会ってまた別れる。事故を受けて、「知床旅情」をそんな鎮魂の歌としてアレンジしました。現在ツアー中のコンサート会場で歌っています。
これからは、亡くなった方々への追悼の気持ちと、厳しい知床の自然をずっと愛し続けてきた人々への敬意を込め、歌い続けようと思います。
(以上 朝日新聞6月12日社会面より)
ではあらためて、加藤登紀子の「知床旅情」をどうぞ。
「知床旅情」をレコード化する2年前、1969年に加藤登紀子は「ひとり寝の子守唄」を発表する。当時恋人で後に獄中結婚することになる学生運動家藤本敏夫の刑務所生活を慰めるために加藤が作詞作曲した曲だ。
この暗い問題作がなんと大ヒットする。この年は藤圭子がデビューし(新宿の女)、暗い世界観を持つメッセージソングがよくヒットした。カルメンマキの「時には母のない子のように」もそうだ。
加藤は東大出身で、在学中にレコードデビューしている。「赤い風船」でレコード大賞新人賞、「ひとり寝の子守唄」と「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を2度受賞、その他ヒット曲多数。ちなみに中森明菜のその後の人生を暗示するかのような「難破船」も作詞作曲している。石原裕次郎の、生前にリリースされた最後のシングルとなる「わが人生に悔いなし」の作曲者でもある。
加藤は「おときさん」と呼ばれ、舞台上で酒を飲みながら歌うという「ほろ酔いコンサート」は彼女が始めた。私は高倉健ではなく、加藤が歌う「時代遅れの酒場」が大好きだ。この曲はロシア民謡とも通じる。
日本では珍しい、自己主張をはっきりする人で、それが人気のマイナスにならない。こんな歌手は美空ひばり以外私は知らない。
おときさん、あなたは本当にカッコイイ唯一無二の「大人の歌手」だ。 日本最大のヒットメーカー、中島みゆきに多大な影響を与えたと思っているのは私だけだろうか。
読者のみなさんからのレビュー(感想)
第67話 ウトロラウスっていっても恐竜じゃないよ! 〜私の知床旅情〜
実は私も知床の観光船に乗ったことがある。1970年代の終わり頃だ。もう半世紀近く昔になるわけ。少し手前に、オシンコシンの滝というのがあった。これ、厳寒期にはどうなると思う? と同行の諸氏に尋ねたのだが、誰も答えなかった。その答えは、「真冬には凍てついて、カチンコチンの滝になる。」
(山之辺三歩さん 一握の知力管理人)
私も昔、ウトロに行ったことがあります。夕日がきれいでしたね。あの場所で事故が起きるとは悲しいです。
ウトロの土産物店の前に小熊がいたことが何故か強い思い出です。
(北の成人さん 60才代男性)
桜田淳子CMの「グリコ知床しぶき」のふりかけ、食べたことがあります。まさに「子どもだまし」の味でした(笑) 知床旅情に元唄があるなんて知りませんでした。倍賞千恵子さんの歌唱力、素晴らしい。
観光船、夕景、たらこ・明太子、北の国から、オホーツク老人、北方四島問題、盛りだくさんで軟派から硬派までの幅広さ、まさに「放浪楽人」の真骨頂をみました。
(中年ジェットさん 60才代男性)
いつもながらとても詳しくそしてわかりやく説明して下さっているので良くわかりました。素晴らしい歴史のある知床半島も、今年は悲しい事故で注目され、報道されるニュースは本当に辛いことでしたね。私は北海道は本当に道南のありきたりの所しかしりませんので、1度は知床の深い自然を元気なうちに体験したいですね。
先日も新聞に、加藤登紀子さんが「これからも 知床旅情を歌い続けていく」とコメントされていました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り致します。
倍賞千恵子さんのこの歌も、森繁さんや加藤さんと違った味があっていいですね。
北方領土の問題も昨今の情勢ではなかなか大変なようですね。
(やまとなでしこさん 80才代女性)
67話も続けておられる放浪楽人さんに尊敬です。そして、初めて感想を送る私。
「知床しぶき」のふりかけ、知らないなー
知床の素晴らしい景色、大自然の造形を知れば、誰しも知床に行ってこの中に溶け込みたいと思いますね。
知床の逸話が旅心をそそります。知床旅情が、懐かしさとサラリと口ずさめるのも年代物ですね。
観光船の事故に遇われた方々のご冥福をお祈り致します(合掌)
(ターキーさん 60才代女性 レビュー初登場 マリンバ仲間)
知床、 一回行きましたがいいいですね。このブログを見ていたら又行きたくなりましたがどうかなーです。
若い頃の倍賞千恵子綺麗でいい声で聴き入っていました。最近このような歌を聞く機会が無いですから楽しかったです。
(みーちゃん 70才代女性)
倍賞千恵子の若かりし頃の歌唱力素晴らしいです。
北の国からの純くんが私の息子に似ていて、富良野で生活を始めた電気も無い水も無い頃の姿から今の俳優になるまで、我が子を見てるような思いで彼の作品を見ています。
(プルメリアさん 70才代女性)
第67話、拝見しました。いつものようにとても読みやすい文章、一気に読ませていただきました。北海道は私の故郷、知床も学生時代に行った思い出があります。倍賞千恵子さんの知床慕情の歌詞、素敵ですね!
(ねむの花さん 70才代女性)
久しぶりに放浪楽人拝見しました!やはり毎度のことですが、放浪楽人さんの文章に引き込まれました(キュンキュン)
北海道、知床は私が人生で一回は行きたいと思っている観光地です。もう2回も行っていらっしゃるとは!
知床の自然きれいですね。生で自然のショーを見てみたい!
明太子の原料(たらこ)、北海道の特産物だったんですね(えっ!?)(てっきり博多のものかと… )
映画に関しては、北の国からくらいしかわからなかったのですが、知床を舞台にした映画はたくさんあるのですね!
最 後に領土問題につなげるとは…流石です
知床の知らない世界をたくさん知ることが出来ました!
(イクミさん 高校生女性)
厳しい自然を愛す人への敬意と、亡くなった方への追悼を込めて
〜加藤登紀子の知床旅情〜
1970年〜71年にかけて、国鉄(現JR)の「ディスカバージャパン」というキャンペーンがあった。その一貫としてスタートした紀行番組「遠くへ行きたい」(番組当初、旅人は永六輔一人だった)の主題歌として、デュークエイセスが「遠くへ行きたい」(作詞 永六輔 作曲 中村八大)をリリースし、この曲を多くの人が知ることになった。
小柳ルミ子の「わたしの城下町」や「瀬戸の花嫁」もその時流に乗ったものといえる。この頃の日本人は、叙情的(じょじょうてき 感情や気持ちなどが、じんわりと外に現れるような雰囲気や文章などを表す)の歌を好んでいたようで、そんな時、加藤登紀子の歌う「知床旅情」や「琵琶湖周航の歌」が大ヒットした。
以下は、知床観光船の事故をうけ、加藤登紀子が朝日新聞に語った記事の抜粋である。
知床の岬に はまなすの咲く頃――。加藤登紀子さんが歌い、大ヒットした「知床旅情」1970年代、都会に出てきた若者たちの多くが、この曲を聴いては望郷の念に駆られた。
そんな曲の舞台となった知床の地で起きた観光船の事故。加藤さんが事故や知床への思い、そして「知床旅情」のこれからについて語ってくれた。
事故を受けて、まず思い出したのは、1959年に80人を超える死者・行方不明者が出た知床半島・羅臼(ラウス)での漁船の遭難事故です。
当時は東西冷戦中(資本主義国と社会主義国の対立)の時代。「風が吹いたらクナシリ(国後島)に逃げろ」と昔から言われていたのに、強烈な風が吹いて海が荒れる中、羅臼港に帰ろうとして事故に遭いました。船は、クナシリに逃げてソ連に拿捕(だほ)されることを恐れたのです。
この理不尽な悲劇を受け、森繁久彌(俳優・歌手)さん(2009年、96歳で死去)が知床のために動きました。
真冬の知床半島で漁師が集まる「番屋(ばんや)」に暮らす老人を描いた映画「地の涯(はて)に生きるもの」を、私財をはたいて自主制作しました。地元民の惜しみない協力に感激した森繁さんが、そのロケの置き土産として「知床旅情」を作詞作曲したのです。
今回の観光船事故は、無謀な出航のすえにたくさんの方々が犠牲になりました。私は、厳しい自然と向き合って生き抜いてきた知床の人たちは、船を出すことにとても慎重だと感じてきました。だからこそ残念でなりません。
「知床旅情」との出会いは68年3月でした。後に夫となる藤本敏夫(02年、58歳で死去)と初めて一緒にお酒を飲んだ日。東京・千駄ケ谷のマンションまで送ってくれて、別れるのが寂しくなった2人は、屋上に行きました。彼が夜空の下で朗々と歌ってくれたのが、この曲でした。
その1年後、私が「ひとり寝の子守唄」を歌った弾き語りのステージを森繁さんが見てくれていました。
舞台袖で「僕と同じ心で歌う人を見つけたよ」と言って抱きしめて下さった。この出会いから、私が「知床旅情」を歌うことになります。
私は戦中、森繁さんがアナウンサーをしていた旧満州(現 中国東北地区)で生まれました。
敗戦後には私も彼も引き揚げ船で日本に帰りました。当初は思いも寄りませんでしたが、なんという深い縁かと思います。
後に森繁さんはこう言ってくれました。
「君の声はあのツンドラの風の冷たさを知っている声だね」
「君に記憶はないだろう。でも君の身体は自分の故郷を知っているんだよ」
この言葉のおかげで、知床の冷たい風に当たると涙が流れてきます。「この冷たさが私の故郷だ」と思います。私にとって知床は、故郷を思う場所なのです。
この歌がヒットしていた71年8月、私は初めて知床を訪れました。夏なのにとっても寒かった。厳しい自然を肌で感じた思い出です。
でも、知床連山の向こうにクナシリが見え、見事な海と山と鳥たち、その美しい自然に心を奪われました。以来何度も訪れています。
「知床」が世界遺産に登録され、ある地元の人が言っていました。「知床の世界遺産は人間と自然が一緒に生きているということに価値がある」と。この秘境がありながら、人間が漁も出来る。そんな自然と一体となった営みがあることが評価されたはずです。
人間は自然との関わりの中で、厳しいけれど豊かな恵みをもらって生きている。この感覚を持ち続けなければいけないと思います。
出会い、愛し合い、別れ…。「知床旅情」には、人の人生を凝縮したものが詰まっています。
1番の歌詞に「思い出しておくれ、俺たちのことを」とあります。ともに生きた友達のことなんですよね。
人の人生に寄り添い、その全ての時間がいとおしいものだね、と語りかけるような歌です。
今回の事故直後、つらくて歌えませんでした。「知床」の名を持つこの歌の運命を一緒に抱いて寝ているような感覚でした。
でも、「知床旅情」が大好きだった私の夫と森繁さんも他界しています。私の心の中では、歌の中の「出会い」と「別れ」は、他界した人を送るという意味に少しずつ変化しています。
命は出会ってまた別れる。事故を受けて、「知床旅情」をそんな鎮魂の歌としてアレンジしました。現在ツアー中のコンサート会場で歌っています。
これからは、亡くなった方々への追悼の気持ちと、厳しい知床の自然をずっと愛し続けてきた人々への敬意を込め、歌い続けようと思います。
(以上 朝日新聞6月12日社会面より)
ではあらためて、加藤登紀子の「知床旅情」をどうぞ。
「知床旅情」をレコード化する2年前、1969年に加藤登紀子は「ひとり寝の子守唄」を発表する。当時恋人で後に獄中結婚することになる学生運動家藤本敏夫の刑務所生活を慰めるために加藤が作詞作曲した曲だ。
この暗い問題作がなんと大ヒットする。この年は藤圭子がデビューし(新宿の女)、暗い世界観を持つメッセージソングがよくヒットした。カルメンマキの「時には母のない子のように」もそうだ。
加藤は東大出身で、在学中にレコードデビューしている。「赤い風船」でレコード大賞新人賞、「ひとり寝の子守唄」と「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を2度受賞、その他ヒット曲多数。ちなみに中森明菜のその後の人生を暗示するかのような「難破船」も作詞作曲している。石原裕次郎の、生前にリリースされた最後のシングルとなる「わが人生に悔いなし」の作曲者でもある。
加藤は「おときさん」と呼ばれ、舞台上で酒を飲みながら歌うという「ほろ酔いコンサート」は彼女が始めた。私は高倉健ではなく、加藤が歌う「時代遅れの酒場」が大好きだ。この曲はロシア民謡とも通じる。
日本では珍しい、自己主張をはっきりする人で、それが人気のマイナスにならない。こんな歌手は美空ひばり以外私は知らない。
おときさん、あなたは本当にカッコイイ唯一無二の「大人の歌手」だ。 日本最大のヒットメーカー、中島みゆきに多大な影響を与えたと思っているのは私だけだろうか。
読者のみなさんからのレビュー(感想)
第67話 ウトロラウスっていっても恐竜じゃないよ! 〜私の知床旅情〜
実は私も知床の観光船に乗ったことがある。1970年代の終わり頃だ。もう半世紀近く昔になるわけ。少し手前に、オシンコシンの滝というのがあった。これ、厳寒期にはどうなると思う? と同行の諸氏に尋ねたのだが、誰も答えなかった。その答えは、「真冬には凍てついて、カチンコチンの滝になる。」
(山之辺三歩さん 一握の知力管理人)
私も昔、ウトロに行ったことがあります。夕日がきれいでしたね。あの場所で事故が起きるとは悲しいです。
ウトロの土産物店の前に小熊がいたことが何故か強い思い出です。
(北の成人さん 60才代男性)
桜田淳子CMの「グリコ知床しぶき」のふりかけ、食べたことがあります。まさに「子どもだまし」の味でした(笑) 知床旅情に元唄があるなんて知りませんでした。倍賞千恵子さんの歌唱力、素晴らしい。
観光船、夕景、たらこ・明太子、北の国から、オホーツク老人、北方四島問題、盛りだくさんで軟派から硬派までの幅広さ、まさに「放浪楽人」の真骨頂をみました。
(中年ジェットさん 60才代男性)
いつもながらとても詳しくそしてわかりやく説明して下さっているので良くわかりました。素晴らしい歴史のある知床半島も、今年は悲しい事故で注目され、報道されるニュースは本当に辛いことでしたね。私は北海道は本当に道南のありきたりの所しかしりませんので、1度は知床の深い自然を元気なうちに体験したいですね。
先日も新聞に、加藤登紀子さんが「これからも 知床旅情を歌い続けていく」とコメントされていました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り致します。
倍賞千恵子さんのこの歌も、森繁さんや加藤さんと違った味があっていいですね。
北方領土の問題も昨今の情勢ではなかなか大変なようですね。
(やまとなでしこさん 80才代女性)
67話も続けておられる放浪楽人さんに尊敬です。そして、初めて感想を送る私。
「知床しぶき」のふりかけ、知らないなー
知床の素晴らしい景色、大自然の造形を知れば、誰しも知床に行ってこの中に溶け込みたいと思いますね。
知床の逸話が旅心をそそります。知床旅情が、懐かしさとサラリと口ずさめるのも年代物ですね。
観光船の事故に遇われた方々のご冥福をお祈り致します(合掌)
(ターキーさん 60才代女性 レビュー初登場 マリンバ仲間)
知床、 一回行きましたがいいいですね。このブログを見ていたら又行きたくなりましたがどうかなーです。
若い頃の倍賞千恵子綺麗でいい声で聴き入っていました。最近このような歌を聞く機会が無いですから楽しかったです。
(みーちゃん 70才代女性)
倍賞千恵子の若かりし頃の歌唱力素晴らしいです。
北の国からの純くんが私の息子に似ていて、富良野で生活を始めた電気も無い水も無い頃の姿から今の俳優になるまで、我が子を見てるような思いで彼の作品を見ています。
(プルメリアさん 70才代女性)
第67話、拝見しました。いつものようにとても読みやすい文章、一気に読ませていただきました。北海道は私の故郷、知床も学生時代に行った思い出があります。倍賞千恵子さんの知床慕情の歌詞、素敵ですね!
(ねむの花さん 70才代女性)
久しぶりに放浪楽人拝見しました!やはり毎度のことですが、放浪楽人さんの文章に引き込まれました(キュンキュン)
北海道、知床は私が人生で一回は行きたいと思っている観光地です。もう2回も行っていらっしゃるとは!
知床の自然きれいですね。生で自然のショーを見てみたい!
明太子の原料(たらこ)、北海道の特産物だったんですね(えっ!?)(てっきり博多のものかと… )
映画に関しては、北の国からくらいしかわからなかったのですが、知床を舞台にした映画はたくさんあるのですね!
最 後に領土問題につなげるとは…流石です
知床の知らない世界をたくさん知ることが出来ました!
(イクミさん 高校生女性)