映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。







































Alfred Einstein (1880–1952)













































by_Angus Maddison,
The World Economy,
OECD2006
このサイトからいただきました。






Wilhelm Müller(1794-1827)










Weber家の三姉妹


Aloysia

Mozartは最初 Aloysia に恋をした。
でもあっさりと振られてしまう。


Constanze

Weber家のお母さんは、三姉妹のうちで一番目立たない存在だったConstanze を Mozart に嫁がせようとした。で、それに成功したわけである。


Sophie

右に引用した文章を書いた人。
1825年、Sophie は Constanze の二度目の夫である Nissen に手紙を書いた。引用したのはその手紙である。
Nissen はMozart の最初の伝記作者として有名。









Albert Einstein(1879-1955)

     ページの上段へ

死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ。

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その2

                    2021/12/07



【1】

 じっくりとモーツァルトを聴こう、と題しながら、前回はモーツァルトについてまったく触れていなかった。私が書いたのは、人の死にまつわる話である。
 友人たちの多くが予断を許さない病に取り憑かれたこと、友人たちのうち最近もっとも親しく接していた人があっけなく亡くなってしまったこと、残された時間は短いとつくずく思い知らされたこと、だから今後は語るに値することだけを語ろうと心に決めたこと、など。
 このとき、モーツァルトという名が、その「語るに値すること」の象徴としてすっと心に浮かんできたのである。

 なぜ“モーツァルト”だったのだろう。
 人の死について語ろうとして、気がつけば、ごく当たり前のことのようにモーツァルトが連想されていた。これは、いったい、何故だろう? 不思議なことだ。

 死とモーツァルト。
 人の死を思えば、心のどこかでモーツァルトが響いてくる。

 実は、これが、モーツァルトの音楽の本質ではなかろうか?
 私は、無意識にうちに「私のモーツァルト論」を書き始めていたのかもしれない。


【2】

 モーツァルトの音楽に魅入られた人なら、おそらく何回も、次の箴言に接した記憶があるだろう。

   死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ。

 ずっと長いあいだ私はこれを、高名なモーツァルトの研究家、アルフレート・アインシュタインの言葉だと信じていた。(その真偽については、今回の最後に述べる。)

 ふつう箴言・アフォリズムといえば、軽妙洒脱なものという印象がある。鋭く真理を射貫いているが、さりとて過度に厳格にならず、ユーモアにまぶしてさりげなく差し出されたもの、という感じがする。しかしこれは違う。この言葉は、死の恐ろしいまでのリアリティとともに、私に迫ってくる。
 それが何故なのか、この一句がなぜこれほどまでに“死のリアリティと結びつく”のか、今の私にはその理由をうまく説明することができない。だが確かにそうなのだ。


【3】

 試みに、“モーツァルト”を他の高名な音楽家と置き換えてみたらどうだろう? たとえば、

   死とは、ベートーヴェンが聴けなくなることだ。

 きちんと論理的に成立する文章になる。うん、そうだ、その通りと納得もできる。
 だが“死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ。”と言うときの、切実さのようなものがここには不足している。
 確かに、私はベートーヴェンの熱心な聴き手ではない。だが仮に、私が熱狂的なベートーヴェン崇拝者であったとしても、「死とは、ベートーヴェンが聴けなくなることだ」というフレーズが事あるごとに私の心に浮上してきて、その都度、やるせないような、不安なような、いたたまれない気持ちにさせられることはないだろう。

 ベートーヴェンは“楽聖”と呼ばれている。学校で教わるクラシック音楽としてなら、モーツァルトより聴かされる機会は格段に多い。全曲は聴き通していなくとも、第五交響曲の『運命の動機』を知らない人はいないだろう。第九交響曲の『歓喜の頌』を合唱させられた人も多いに違いない。あの旋律は、四分音符が上がったり下がったりするだけのきわめてシンプルな造りになっているが、歌い手を確実に崇高な感動に導く。やはり無類の霊感がなければ創れる旋律ではないのだ。
 彼のピアノ・ソナタ群は、バッハの『平均律』と対比させて、『ピアノの新約聖書』と呼ばれる。事実、それまでの「フォルテ・ピアノ」的奏法から脱して、「ハンマー・クラヴィーア」的奏法を確立したのはベートーヴェンであった。ベートーヴェンは、作曲家であるより前に変革者であり、新しい曲を創ると同時に新しい聴衆を創造したのだ。極東の島国に住む一般大衆である《私》が《西洋古典音楽》を楽しむことが出来るという奇跡のような幸運は、ベートーヴェンという人格なしには成立しえなかったであろう。

 だが、しかし「死とは、ベートーヴェンが聴けなくなることだ」とつぶやいてみても、それは切実には響かないのである。


【4】

 いったい、何が違うのか?
 死亡した年齢の差か?

 ベートーヴェンが死亡したのは1827年、満年齢で56歳であった。今日的な視点から見るといささか早すぎる死のように思えるが、決してそうではないだろう。調べてみると、1820年当時の平均寿命は、フランスで39歳、イギリスで40歳、という数値が見つかった。えらく若死にじゃないかと驚かされるが、あくまでこれは平均寿命である。当時は乳幼児や子供の死亡率がきわめて高かったので、これが平均寿命の数値を引き下げている。無事成人を迎えた人の平均余命はもっと高かったはずであるが。だが、還暦はおろか古希・喜寿も当たり前という現代の水準よりは大幅に低かったであろう。つまりベートーヴェンは、長生きはできなかったが早死にしたとも言えないのだ。
 1826年の末、肺炎に罹って持病を一気に悪化させた彼は、死期を悟って遺書を認めている。
 彼の葬儀には、ウィーンの市民二万人が葬列に加わったという。

 一方、モーツァルトの死は1791年。わずか35歳の死である。遺体はサンクト・マルクス墓地まで運ばれたが、霊柩馬車に同行する者もなく、共同墓穴に「放りこまれた」のだ。従って、彼の本当の墓所はいまだに確定できないままだ。
 早すぎる死。これ以上はないと思えるほどの孤独な死。ベートーヴェンとは対照的である。

 モーツァルト、ベートーヴェン、と並ぶと、続いてシューベルトの名前が思い出される。先ほどからの語句を、シューベルトにしてみるとどうだろう。

   死とは、シューベルトが聴けなくなることだ。

 実は、ベートーヴェンの二万人の葬列にはシューベルトも加わっていたという。だが、その翌年、そのシューベルトも死亡してしまう。その歳、なんと31歳!
 その事実に思い至ると、「死とは、シューベルトが聴けなくなることだ」という言葉からは、どこまでもうち沈んでゆくような寒々とした寂寥感が滲出してくる。もちろんそれは『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』を支配する《死》、そこに導かれるのが当然のように出現する《死》のイメージと重なっているのだが。ましてや、死に向かってさすらうのは若者なのだ。そのさすらう若者の姿が、31歳で死ぬこととなるシューベルトと重なって見えるのは当然のことだろう。
 この二つの歌集の詞を書いたのは、ヴィルヘルム・ミュラーという人。ベートーヴェンが死んだのは、1827年の3月であるが、同じ年の10月、このミュラーも死に捕らわれている。あと一週間生きながらえば、33歳になるはずであった。

 確かにそうだ、生きとし生けるものにとって、受け入れざるを得ないものごとのうち、《死》が最も過酷なものである。それが、早すぎる死、突然の死、孤独に過ぎる死、ならばなおさらのことだ。
 これが、「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」という箴言に、異常なまでのリアリティを付与している。


【5】

 だが、それだけだろうか?
 モーツァルトという人間性そのもの、その人間性が創り出す音楽そのものに、《特別な何か》が潜んでいるのではないか。ただ単に、死の影という風には表現できない何かが。

 最晩年、それも死の直前のモーツァルトを、ありのままに伝えてくれる資料がある。
 彼の妻コンスタンツェの妹である、ゾフィー・ハイベル(Sophie Haibel:1767-1846)が次のような文章を残している。

 やがてモーツァルトが病気になったとき、わたくしたちふたりは、前から着られるような寝間着を彼につくってあげました。といいますのも、腫瘍のために彼はからだをまわすことができなかったのです。わたくしたちは彼がどれほど重病であるかを知らなかったものですから、彼が起きたときなんの心配もいらないように、綿入れのガウンもつくってあげました。(もっともその材料はすべて、彼のやさしい妻である、わたくしの最愛の姉が提供してくれました。)こうしてわたくしたちはひんぱんに彼をたずねました。彼もそのガウンを心からよろこんでいることを示してくれました。わたくしは彼をたずねるために毎日町へ行きました。ある土曜日のこと、わたくしがはいって行くと、モーツァルトはこう言いました、「ねえゾフィ、すっかりよくなったから、一週間のうちに命名日のおめでとうを言いに行きますと、ママに言っておいてね。」母にこのようなうれしい知らせを持って行けるわたくしより大きなよろこびを、だれが持ったでしょう。といいますのも、こんな知らせはいつもほとんど期待できなかったのです。それでわたくしは、彼自身も実際たいへん快活で元気のように見うけられたので、母を安心させるために家路を急ぎました。
          『モーツァルト頌』(吉田秀和・高橋英郎編 白水社1966年発行)61p.

 モーツアルトはすでに起き上がって自由に歩き回ることができない状態になっている。にもかかわらず「わたくしたち(ゾフィーとその母)は彼がどれほど重病であるかを知らなかった」のである。それどころか「彼もそのガウンを心からよろこんでいることを示してくれ」のだ。
 モーツァルトは、心に深い悲しみを抱えている。この場面では、すでに死期も近いことを悟っている。にもかかわらず、ゾフィーとその母の前では快活に振る舞ってみせ、ほら、僕はこんなに元気になりました、また楽しくやりましょう、と彼女たちを《だます》のだ。

「ねえゾフィ、すっかりよくなったから、一週間のうちに命名日のおめでとうを言いに行きますと、ママに言っておいてね。」

 だからゾフィーは「彼自身も実際たいへん快活で元気のように見うけられたので、母を安心させるために家路を急ぎました」と、見事にだまされてしまうのだ。
 これは「ある土曜日のこと」と書かれている。この引用のあとは次の日曜日の出来事が記される。訪問してきたゾフィーに向かって、コンスタンツェはこう伝えている。「ゆうべはとても悪くなってね、もうきょうまでもたないかと思ったほどだったわ」と。
 実際、その日のうちにモーツァルトは天に召されるのだ。


 心の底に深い悲しみとあきらめを秘めながら、それをおくびにも出さず、愛する人たちには快活・明朗にふるまってみせる。それが、軽薄だと受け取られようが、度が過ぎる冗談だと思われようが、かまうことなく。

 モーツァルトは、常にそのように生きてきた。
 彼の音楽もまた、そのようなものでなかったか。



 ここに「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」という箴言が、“死のリアリティと結びつく”ことを解く鍵があるように思える。

 彼の音楽で確かめてみよう。
 ゾフィーと母親が「前から着られるような寝間着を彼につくってあげ」たころ、モーツァルトが没頭していたのは『魔笛』の作曲である。では『魔笛』の謎を読み解いて(正しくは、聴き解いてか?)みようではないか。


【6】

 最後に、「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」という箴言はだれの作か、という問題について。
 アルフレート・アインシュタインの『モーツァルト その人間と作品』(1945)の日本語訳が白水社から出版されたのは1961年である。私はこの本が欲しくてたまらなかったのだが、とうてい中学生に買える値段ではなかったので、ときどき心斎橋の駸々堂で立ち読みして我慢するしかなかった。さて後年、南隣りの町の図書館に、この本が何故か二冊も並べておいてあるのを見つけた。そこで遠慮なく繰り返して借り出して読んでみたのだが、本のどこにもこの一句は発見できなかった。
 最近、ネット検索していたら、この一句はかの超高名な物理学者アルバート・アインシュタインの言葉である、『モーツァルト頌』(白水社1966年)にその言葉が掲載されている、という記事を見つけた。そこで、アマゾンに出店している中古書店で買ってみた。だが、その注釈には ……

 この言葉は、ある人の「死とはどんなものだとお考えですか?」という問いに対する答えである。出典は不明であるが、編者の記憶により引用しておく。 380p.

 と、ある。
 つまり、編者(吉田さんか、高橋さんか、は不明)にも、確定できないのである。
 誰の言葉か確定できないけれど、モーツァルトの核心を射貫いた言葉であるから捨てるには惜しい。とりあえず「伝、アルバート・アインシュタイン作」ということにして掲載しておこうか、ということだったようである。

 誰が言い出したにせよ、また誰が言い出したかも忘れられたにせよ、この言葉は、数知れぬモーツァルティアンが語り伝えてきたものである。モーツァルトの愛好者の一人々々が、フォークロアの語り部となって、この箴言を伝承してきたといえるのではなかろうか。つまりこの私もその一人なのだと考えて良いのだ。


                  ページの上段へ


--【その2】了--    

残された時間は短い。じっくりとモーツァルトを聴こう。Topへ