ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。



大川周明



北一輝





















『5・15事件』を伝える新聞



『5・15事件』と喜劇王チャーリー・チャップリンの関係が伝説となっている。
以下、ウィキペディアより
事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養首相と面会する予定であった。また「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺も画策されていた。しかし当日チャップリンは思いつきで相撲観戦に出掛けた為に難を逃れた。
しかし異説が多くある。
チャップリンが天麩羅を食べに行ったので難を逃れたとか、彼はもっと以前から来日していたとか、15日の面談予定が延期されていた、とか。
彼が相撲見物に行ったことはこの写真で確かめられるのだが。

右から玉錦、高野虎市、チャールズ・チャップリン、武蔵山、実兄のシドニー・チャップリン、清水川


『2・26事件』を伝える新聞



事件発生から2日後、戒厳司令官・香椎浩平中将の名で『兵に告ぐ』が放送された。同時に、放送の内容を簡略にしたビラが飛行機から撒布された。映画などに盛んに引用され、『2・26事件』の中心的イメージとなっている。



『愛のコリーダ』(大島渚:1976年)
『阿部定事件』が起こるのは5月18日だが、それより以前、吉蔵と定が房事に耽る待合の外から、『2・26事件』の喧噪が聞こえてきた。

左:藤竜也
右:松田英子



















戦後『東京裁判』の1シーン。
大川周明が前席に座る東条英機の頭を叩く。これにより大川は精神異常と判断され、被告から外された。私が大川周明の名を知ったのは、この出来事からである。

動画が You Tube にある。
【註1】右本文の下





















へ-ゲル
Georg Wilhelm Friedrich Hegel
名前も顔も難解。
哲学は難解、というイメージを決定づけた張本人。



むかし(1966年)『おはなはん』という連続テレビ小説があった。主演に抜擢されたのが樫山文枝さんで、「ヘーゲル研究家 樫山欽四郎の娘さん」という紹介のされ方をしていた。当時の高校生はヘーゲルという名前ぐらいは知っていたのだ。
本文の内容から、だんだんとズレて行きますが『おはなはん』の1シーン

左:高橋幸治
右:樫山文枝




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『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い?    その3
                   平成29年04月27日



 防衛大臣稲田朋美は、「教育勅語の核は、日本が道義国家を目指すべきである、という点にある」と、繰り返し述べている。稲田はこの『道義国家』という言葉を偏愛していて、主催するパーティーを『道義大国を目指す会』などと銘打って、参加者に教育勅語の唱和などをさせて悦に入っている。ところが『教育勅語』には、この『道義国家』という訳語に相当する言葉など無いのである。
 調べてみると、俗流右翼イデオローグ佐々木盛雄による、教育勅語の『国民道徳協会訳』なるものがあり、その1行目にこの『道義国家』という言葉が出現するのである。だが、読んでみると、この訳の非道いこと。『教育勅語』にとんでもない改竄を施している、としか言いようがない。
  …… とここまでが前回の話。


『道義国家』と言う言葉が大好きな人たち


 だが、『道義国家』という言葉を、自分の政治的指向性を表現するキーワードとして偏重するのは、ひとり稲田だけではない。グーグルで検索してみたら、『日本会議』およびその周辺に集う疑似右翼・似非民族主義者たちは、しきりとこの言葉を使いたがるようである。
 例えば、昨年7月、杏林大学名誉教授で日本会議会長でもある田久保忠衛は、外国特派員協会で会見し、質疑応答の中で次のように述べている。

(質問): 十年後の日本はどうなっていると思うか?
田久保: おそらく憲法改正されている。道義国家が目的だと思う。
(質問): 道義国家とはどういう意味か? どうやって実現するのか?
田久保: 憲法には目標を掲げることが大事だ。独立自尊の道義国家。私なりの解釈は人権、民主、法治など普遍的な価値観を尊重してこれを求める旗を掲げていこう。


 「道義国家とはどういう意味か?」と質問したのは、ロイター通信の記者だったらしいが、何も「田久保の使う『道義国家』には、どの様な崇高な理念が含まれているのか?」というハイ・レベルの質問をしたのではない。ただ単に「『道義国家』という言葉の意味が分からない」から尋ねているのである。
 『道義国家』は "Moral Country" と訳されたらしいが、外国人特派員が戸惑ったのは当然であろう。 "Moral" とは優れて「人間の精神的・倫理的属性」を表現する言葉であり、それが「社会的概念」である "Country" を修飾しているのだから。「地球にやさしい」とは奇妙な日本語であるが、「やさしい地球」とは間違った日本語である。それと同様の誤用にしか聞こえなかっただろう。
 「道義国家が目的だと思う」という田久保の答えに、再び「道義国家とはどういう意味か?」と、問いを返さねばならない。つまり田久保の答えは、答えになっていない、のである。これは田久保が高齢で耄碌(もうろく)した、というような事ではない。もしそうならば、老いとは万人に公平に訪れるものであるから、質問もほどほどにしておくのが礼儀だろう。ところが、どっこい、この爺ィ、耄碌なんかしているもんか。道義国家という言葉を使えば、何か崇高な社会学的見解を述べている、と聴き手を惑わすことができると確信している。つまり、当世風マーケティング理論のワンフレーズ・イメージ戦略を駆使しているわけだ。

 その他、『神道政治連盟』やら『新しい歴史教科書をつくる会』やらの組織・団体から、「美しい日本」とか「誇りある日本」とかをベタベタと貼り付けた、得体の知れぬ爺ィたちのブログに至るまで、この『道義国家』が頻用されている。


『道義国家』という言葉は、どこから来たのか?


 では、その元となった『国民道徳協会』こと佐々木盛雄は、どこからこの『道義国家』という概念を流用してきたのであろう。
 思い当たるのは、次の文書である。これしか無い。

 大川周明『道義国家の原理』1925年(大正14年)

 これは10ページあまりの短いパンフレットで、ネットでも簡単に読むことが出来る。だが、その内容に入る前に、大川周明について少しおさらいをしておこう。
 もう、今となっては、大川周明という名前さえ知らぬ人がほとんどであろうが、北一輝、大川周明、と言えば、戦前の超国家主義の代表的思想家である。『ヘイト発言、人の倫理性に対する攻撃 その2』で、「左翼と右翼を、超早回しで定義」してみたが、その「右翼」に関する内容は、そのまま二人の思想の概説になっている(たいそう粗っぽいもので恐縮ですが …… 。でも、どの思想家についても言えることだが、その思想を短くまとめる、なんてことは不可能です)。

 北一輝は、1936年(昭和11年)、『二・二六事件』の理論的指導者であるとして逮捕され、翌年、銃殺された。罪名は叛乱罪である。
 大川周明は、その4年前の1932年(昭和7年)、『五・一五事件』に関わった廉で逮捕され、禁錮5年の有罪判決を受けて服役している。罪名は同じ叛乱罪である。つまり『二・二六事件』の時は獄中にいて、『日支事変』の始まった年に出獄しているわけである。
 大川は、戦後『東京裁判』(極東国際軍事裁判)で、「A級戦犯」の容疑で起訴された。民間人で「A級戦犯」として起訴されたのは、彼一人であった。国家に対する反逆罪で投獄されていたような民間人が、なぜ東京裁判で「A級戦犯」として起訴されたのか? まことに理解に苦しむが、東京裁判の研究者として有名な粟屋憲太郎氏は、「大川ほど著作のある人はいない」からだ、と推定している。大東亜共栄圏という理念が、日本帝国主義のアジア侵略の思想的基礎となった。このことを立証するためには、証拠となり得る「文書」の存在が必要となる。その文書が、大川の著作以外にはまとまって存在していなかった、というあたりに「大東亜共栄圏という理念のいい加減さ」を見る思いがする。寄って集って騒いでいただけで、まじめに論考などしていなかったことの証左ではないか。

 確かに大川は「アジア主義」を主張した。では、「大川のアジア主義」と「大東亜共栄圏という理念」とは、何が同じで、何処がちがうのか? 北一輝と大川周明の研究者である松本健一氏はこう述べている。

 大川の本には、もともとアジアを侵略し、支配していたのは欧米列強である、だからそれを攘夷、追い払うという行動が大東亜戦争であると書かれている。その意味では、大川周明という人は、大東亜戦争の唯一のイデオローグというのが私の評価なんですけどね。大川のアジア主義というのは、日本を中心とする、あるいは日本を盟主とするというところに問題点があるわけですが、西洋を攘(はら)って、アジアを解放、復興させるという思想ですね。そのために、このままの西洋化した日本でいいのか、東洋の道義に従って国家改造をしなければならないと言っているわけですね。別にアジアを侵略しようと思っているわけじゃない、アジアを解放するために、日本がその資格を持つために、東洋文明の担い手として道義的に国家改造をしなければいけないという東西対抗史観になっているわけです。 −−−− NHK出版『日本人は何を考えてきたのか 昭和編』(126p.)

 ここに『道義』という言葉が出てくるが、もうこれだけで、『日本会議』およびその周辺に集う疑似右翼・似非民族主義者たちが使う『道義』の意味が(正確に言えば、意味に凝縮される以前の、漠然としたイメージ用語でしかないのだが)、大川周明が使用した『道義』から、大きく逸脱したものであることに気づかされる。まさに、正反対の使われ方をしている。

 大川周明の『道義』:
   アジアを解放する資格を得るために、汎東洋的道義で日本という国家を改造するべきだ
 日本会議の『道義』:
   アジアを蔑視する概念として、日本固有の道義で日本という国家を美化しよう。

 つまり、大川の「汎」アジア主義を、「反」アジア主義に貶めたのである。


大川周明『道義国家の原理』について


 さて、大川周明『道義国家の原理』に向かおう。
 ネット上では、次の二カ所で読める。

1)『国立図書館デジタルコレクション』
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964138
 標題は『道義国家の原理 − 社会教育研究所 リーフレット3』となっていて、これが初出らしい。ただし保管原本の傷みが激しくて多少読みづらい。最終ページが欠落している。

2)『大川周明先生著作電子化計画』というサイト
   http://www.okawashumei.net/pdf/jijironshu2a.pdf#page=1
 こちらの標題は『道義国家の原則』となっているが、1)と内容は同じである。『大川周明全集−第四巻 時事論集−第二編 行地社時代』をpdf化したもの。こちらで読むのがおすすめ。

 合計六節、10ページあまりの短いパンフレットである。一世紀近く前の文書であるのに、現代の我々にも驚くほど容易に読める。理由は、これが論文・論考の類いではなく、政治的アジテーションであるからだろう。論理は単純明快で、使用されている述語のイメージ喚起力が極めて高い。もちろん『教育勅語』について書かれたような文章ではない。
 要約は困難だと感じられるので、各節から、少しずつ本文を引用しておこう。読み慣れない漢字には(るび)を振っておいた。


大川周明『道義国家の原理』を読んでみる


◆ 第一節
 国家は、一切の生命が然る如く、一貫不断の創造的行程に在る。
 国家は …… 国民の魂を基礎とし、且つ国民の魂を以て組み立てられた家である。故に日本を創造しつつあるものは、端的に吾が魂であり汝の魂である。

◆ 第二節
 無政府主義、社会主義、個人主義、享楽主義 − 其の他あらゆる国家を否定する思想が、黒雲の如く吾等を囲んで渦巻いて居る。

◆ 第三節
  …… 吾等古今の歴史を繙く時、世の進歩を促し、国家創造のさきがけをなせる者は、常に当時の所謂危険思想家なりしを知る。

◆ 第四節
 さて社会は、一定の範囲竝(ならび)に一定の段階に於ける道徳的精神の、一応は完成せられたる客観化なるが故に、換言すれば既に到達せられたる一の善なる状態なるが故に、其の性質に於いて必然固定的であり、保守的である。之に反して個人は、息(やす)むことを知らざる善の追求者なるが故に、其の性質は動的であり、進歩的である。一般民衆のそれよりも高き道徳が、常に先ず偉大なる個人の魂によって把握せられ、従って其の社会的環境が、其の味識(みしき)せる道徳の具体的実現として適(ふさ)わしからぬものと意識せられ、茲(ここ)に社会進化の動因が出来上がる。彼は一層高き社会意識の把持(はじ)者として多くの場合は迫害圧迫と戦ひつつ、その新しき社会を自己の周囲の諸々の魂に植付ける。而(しか)してこの社会理想が善民を動かすに至る時、新しき社会が具体的に実現されるのである。

◆ 第五節
  …… 国家または社会を、法律学的乃至(ないし)社会学的に研究することは、固より可能であり且つ必要でもある。さり乍ら法律学的乃至社会学的対象としての国家は、国家其者に非ず唯だ国家の一面にすぎぬ。此の抽象せられたる一面を、恰も国家の全体なるかの如く取扱うことは、生理学的乃至生物学的対象としての人間を人生の全部なるかの如く取扱うと同じく、明瞭に一個の誤謬である。個人及び国家は、一の『自然』としてに非ず一の『精神』たることに、其の究竟の面目を有するが故に、国家の本質は之を道徳的主体として、倫理学的に尋求する時、初めて其の真個の意義と価値とを正しく把握することが出来る。

◆ 第六節
 かくして国家も亦個人と同じく、国家生活に於ける文教、政治、経済の三部門に於いて、夫々(それぞれ)正しき関係を樹立することによって、初めて吾等の道徳的実現としての国家たることが出来る。吾等は如是の原理に則って、道義国家の出現のために眉毛を吝(おし)まぬであろう。日に新たに日々に新たなるべかりし国家の制度が、幾多の理由の為に長く放置せられたるが故に、今や日本は非常なる革新を必要とするに至った。吾党の同人は、事茲に至りしの責を他に帰してはならぬ。国祖の霊前に、一切の責は吾にありと懺悔し、日々の行持をして、悉く日本維新の為の廻向たらしむべく覚悟せねばならぬ。


 如何でしょうか? 第六節に『道義国家』という言葉があるが、「親孝行とか友達を大切にすることが道義で、国民に道義心に満ちあふれれば、日本は道義国家になる」なんて、気の抜けた炭酸水なみの戯言はどこにも書かれていません

 大川は言う。
 無政府主義者たちが言うように、国家は、存在悪であるから打ち壊して無くしてしまえば良い、というようなものではない。国家は大切なものだ。なぜなら国家とは「国民の魂を基礎とし、且つ国民の魂を以て組み立てられた家」なのだから。しかし、国民精神の具現化である国家・社会も、あるレベルまで完成させられると、たちまち固定化・保守化してしまう。これに対し人間は、絶えざる善の追求者であるから、さらなる国家・社会の改革・発展を目指そうとする。ここに矛盾が生ずる。矛盾の解決には前衛部隊、つまり強力な指導者たちが要る。国民一般より「一層高き社会意識の把持者」が必要なのだ。国民一般より突出すれば、権力や保守派から迫害や圧迫を受けること必定である。だがリーダーたちは、意識的に前衛の位置に留まって、次の新しい社会とはどの様なものか、そこに至るには何をなすべきか、を具体的に世に示し続ける必要がある。この際心すべきは、法律とか社会学で解けるのは国家の半面でしかない、ということだ。国家の本質を究めるには、国家を道徳的主体として倫理学的に尋求して初めて可能である。今や、改革は待ったなし、である。なんだかんだと理由をつけて旧弊を放置してきた。誰のせいでも無い。我々、リーダーとなるべき者が怠慢だったのだ。

 これは「日本維新」のために決起を促す檄文である。だが、ここで使われている言葉は、そういった文書にありがちな、空疎さに陥ることから免れている。歴史とか国家に関して、執拗に思考を重ねた後の言葉であるからだろう。

 この『道義国家の原則』を読んで、ヘーゲルの『絶対精神』を連想するのは、私だけではないだろう。人間の道徳的精神が、国家的精神としてに具現化すると同時に、固定化・保守化が始まり、また新たな人間の道徳的精神の成長が必要となる、といった弁証法的論理展開は、ヘーゲルそのもではないか。今では、ヘーゲルなどと言えば、大川周明以上に読む人も少なくなったことだろう。でも、せっかくネットがあるのだから、一度「ヘーゲル 絶対精神」で検索していただきたい。昔と違って、分かりやすい解説が多数ヒットします。
 先進諸国より遅れて、近代化(資本主義化)を開始せざるを得なかった国家と、その国民が直面する困難さ。観念的世界の高みから現世を解きほぐすことは、すでに不可能になっている。歴史的現実から出発するしかない。しかし歴史とは、調べれば調べるほど「駄目な歴史」の繰り返しでしか無いように思える。今以上に国家・社会を発展させるにせよ、それは何処へ向かうのか。良い方向へ、自由の実現の方向へ進むのか。人間個々人の倫理性と意思力と行動は、国家的精神の成就とどう関係するのか

 私の要約が正しく的を射たものであるか、私には分からない。もとより大川周明に関しても、歴史の概説書が説明する程度の知識しか、私は持ち合わせてはいないのだから。しかし、そんな私でも、この程度には知恵を働かせることができる。大川周明『道義国家の原理』を読んで、そこから、親孝行、とか、友達を大切に、とかだけを抽出して済ますことなど、とうてい出来ることではない。


【註1】https://www.youtube.com/watch?v=hwaEgrfEcsI


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 −−【その3】了−− 『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い? 目次へ