ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。








 アパホテルのHPにある元谷外志雄の写真。私は他人の外見をとやかく論評する趣味は持たない。しかし、このような写真を、何のわだかまりもなく、デーンと企業の公式ページに掲げる精神は、とても恥ずかしいと思う。人間は誰でも、自分自身に対する過大評価と、自己嫌悪をあわせ持つ。申し分ない美形の女優さんなどが、思いもかけず、自分の顔のここが気に入らないなどと告白するのを聞くと、ますます彼女が好きになってしまう。元谷に欠けているのは、この、自分の「欠点」を見定めようとする姿勢である。それは、そっくりそのまま、彼の理屈の展開にも当てはまる。
 いま思い出したのだが、かの橋下徹が大阪府知事の時代、府の職員が仕事をしようとシステムを立ち上げると、橋下の顔がデーンと出現したという。自分の顔をやたらと露出したがるのは、自分自身に客観的になれない人たちに共通することらしい。
 そう言えば、長谷川豊も、鶴保庸介も、みんなそうだ。顔デーン、の恥知らずどもだ。
















































































田村泰次郎




映画『将軍と参謀と兵』のVHSビデオ・パッケージ。DVDにはなっていない。


左が主演の阪東妻三郎か?
バンツマ、の愛称で親しまれた。
今の若い人には、古畑任三郎を演ずる田村正和のお父さん、と言った方が通りが良いかもしれない。




映画『肉体の門』(1964)の新聞広告。
「打たれて……吊されて……女体の業が 廃墟の中に 燃え上がる?」だなんて、ほとんどポルノ映画のキャッチ・コピーです。実際、18禁映画だったので、当時16歳か17歳だった級友たちは、雪崩を打って映画館に殺到しました。
この映画の影響でしょうか、田村泰次郎は「肉体派」などどというレッテルを貼られてしまいます。
実は、この鈴木清順版で2回目の映画化。さらにこのあとも、さらに2回映画化されますが、そのうちの1本は「日活ロマンポルノ」でした。


監督の鈴木清順。
とてもカッコイイ爺さん、というのがその印象。


映画の大詰め。リンチを受け、吊されるボルネオ・マヤの 野川由美子さん。


鈴木清順、野川由美子のコンビは、その2年後『河内カルメン』を撮る。
私たちの高校は、この「河内」から通っている生徒もたくさんいました。彼らが言うには、河内にあんなベッピンいてるわけないがな。




『肉体の門』の挿入歌だったのが、
『星の流れに』
  作詞:清水みのる
  作曲:利根一郎
  歌 :菊池章子
以下『ウィキペディア』より
 作詞した清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。(中略)
 完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった。


『星の流れに』の出版楽譜だと思われる。ええ絵やなー。
歌詞をコピペしておこう。

星の流れに 身を占って
何処をねぐらの 今日の宿
荒(すさ)む心で いるのじゃないが
泣けて涙も 涸れ果てた
こんな女に誰がした


煙草ふかして 口笛吹いて
当もない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
街の灯影の 侘びしさよ
こんな女に誰がした


飢えて今頃 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に誰がした





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『改憲論』および『改憲論者』の徹底的批判 −− その13
                   平成29年02月05日



おっと出ました、「虐殺はなかった」おじさん !


〔見出し〕 アパホテル 中国で批判 全客室に南京大虐殺否定本
〔本文〕  日本のホテルチェーンを展開する「アパグループ」(本社・東京)の全客室に旧日本軍による「南京大虐殺」を否定する内容の書籍が置かれているとして、中国で批判が高まっている。中国人観光客も多く利用するホテルだが、旅行社が取り扱いを控えるなど波紋が広がっている。
 アパグループは国内外で400のホテルを展開。問題となっているのは、グループ代表の元谷外志雄氏が執筆した書籍で、日本語と英語で書かれ、南京大虐殺は「中国側のでっちあげ」としているほか、朝鮮半島での従軍慰安婦の強制的連行はなかったとしている。
 書籍の内容を批判的に紹介する動画が15日にインターネット上に投稿され、7800万回以上、再生された。ネット上では「中国人を客にしてもうけながら、気持ちを踏みにじっている」と利用中止の呼びかけも相次ぐ。中国外務省の華春瑩副報道局長は17日の会見で「日本の一部勢力は歴史をゆがめようとしている」と批判した。
 中国は27日から春節(旧正月)休暇で旅行の最盛期を迎えるが、オンライン旅行予約最大手では17日、アパグループのホテルが検索できなくなった。
 グループ代表室は取材に対し、書籍を置いているのは「正しい日本の歴史を知らせるため」と説明。「対応を変えることは考えていない」と強調した。
                          毎日新聞2017年1月18日 上海・林哲平


 このニュースが伝える事象に関しては、当初、何も言わないでおこう、と考えていた。だって、この元谷外志雄(藤誠志)というオッサンは、そのヨメハン(元谷芙美子)共々、私が最も嫌いなタイプの人間だから。嫌いを通り越して気持ちが悪い。名前を口にするのもイヤだ。
 ところが、怖いもの見たさでちょっと調べてみたら、このオッサン、安倍晋三の後援会『安晋会』の副会長なんだそうな。何だ、単なる政治談義好きの爺ィだと思っていたが、安倍の本音を代弁して権力掌握ゴッコを楽しんでいる、筋金入りの俗物じゃないか。それを知ると、新たな怒りがムラムラとこみ上げてきた。黙っておれなくなった。少し、からかってみるか。


私は100ドル紙幣など手にしたことがないが …… 、


 さて、オッサンの著作にあるという「旧日本軍による南京大虐殺を否定する内容」とは一体どのようなものなのか。この記事は具体的に述べていないが、あるサイトに実際の文面が一部引用してあった。

(南京で)三十万人を虐殺というのは計算が合わない。朝鮮半島で慰安婦にするために二十万人も強制連行したのであれば、それに対する抗議の記録が少なくともいくつかは残っているはずだ。しかし全く存在しない。つまり南京事件も慰安婦強制連行もなかったということだ。

 予想通りの文面である。ああ、やっぱり、というのが、正直な感想だ。これこそ「日本の一部勢力」の人たちから何度も聞かされてきた文言の繰り返しであり、いまさら驚かされることもない。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)以来、「犠牲者数の多少」にこだわって、「大虐殺の曖昧化」が絶えず行われてきた。ただし、このオッサンのように、「南京事件自体がなかった」とまで短絡させるようになったのは、ごく最近のことであるが。
 これに対する批判は、後ほど、具体的事実を対置することによって行うつもりだが、まず、この文言は、前回まで述べてきた「現憲法はGHQに押しつけられたものである、だから改正すべきである」という改憲派の屁理屈とまったく同じ構造を持っていること、を指摘しておこう。

  「現憲法はGHQに押しつけられたものである」、だから「改正すべきである」
  「三十万人を虐殺というのは計算が合わない」、だから「南京事件はなかった」
  「強制連行の抗議記録は存在しない」、だから「慰安婦強制連行はなかった」

 ラップのリズムに乗せて吟ずれば、冗談音楽風に聞こえるだろう。そんな風にしか使えないフレーズである。前段と後段との間に、何の論理的関連性も見いだせない。前段は「証明されていない一つの認識」に過ぎず、そこから後段の「重大な歴史的事実の否定」を導き出している。こんな論法が許されるのなら、次のような珍説だって堂々と通用するだろう。

  「私は100ドル紙幣を見たことがない」、だから「アメリカに通貨制度は存在しない」

 物事をまじめに考えたことがない人だけに可能な論法である。だが、この元谷の発言に、そうだ、そうだと、雷同する向きも多いのである。よく言ってくれた、と快哉を叫ぶ者や、何を言おうが言論の自由じゃないか、と気色ばんでみる者まで。そんな人たちに問うてみたい、「虐殺された人数の計算が合えば、あなたは南京事件を認めるのか」、と。
 以前にも書いたが(『その6』)、一般人・民間人の戦死者数は、どんな場合でも「推定数」でしかあり得ない。沖縄戦での一般住民の戦死者は「約9万4000人と推定」されている。これは、戦前と戦後の住民台帳を比較し引き算して得られた数字だ。戦乱の渦中にあって、軍籍などで照合できない人々の死は、一体誰がカウント出来るというのか。こんな場面で、死者数が正確でないなどと言い出すのは、何度も言うが、戦争のリアリズムを喪失している証拠でしかないのだ。「約何万何千」と概数でしか表現されるしかなかった死者たちの無念を、想像することさえ出来ぬ干からびた精神で、戦争を語るな。

 ホテルの客室に置かれている本の題名は、やたらダラダラと長い。

  理論 近現代史学U
  本当の 日本の 歴史
  誇れる祖国 日本復活への提言(W)
  社会時評エッセイ・2015−2016
…… 、   なんだそうな。

 何じゃ、コリャ。言いたいことを全部並べて書名にしてます。オッサンの会社のホームページの「Home > 企業情報 > 代表 元谷外志雄」には、「品格ある想像力」なんて書かれていますが、一片の品格も想像力もないことを露呈した題名ですね。
 「理論」でないような「史学」なんて自己矛盾でしょ。そもそもオッサンが書きたかったのは「歴史・もしくは歴史書」であって「歴史学」ではなかったはず。「誇れる祖国」と「日本復活」がセットになって出現するのは、彼が、安倍晋三の後援会『安晋会』の副会長であるなら当然のことか。それにしても「誇れる祖国」という言い回しが、抵抗感なく使われているのはなぜだろう。
 助動詞の「れる・られる」は「動詞の未然形のあとに続く」と習いました。「誇る」は五段活用動詞ですから、未然形は「誇ら(ない)」と活用します。ですから、「誇る」に「れる・られる」を続けるならば「誇られる」となるはず。つまり「誇れる」という表現は、盛んに議論されている「ら抜き言葉」である。すでに人口に膾炙している表現であるから、日常での使用をとやかく言うのは時代錯誤であろうが、書籍の表紙に題名として記すのは、私なら避けたいと思う。何故なら「古き良き日本文化の破壊」なのだから。ましてやその直後に「日本復活」という語句が続くのであるならば、壮絶技巧的ギャグになってしまう。まったく笑えないけれど。


田村泰次郎『裸婦のいる隊列』;解題


 さて、批判の本題に入ろう。今回も、具体的事実を対置してみる。どの資料が適当か考えた末、田村泰次郎の『裸婦のいる隊列』(1954年 昭和29年)というエッセイを選んだ。歴史書に部分的に引用された資料を寄せ集めるより、体験者による生の証言をそのまま読んでいただく方が良い、と考えたからである。短いものなので、その全文を掲載させていただく。
 田村泰次郎と言っても、現在では、映画『肉体の門』の原作者ということ以外、あまり知られていないのではないか。若干のプロフィールを記しておこう。田村は1911年(明治44年)三重県生まれ。早熟の文学者で19歳から作品を書き始める。モダニズム派とかプロレタリア派とかの文学的潮流には頓着せず、旺盛に小説・エッセイ・評論を発表し続けた。1940年(昭和15年)に召集され「一気に中国山西省遼県に持って行かれ」る。その後1946年(昭和21年)までの6年間、中国大陸を一兵卒として転戦する。
 1954年(昭和29年)、彼は妻を誘って『将軍と参謀と兵』という映画を観に行く。この映画は、兵役時代、彼が駐屯していた山西省の前線までロケ隊が来て撮影されたもので、戦地で観たことがあった。「おれにはなつかしいんだよ。おれのあごをだして、歩きまわったところを、お前にも見せたいんだから」と、彼は妻を映画館にひっぱりこむ。しかし懐かしさに浸るまもなく、彼は、自分が所属した日本軍が中国で何をしたか、を次々と思い出すのである。「長い戦争の期間をとおして、日本軍に殺された住民の数は、おそらく日本軍と闘って死んだ中国軍の兵隊の数よりも多いのではないだろうか」と彼は書く。彼がそう判断するに至る個々の体験をそのまま書き記したのが、この『裸婦のいる隊列』である。これは創作された小説ではない。「隊列」とはもちろん「兵隊の隊列」のこと。そこになぜ「裸婦」がいるのか。どうか最後までじっくりと読んでいただきたい。

 いま私が書いているのは「南京事件はなかった」などと言い出す輩に対する批判であるから、言わずもがなの一言を付け加えなければならない。田村は文中で「すぎた昔の古傷を、お互いにあばきたてることなど、いい加減にしたらどうか」と言う人たちを想定して、「忘れようとしても忘れられぬいくつかの場面は、私の脳底に灼きついている」と牽制している。つまり、いまさらすぎた昔の古傷を「あばきたてるな」と言う人はいても、古傷自体が「まぼろし」であるとか「でっちあげ」であるとかいう人はいなかった、ということである。今回は、1975年から順次刊行された『筑摩現代文学大系 62 田村泰次郎集』を参照したが、この配本にあたって、「そのようなでっち上げ作品を刊行するのは、けしからぬ」などといった抗議騒動が起こったという記憶もない。当たり前である。それが常識的な歴史認識というものだ。
 私は人生の比較的早い時期に田村泰次郎に出会って、その後読み返す機会はなかったが、その内容を、一つの常識として「私の脳底に」蓄えることが出来た。元谷外志雄というオッサンは、私よりうんと年上のはずだが、それほど齢を重ねても、文学全集の一冊さえ手にすることもなかったのだろう。つまりこれは、ごくごく基本的な教養の問題である。世界観が違う、などと言った、大げさな話ではないのだ。


田村泰次郎『裸婦のいる隊列』1954年(昭和29年);全文












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 −−【その13】了−− 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 目次へ