ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。









スタンディング・オベーションとは
このように
楽しげで華やいだものだと
思っていたのに




この陰気くさい
直立不動の拍手が
スタンディング・オベーションだと
言い出すヤツがいて




こっち側では
この男も拍手していて
これがけしからんとか
いや
グローバル・スタンダードだとか
まったく
わけの分からぬ議論で
政治課題を
ニュース・ショー水準の
床屋談議に貶めている




右の男の手下どもは
いや あれは
自然発生的なものだったと
言い張っているが
ちゃんと原稿を入手した人もいて
そこには
(拍手)どころか
(水を飲む)まで記されている


もっとおどろかされるのは
「感謝の意を表そう」の部分には
「あらわ」とルビまで降ってある



思い出すのは
右の男の先輩 A
漢字読み間違いの天才で
それがあまりにも見事だから
それをまとめたサイトまである
ちょっとコピペしておこう

出所はココです
http://netafull.net
/neta2009/028946.html


怪我   かいが
完遂   かんつい
焦眉   しゅうび
順風満帆 じゅんぷうまんぽ
措置   しょち
思惑   しわく
低迷   ていまい
破綻   はじょう
頻繁   はんざつ
踏襲   ふしゅう
前場   まえば
未曾有  みぞゆう
有無   ゆうむ
詳細   ようさい



また思い出すのは
さらに先輩の男 のいい加減さで
"LITERA" というサイトの記事を
そのままコピペします

出所はココです
http://lite-ra.com
/2016/07/post-2388.html


また、M元首相のトンデモ発言が物議をかもしている。昨日3日に行われたリオデジャネイロ五輪代表選手団の壮行会で、「先ほど国歌の斉唱があった。どうしてみんなそろって国歌を歌わないんだ」「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」と選手たちに説教をぶちかましたのだ。

 “サメの脳みそ”のM元首相のトンデモ発言に、ネトウヨたちは「正論」「よく言ってくれた」などと賛辞をおくり、「歌わないヤツは非国民」「税金使ってるんだから、歌って当然」「国歌も歌えないやつは、日本人やめろ!」「お隣の国の血が入ってる人がいるんじゃないか」などと選手たちをバッシングしている。

 国歌を歌うことを強制するという戦前思考にはほとほとウンザリさせられるが、この一件は国歌を歌うべきかどうかという議論以前の問題。まさに元首相とネトウヨたちのおバカぶりを露呈させることになった。

 実はこのとき、会のプログラムにも会場のモニターにも「国歌独唱」と表示されていた。みんなで声をそろえて歌う「斉唱」でなく、自衛隊の音楽隊に所属する女性歌手による「独唱」だったのだ。

「独唱」であれば、どこの国でも歌わずに静かに聴いているのがふつう。一緒に大声を出して歌うほうが変わり者だ。選手たちが歌わなかったとしても、当然だろう。


 そもそも五輪に出場する選手を自分の手駒のようにエラそうに説教して、選手たちを励ます壮行会という場で逆にシュンとさせてしまうという勘違いぶりも甚だしいが、当の自分が独唱と斉唱の区別も付いていないという、いかにも“サメの脳みそ”のM元首相らしいお恥ずかしい顛末だったのだ。

 ところがなぜか、この一件をほとんどのマスコミは扱わなかった。朝日新聞が第一報を打ちYahoo!トピックスにもなったが、4日深夜までのテレビは壮行会が行われたことは報じるものの、君が代の一件には一切触れていない。産経にいたっては、M元首相の説教を記事にしながら、独唱だった件は完全にネグっている。








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『改憲論』および『改憲論者』の徹底的批判 −− その5
                    平成28年10月07日



「聞きかじり」と「うろ覚え」で政治が動いている


 現場では、夜を徹して、そして、今この瞬間も、海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が、任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全うする。その彼らに対し、今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか。
        (平成28年9月26日 臨時国会 衆議院における安倍晋三の所信表明演説 より)


 安倍晋三が壇上でこう言うと、自民党の議員団が次々と起立して拍手を始めたのだそうな。安倍自身も演説を中断させて拍手で応じた。議長が、ご着席ください、と注意しても、拍手は鳴り止まなかった、という。「いちびる」のなら自民党大会とか憲法改正案勉強会とかいう場でやれ。衆院本会議での所信表明演説でこれをやるのだから、阿部一族の幼児性ここに極まれり、と言うより他はない。当然のことながら、あちこちから「違和感」が表明されている。それに対して自民党副総裁の高村正彦はこう応じている。

 ヤジは議会の華だと言われて、スタンディングオベーションすると、叱られるというのは、こういう議会のあり方がグローバルスタンダードに合っているのかどうか、若い(議員の)方、よくご検討頂きたいと思います。民主党政権の時に、鳩山さん(=由紀夫首相)の所信表明の時に民主党議員がスタンディングオベーションした時に、少なくとも、我が自民党は抗議などしなかったということは銘記しておきたいと思います。(国会内での党役員連絡会で)
                        −−−−− 朝日新聞デジタル 9月30日


 「スタンディングオベーション」ですと? 
 高村さん、アンタ、この言葉の意味、分かって使っているの? 
 ウィキペディアによれば、この言葉は日本語の『満場総立ち』に相当するのだそうだ。安倍の演説など聴きたくもないから確かめるつもりも無いが、衆議院本会議場の議員席が『満場総立ち』になった、とは思えない。アンタらは絶滅危惧種扱いして悦に入っているが、まだまだ野党議員だってたくさんいるんだ。
 もう少しウィキペディアを引用しよう。「スタンディングオベーション」とは「演奏会やスポーツイベントなどで、観客が立ち上がって拍手を送ることである。素晴らしい演奏や演技、プレーに感動した観客による最大限の賛辞である」とある。この説明は私の言語感覚と一致しますね。だが、国会は国政の場である。いつから「演奏会やスポーツイベント」の会場になったのだろう。それに「スタンディングオベーション」とは、いま目の前にいる人に向けての賞賛の行為であるはずだ。良いですか高村さん、「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」は、この場にはいないのですよ。皆の視線を浴びて中央にいるのは安倍だ。賞賛の対象は安倍晋三だったのか? だったら、なぜ安倍まで拍手をするのだ?

 「グローバルスタンダード」ですと?
 野次とか拍手のことを言うのに、これまた大仰な …… 、
 イヤな言葉だね。これは1990年代なかば以降、日本的俗流マーケティング理論が好んで多用してきた言葉だ。一言でいえば、従来の日本型経営をお手軽に批判するために捏造された造語である。御社のやり方は間違っていますよ、旧弊に囚われてはいけません、ほら、世界標準から見ればこの通り、と言った風に使われた。不幸なことにこの言葉は、「レジーム」とか「ストラテジー」とか「スキーム」とかと同様、目新しい言葉を使えば何か意味のあることを言ったと錯覚してしまうハッピーな人たちによって、日本中に拡散した。それから時間が経って、この言葉が実質経済や事業経営には何ら効用を持たないことが明らかになって、今では恥ずかしくて使う人など滅多にいない。そんな絶滅寸前の「グローバル・スタンダードになり損ねた和製英語」を、ここで使うか、自民党副総裁の高村さん。
 
 気軽に交わす日常会話では、言葉遣いに多少の間違いやブレがあって当然である。ふつう言葉とは多くの曖昧さを含んで使用されるものだ。しかし高村さん、夕べ観たテレビ・ドラマの感想を聞かれているのじゃないのですよ。自民党総裁の行為に向けられた批判に対し、貴方は自民党副総裁として、一つの政治的見解を述べているのだ。曖昧さを排し、輪郭のはっきりとした政治的言語で語りなさい。
 何度も言うが、安倍晋三が常用する理屈は「聞きかじりとうろ覚えのマーケティング論」である。どう贔屓目に評価しても政治理論の水準にはなっていない。でも、首領がそうだからと言って、手下のお前たちまで、その真似をすることは無かろう。おべっかを使うにも程がある。ノーベル賞やアカデミー賞の授賞式の様子が、ニュース映像で手軽に見ることができる時代だから、「スタンディングオベーション」という言葉を使うことがいかにも格好良く思えたのだろうが、そんな日常感覚で政治を語るな。
 そんな風に、曖昧な言葉で議論しようとするから、いつの間にか「所信表明演説の中身の是非を問う」という議論すべき本筋から外れ、「スタンディングオベーションは是か非か」というニュース・ショー好みの「どうでもいい問題」への横滑りが起こる。実質的には、悪質な世論誘導として働いているじゃないか。安倍演説の内容こそ議論の俎上にあげなければならないはずだ。


ウソ・無反省・無政策、安倍演説の三点セット


 自民党のホームページには演説の全文が掲載されている。安倍の演説など聞きたくもないと言ったが、記事にする以上、礼儀上これは読まずばなるまい。しかしそれにしても予想以上の酷さじゃないか。私は総理大臣の所信表明演説を読むといったカルト的趣味を持たないので、国会における演説の一般的水準というものを知らない。しかしこれが所信表明演説として通用し、その内容について野党からも厳しい指弾を受けることがないのだとするなら、橋本治さんの著書ではないが、『バカになったか、日本人』としか言いようがない。
 虚言の羅列で、どこから言及を始めれば良いのか戸惑うばかりなのだが、とりあえず(政策総動員)と小見出しが付けられている部分を引こうか。

 G7の議長国として、日本はその責任を果たす。あらゆる政策を総動員いたします。事業規模二十八兆円を超える経済対策を講じ、内需を力強く下支えします。アベノミクスを一層加速し、デフレからの脱出速度を最大限まで引き上げてまいります。
 有効求人倍率は、四十七全ての都道府県で一倍を超えています。史上初めての事です。実質賃金もプラスに転じ、六か月連続でアップ。雇用の拡大、賃金の上昇による「経済の好循環」が生まれています。(同上)


 「G7の議長国として、日本はその責任を果たす」なんて格好を付けてますが、実際はどうなの? 議長国として他国をリードするどころか、他国について行くので精一杯、もう、お荷物になりかけているのじゃないのか。「雇用の拡大、賃金の上昇による「経済の好循環」が生まれています」と言うが、実質経済の本当のところはどうなんだ?
 指標はいろいろあるが、経済成長率でみるのが分かりよいだろう。そこで最も客観的だと思われるIMFが算出しているデータを探してみた。『2016年4月 IMF世界経済見通し』という表をコピペします。



 「見通し 2016(年)」の欄を見てください。経済成長率の予測数値がずらりと並んでいます。
 世界平均で 3.2%。先進国・地域(つまりG7に相当)の平均で 1.9%。G7の国々を高い順に並べると、アメリカ 2.4%、イギリス 1.9%、ユーロー圏 1.5%、ドイツ 1.5%、カナダ 1.5%、フランス 1.1%、イタリア 1.0%。G7以外だが財政危機で騒がれたスペインでも 2.6%。なのに、日本は 0.5%。一桁落ち、ダントツの最下位であります。
 さらに翌 2017年の予想では、何と、唯一日本だけがマイナス成長となっている! 良いですか、G7もそれ以外の国々でも、すべての国で成長率のアップが見込まれているのに、日本だけがマイナス成長なんですよ。まさに危機的状況。恐怖すら感じる。

 日本経済の危機的状況(こういう表現もマンネリ化したか?)はここまで来ているのに、このような真っ先に国民に知らせるべき最重要項目は伏せておいて、「有効求人倍率は、四十七全ての都道府県で一倍を超えています。史上初めての事です」などと、自分に都合のよい末梢的データを引っ張ってきて、経済状況は良化していると強弁しようとする。この「有効求人倍率の上昇」を安倍は頻繁に口にするが、その数値のカラクリは多くの人が指摘している通りである。地方における産業崩壊が凄まじい。特に製造業の雇用が激減している。そこで若年労働者の大都市圏への移住がさらに進む。結果、地方における求職者の絶対数が減少した、と言うこと。つまり、データの分母数字が減少したことによる数値のマジックなのである。安倍とそのブレーンがこれを知らないはずが無い。知っていながら、言葉の綾で国民を欺しにかかっているわけである。

 自分自身がしてきたことを「アベノミクス」と呼んで恥じない感覚にも恐れ入るが、その「アベノミクス」も着手してからもうすぐ四年になる。だが、その具体的総括が行われた試しがない。具体的な成果物は何なのか? 「アベノミクスを一層加速し、デフレからの脱出速度を最大限まで引き上げてまいります」と持って回った言い方をするが、この言い回しは四年間で次のように自己増殖してきたはずだ。
  アベノミクスで、デフレから脱出します。
  アベノミクスを加速し、デフレからの脱出速度を引き上げてまいります。
  アベノミクスを一層加速し、デフレからの脱出速度を最大限まで引き上げてまいります。
 つまり「四年経ったが、デフレからは脱出できていない」と素直に言うべきところを、今度は大丈夫です、今度こそ大丈夫です、とさらに空手形を振り出しているわけだ。
 で、当面の具体的施策は何かと言うと、 …… やはり何もないのだ。その代わり、各省庁から上がってきている法律改正案を並べてみせる。上の引用に続いて、安倍はこう言う。

 この流れをより確かなものにする。本年、最低賃金を、時給方式となって過去最大の二十五円引き上げます。千円を目指し、社会全体の所得の底上げを図ります。
 「経済の好循環」の成否は、全国の中小・小規模事業者の皆さんの元気にかかっています。生産性向上、販路開拓などの努力を後押しします。下請法の運用基準を十三年ぶりに抜本改訂し、下請取引の条件改善を進めます。低利融資による資金繰り支援と併せ、地域経済を支える金融機関のセーフティネットである金融機能強化法を延長します
(同上)

 こんな風に、最低賃金法、下請法、金融機能強化法、など改正予定の法案名を列挙するのだが、これらはすべて実施されている法律の、運用面での変更・修正レベルの仕事である。各省庁が繰り返し行っているルーチン・ワークであって、仮に政権担当が自民党以外であったとしも、ほぼ同じ内容で進行してゆくはずである。政府主導のドラスティックかつ戦略的な立法案ではない。
 つまり、この(政策総動員)という小項目は、次の三点セットで構成されているわけだ。

1、日本の現状(特に経済の)をどう捉えるかという現状分析は、恣意的なデータ選択によるまやかしである。危機的状況を隠蔽し、良化していると強弁する。(ウソ)
2、基本政策であるはずの「アベノミクス」の具体的な達成・未達について述べない。四年が経過するのにいまだに「途中経過報告」とか「総括」を行わない。(無反省)
3、各省庁から上がってきた改正法案を、あたかも政府主導の特効性ある政策であるかのように羅列してお茶を濁す。(無政策)


 安倍は、この(政策総動員)以外にも、総花的に大小の項目を並べて見せるが、どの項目も、この(ウソ)(無反省)(無政策)の三点セットで組み立てられている。さすがにこれでは演説としての格調を欠くと考えたのだろう、安倍と電通のスタッフは、演説らしい装いを整えるために、論理の流れとはまったく別の二つの要素を強引に付加してくる。実は、こいつが曲者なのだ。



ウルトラ・ナショナリズムと憲法改正


 安倍と電通のスタッフが付け加えたもの。それは次の二つだ。

1、「世界一の日本」と「未来」という抽象概念。
2、だから「憲法を改正しなければならない」という結論。


 歴代最多のメダルラッシュとなったリオ五輪では、世界の強豪たちに真っ向勝負を挑み、最後の一瞬まで勝利を諦めない選手たちの姿に、日本中が感動しました。
 四年後の東京オリンピック・パラリンピックは、必ずや、世界一の大会にする。何としても、成功させなければなりません。同時に、我が国の「未来」を切り拓く。私たちもまた、世界一暮らしやすい国、世界一信頼される国を目指し、新たなスタートを切る時です。(同上)


 安倍は演説を、こんな風に始める。手紙には時候の挨拶があり、落語にはまくらがあるが、国会の演説がなぜオリンピックの話題で始まるのか? 開口一番「日本中が感動しました」などと言われると、オリンピックだけでなくスポーツ全般に対してあまり興味の持てない私などは、ただただ戸惑ってしまう。興味が持てず、中継のテレビも観ず、従って感動しなかった私は、この「日本中」から除外されているのだろうか? 私はそれほど変わり者で少数者なのだろうか?
 断っておくが、高邁な思想上の問題、あるいは政治的な判断から、オリンピックなんて大嫌いと、意固地になっているのではない。競技者が必死の形相で "闘っている" のを、茶の間でのんびりと渋茶をすすりながら観ることなど出来ない。これが最大の理由である。要するに私の趣味に合わない。ただ、それだけのこと。
 私とは違って、オリンピックを非常な楽しみにしている人たちも沢山いるのだから、東京でやるというなら、ようござんしょ、おやんなさいよ、というのが私のぼんやりとした考えである。だが「必ずや、世界一の大会にする」などと、この国の最高権力者が息巻く姿を見せつけられると、ちょっと待ってくださいよ、と思ってしまう。橋本聖子は「2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事」なんだそうだが、彼女が、東京五輪では史上最多数のメダルをとる、と熱に浮かされたような顔で言うのを聞いた。また、某国営放送の某解説委員が、東京五輪の意義は国威発揚にある、と言ったそうだ。こう言った流れが露骨になると、そんなオリンピックなら止めてしまえ、と言いたくなる。うっかりと、オリンピックなんか感心ない、と漏らそうものなら、「反日」と罵られる。そんな雲行きである。聞きかじりで申し分けないが(興味の無いことは調べる気になれない)、それでは「オリンピック憲章」の精神に触れることになる、と何人かの人が批判していた。

 「虎の威を借る狐」という喩えがあるが、安倍は「歴代最多のメダルラッシュとなったリオ五輪」に「日本中が感動」したことを手始めとして、さらには「世界一の日本」とか「未来」とかいう抽象概念にまで威を借りて、自分の「お喋り」を「格調ある演説」に偽装しようとしている。毎日新聞の松本晃という記者が数えている通り、「安倍晋三首相は26日の所信表明演説で、「未来」を計18回、「世界一」を計8回使っ」ているのである。笑って見過ごすことは出来ない。これらの抽象概念は、ウルトラ・ナショナリズムに転化する一歩手前の『悪しき共同幻想』にまで膨張しているのである。
 ちょうど一年前『安倍晋三が醸成する「日本」の概念』という記事を書いた。「現政権は現実世界の困難性には手も足も出せずにいる。そこで、現実に向き合う代わりに、ウルトラ・ナショナリズムを持ち出した」と指摘した。まさにその通りのことを安倍は繰り返しているのである。
 欺瞞はこれで終わらない。
 演説の締めくくりに、突如として「憲法改正」が出現する。

 憲法はどうあるべきか。日本が、これから、どういう国を目指すのか。それを決めるのは政府ではありません。国民です。そして、その案を国民に提示するのは、私たち国会議員の責任であります。与野党の立場を超え、憲法審査会での議論を深めていこうではありませんか。
 決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への橋を架けようではありませんか。(同上)


 ここで「憲法改正」を持ち出さねばならない理由は何もない。それまでの展開に「憲法改正」と論理的に繋がるものは何もない。「世界一の日本」と「未来」という抽象概念が、安倍のお喋りをもっともらしく見せかけるための「出汁」として大量に使われていたように、「憲法改正」は甘ったるい彼の演説に、安倍が最後に加える「とっておきの薬味」だったのである。
 別に驚くことはない。これが、安倍晋三における憲法改正の本質、なのだ。
 彼が本気で憲法を学び、憲法改正の必要性を痛感している、などど思ってはならない。自分の俗流マーケティング理論に政治性を付加するための道具として利用しているだけのことなのだ。

 日本国憲法第九十九条には、こう書かれている。

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 素直に読む限り、安倍の所信表明演説は、この九十九条に違反しているように思える。
 安倍はそのことに気付いていないようである。野党も何も言わない。
 改憲だ、護憲だ、と騒ぎたてているのに、まことに不思なことである。

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 −−【その5】了−− 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 目次へ