ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。

 



国際勝共連合の機関誌『世界思想』の表紙に、安倍晋三の姿を発見しました。いったいどういう関係なのでしょう。






 国際勝共連合と言えば、1960年代の終わり頃、ヘルメットとゲバ棒で武装して、大学のキャンパスに現れました。敵対者から行動様式をパクルのは、この人たちの常套手段なのですね。半世紀たっても変わらない。















 これ日本会議の機関誌だそうです。彼らの戦前回帰願望の本気度が現れています。日本らしさへのにじり寄りが度を過ごし、気持ちの悪いステロタイプ化が極限まで進行しています。北朝鮮の将軍様賛美の絵面と同じ嗜好性がありますね。





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平成27年10月13日 
     『 安倍晋三が醸成する「日本」の概念 』 その2


直面すべき現実とは、まるで無縁の疎外論


 前回、自民党の『日本を、取り戻す。』と公明党の『日本再建』が醸成する思想もどきは、疎外論的構造を持っている、と言った。しかし、疎外論がダメだ、と言うのではありません。論じている内容が的を射たものであるならば、理屈の立て方は何であっても良いのです。言語の体系は、現実の総体より大きくなることはないのであって、どんな立派な論陣を張ろうが、現実を論じ尽くすことは出来ない。要は、論じるべきことが正しく主題として選択されているか、その主題の核心にどこまで肉薄しているか、ということなのだ。

 ところが二つのポスターは、この核心から遠く離れた所で、でっち上げ連鎖の疎外論を組み立てる。
1)政党ならば絶対に取りこぼしてはならないはずの最重要課題から論点をそらし、まったく別の所に、空想的な疎外状況をでっち上げ、
2)その原因を作ったものとして、仮想敵対者をでっち上げ、
3)虚構の出発点として、疎外的状況に陥る前の、本来的な〈日本〉をでっち上げる。 

 何を戯れているのだ。今、論じるべきことは、現実にこの日本が直面している数々の困難点でしょう。

 困難点の本質を一言で言うならば、
 金融資本による企業の経営権獲得が急激に進み、資本主義の基本的要素である〈株式会社の仕組み〉が、もはや自立的には機能しなくなっていること。
 言い換えれば、
 アメリカを中心とした金融帝国主義の世界制覇が最終段階に達しており、この日本においても、内部矛盾がほぼ飽和状態になっている、ということです。

 より具体的な項目に展開すれば、
 あらゆる産業分野のグローバル化と、各産業分野における数社による寡占的支配。
 工業の空洞化、農林水産業からの労働人口の離散、大都市とその周辺部(主として首都圏)への人口集中、地方の過疎化・自治体の消滅危機、中産階級層の解体とワーキング・プア層への没落、収入減による購買力の低下、全国展開チェーン店以外の商店立地の困難化、一握りのエリート養成のための教育の矮小化、その結果としての学力低下、経済低迷の常態化、歯止めの効かない人口減少、エトセトラ・エトセトラ。

現実世界の困難性には、手も足も出ぬ国家権力


 これらすべて、官僚機構と政府自民党(つまり日本の国家権力)が、長期に渡って、無自覚・無反省なまま、惰眠を貪るがごとく権力支配を続けてきた結果である。自分たちの権力を強化すること以外、現実世界に影響力を及ぼすような仕事を何もしてこなかったのであるから。
 安倍もその他の自民党のお歴々も、薄々はこの事態に気付いているはずだ。それほど馬鹿じゃないだろう。でも、どうして良いか全く分からないし、大変な事になっていると、口火を切って言い出す勇気も持たないから、お互い気付かないふりをしている。まさか、自分が代議士でいる間に、黙示録的終末がやってくることはないだろう …… 。どうです、図星でしょう。

 だから、出来もしないことは百も承知で、あの高度成長時代が未だに続いているかのように、GDP600兆円などという目標額を掲げて、経済界からそんなの無理でょう、と失笑を買う。新幹線だ、オリンピックだ、原発再稼働だ、と公共投資のネタを蒔きまくるも、実働部隊の実務能力がとことん低下していてトラブル続出。マスコミがワイワイ騒いでいる項目に関しては、××担当大臣を置いて、有識者という名の御用学者のご意見を拝聴してお茶を濁している。
 安倍(第1次)、福田、麻生、と3代続いて、政権が1年きっかりしか保たなかったのは、いろいろ屁理屈を付ける向きもあろうが、実は、経済の現状がまことに困難な局面に来ており、旧来と同じルーティン・ワークでは如何ともし難い状況になっていたことの、正直な反映であろう。

現実に向き合う代わりに、ウルトラ・ナショナリズムを持ち出した


 幸か不幸か、自民党は3年3ヶ月の間政権を離れた。しおらしく反省するのかと思いきや、2010年、尖閣諸島中国漁船衝突事件が起こると、俄然色めき立つ。民主党政権の中国への弱腰外交という攻撃点を見つけたからだ。久々に攻撃に転ずると、あら不思議、とても気分が良い。これ、使えそうじゃないの。何も大まじめに現実問題に向き合わなくても良いじゃないか。大衆の眼をこちらに反らし、こっちを本筋にすりゃ良い。大発見だ。
 そこから、現実の諸課題から遠く離れた、ウルトラ・ナショナリズム的疎外論構築が始まる。その一里塚が『日本を、取り戻す。』というポスターなのだ。

仮想敵国 = (旧来の北朝鮮に加えて)中国・韓国
国内の仮想敵集団 = 民主党、その他の野党、左翼的ジャーナリズム、日教組、民主派、進歩派、
疎外されているのは = 上の二つに蹂躙された〈日本〉
取り戻すのは = ウルトラ・ナショナリズム的〈日本〉という国家概念

 この、ウルトラ・ナショナリズム的〈日本〉の概念は、安倍内閣の閣僚の大半が参加している『日本会議』のホーム・ページをみれば、その雰囲気が良く分かる。
 ただし分かるのは雰囲気だけで、結局何が言いたいのか、という論理的な核心はさっぱりつかめない。私は、ホーム・ページの文章から、彼らの主張が端的に表現されている所を拾い出して、論評してみようと思ったのですが、この数日、うんうんと唸るばかりで、結局断念しました。
 ここには論理など成立していない。あるのは、嫌中、嫌韓、嫌左翼、嫌反日、のイメージ用語のまき散らしだけ。彼らの言う『誇りある国』とか『美しい日本』は、嫌中、嫌韓、嫌左翼、嫌反日、の対概念としてしか存在しえないのです。

 でも、数日間、うんうん唸って分かった事がある。それは、
1)この人たちは、第二次世界対戦の「日本の敗戦」を、未だに認めることが出来ない人たちなのだ、と言うこと。
 でも、仮に1945年にすでに生を受けていたとしても、まだ幼少期のはず。つまり、現実の自己とは無縁の共同幻想の中で「日本の敗戦」を拒否している自分の姿が、この人たちのアイデンティティーになっている。
2)自分たちの主義・主張を「大衆運動化」しようとしている。
 大衆運動とは、彼らの嫌いな左翼の手法なのですよ。嫌い、嫌い、と言いつつ、左翼の手法と影響力に畏怖し、こっそりとその真似をしているわけ。

 まともに勉強をしなかったのだから、私の言う「一握の知力」も持ち合わせてはいないのでしょう。だから、宿敵(のはずの)左翼の手法を、何十年も経ってから真似するより他はない。「疎外論」「大衆運動」と、敵対者からのパクリ二連発。
 そう言えば、何時だったか、古典的右翼の鈴木邦男さんが「右翼は勉強しませんから、挫折しないし、転向もしません」と言うのを聞いたことがあります。(笑)

 でも、安倍晋三内閣と『日本会議』をからかってばかりもいられない。
a)排外主義を煽り、b)仮想敵対集団を捏造し、c)ウルトラ・ナショナリズム至上主義を信奉、の各項に、
a)ベルサイユ体制打破、b)反ユダヤ主義、c)アーリア民族至上主義、を代入すれば、そのままナチスの勃興となる。これは、多くの人が指摘しているが、ここで改めて確認しておくことは無駄なことではないだろう。

 私は昔、角川文庫の『我が闘争』を読んだことがあります。よくもまあ、こんな論理性の無い、俺は大事な事を言っているのだ、という雰囲気だけをまき散らしたような本が、あんな風に大衆を扇動出来たものだ、というのがその時の印象だった。
 でも、この、何を言っているのか分からない「いい加減さ」にこそ、大衆は煽られる。これに、絶対に守ることが出来ないようなモラルが強制され始めると、立派にファシズムが完成する。油断大敵。


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