ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。  
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。  
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。  


管が辞めれば株価が上がる。―― 管義偉よ、“辞めたら済み”と思うな! その1  (2021/09/07)
 
 菅義偉が “もう、オレ、辞める” と漏らしたとたん、日経平均株価が 500円も上昇した。

 最初これを聞いたとき、悪い冗談だろう、と思った。だが、本当だった。
 現政権が崩壊するというニュースで株価が大幅に上昇するなんて、前代未聞のことではなかろうか。 ( …… 続きを読んでみる )
 


若きアスリートに国民栄誉賞を授与することの非人間性 (H.30/07/16)
 アスリートたちは、よく「自分を追い込む」という表現をつかう。今の到達点から「もう一歩」厳しい地点に目標を定め、そのためのメニューを設計し、日々の鍛錬で一つ一つそれを現実化してゆく。その小刻みな達成と、自分の体調と、ライバルの動向を合わせ見て、メニューは絶えず修正されてゆく。こんな風に「自分で、自分を追い込む」から尊くて美しいのである。だが「自分」ではなく、「他者」から追い込まれるようになると、スポーツは不健全なものとなる。この「他者」が他ならぬ「国家」だとするならどうなる。安倍晋三が若きアスリートに乱発する『国民栄誉賞』は、賞の政治的利用と言うより以前に、彼らに「国民の期待」という頸木(くびき)を架することにならないか。


なぜ『森友学園問題』は決着させることができないのか? −−− 忘れ去られたレイシズム糾弾 (H.30/06/23)
 なぜ『森友学園問題』は決着が付かないのか。安倍・麻生を首領とする政府要人と官僚どもが、のらりくらりと『ご飯理論』で論点をはぐらかすからか? いや、そうではないだろう。『森友学園問題』とは、籠池夫妻と政治家や行政官の関わりが、日本の権力機構中枢におけるヘイト主義の連鎖を浮かびあがらせたという思想的疑獄なのである。それが、補助金の不正受給問題とされたとき、その本質から一歩ズレ、以降、国有地払い下げの破格ディスカウント問題、財務省の文書改竄問題、さらには、官僚のセクハラ問題、と次々とズレまくった。野党もジャーナリズムも、塚本幼稚園で虐待を受けた園児たちと、自らの顔を出してそれを告発した保護者たちの側に立つ、という原点を喪失しているからである。


性犯罪者はなぜ居直ることができるのか? ーーーー 日本的倫理性の喪失 (H.30/05/21)

 強姦魔山口敬之も、変態オヤジ−福田淳一も、あれほど明確に自分の恥辱が暴かれているのにかかわらず、公衆の前でなんら恥じるところがない。倫理感に良心を苛まされることがないのだろうか? 逮捕され、有罪となり、投獄されない限り、「リスク回避」は成功していると、認識しているのだろうか。昨年来、安倍晋三に次々とスキャンダルが露呈した。部下や信奉者にも不祥事が相次いだ。だが、それでも彼は政権にしがみついている。この三者に共通するのは、かって日本に存在した日本的倫理観の完全なる喪失である。そんな彼らが、「美しい日本」だとか「日本を取りもどす」などと曰う。このねじれの現象を解析してみる。なぜ、こんな日本になったのか?

 
 
『教育勅語なぜ悪い?論』は なぜ悪い?



 その1 (H.29/04/07)
 このところ、群雲が湧くように『教育勅語なぜ悪い?論』が頭をもたげてきている。森友学園問題の「幕引き」を急ぐ安倍政権が、森友学園問題の思想的落としどころとして『教育勅語』を持ち出してきたように思える。籠池にはすっかり騙されてしまったが、それは籠池が『教育勅語』を持ち出してきたからだ、篭池はペテン師だが、教育勅語は悪くない、立派なものだ、という風に世論を納得させたいのだろう。だが、小薮も、稲田も、安倍も、教育勅語なぜ悪い?、とつぶやくと、ウットリとした気分になるらしい。この、彼ら彼女らをウットリとさせる『教育勅語なぜ悪い?論』の「言葉使いそのもの」を吟味することから批判を始めてみよう。



 その2 (H.29/04/17)
 防衛大臣の稲田は、恥ずかしげもなく、『教育勅語』を溺愛していると公言して憚らない。彼女によれば「教育勅語の核とは、日本が道義国家を目指すべきであるという」点にあるらしい。ところが、教育勅語のどこにも『道義国家』に相当する語句は無い、のである。この『道義国家』という言葉の出所は、『国民道徳協会訳』とやらにあるらしい。1972年ごろ、明治神宮がこの口語訳をパンフレットに仕立てて無料配布したことがきっかけで一般化したようである。ところがこの口語訳、読んでビックリ、教育勅語の正本とは「似て非なるモノ」になっている。例えば、天皇だけが使用できるはずの「朕」という主語が、70年新左翼が愛用した「我々はぁ〜」と同じ扱いを受けているではないか!



 その3 (H.29/04/27)
 『道義国家』と言う言葉を、さも崇高な理念を含んだ言葉のように偏愛するのは、稲田朋美だけではない。『日本会議』会長田久保忠衛もまた然り。『神道政治連盟』とか『新しい歴史教科書をつくる会』とかいった組織・団体から、「美しい日本」とか「誇りある日本」とかをベタベタと貼り付けた爺ィたちのブログに至るまで、この『道義国家』が頻出する。この言葉の出所は大川周明にあることに間違いない。では一度、大川周明が使った『道義国家』とはどの様な概念なのか、原典で確かめてみようではないか。親孝行とか友達を大切にすることが道義で、国民に道義心に満ちあふれれば、日本は道義国家になるなんて、気の抜けた炭酸水なみの戯言が書かれているだろうか?



 その4 (H.29/05/10)
 教育勅語復活待望論者に問い糾しておきたいことがある。1890年(明治23年)の発布から、1948年(昭和23年)の廃止に至るまで、教育勅語は教育の基本理念を示してきたと言われるが、その間、勅語の精神に則って見事に学校教育がなされたという歴史的事実は本当に実在したのか? と。例証する必要もないだろう。誰でも良い、身近にいる古老を捕まえて訊いてみるが良いのだ。教育勅語をうやういやしく押し戴いていた時代、貴方たちはどの様な教育を受けたのですか、と。彼らは何を語ってくれるだろうか。おそらく、軍事教練やら、学徒動員やら、集団疎開やらの、話は聴けても、教育勅語に関しては、頭を垂れて拝聴した記憶以外何も出てこないだろう。



 
 その5 (H.29/05/25)
 日清戦争勃発時の「死んでもラッパを口から離」さなかった木口小平のエピソードは、軍国美談として急速に純化され、1903年(明治36年)に『修身教科書』に登場する。これ以降『教育勅語』とその実践的ツールである『修身』は、児童・生徒の人格的成長を促すのでなく、国民の臣民化・占領地域住民の皇民化の「炉心」として機能し続ける。だが、政府や軍部だけがしゃかりきになって牽引したのではない。権力の意向に過剰反応したジャーナリズムも、こぞって煽り立てたのである。教育勅語は親孝行を奨励しているなどと言う人たちがいるが、教育勅語こそ、のんびりと親孝行に耽っておれるような、のどかな社会を崩壊させたのである。子供は、徴兵により親元から引き離され、極めて高い確率で「親より早い死」を強いられた。これ以上の親不孝があろうか。



 
  その6 (H.29/06/10)
 孔子主義の、親に孝行せい、なんていうのは僕は大きらいだね。あんなこと、いわれると孝行が理屈のようにきこえて、きわめて不愉快だ。 …… 最晩年、病床に置いた手帳に、正岡子規はこう書き残している。子規は明治の人である。当時の人々の大部分がそうであったように、彼もまた日清戦争に熱狂した。病を押し、従軍記者として遼東半島に渡ったりもした。そんな彼が、なぜ、親孝行という言葉に反発したのだろう。子規の死から一世紀をへた今日でも、教育勅語復活待望論者たちは、親孝行、親孝行、とざわついている。今回は、親孝行という言葉そのものにこだわって、その本質的な意味をじっくりと検証してみる。



  その7 (H.29/08/10)
 1980年代の初めごろだったと記憶する、助手席に父親を乗せて、大阪府の南部を走っていた。昼時だった。前方に大型トラックやらライトバンやらがひしめき合っているドライブインが見えた。トラックやタクシーが多く停まっている店は美味い、と父親が言うので、私は車の速度を落とした。だがその店の正面まで来ると、父親はこう呟いた、嫌いや。お父さん、大嫌いや。あんな屋号、よう付けるわ ……。看板には、大きな字で『おやふこう』(親不孝)と書かれていた。この店の名は、映画『トラック野郎』シリーズの雰囲気に乗じて付けられたものであった。ただそれだけのことなのに、父親は『親不孝』という言葉に露骨な嫌悪感を示した。それは、いったい何故だったのか?



 
 その8 (H.29/08/28)
 倉山満という男がいる。「憲政史研究者」を自称している。この男が『逆・教育勅語』なるものを作った。これで「サヨク」を論破できる、とはしゃいでいる。千葉麗子という女がいる。「サヨク」を「パヨク」と言い換えて流行らせた女らしい。この女が『逆・教育勅語』に飛びついて、《教育勅語を否定する人は「家庭内暴力をどんどんしましょう」「じゃんじゃん浮気しましょう」と言いたいの?》と、こちらも大変なはしゃぎようである。だが、残念ながら『逆・教育勅語』は論理として成立していない。それどころかヘイト・スピーチと同じ構造を持っている。えっ、分からない? じゃあ、説明してやろうか、懇切丁寧に。



 その9 (H.29/09/15)
 親孝行しましょう、と当たり前のモラルを説いて何が悪い、と、教育勅語復活待望論者たちはしたり顔で言う。これは無邪気を装った詭弁である。詭弁を弄するものが自分の詭弁に無自覚でいられるのは、言葉遣いが曖昧だから、である。『親孝行』をキーワードとして使いながら、「親孝行と言う言葉が、実際、どのように使われているのか」については、とんと関心がない。この連載では、『親孝行』とは、風刺的・戯画的に使われるのが一般的で、もし大まじめに使われるなら「つまるところ個人を責め苛む言葉でしかない」と繰り返し述べてきた。例題として、私の父親の場合をあげ、『その7』でその前半を書いた。今日はその完結編である。




ヘイト発言 : 人間の倫理性に対する攻撃




 その1 (H.29/03/10)
 安倍晋三にとって森友学園問題とは、国有地払い下げの問題でしかないようである。安倍が執拗に繰り返すのは、この常識外れのディスカウントにオレは関わっていない、という、くどくどしい言い訳だけである。だが、待てよ。確かにこの土地払い下げ価格には驚かされたが、我々が暗澹たる気分にさせられたのは、もっと別の問題であった。塚本幼稚園の異様な運営のされ方、園児や保護者に対する常識外れの対応、意見を述べる保護者に対する執拗な攻撃、偏執狂的なヘイト文書のまき散らし。その運営者が、実は、安倍晋三・昭恵夫妻の信奉者である、という事実。そして、後になってから必死で否定しようとしているが、安倍夫妻は籠池夫妻の思想的同行者であるという事実。野党もジャーナリズムもこの問題を忘れていないか?



 その2 (H.29/03/20)
 「ネトウヨ」とは、ネット上に生息する右翼、という意味だろうか? また『在特会』なども「ウヨク」という範疇で語られる場合が多い。だが彼らの思想は(思想と呼べるほどの思念があるかは疑問だが)、右翼とか民族主義とは何の関係もない。少し思想史をひもとけば、すぐに理解できることが2点ある。1) 右翼的思想には、国家の根本たる農民・庶民が困窮の底に喘いでいることに対する「義憤」が基礎にある。2) 右翼的思想が憎悪し敵とし見なすのは、国家の大願成就を妨げている腐敗しきった政治家である。残念ながら、「ネトウヨ」や『在特会』の主張のどこを探しても、この「義憤」と「政治家に対する怒り」を見いだすことはできない。存在するのは、最も単純で、最も質の悪い、ヘイト主義だけである。



 その3 (H.29/03/30)
 海外メディアは、森友学園問題の本質は思想的疑獄である、と正しく伝えている。安倍は「歴史修正主義者的な見方をする右翼のタカ派だと多くの人から見られていて」(英BBC)、その安倍が「極右学校へ秘密裏に寄付したと責められている」(米ワシントンポスト)、と。当の日本では、右も左も、国有地払い下げのディスカウント以外に何の興味もないようであるから、籠池の証人喚問が終わると同時に、政府・与党はそそくさと幕引きにかかっている。この政府の動きに呼応して、真っ先に、森友学園問題などもうええわ、という雰囲気をテレビでまき散らしたのは、何と、大阪の中年芸人どもであった。証人喚問のわずか2日後の朝に。



 
 その4 (H.29/09/30)
 政党が政策集団であることを止めて久しい。同様に、個々の政治家も政治理念で行動することはなくなった。いまや、政治家たちの行動原理は、いかにして主流派の側に属するか、という一点にしか存在しない。だから政治情勢が流動的局面を迎えると、とたんに離合集散の動きが活発化する。まさに今がそれでしょう。そんな政治家たちが、自分が現政権に対する反逆者ではなく、主流派志向の政治家であることの、身分証明として開示するのが、ヘイトである。私は、サヨクではありません、反日でもありません、美しい日本の信奉者です、その証拠に反日を叩いてみせます、サヨクも叩いてみせます、それで不足なら在日だって叩いてみせます、…… 、



 その5 (H.17/10/10)
 3月2日の東京都議会議事録を読んでみた。自民党の古賀俊昭が質問に立った部分である。これが、小池百合子が関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断るきっかけとなったと思われる。読んでビックリ。「先進国」日本の、「民度」に於いても最高位にあるはずの首都東京の、その代表者たちで構成される東京都々議会で、白昼堂々「ヘイト合戦」が行われている。この質疑応答のあいだ、君の発言はおかしいと、議長が制するわけでもなく、緊急動議を出す者もおらず、野次一つ飛ばずに粛々と議事が進行し、最後に拍手まで起こっているのだとしたら、都議会における民主主義はすでに死滅していると言わざるを得ない。どいつもこいつも、地獄へ堕ちろ。



 
 その6 (H.17/10/20)
 国家権力の中枢がヘイト主義を容認する。いや、自らが露骨には表現できぬ「本音」を、ヘイト主義が代弁してくれることを歓迎し、ヘイト主義者たちを積極的に庇護する。ヘイトは、庇護されているから、どんな支離滅裂な戯言でも公の場で通用するかのように現象する。古賀俊昭らのヘイト主義者は、それを、自分たちの力量であると錯覚し、快感を覚え、何度も、何度も、ヘイトを繰り返す。そして、保守本流が歴史を逆行させることに、二度、三度、道を拓くのである。2003年に起きた『七生養護学校事件』を覚えておられるだろうか。この古賀らの東京都議会とマスコミ、さらには国政レベルまでもが、擁護学校の教育現場に対して、異様なまでのバッシングを加えたのである。



その7 (H.17/11/03)
 衆院選投票日当日の朝、新聞受けに『この国を、守り抜く。/ 自民党 / 政権公約2017』というパンフレットが投入されていた。全体が醸し出す雰囲気は、まるでリクルート学生向け会社案内のよう。それもかなりブラック企業よりの。中身は好いとこ取りの寄せ集め。人をきちんと説得しようという論理的構成力ゼロ。企画会社(つまり電通である)の担当者が、前回どおりでイイッスよね、とヒヤリングもそこそこに、一晩徹夜して何とか間に合わせました、騙されても良いと思っている人だけどうか騙されてください、といった風の、にわかづくり感まるだし。おまけに、最初と最後には、きっちとヘイトを忍ばせて、大衆心理の愚昧なる部分に訴求することを忘れていない。



 その8 (H.17/11/17)
 開口一番「北朝鮮の脅威」と安倍は叫ぶ。だが、冷静に事態を観察している人は、キム何某の妄動は、脅威どころか、安倍自民党にとっては「北朝鮮の恩恵」として働いたことを理解している。偶然そうなった、のではない。内閣支持率30%以下という壊滅的危機から逃れるには、国民の怨嗟の矛先を「内憂」から「外患」に向けるより他はない。そうなることを狙って、安倍自民党は解散・総選挙の日程を巧妙に設定したのである。さあ、国会は終わりだ、これで一息つける。もう「内憂」には触れるな。訴求すべきは「外患」だ。だから安倍は、挨拶抜きで、つまり、国会の混乱に対する一片のお詫びや釈明もなく、脅威だ、国難だ、と煽り立てる必要があったのである。



 その9 (H.17/12/10)
 11月29日の昼下がり、テレビ東京系の地方局を除くすべての民放が、定例番組を中断して、横綱Hの引退会見を実況中継した。その日、その時間帯に、伝えるべきニュースは他に何もなかったのだろうか。横綱Hの記者会見が、他のすべての出来事より最優先で報じられるべきニュースだと、一体誰が判断しているのだろう。同じ日の朝、高速増殖原型炉『もんじゅ』について、原子炉容器内を満たしている液体ナトリウムの抜き取りを想定していない設計になっていると、日本原子力研究開発機構が明らかにした。核燃料リサイクルという『国家的プロジェクト』の破綻と、国家レベルでの大ウソが露呈したのである。これはニュースにならないのだろうか?

 
 その10 (H.29/12/25)
 この間、おじさんたち、またかよ …… 、と、思わず口にしてしまう不愉快なニュースが次々と伝わってくる。そのほとんどが『歴史修正主義者』たちの仕業なのだ。だが彼らは『歴史修正主義者』と呼ばれても、いささかの痛痒も感じていないように思われる。時計が遅れていたので修正した、進路が逸れたので修正した、など、「修正」とは本来あるべき正しい状態に修することなのだ、俺たちは、歴史が誤った方向に導かれるのを「修正」しているのだ、エヘン、と。じゃあ、 "Historical revisionism" という言葉に、より適切な訳語を考えてみよう。山本幸三には『歴史無教養主義』、安倍晋三には『歴史蹂躙主義』、吉村洋文には『歴史遺産廃棄主義』。こんなもんで良いんじゃない?



 その11 (H.30/01/15)
 あるツイッターで、次のような怒りの声を聴いた。「成人式が終わり、祝辞を送った県会議員と市議会議員の、酷い祝辞でもなんでもない話を聞いて、がっかりどころか怒りを覚えた。少子高齢化が本格化するから、頑張って年寄りの為に働いて欲しいって、祝辞で言うことか? 大人の先輩として新成人が困らない様にしてやる責務があるだろうに。こんなんが議員かよ。」 「少子高齢化」は、工業化した社会に共通の現象である。特に日本だけが「国難」と言わねばならぬほどその傾向が顕著であるわけではない。要は「福祉国家でありたいという目標を放棄する」と宣言することが憚れるので、「やたら数ばかり多い高齢者と、意識ばかり高くて子どもを生もうとしない腐女子」にヘイトを向けた、というだけのことである。



 その12 (H.30/01/30)
 私の家から西北西に10キロほどの所に安堵町という町がある。そこに増井敬史という町議がいるのだが、この20日、この男が "Facebook" にとんでもない投稿をした。これが最悪のヘイトなのである。私の記憶する限り、かの森友学園籠池諄子の場合が最悪のヘイトだと思うのだが、彼女のそれは、これでもか、これでもか、というネチネチしたヘイトの積み重ねで「ヘイトの神髄」を極めたのであったが、増井敬史の場合は、たった一発の記事でその域を凌駕している。だが、嘲笑して済ますわけにはいかない。私は、この一件に、権力の中枢がヘイトを煽り立て、権力の末端が煽られて舞い上がる、というファシズム的力学が働いている、と見ている。

 
その13 (H.30/02/21)
 橋下徹が「慰安婦問題に関する持論」を述べている。「 "当時の戦場で慰安婦というものは当然のことで、全然問題ない" という考え方と、 "慰安婦問題はとにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした" という両極端で来た。学者も全然悪くないか、悪かの2つだけ。中間を取ったのは僕だけと自負している」あるいは「日本も悪いし、世界各国も悪い。日本と韓国だけの問題じゃなく、世界共通の問題として考えるべきだ」云々。この理屈のどこがおかしいのか、徹底的に分析してみる。3年前に安倍晋三が『戦後七十年の談話』で使った詐欺師的論法の繰り返しである。

 
 その14 (H.30/03/18)
 いつの間にか、「森友学園に対する安倍晋三の責任問題」が「財務省における文書管理責任の問題」に、すり替わって いる。「首相のご意向」の忖度集団たち、ネトウヨどもは、「立憲やアサヒやリベラルの連中がいつまでも騒ぐから、国 会審議が遅れる」などとツイートし始めている。あらためて確認しておこう、森友学園問題とは一体何なのか? それは 、籠池夫妻と政治家や行政官の関わりが、日本の権力機構中枢におけるヘイト主義の連鎖を浮かびあがらせた、という思 想的疑獄なのである。ヘイト主義は「反日」という責め言葉でリベラルを揶揄する. だが、その矛先は、最終的には「在日」に向けられているのだ。

 
 その15 (H.30/04/17)
 "You Tube" で『塚本幼稚園』という言葉を検索してみると、「約15,000件」という検索結果が示される。「一般大衆」はこの膨大な情報をどの様に受容しているのだろうか? ある動画には、20本のコメントが寄せられているが、驚いたことに、投稿者に敵意を抱いていると思われるもの、意図不明のもの、が約半数を占めている。動画をネタに、あちこちで触れ回った「持論」を、ここでも反芻(はんすう)しているように思える。仲間うちでそっと囁くに止めておくべき第三者にたいする雑言を、堂々と公開しているのだ。インターネット上の "SNSツール" は、その名の通り、社会の公共性に向かって開かれている、と言うことをまったく理解していない。




『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判


     改憲論は昔からあった。その中身は今もさほど変わりはない。批判するにもあたらない愚論・俗論である。中位の知的能力を持った平均的な日本人なら誰でも、たやすくその正体を見通すことが出来る。だからと言って、昔ながらの護憲論を対置しておけば済む、というものではない。改憲論は真の狙いを隠し持っている。いま取り組まねばならぬ政治的課題は困難なものばかりだ。それを提示するだけで、政府・与党は国民の支持を失うだろう。現実の困難点からは隔絶された地点に、偽りの論争点を作りだし、大衆を煽り立て、興奮状態の中でAかBかの二者択一を迫ろうではないか。 …… つまり『愚者の狂躁』に追い込もうとしているのである。



 その1 (H.28/08/10)
 参院選で野党は惨敗した。これをマスコミは、改憲勢力が 2/3 の議席を獲得した、と報道した。これはおかしい。自民党は選挙期間を通じ憲法については一切触れることがなかったし、民進党の選挙公報にも憲法という文字 はない。つまり、憲法に関する真面目な議論など行われていなかったのだ。しかるに、あたかも現行憲法をめぐって、すべての政党が改憲派と護憲派に別れ、盛 んに論戦を闘わせたかのような報道を、何故しようとするのか。



 
 その2 (H.28/08/22)
 改憲論を批判する前に、まず改憲論をめぐる社会情勢と闘わねばならない。第一に、憲法を守る、とか、戦争に反対する、とか言う輩は、ただそれだけで嘲笑と攻撃の対象にしてよいのだ、という風潮が市民権を得たこと。第二に、愚直に憲法とか戦争を論じると、たちまち言葉狩りの網に搦め捕られる危険にさらされるようになったこと。ならば、じっくりと「史実」を対置するより他はないだろう。



 その3 (H.28/09/07)
 『アメリカン・スナイパー』の狙撃手が最初に殺したのは、少年と女であった。人の住まう土地を戦場とする限り、男子の正規戦闘員同士の「フェアな戦い」など、あり得ない幻想である。戦争は、男を殺し、女を殺し、子供を殺し、老人を殺し、そして味方をも殺す。殺した側には一生消せない悔恨が残り、次には、「殺された側」が「殺す側に」転化する。殺人と悔恨の無限の連鎖。これが戦争という人殺しのリアリティなのだ。安保法制だとか憲法改正だとかを安易に口にする人たちには、この「戦争のリアリティ」が決定的に欠如している。



 
 その4 (H.28/09/22)
 映画『プラトーン』で、エリアス軍曹は北ベトナム軍に取り囲まれて絶命する。しかしこの前に彼は、友軍のバーンズ曹長に撃たれているのである。しかも故意に。米兵が米兵を殺す? 何故?
 今回は、戦争が「味方をも殺す」という点について書く。キーワードは "fragging" と『督戦隊』である。味方殺しは、劣勢にたたされ規律の崩壊した部隊で起こる特異な現象ではない。軍隊という存在そのものに起因する最悪の暴力なのだ。しかし今、この『督戦隊』に関して、とんでもない妄言を撒き散らそうとする者たちが現れている。



 
 その5 (H.28/10/07)
 さる9月26日、安倍晋三は臨時国会の所信表明演説の最後で、「憲法改正案を国民に提示するのは、私たち国会議員の責任であります」と言い出した。ここで「憲法改正」を持ち出さねばならない理由は何もない。それまでの展開に「憲法改正」と論理的に繋がるものは何もない。「世界一の日本」と「未来」という抽象概念が、安倍のお喋りをもっともらしく見せかけるための「出汁」として大量に使われていたように、「憲法改正」は甘ったるい彼の演説に、安倍が最後に加える「とっておきの薬味」だったのである。別に驚くことはない。これが、安倍晋三における憲法改正の本質、なのだ。



 
  その6 (H.28/10/26)
 10月18日、沖縄の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事に反対する住民に向かって、大阪府警から派遣された機動隊員が「ぼけ、土人が」と罵った。直接の責任者である大阪府知事松井は、平身低頭して謝るどころか「表現が不適切だとしても、府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と労っている。同じ日『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』と称する団体の85人が、物見遊山の気分で靖国神社を参拝している。知事や国会議員の脳細胞には一欠片の「沖縄」も存在していないのである。大和人(やまとんちゅう)の「沖縄の歴史と現実に対する無知と無関心」。これこそ「沖縄問題」であることを、立派な政治家たちが証明したわけだ。 



 
  その7 (H.28/11/11)
 鶴保庸介とかいう『沖縄及び北方対策担当大臣』が「沖縄土人発言」に関して、とんでもない意見を述べている。機動隊委員が住民にどのような罵詈雑言を浴びせかけても、誰にも『言論の自由』があるからかまわない、と言うのである。『言論の自由』とは『世界人権宣言』とか『日本国憲法』とかに由来する概念であるが、どこを読んでもそのようなことは書かれていない。当たり前だ、日本の中等教育を受けた者なら誰だって知っている。それを追求する野党の論点も的外れ。機動隊が国家権力の暴力装置として住民に対峙している、という事の本質を見ようとしない。相手の脳髄に達しないような社会学的「念仏」はもうたくさんだ。亡者を撃つ言葉を持て。



 その8 (H.28/11/24)
 では実際に、機動隊員には、どのような教育・訓練がなされているのであろうか。教育・訓練の期間中に自殺者がでた兵庫県警と、教育・訓練の現場で死亡者がでた埼玉県警の二例を取り上げる。ここから想像できるのは、シゴキ・イジメによる徹底的な人間性破壊、そこから発生する憎悪の「警備の対象である仮想敵」と「脱落者」への転化、である。判断能力を失った隊員は、上司の指示・命令に絶対的に服従するようになり、「仮想敵」に暴力と暴言で立ち向かうことが可能になる。彼らにとっては、これが自らの存在意義の確認なのである。現在でも「示威行動による異議申したて」は盛んに行われているが、ジャーナリズムがその「思想」に感応すること絶えて久しい。だから機動隊の暴力装置としての本質を見失うのである。



 その9 (H.28/12/05)
 映画『プラトーン』のポスターには ”The first casualty of war is innocence.&quot” というコピーが記されている。これには、(A)戦争で最初に失われるのは兵士の「無垢な心」である、という意味と、(B)戦争の最初の犠牲者となるのは「女・子供・老人といった無垢な人たち」である、という二重の意味が含まれている。翌年の『フルメタル・ジャケット』は、この二重の意味を持つ問いかけに見事に応えた映画であると思う。『プラトーン』が、映画作者の体験に基づいてベトナム戦争を描くリアリズムに徹した映画であるとするなら、『フルメタル・ジャケット』は、ベトナム戦争の記憶を元に戦争の本質を解き明かそうとする映画である。ただし映画は分かりよい「解説」をしない。観客に考えさせ、判断させることで、戦争の本質を悟らせるのである。



 その10 (H.28/12/20)
 改憲論者が多用するフレーズの一つに「現憲法はアメリカに押しつけられたものである、自主的なものに改められるべきである」という理屈がある。この論法はおかしい。押しつけられたものであろうが、自主的なものであろうが、良いモノは良い、悪いモノは悪い。要は憲法そのものに対する価値判断である。彼らが言う「押しつけられたという歴史的事実」とは、憲法の準備過程で、日本側が『松本試案』を提示したにも関わらず退けられて、代わりに『マッカーサー草案』を強要された、という経過のことを指すのであろう。では、できる限り正確に、その経過を再現してみようではないか。時系列を整理し、文言は原典を参照して、歴史的実像の復元を試みる。

 

 その11 (H.29/01/08)
 相手が降伏し戦闘が止まっても、戦争が終わった、とは言えない。そこから占領政策という後半戦が始まる。マッカーサーは『極東委員会』開催より前に、新憲法制定の道筋をつけておこうとした。象徴としての天皇制を残そうとしたからである。これはアメリカの占領政策の最重要テーマであった。ルース・ベネディクトによる『海外戦意分析課レポート25号』(後に『菊と刀』に再編される)はその日本の占領政策に示唆を与えた軍事的分析である。戦争のリアリティを喪失している日本の改憲論者たちは、これを理解しようとしない。「毛唐の女ごときが、大和民族の精神を恥の文化だと決めつけている」と筋違いの反発をし、反感を煽り立ててている。



 その12 (H.29/01/18)
 憲法制定の初発から制定までを一連の流れとして鳥瞰してみる。見えてくるのは、立場を超えて新しい時代の仕組みを作り上げようとする合理的精神と、どう藻掻いても『国体』という共同幻想から脱却できない頑迷さとの、せめぎ合いである。押しつけた、とか、押しつけられた、とか言うような対立軸は、どこにも存在しない。1946年1月24日、幣原喜重郎はマッカーサーに平和憲法のイメージを伝えている。改憲論者は、この「幣原からの憲法案の提示」という事実が大嫌いなようである。嫌いが昂じて、歴史の捏造という愚挙をしでかす輩までいる。どのような愚論・俗論も笑って済ますことができるが、歴史的事実と表現されたモノの改竄は許されない。これこそ憲法の精神を蝕む行為である。



 その13 (H.29/02/05)
 ホテルのチェーン店を経営するオッサンが、「南京大虐殺なんか、なかった」と書いた自著を客室に置いているらしい。「正しい日本の歴史を知らせるため」なんだそうな。「三十万人を虐殺というのは計算が合わない」、だから「南京事件はなかった」、というのがその言い分である。そんな理屈が成立するのなら、「私は100ドル紙幣を見たことがない」、だから「アメリカに通貨制度は存在しない」という珍説だって真理になり得るだろう。でも、そんな馬鹿げた問答は止めて、歴史的事実をきちんと確かめよう。一例として、田村泰次郎の『裸婦のいる隊列』というエッセイを取り上げる。彼は6年間、一兵卒として中国を転戦した経歴をもつ。彼の述懐に耳を傾けようではないか。



 
その14 (H.29/02/23)
 元谷外志雄とか長谷川豊とかいった人たちの弄する詭弁は、所詮「ヘイトスピーチ」水準のものである。アジアとか、サヨクとか、社会的弱者とかを、仮想敵に仕立て上げ憎悪を煽り立てる。一欠片の論理性も内包していないのだから、理念とか思想の問題として言うなら、聞かなかったことにして放っておくしかないのだ。だが、彼らを、単なる政治談義好きの爺ィだとか、おっちょこちょいの中年男だとか思って放置しておくわけにはいかない。彼らの本質は、その飽くことなき「権力掌握指向」にある。元谷は、安倍晋三の後援会『安晋会』の副会長であるし、長谷川は『日本維新の会』から公認を得て次の衆院選に出るという。彼らは絶えず権力の中枢に躙り寄ろうとする。何によってか? 安倍晋三をはじめとする現政権主流派の、本音を代弁することによって、である。


 
 
原発推進論 ーー 不勉強を傲慢さで補う屁理屈

     原発は発電コストが低い、なんて大嘘である。原発推進論の本当の狙いは「廃炉の先送り」にある。原始力村の構成員たちは、原発が耐用年限を迎えた今となって初めて、廃炉がどれだけ困難な課題であるか、に気づき始めた。原発は、稼働させた後に出てくる諸問題、つまり「廃棄物・汚染物の処理」と「停止・廃止の方法」に何の現実的な裏付けもないまま進めてきた事業だったのだ。そんなこと、いまさら言い出せるものか、責任をおしつけられるぞ、せめて自分の任期中はパンドラの箱を開けずにおこう。これがすべての原発推進論が隠し持つ根源的不安である。まさに亡国的陰謀。



 その1 (H.28/03/22)
原発推進理派に共通する第一の特徴は、反原発・脱原発を主張する人たちを馬鹿扱いして蔑むことである。悲しむべきは、実際は人間全体を見くびり卑しめていることに気付いていないことだ。その他、原発推進派のこねくりまわす屁理屈を十一に類型分類してみる。



 
 その2 (H.28/03/29)
原発推進論の一例として堀義人の発言を取り上げる。彼は言う、人類最大の危機は地球温暖化だ、原発はその防止に有効だ、と。その根拠は「原発は石化燃料を燃やさないから二酸化炭素を出さない」という一点に尽きる。だが、原料の採掘から精製、原発設備の建設・稼働・維持・廃炉、汚染廃棄物の処理・保管などの全過程において、一体どれほどの二酸化炭素を排出するのだろう。誰も計算していない。


 その3 (H.28/04/08)
 堀は言う、国民1人が一生の間に利用する電気に伴う高レベル放射性廃棄物はゴルフボール3個分程度のものでしかありません、と。彼の言うのは、使用済み核燃料の《キャニスター化》のことなんだろうが、『電器事業連合会』のデータによれば、2010年までに処理できたのはたったの0.7%だ。



 
 その4 (H.28/04/18)
 原発推進派は「原発は確かに使用済み核燃料を出すが、これはリサイクルが可能で再利用できる、最終的なゴミの量はうんと少ないものだ」と言う。このリサイクル実現のための設備が『もんじゅ』と『六ヶ所再処理工場』であったはず。しかし両施設とも立ち上げて20年以上になるが、何の実績も上げていない。廃炉作業も同様。『ふげん』は廃炉のモデルケースにしようとしてるが、今のペースで行くなら処理・撤去の完成は2500年後になる。



 その5 (H.28/04/28)
 大飯原発では、有識者たちが「原発再稼働の是非」を「活断層の有る無し」にすり替えた。しかし航空写真を一目見れば敷地の中央部は「盛り土」で造成されているのが分かる。地震の際、激しく揺れることは必至である。そんなところに原子炉など作っちゃいかんのである。「放射能被曝の人体への影響」というテーマに関しは、専門家と言えども、出来ることは『国際放射線防護委員会(ICRP)』の数値を読むこと以外に何も根拠も持ってはいない。




その6 (H.28/05/10)
 こと「放射線被曝量」に関するかぎり、ホームページにアップされたはずの記事がことごとく抹消されている。それどころかマスコミ全体が「お前は原発推進にイエスなのかノーなのかと」二者択一を迫り始めている。この「ノー、と言えない」袋小路に人々を追いやる過ちは、第二次世界大戦末期、日本政府と軍部が犯した誤りに酷似している。





 
日本会議の正体を暴く


    あの戦争をわざわざ大東亜戦争と呼び変え、いつまで経っても太平洋戦争の敗戦を受け入れられない老人たちがいた。まあ良いではないか、無邪気なアナクロニズムに酔っているだけなのだ、と私は微笑みを返してきた。しかし現在の『日本会議』となると話は違ってくる。彼らのホームページを見てみよう。もうグロテスクとしか言いようがない。混濁した日本のイメージと、反日というレッテルによる仮想敵対者の捏造の飽くことなき反復で埋め尽くされている。思想性の一欠片さえ存在しない。しかるに、聞くところによると、国会議員のうち300名近くが『日本会議国会議員懇談会』に参加しているという。安倍内閣の閣僚に至っては大半が参加者らしい。



 その1 (H.27/11/25)
 日本会議のホームページを開くと『誇りある国づくりへ』という大きなロゴが目に入る。「誇りある国」は変でしょう。どんな辞書を参照してもこんな「誇り」の使用例は出てこない。かくも珍奇なスローガンを掲げて平気といこうことは、『日本会議』の主唱者どもが、実は、日本文化の事などちっとも大切に思っていないことの証明である。でも、いるんですよ、「誇りある国」の好きな人たちがたくさん。一体、どんな人たちかしら?



 その2 (H.27/12/05)
 『日本会議』は『日本の息吹』という機関誌を出している。表紙には、日本の風物詩的景色のなかにニコニコ顔の子供たちを配したイメージが、飽くことなく繰り返される。これらが、彼らが幾多の敵から守ろうとしている「日本的なるもの」なのだろう。だが実際は『日本会議』が復活させようとしているものこそ、これらの「日本的なるもの」を破壊してきたのだ。映画『二十四の瞳』を例に、これを検証してみる。



その3 (H.27/12/15)
 戦争は終わっても『国家総動員法』の時代に思春期・青年期であった世代が心身に受けた損傷は、並大抵のことで恢復されることはなかった。ほんの少し歴史と我が身の過去を振り返れば「日教組に支配された戦後教育」が戦後世代の精神に〈感受性に属するもの〉を蘇生させたことが分かる。つまり〈日本的なるもの〉の伝承を可能にしたのは「戦後レジーム」なのである。






人件費を悪と考える経営

    会社の業績が思わしくなかった時、それを誰かの所為(せい)にする。経営コンサルタントが財務諸表を見てまず言うのは、御社は人件費比率が高いですね、の一言。直接的に生産や販売に役立ってないように見える部門が真っ先に標的にされる。何度もこんな経験をした。これは会社組織の悲しい性(さが)のようなものだと思ってきた。でも、まだ部分的な攻撃だった、牧歌的であった、とさえ感じる。「グローバル化社会」の現代では様相が一変した。「昨年対比の数値目標」をクリアすることだけが至上命令となり、人件費への無差別攻撃化が始まったのである。



 その1 (H.27/10/17)
 近隣のガソリン・スタンドがことごとく「セルフ式」になってしまった。見づらい液晶画面、紙幣を呑み込もうとしない投入口、出てこない釣り銭、喋り続ける粗悪なスピーカー。給油のたびに苛つく。そこまで客に苦痛を強いて人手を減らしたのに経営は苦しいと言う。そりゃそうだろう、こちらはウィンドウ・ウォッシャ液の一本だってガソリン・スタンドで買わなくなっているのだから。



 その2 (H.27/10/23)
 QCサークル活動は、パート社員・アルバイト社員といえども創造的労働の主体であると見なしていた。しかし1980年代半ば以降、アメリカ流マーケティング経営がこのQC手法を駆逐してゆく。数パーセントのハイタレント・マン・パワーさえしっかりと育成出来れば、残りの90%以上はマニュアルで動くのだ。日本は世界一人件費が高い国なのだ、作業のマニュアル化を進め、より安価な労働力に置き換えろ。



 その3 (H.27/10/30)
 確認すべきは、購買力とは「労働対価を支払うその場で」発生するということである。原価を下げられるからと言って、支払先を遠くへ持って行けば行くほど、その会社の造りだした価値の流通は停滞する。アメリカ流マーケティング経営は「同一事業者間での市場占有率を高める」という切り口だけを見て、目の前にいる雇用者に潤沢な労働対価を支払うからこそ彼らは優れた購買者になる、という根本原理を忘れている。不景気の原因はそこにしか無いのに。





安倍晋三が醸成する「日本」の概念


     平成24年、街角に突如として、安倍晋三の顔と『日本を、取り戻す。』という文字が出現した。衆院選に向けてのポスターなのだから、掲げるべきは「政策を簡潔に述べた政治的スローガン」だったはずだ。これでは「日本が何物かに奪われた、という妄想を振りまくキャッチコピー」だろう。これを期に、自民党は保守の政策政党であることを止め、反日・ネガティヴ・キャンペーン専門の超低俗イデオローギ政党へと変節してゆく。



 その1  (H.27/10/07)
 自民党の『日本を、取り戻す。』も公明党の『日本再建』も同じ論理構造を持っている。それは、今までの歴史の中で何度も繰り返し登場してきた「疎外論」の、最も貧しく貧相な再現なのである。つまり「サヨク」が大昔に放棄した理論を、こっそり剽窃しているのだ。



 その2 (H.27/10/13)
 現在の日本が直面している困難点を一言で言うならば、金融資本による企業の経営権獲得が急激に進み、資本主義の基本的要素である〈株式会社の仕組み〉がもはや自立的には機能しなくなっていること、である。安倍晋三が持ち出す「奪われた日本を取り戻す」キャンペーンは、その最大の困難点から国民の眼をそらせるための『囮』(おとり)でしかない。







   安倍晋三の手法はマーケティング理論  (H,27/10/05)

 アメリカ連邦議会での安倍晋三の演説は、企画会社の営業担当が顧客であるお歴々の前で行う「プレゼン」に似ている。彼は信念とか政治的理念で動く人間ではないのだ。彼の行動原理は「アメリカ流マーケティング手法」にある。







 『 安全保障関連法 』に対して民主党は何もしなかった  (H.27/10/03)

 安全保障関連法採決のあと民主党は声明を出している。国民の理解も納得も得られないままに、あるいは、国民的議論を欠いたままに、事を進めたのがいけない、と言うのだ。何じゃ、こりゃ、手続きの問題だったのか? 私なんぞは、安倍に何百時間説明されようが、爪の先ほども彼の言い分を理解できる自信は無い。



    
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