ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。









































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平成27年 10月 05日 
         『 安倍晋三の手法はマーケティング理論 』



 何を考えているのか分からない安倍、 実はこう言いたいのだ


 民主党岡田が「何も考えていない」脳天気さで浮遊している間に、自民党安倍は「何を考えているのか分からない」不気味さを噴出させながら突っ走り続けている。
 この安全保障関連法に至るまでにも、特定秘密保護法、原発再稼働、TPP、マイナンバー法、等々を、ことごとく多数派の論理で押し切ってきた。これらの多くは、歴代の権力者が強権で押し切るのを躊躇してきた事案である。躊躇するにはそれだけの理由があったのであって、権力者たちは程度の差はあれ、問題の困難さを認識していたのだと思われる。しかるに安倍は、何の躊躇いもなく、これらの事案をサッサと処理してしまう。他者の気持ちなど(これには同じ自民党内の人々も含まれる)さらさら顧みる風もなく、調理人が立て込んできたオーダーを次々と片付けていくように、一心不乱に動きまくる。何かに憑依されたかのようで不気味である。いったい何が彼をそこまで駆り立てているのか?

 「ご理解いただきたい……、」
 「ご理解いただけなくて残念である……、」

 これが最近の安倍の(官房長官の菅もそうだが)反対者に対する口癖のようである。例えば国会の委員会など、野党議員が執拗に質問を繰り返す。安倍がそれに返すのは、数十秒の、何度繰り返したかわからぬ常套句。その最後に、ご理解いただきたい……、ご理解いただけなくて残念である……、が付け加わる。
 相手に分からせよう、とか、論駁してやろう、とかいった意志力が全く感じられないである。何と冷めたものの言い方だろう。自分の反対者、冷ややかな傍観者、そして政治には目立った関心を示さないごく一般的な大衆、そういう人たちには、真剣に投げかける言葉を持たないようだ。いや、その人たちの存在すら眼中に無いのだろう。
 こんな事ばかり繰り返していて、徒労感に捕らわれることは無いのだろうか。
 しかし、私には、彼の心の声が聞こえる。彼はこう言っているのだ。

 「自分たちはとにかく前へ進めようとしているのだ、つべこべ言うな。」
 「文句があるなら代案を出せ、それができないのなら黙っていろ。」
 「何も出来ないのに反対するやつは間違っている、馬鹿だ、反日だ。」

安倍に政治理念は無い、あるのはマーケティング手法のみ


 その一方で、安倍は、自分を認めて欲しいと願っている人たちに対しては、過剰なまでの媚びへつらいを見せる。例のアメリカ連邦議会での演説などが良い例だろう。ネットのあちこちにアップされているから、検索すればすぐにヒットします。しばらくは恥ずかしさや腹立たしさを我慢して見て見ましょう。
 するとすぐに分かる。この演説は、アメリカ社会が良しとする演説の典型に、とことんまで順応させたものであることが。いや、順応を通り越して「過剰適合」している。

 でも、安倍の幇間ぶりを笑ってばかりはいられない。ここには安倍の行動原理がハッキリと現れている。
 これは政治の場における演説というより、企画会社の営業担当が、顧客であるお歴々の前で行う「プレゼン」に似ている。そう考えると、安倍に感じていた違和感・ちぐはぐ感の正体が見えてくる。つまり、彼は信念とか政治的理念で動く人間ではないのだ。彼の行動原理は、ずばり「アメリカ流マーケティング手法」にあるのだ。

 自分の顧客として措定できる対象に対しては、その対象が最も好むと思われるストラテジー(戦略)を中心に据え、その対象が最も好むと思われるスタイル・ティスト通りに全体を演出してみせる。その顧客とは、周囲に侍らせた取り巻連、諸官庁の高級官僚、その背後にある経団連・金融界・アメリカ、そして『日本会議』的ナショナリズムで囲い込んだ無自覚な大衆、等々である。彼らから、よしよし良くやった、と賞賛されることが安倍の無上の喜びであり、彼らが小選挙区比例代表並立制という錬金術的ペテンによって多数派として現象するかぎり、安倍は安穏としておれる。

 自分の顧客とはなり得ない人たちは関心すら示さない。一方、自分の顧客には見苦しいまでに迎合する。見事なまでの二面性。この投資効率の善し悪しで行動パターンを選択してゆくマーケティング的手法が、彼の全てである。政治的理念なんぞは一片たりとも存在しない。
 政治的理念とは、自らが正義だと信ずる事を、効果・効率を無視して増殖させようとする意志力のことである。他者を変えることの出来る主体であると認め、他者に対して積極的に関わろうとする。それが政治家であった。大衆・庶民の側もそれを美徳と認め、見習おうとしたものである。ところが昨今は、ウヨク、サヨク、と安易にレッテルをはって、相手をいとも簡単に埒外に放り出そうとする風潮が支配的だ。大衆・庶民も安易に流れているが、一国の頂点に立つ人が、その典型であって良いのか?
 昔の右翼・左翼は政治理念の塊のような存在であった。時代が下るにつれ、政治理念は次第に減衰してきた。安倍に至って完全に消滅した。だから、安倍のことを政治家だと誤解している人にとっては、彼が何を考えているのか全く分からないのは、至極当然のことなのだ。

 私は、1980年代の半ばに日本に侵入してきたマーケティング理論こそ、その後の日本を駄目にした最大要因だと考えている。今後何度か、このテーマについて展開してみるつもりである。

  
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