ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。




初代セドリック・シーマ (1988年発売)
 オプションを付けまくったら、実売価格は 500万円 位になったはず。

 勤めていたメーカーに、マーケティング理論を装備した企業コンサルティング集団が乗り込んできたのは、80年代の終わり頃だった。講師の一人が、昨今は高いものほどよく売れるのだと言って、このシーマを例に挙げた。ホォー、と吐息を漏らす者もいたが、私は 550cc のスバルサンバー・バンを愛用していたので大いに反発した。
 実際このシーマが売れたのは初年度だけで、バブル経済も程なく崩壊する。
 コンサルティングの先生たちは、すぐティストの変換を図ったようだが、根底にあるお気楽さはそのままだった。当初のバブル期の気分をそのまま引きずっていたのかも知れない。




 バブル経済期と言えば、こんな物もありました。
『新中華三昧特別仕様』(明星食品)


 以下は、明星食品のホームページからの引用です。 
ーー 1987年10月「新中華三昧 特別仕様」発売。フカヒレ、あわびなどの贅沢豪華なレトルト具材の入った、驚愕の「1,000円ラーメン」シリーズ。百貨店中心の限定発売にも関わらず、爆発的な話題の商品となりました。ーー































 ふと、昔の政治家もこんなに馬鹿だったのかな、と思い、古い記憶を掘り起こしてみました。
 池田勇人氏は、私が中学生の頃の総理大臣です。

 例の「貧乏人は麦を食え」発言を始め、失言の多い人だったので、当時ずいぶんと元気だった野党・新聞がさんざん叩きまくりましたね。
 でも経済政策面を見ると「トランジスター商人」と皮肉られながら、国産工業製品の輸出拡大の先頭に立ち、『所得倍増政策』で一般大衆の購買力向上も併せて行なおうとした。

 何か『憎まれ役』という壺にはまった感じで、野党は盛んにこき下ろしてましたが、この保守・革新の対立には「安心感」みたいな感じがあった。 
 「私は嘘は申しません」の言葉どうり公約の 10年 を待たず 7年 程度で、所得倍増になった。インフレ基調という背景があったにせよ。 


 ちょっと検索して見みと、あの池上彰さんが池田氏を評価する本を書いていました。
 イデオロギー面での評価は人様々でしょうが、実務家としては立派な実力者で努力家だったのですね。



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平成27年 10月 30日 人件費を悪と考える経営 その3


 やっと〈人件費を悪と考える経営〉の入り口まで来た。今回は、術語や項目がずらりと並んだ読みづらい内容になると思う。冗談口を差し挟む余裕もないだろう。でも、大事な話の締めくくりなので、我慢して読んでいただきたい。先ずは、今までの話の整理から。

A: "労働力に対する考え方" はどう変えられたか
 雇用する従業員を意志力・判断力をもった自立的労働者であるとみなすことを止め、マニュアルさえあればどんな職域でも働かせることが出来る単純作業者であると〈あえて誤認〉する。こんな仕事なら主任でなくとも一般社員で出来る、いやパート社員でも出来る、いやアルバイトでも出来ると、職能・職域からその属性を奪い、代わりに〈下位互換性〉を付加する。

B: "労務管理システム" はどう変えられたか
 今までの賃金体系を「戦後型年功序列賃金」として悪玉に仕立てあげる。実際の狙いは既得権の剥奪。これはまた今後増えていくであろう団塊世代の管理職化を見越しての予防措置でもあった。年功序列に代わるものとして、職務能力に応じて賃金が支払われるという謳い文句の「職能主義」とか、成果が正当に酬われるという「成果主義」を導入。これも実際は、給与・賃金の継続的削減システムでしかない。
 給与・賃金にも競争原理を導入せよ、とか、労務費・人件費においても変動比率を上げよ、の政策・方針で、労務担当者や管理職に縛りをかける。スクィーズ(搾り取り)が限度近くになると、目標達成のため、非正規雇用の拡大、生産工程の外注化・海外移転、等々に走らざるをえない。

人件費を悪と考える経営の進展と行き着いた所


 各産業分野において、何かと先鞭を付けたがる新しもの好きの何社かが、このようなシステムに移行した、という段階ならば、成果が上がったように見えただろう。何せ、競合他社に比べて格安の商品が大量に店頭に並ぶのだ。デザインが垢抜けしない、ぜんぶ中国製だ、メーカー名が無い、ストア・ブランドじゃないか、等々の声があっても、従来からは大幅アップの売上げ高を確保しただろう。
 しかしここは日本。しばらくは様子見が続くだろうが、大勢がそちらに向かうと見るやいなや、どの企業も一斉に雪崩をうったように新システムに移行する。ただし、大勢の逆を行くからメリットが生じるのであって、すぐに大勢が追いついて同じことをすれば、メリットでも何でも無くなる。逆に、あちこちから幾多の弊害が侵出してくる。

 資本主義の経済原則の一つに、経済全体がある極端な方向に向かっている時、危険を感じた個々人とか個々の企業がその対策的経済活動をすれば、経済全体はさらに極端化に向かう、というのがある。(この法則性には確か名前が付けられていたと記憶するが、思い出せない。)
 例えば、信用不安が発生した銀行に対し、預金者が取り付け騒ぎを起こすと、たちまち銀行の手持ち資金が払底して倒産に至る。もし、取り付け騒ぎが起こらず、しばらく通常の営業を続けることができたのならば、何とか凌いで持ち直せるレベルであったとしても。あるいは、ある商品の店頭での品不足が報道されると、消費者はまとめ買いに走るし、流通の小賢しい連中は値上がりを見越して商品を備蓄しようとする。かくして、品不足という程度を越え、店頭から商品が完全に姿を消す。 

 個々の企業から言えば、競合関係がいかに厳しいものであろうが、利益を出し続けることが至上命令なのである。社員の首切りや下請けの切り捨ては怪しからんという〈人道上の〉批判が向けられても、なりふり構わず利益確保に向かうのは当然のことだ。いくら甘言を弄してみたところで、それが資本主義の原理なのだ。競合する会社の大半が〈人件費を悪と考える経営〉につき進み、あちこちに不具合・不合理を露呈させようが、その中で我が社だけが〈大いに反省して紳士的に振る舞う〉わけにはいかない。仮に反省したくとも、マーケティング理論を始めとする当代の経営理論は、シェアの絶えざる拡大を前提に大系構築しているから、今さら〈棲み分け〉に戻るとは言えない。下手に動けば公取から談合疑惑をかけられる。今来た道を引き返す訳にはいかないのだ、と経営者たちは嘆息しながら(いや、したかどうか、は不明だが)ますます意固地になる。

 こんな意地の張り合いが長期にわたって続けられた結果、現在はどうなりましたか?
 これはもう、今の我々が浸りきっている商品市場そのものなので、くどくど書く必要も無いでしょう。勝ち組数社に統合された大規模小売業の店頭に、勝ち組数社が海外生産した代わり映えのしない売れ筋商品が並んでいる。銀行は金を貸す先を製造業から小売り業に振り向け、新店とか大規模商業施設が未だに増設され続けている。が、どんな入れ物を作ろうが、どんなに高層化・巨大化させようが、どんなに新規な横文字施設名にしようが、入居する店舗と並ぶ商品は皆同じ。だから、目一杯の低価格に設定したとしても、商品が飛ぶように売れるはずもない。
 企業の雇われ役員たちは、経営権を持つ株主(昨今はほとんどが『持ち株会社』だ、××ホールディングスというやつ)に己の存在価値を示すためにどうするか? それは〈昨年対比××%増〉という実績数値を上げることだ。これが、これだけが彼らの悲願。そのための手法? 永遠なるコストダウンしか方法は残されていないでしょう。彼らは現場に赴くこともなく、部下に指示をし、上がってくる報告を見る。そのなかで彼らが睨む財務諸表の数値は、だだ一点、人件費しかないのです。無駄な人件費を支払ってはいないか? いや支払っているかも知れない、いや、支払っているはずだ、あの担当者のことだ、きっとそうだ、先ずあいつのクビを切らねばと、疑心暗鬼に囚われるばかり。

人件費を悪と考える経営からの脱却

 

 では、日本の経済全体が陥っているジレンマから、どう抜け出すのか? 
 個々の企業の自発性に委ねても埒があかない。いま見た通りだ。
 いわゆる〈見えざる手〉のような経済の自動復元機能は一切期待出来ない。当たり前だ、『国富論』とは時代が違うだろう。
 ならば、政府・内閣府・経済産業省、経団連などの経営者団体、経済学者や学会などが、強制力を持った制御策を示し、舵取りの役目を担うべきなのだ。しかるに彼らのしてきたことと言えば、鐘・太鼓ではやし立て、ますますこの方向に個々の企業を追いやることだけだった。
 彼らは口をそろえて言う、"グローバル化社会" だ、と。
 これは、従業員を馘首し、下請けを切り捨てて、アジア諸国に工場移転を進めよ、海外進出を果たした企業は世界中に安価な商品をばらまいて利益を上げよ、国内の経済低迷など放っておけ、ということの言い換えに過ぎない。
 また、彼らは口をそろえて言う、経済活動は "競争原理" に基づけ、と。
 これは、給与・賃金・下請け代金を永遠に削減し続けろ、勝ち組に入れ、負け組となってもそれは自己責任の問題だ、いうことの言い換えに過ぎない。

 三回連載の最後に私が強調しておきたいことは、極めて単純なことです。別に小難しい経済学理論などを持ち出さずとも、常識的に判断できる簡単な事実です。あらためて書くのが憚られるくらい言い古されてきたことです。
 でも政府筋も、専門家も、評論家も、このことに触れようとはしません。あまりにも単純なことなので触れる気にもならないのか、分かってはいるけれどあえて避けているのか、あるいは(まさか、そうではないと信じたいのですが)まったく理解していないのか、さっぱり見当もつきません。
 経済学理論は不要といいましたが、基礎的な経済学の術語を使う方が正確に表現できるので、少し使って書きます。

 資本主義経済とは商品と商品の交換で成り立っている。ただし物々交換では埒があかないから、片方の商品は最も普遍的な商品である貨幣となる。(どんな商品とでも交換可能なのが、貨幣という商品) 経済活動基本単位は、貨幣で支払うか、貨幣で買うか、のどちらか。
 この貨幣が市場全体の中をうまくグルグル循環することが、ごく当たり前に経済活動が機能することの前提となる。経済が機能しえない時とは、例えば極端なインフレで貨幣が通貨としての機能を失っている時とか、戦争とか転変地変などによって商品の市場投入が途絶えた場合とか、である。
 今企業は、人件費を悪と考えているから、従業員の労働に対価以下の賃金しか支払わない。つまり従業員から労働力という商品を極端な安値で買い叩いている。そこから発生する余剰利益は、ハイタレント・マンパワー(一握りのエリートと称される人々)の報酬と資本の自己増殖へ繰り込ませている。
 これでは、いくら市場に出回る商品の売価が安く設定されていても、一般大衆にはお金が不足しているから、購買者として取引の場に登場することが出来ない。

 また、農業・林業・水産業・工業において空洞化が進行しているというが、それは労働力の買い叩きの以前に、生産活動そのものが衰退していて、労働力の売買という取引そのものが成立しえなくなっていることである。
 さらには、工場の海外移転とは、個々の企業が「自社の利益確保のためだけに」海外への発注依存度を高めている状態であり、本来なら国内で支払うべき労働対価を国外に流出させていること、である。
 まさにこれらが、日本経済全体が〈全世界が未だ経験したことのないデフレ・スパイラル〉に陥っていることの原因であり、他の何でもない。そうでしょう、資本主義経済の基本単位である商品売買、特に、国民の多数を占める無産階級が販売に供することの出来る労働力商品の売買を、阻害することばかりしているのですから。

 安倍晋三とその一派は、この点に切り込むことなく、まったく違った所に奇妙な対策を仕掛けている。
 彼らは、経済活性化と称して、為替相場の意図的な円安誘導とか、新たな公共投資のネタ造りをしたり、××活性化担当といった奇妙な大臣を就任させたりしている。しかし、そんなものは、富の分配に多少の変動をもたらす程度の小手先の対策であって、経済の潤沢な自立性恢復にも、社会の富全体の増加にも何の役にも立たない代物である。

 では何故、安倍とその一派が、経済状態の根本的改善に向けての取り組みを渋るのかと言うと、官僚機構とか経団連とか取りまき知識人とかの、総じて言えば、今までの〈人件費を悪と考える経営〉を仕掛けてきた総体に対し、反旗を翻す根性など持ち合わせていないから、である。これは、どんな反対があっても原発再稼働を止められないでいるのと同じ構図である。
 より実務的に言おう。国家予算というものは、各官庁の官僚が昨年実績に多少の増減を施して作成してくるものである。これに対して自民党の内部には、その予算案を分析したり、可否を論じたり、不合理ならば拒否したり、修正案を出したり、と言った実務能力を持つ人間など一人もいないのだ。だから、官僚や経団連の指し示す路線の指し示す通りに動くしかない。
 その代わり、政治的なテーマでは、疑似タカ派・右翼ゴッコをやらせてもらっている。これが安倍晋三とその一派の本当の姿なのだ。自分たちの存在意義を証明する手段はまさにそれだけだから、彼らは来る日も来る日も、奇っ怪な益荒男ぶりを演じ続けるのだろう。


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 −−【その3】了−− 人件費を悪と考える経営 目次へ