ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。








正岡子規




秋山真之




夏目漱石




司馬遼太郎




西長堀マンモス・アパート

あれは私が中学校2年生だったから1962年のことか。
西長堀に立派な図書館があると聞 いて、放課後何人かで連れだって出かけた。学校は今のアメリカ村あたりにあったの で、西に向いて歩くと10分とかからずに着いた。しかし私たちを驚かせたのは、図 書館の北側にデーンと建ってる大きな鉄筋アパートであった。ふーん、あれが、マンモス・アパートと言うヤツか。
図書館(大阪市立中央図書館)は、その自習室が気に入って、その後たびたび訪れるようになるのだが、そのたびに北側のマンモス・アパートを見上げたものだ。
今から思えば、ちょうどその頃、あのアパートの一室で、司馬遼太郎さんは『龍馬が行く』を執筆 中だったはずである。































































笹川良一の『孝子像』

日本財団に関係する建物には、たいていこの像が置かれているらしい。
笹川良一が母テルを背負って、金比羅参りをしたときの姿だという。良一51歳、テル82歳、席段数は785段。背負われている方も大変だったろう。



土下座する浜幸さん

土下座してお願いし、続いて、お母さんの歌を歌うのが、かれの定番メニューだった。
居並ぶカメラマンが旨く撮影できるよう、配慮している感じがある。



極端な例ばかり出すな、という人がいるかもしれないが、一度『親孝行』で画像検索してごらん。これら以外、何の内容も無い絵柄ばかり出てくるよ。つまり、親孝行という言葉には対応する実態が無い、ということの証明となっている。



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『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い?    その6
                   平成29年06月10日



正岡子規の『孝行論』


 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を読んでいたら、最晩年の正岡子規は、病床のわきに置いた手帳に「孝行論」を書き残している、という記述に出くわした。『三』の初めのほうである。

 孔子主義の、親に孝行せい、なんていうのは僕は大きらいだね。あんなこと、いわれると孝行が理屈のようにきこえて、きわめて不愉快だ。僕なんどは、親でも叱り飛ばすことがたびたびあるね。しかしそれがために親に対する愛情が無くなりも減じもしない。

 言わずもがなの確認をしておくが、子規は明治の人である。当時の人々の大部分がそうであったように、彼もまた日清戦争に熱狂した。病を押し、従軍記者として遼東半島に渡ったりもした。上陸の二日後、戦争は終結するのだが、帰路の船中で大量喀血。その後は床上げもかなわず、病床に臥したままの研究・著作を強いられる。そんな彼が、はっきりと自らの死を自覚したころ、話し言葉で、「親に孝行せい、なんていうのは僕は大きらいだね」と書くのである。
 子規は「孝行論」に続いて、彼の「残酷感」を書き綴っている。司馬さんは「どうやら戦争ということがずっと念頭にあったらしい」と想像している。念のため、時代背景を確認しておこう。

  1890年(明治23年)教育勅語下賜
  1894年(明治27年)日清戦争
  1902年〈明治35年〉正岡子規没
  1904年(明治37年)日露戦争 

 教育勅語下賜いらい、数多の勅語解説本が世に出た。親孝行、親孝行、という言葉が、新聞や出版物の文面に飛び交っていたに相違ない。子規は病床で何度もこの言葉を目にした。時は日露開戦の直前。秋山真之は海軍の少佐となり、夏目漱石は留学先のロンドンにいる。親友たちはお国のために働かんと着々と準備を進めている。しかるに自分はどうだ。身動きもままならず床の中にいて、親兄弟に面倒ばかりかけている。
 こんな子規の心に、「親孝行」という言葉は、どのように響いたのだろう。

 思うに、時代の喧噪、時代の狂乱から、はみ出さざるを得なかった人の耳には、喧噪と狂乱が煽り立てる言葉は、きわめて不愉快なものとして響くようなのだ。だが、これ以上、子規の真意を探る縁(よすが)もない。話を現在に戻し、考えを進めて行きたい。
 子規はなぜ、親孝行、という言葉に嫌悪を感じたのか。
 そして一世紀以上の後、この私も、親孝行、親孝行、とざわつく人たちに苛立ちを覚えるのか。
 今回は、「親孝行という言葉そのもの」を吟味してみよう。



親孝行が実行できるための条件


 教育勅語の何が悪い? と、したり顔をしてみせる人たちが、教育勅語を肯定する根拠として持ち出してくるのは、決まって「親孝行」である。前に例として引用したが、吉本芸人小薮と防衛大臣稲田の言いぐさを再度確認しよう。

 僕は教育勅語じたいは何にも悪くないと思います。なにを教育勅語に関して問題になっているのか、意味が分からないです。お父さんお母さんを大切にしましょう、一生懸命勉強しましょう、まわりに感謝し、公の心で社会貢献しましょうみたいなことガッチリ書いてありますよ。何があかんの。ええことと悪いことがごちゃごちゃになってると思うんです。(吉本芸人 小薮)

 教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません。私は教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行とか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持している。(防衛大臣 稲田)


 だが、今まで見てきたとおり、「親孝行が教育勅語の核」という理屈は、解決不能な矛盾を内包していて、どのように強弁しようとも、論理として成立しないのである。
 親孝行が実行できるための条件について、考えてみよう。理念的・観念的な難しい前提のことを問うているのではない。物理的・肉体的な条件のことである。最も基礎的な条件は、次の二つに絞られるだろう。

 【その1】 ;親のそばで居住していること。
 当たり前でしょう。親と共に生活したり、スープの冷めない距離にいなければ、親孝行なんてできやしない。仮に郷里を離れて生活していても、必要とあらば、親元に駆けつけることができること。
 【その2】 ;親より長生きすること。
 これは、もっと当たり前でしょう。死んでしまっては、親孝行などできない。親孝行どころか、親をして我が子に先立たれる悲哀を味わせしめる。これほどの親不孝があろうか。

 言葉にして並べてみると、ほとんどジョークにしかならない。当然すぎることの確認である。とにかく、生きて親の蕎そばにいなければ、親孝行などできはしない。
 しかるに、教育勅語が作り出した歴史的事実は、どうであったか?



教育勅語が親孝行を不可能にする


 教育勅語は、1890年(明治23年)の下賜いらい半世紀以上の長きにわたって、大日本帝國という権力構造による、人々の臣民化・皇民化プロセスの「炉心」として機能してきた。
 教育勅語は、親から子供を奪い、戦場へ送った。(上記【その1】の否定)
 教育勅語は、子供に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、天皇(に象徴される大日本帝國)のために死ぬことを強要した。(上記【その2】の否定)
 戦場に送られて、死を強要されて、どうして親孝行などできようか。『菊花の約』の宗右衛門じゃあるまいし。

 確かに教育勅語には「父母ニ孝ニ」という文言があるが、これは、親孝行に励んで親子ともども平安に暮らしなさい、という意味で使われているのでは無い。臣民になるために獲得すべき要件の一つとしてあげられていて、臣民であることの意味は、天皇(に象徴される大日本帝國)のために死ぬことで成就される、と論旨は展開してゆくのである。勅語の文面は単純明快で、誤読の余地など生ずるはずも無い。
 事実、数あまた出現した軍国美談では、『二十四孝』孟宗のような「親孝行美談」は一切語られることは無い。まだ沈まずや定遠は、と問いながら死んでいった「勇敢なる水兵」や、一命を捨てて君恩に報いよ、と息子に書き送った「水兵の母」など、親子の愛情など完璧に霧散させてしまった人たちばかりが、繰り返し登場するのである。

 要するに、吉本芸人の小薮も、防衛大臣の稲田も、日本会議の田久保(この爺ィ、大学教授だぜ!)も、教育勅語などまともに読んでもいないし、日本近代史のごく初歩的な(義務教育で教わる程度の)知識すら身につけていないのだ。「一生懸命勉強しましょう」などど小薮は宣うが、一生懸命勉強したことなど一度も無い学習ヘタレであることを、自ら証明しているのである。



親不孝者はどこにいる?


 悪態を吐いてしまったついでに、耳障りなまでに、親孝行、親孝行、と繰り返す教育勅語復活待望論者たちに、問い糾してみたい。

 お前たちは、一体どう言う立場で、親孝行が大切、などと言っているのか?
 宣教師よろしく、世間一般の人たちに向かって、親孝行が不足している、もっと親孝行しろと、説教を垂れているつもりなのか?
 あるいは、頼まれてもいないのに公安権力の走狗となって、教育勅語を否定するようなヤツは「反日・サヨク」の親不孝者だと、非国民の炙り出しにかかっているのか?

 この世の中の、一体だれが、親不孝者だというのか?
 私自身を含め、私の家族、親類・親戚、友人たち、会社の同僚や取引先の人、あるいは近隣の人たちなど、今まで生きてきて何らかの関わり合いを持った人たちを思い浮かべてみても、積極的に親不孝を志向している人など一人もいない。「反日・サヨク」という思想性を明確に表現している人たちも沢山いるが、同じである。みんな、我が身の分限をわきまえて、それなりの親孝行(それを「親孝行」と呼ぶのなら)に勤しんでいる。あるいは充分な親孝行(それを「親孝行」と呼ぶのなら)が出来ないでいることを真剣に悩んでいる。そんな彼ら彼女らに向かって、あえて、親孝行が大事、などと言わねばならない理由がどこにある。もし言ったとしたら、オレが親孝行であろうが親不孝であろうが、ソレをお前にとやかく言われる筋合いは無い、と言い返されるのがオチだ。これは、正当な対応である。

 教育勅語復活待望論者たちよ。親孝行、親孝行、と法華の太鼓のようにザワつくのは止めて、一度じっくりと「親孝行」という言葉の持つ意味を考えてみてはどうか。



《親孝行》の本質とは何か?


 親孝行とは、私的(private)・家族的(family-like)な関係の内側で成り立つ概念である。外側から、つまり、他者、社会、国家などが、個人に向かって発せられると、全く違った別の意味を帯びてくる。それも、許容しがたいグロテスクな意味を。少し解説しよう。

 人間は『類的存在』(独;、英;species-being)であると言われる。昨今では、このような社会科学概念はさっぱり使われなくなったが、この定義が古びてしまったわけではない。国立大学に文系は要らないなどと、学力コンプレックス(学歴ではない、念のため)を剥き出しにして恥じることの無い総理大臣に、権力志向の俗物どもが呼応・同調し、オーセンティック(authentic)な学術用語をさんざん卑しめた。その結果、ナイーブな学術用語の数々は古書籍の奥に身を潜めてしまったのである。

 さて、類的存在としての人間における、類の一番小さな単位は「家族」である。社会や国家がどのようなものであれ、人間は先ず家族という単位・構造のなかで人間として具体化される。
 家族の内部では、親子関係と夫婦関係という二つのベクトル軸が形成されていて、それぞれにおいて双方向に「役割」が設定される。この役割を全うするために、一人一人が「努力」を積み重ねてゆく。これが、家族が家族として機能するメカニズムである。この努力は日常的・持続的なものであり、ルーティンの飽くことなき繰り返しなのだが、時の経過に応じて変化してゆくものでもある。この努力の持続は忍耐でもあり、また、喜びでもあるのだ。
 この努力の積み重ねのうち、子から親に向かうベクトルの矢印に、もし名前を付けるとするなら、そしてその名前を既成の語彙から選択せねばならないとするなら、《親孝行》と名付けても良いかもしれない。だだし《括弧付き》だが。

 だから、一つの家族があり、その家族が適度な水準を保持して家族としてなり立っているのなら、外側からは見えなくても、既に《親孝行》は実行されているのである。《親孝行》とはこのようなものである。
 先ほど、不用意に「親孝行」などと言えば「オレが親孝行であろうが親不孝であろうが、ソレをお前にとやかく言われる筋合いは無い」と言い返されるだろう、と書いたのは、こう言う意味においてである。感情的に反発したのではない。これは論理的な反論なのだ。

 言葉の本質的な意味において、《親孝行》とはこのようなものである。
 教育勅語復活待望論者たちが陰に陽にイメージし、口にする「親孝行」とは、これとは全く別のものである。



《親孝行》に、似て非なるもの


 立身出世を成し遂げて故郷に錦を飾り、今の私があるのは両親のおかげですと、衆人の前に両親を引きずり出したりするのは、社会的な虚栄のためのパフォーマンスであって、《親孝行》ではない。此れ見よがしに母親を背負ってみせたりするのも、《親孝行》とは無縁の行為である。その姿を写真に撮っているお付きの者がいるのなら、車椅子を持ってこさせれば良いではないか。講演会の演壇で、とつぜん涙顔になって、お母さーん、と叫んだりするに至っては、論評のしようもない。聴衆が席を立たないのは、演者に対する同情心だけがその理由であろう。
 極端な例を出すな、と言うかもしれない。だが教育勅語復活待望論者たちが口にする「親孝行」は、このような戯画的イメージで裏打ちされているに相違ないのだ。まじめに《親孝行》について考えることがないのだから、通俗的なイメージに依存するより他に方法はないはずだ。

 犯罪に手を染めてしまった者を、「この、親不孝者め」と罵る場面がよくある。この男は(女かもしれないが)法を犯した。しかもそれが人倫にもとる行為であったから批難されているのである。親不孝をしでかしたから悪い、のでは無い。筋違いの罵倒である。
 異性を愛することが出来ないと子供が打ち明けるのに、「この、親不孝者め」と心を閉ざす親がいたら(そのような親は滅多にいないと思うが)、その人は、マイノリティーにたいする寛容さを持ち得なかった時点で、既に不幸に陥っているのである。

 こんな風に、いくら「親孝行」とか「親不孝」とかの使用例を探してみても、誤用か錯乱的使用しか発見できないのである。冒頭、子規の『孝行論』に触れたところで、「時代の喧噪、時代の狂乱から、はみ出さざるを得なかった人の耳には、喧噪と狂乱が煽り立てる言葉は、きわめて不愉快なものとして響く」と書いた。その理由は、以上の通りである。



安易に使われている『親孝行』という言葉の正体


 今ここに、非本来的な状況に陥った人がいるとする。その人が非本来的な状況に陥ってしまった原因は様々であろう。その人が並外れた怠け者であるならば、その非本来的なあり方の原因は、本人に帰せられるかもしれない。だが、たいていの場合はそうでは無い。たいていの人は、それが賢明な判断であったことの保証はなくとも、その人なりの判断をしている。また、それが正しい方法であったかどうかは分からぬが、その人なりの努力はしている。にも関わらず、しくじってしまった。ならば、失敗・失墜の本質的な原因は、彼の外側、つまり、周囲の状況や世の中の方にあるのかもしれない。加えて、偶然とか運とか呼ばれるファクターも、確かに存在する。人生は一筋縄では行かぬ。当たり前のことではないか。

 しかるに、このような多くの原因群の存在を捨象し、非本来的なありかたを「本人のせい」にしてしまう黒魔術的呪文がある。しかもそれは、社会的・国家的モラルを楯にとって、窮地に陥った個人を断罪するのだ。
 親孝行、親不孝、という言葉は、その最たるものである。

 子規の文人としての感覚は、死に向かって研ぎ澄まされ、日清・日露の狂躁のなかに「それ」を嗅ぎ分けていたのである。
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 −−【その6】了−− 『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い? 目次へ