ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。








謝罪をするなら、
一切言い訳をするな。


これが謝罪の原則である。

安倍君も橋本君も、これをまったく理解していないようだから、そのお手本を紹介しておこう。

『無法松の一生』の主人公、富島松五郎である。
原作は岩下俊作。
伊丹万作の脚本を稲垣浩は二回映画化しているが、ここでは二回目のリメイク版(1958年)から引用しよう。







車引きの松五郎(三船敏郎)は顔パスで芝居小屋に入ろうとするが、木戸番の清吉(多々良純)にとがめられる。



その腹いせに、松五郎は熊吉(田中春男)と連れだって木戸賃を払って入場、七輪に火をくべ、大蒜などを焼き始める。劇場内は煙と臭気が充満する。



それを阻止しようとする清吉ら小屋の若い衆と大乱闘となる。



そこに割って入ったのが、地元の親分の結城重蔵(笠智衆)。



重蔵は手打ちの場で、清吉、松五郎、熊吉に説教を始める。



昔から新聞記者と車引きは出入り自由というしきたりがある以上、木戸番が勝手にそれを変えるのは困る、と、重蔵が清吉を諭しているあいだ、松五郎は退屈そうな顔で鼻くそをほじくったりしている。が、



「しかし、松五郎さん」と、呼びかけられて、松五郎は重蔵に向き直る。



「あんたのやり方も、正直なところ、わしゃ感心せんな」と言われ、松五郎、うなだれ、うなずく。



そら、あんたの腹立ちはよう分かるで。しかし、事件に何の関わりもない大勢の見物衆に迷惑をかけた罪は、こら、どうして償いをするつもりや、あんた。ここでシャンシャンと手を打てば、お互いの間の話はそれでつく。しかし、見物衆にかけた迷惑ちゅうもんは、消して消えはせん。松五郎さん、あんた、これをどう思うとんなさる。



松五郎、半泣きになる。



(松五郎)うわぁ、おりゃあ、そこへ気づかんじゃった。
(重蔵)いや、松五郎さん、
(松五郎)謝る。



(松五郎)(下座に回り、平身低頭して …… )おりゃ謝る!
(重蔵)偉い!





1958年のこの作品は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。アグファ・カラーの色彩階調がとても美しく、古典絵画を観るようである。

『無法松の一生』は稲垣の2作品だけでなく、何度も映画化・ドラマ化されていて、この場面は、日本男児の「謝罪の美学」にまで昇華されているように思える。
安倍も橋本もこんな映画は観ないのかな、きっと観ないだろう、古くさいとか何とか言って。
無教養で無粋な政治家ほど食えぬ存在は無い。まったく。
































團伊玖磨さん





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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その13
                   平成30年02月21日



「持論開陳グループ」が「常識派」を誘導する


 籠池諄子とか増井敬史とかの常軌を逸したヘイト表現に、そうだ、そうだ、その通りだと、賛同の声をあげる人は少ないだろう。籠池やら増井やらの言動は、我々が「してはいけないこと」だと教え込まれている行儀作法から大きく逸脱している。大衆は、道徳的に教化されていなくとも、常識という柵の外側に出ることのリスクに関しては十二分に学習しているのである。
 でも、常識的であろうとする大衆は、あのような極端なヘイト表現を、本当のところ、どう思っているのだろう。まぁ、何と酷いと、無邪気に嫌悪感を抱くのだろうか。あるいは、時と所をわきまえぬ拙攻ぶりを鼻で笑いながら、喚起された劣情を再び心の底に飲み込むのだろうか。どうも、それほど単純ではないように思える。
 こう言った場合、メディアのあちこちから「持論」が湧いて出て、それが、大衆のモヤモヤした時代の雰囲気を囲い込み、言葉を与え、気持ちと理屈の落としどころへと誘導しているように思える。


橋下徹 「持論開陳グループ」の一典型


  "AbemaTV" という動画配信サービスがある、その番組で、橋下徹が慰安婦問題に関する持論を述べているらしい。 "AbemaTIMES" というサイトにその紹介記事がある。わざわざ番組を視聴するほど酔狂ではないが、その紹介記事だけで、およそ中味の見当はつく。記者は好意的に書いているから恣意的な曲解はないだろう。本文のほとんどが引用符 "「 」" で囲まれているが、そこは橋下の言葉そのものだと思われる。
  https://abematimes.com/posts/3642536?categoryIds=537593

 橋下氏「安倍総理は平昌に行って、文大統領と慰安婦問題を議論すべき」

 「政治家やインテリと呼ばれる人たちは、威勢の良いことを言うのがかっこいいと思ってる。今回も "韓国に強気で行け" と言う。しかし、相手が弱っている時、助けを求めている時に手を差し伸べるのが政治。そして貸しを作る。今、韓国にはどの国の首脳も来てくれなくて、文大統領は困っている。そのときに安倍総理が行くのは日本にとってプラスになる。ただ重要なのは、きちっと日本の主張をすべきだ」。
 1日放送のAbemaTV『橋下徹の即リプ!』で、橋下氏が安倍総理の平昌オリンピック開会式出席に賛成の立場を表明するとともに、 "注文" を付けた。
 「慰安婦問題が絡んでるから30時間は必要だけど」と熱く語り始めた橋下氏。「市長時代にボロカスに叩かれた。日本のしたことを正当化するために言ってるんだろとさんざん言われた。言い方も含め賛否両論あったけれど、論争が起きて、国民の間にも、 "ずっと謝り続けていればいいという問題でもないのかな" という感覚がなんとなく出てきたのではないか。僕はその問題提起のきっかけを作ったと自負しているし、僕よりも慰安婦問題に詳しい人間はいないと思う」。
 続けて橋下氏は「 "当時の戦場で慰安婦というものは当然のことで、全然問題ない" という考え方と、 "慰安婦問題はとにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした" という両極端で来た。学者も全然悪くないか、悪かの2つだけ。中間を取ったのは僕だけと自負している」とも説明。
「僕は両方違うと言ってきた。戦場において女性の人権が蹂躙されたことはあったし、それは日本も悪いし、世界各国も悪い。日本と韓国だけの問題じゃなく、世界共通の問題として考えるべきだ、と。慰安婦像についても "慰安婦像は建てるな!撤去せよ!拒絶しろ" ではない。 "旧日本軍が20万人の人権を蹂躙した" ではなく、 "世界各国の軍隊がやったから、二度とこういうことをやめよう" と書いて世界に置いたらいいと思う。それであれば、大阪市役所の周りに置いてもいいじゃないか、と。安倍さんにもその認識を持って平昌に行ってもらって、 "一緒に世界にメッセージを発信しましょう" と文大統領に言ってもらいたい」と訴えた。(AbemaTV/『橋下徹の即リプ!』より)


溶解する論理 と 言葉のもてあそび


 政治や歴史について述べるとき、話し言葉で分かりやすく語ってはならない、という法はない。だが、それは、床屋談義の気楽さのなかに論理を溶解させても良い、ということを意味するものではない。橋下徹に限らず、当節の「持論開陳派」の困った点は、みな一様に、この論理の溶解性のなかで言葉をもてあそぶことにある。

 「今、韓国にはどの国の首脳も来てくれなくて、文大統領は困っている。そのときに安倍総理が行くのは日本にとってプラスになる」なんて、行きつけの飲み屋が暇で困っていると聞いて、そう言えばちょっと足が遠のいたかな、一度顔を出しておくか、きっとサーヴィス良くしてくれるだろう、などとオヤジが呟くのに似ている。だが、国際政治とはそのようなものだろうか。
 第一「今、韓国にはどの国の首脳も来てくれない」なんて、本当かしら。どこで確かめた事実なんだろう。おそらく、ネトウヨどもが(旧)2チャンネルとかツイッターで垂れ流している、世界の嫌われものの韓国、とか、韓国崩壊、とかいうようなガセネタをそのまま信じている、ということなのだろう。だが、実際はどうだったか。アメリカからは副大統領、北朝鮮からは金正恩の実の妹と最高人民会議常任委員長が連れだってやって来て、大騒ぎしているじゃないの。

 JOCが安倍に平昌に行ってくれと言い渋っていたのは、「現地で反安倍コールを受けて、安倍が平常心を失わないか」と懸念していたからであり、それでも行くことに決めたのは、「アメリカの手の及ばぬところで、南北が勝手に話を進めては困る」から、アメリカはペンスを遣るから、安倍よ、お前も行け、とトランプにけしかけられたからである。報道されなくとも、舞台裏は素人でも見通せる。自民党内の対韓強硬派や橋下などの外野席が、どのような "注文" を付けようが、安倍はトランプの言うとおりに動くのである。


詭弁の構造 一つのサンプル


 最初の3行ばかりを点検するのに、これだけ手間取ってしまった。橋下の発言はどの部分をとっても理屈として成立していないから、逐一誤謬を糺してゆくのは、出来の悪い答案の添削作業と同じで、それこそ「30時間は必要」となるだろう。そんな徒労はやるだけ無駄なので、一部分だけを抽出して、彼の弄する詭弁の構造を暴いてみることにする。

 「 "当時の戦場で慰安婦というものは当然のことで、全然問題ない" という考え方と、 "慰安婦問題はとにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした" という両極端で来た。学者も全然悪くないか、悪かの2つだけ。中間を取ったのは僕だけと自負している

 私は、他者に向かって「慰安婦問題」を論じることができるほど、多くの証言や論考に接してきたわけではない。だが、私の知る限り、「当時の戦場で慰安婦というものは当然のことで、全然問題ない」などと言い切る人にも、単純に「とにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした」と言い続ける人にも出会ったことはない。


当時の戦場で慰安婦というものは当然のことで、全然問題ない …… ?


 戦場の慰安所の前には兵士の長い列ができたという。その列に加わった人もいれば、加わらなかった人もいる。いずれの場合でも、戦後、その体験を得々と語る人などいなかった。戦後も、しばらく経ってから、戦地から帰還した作家たちのなかから、その体験を語りだす人たちが現れた。今さら何を書くというのかと咎められ、また、自身も戸惑いながらの執筆であると、彼らはその苦渋を述べている。田村泰次郎しかり、武田泰淳しかり、大岡昇平しかり、いや、戦後文学のほとんどは、あの戦争体験とは何だったのかという、答えの出せない問いへの回帰だったように思える。
 私が今、慰安所の前には兵士の長い列ができた、と、自分の記憶のように書くことができるのは、彼らの作品のどこかで、その光景を視ているからである。次々と兵士を受け入れなければならない女性の日常は地獄である。しかし、支給された粗悪なコンドームを握りしめ、炎天下に並ぶ兵士もまた屈辱にまみれている。この光景のどこが「当然のことで、全然問題ない」というのか。

 橋下のこの言葉は、「だって、誰にも性欲はあるでしょう。だったら、性欲処理は必要じゃん」という、「本音を述べるのはカッコいい」という昨今の風潮に安易に便乗したものである。持論開陳派がおくびのように吐き出す実感である。橋下は大阪市長在職時代から、繰り返しこの「兵隊さんだって男、性欲処理は必要」論を繰り返し、訪問を予定していた姉妹都市のサンフランシスコ市から、そんな変態野郎には来てほしくない、と拒絶されたのであった。橋下は未だにその拒絶の意味を理解しておらず、「僕よりも慰安婦問題に詳しい人間はいないと思う」と自惚れたままでいる。
 問い返すのも気が引けるくらいの単純な反論をするが、それじゃ、「強姦だって、当然のことで、全然問題ない、ことになる。だって、誰にでもある性欲によって引き起こされたのだから」、という理屈と、どこが違う?

 慰安婦問題とは断じて性欲処理の問題ではない。「慰安婦」とは、戦時中、国家権力が作り上げた強姦システムのことなのだ。
 慰安婦 …… 、慰安所 …… 、
 なんて嫌な言葉だろう。恐怖と、疲労と、不条理感で膨れあがった精神を、憎悪として吐出することはあっても、真に「慰安された」兵士は一人もいなかったのではないか。


とにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした …… ?


 「とにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした」というのも、橋下が勝手に造り上げた「サヨク・リベラル・戦後民主主義自虐史観派」のイメージである。2チャンネルとかツイッターがまき散らしている貧しいイリュージョンそのものである。私だって、橋下やネトウヨどもによれば、この「サヨク …… 」に分類されるのだろうが、私を含め誰一人、そんなことを大まじめに主張している人はいない。

 ウィキペディアには『日本の戦争謝罪発言一覧』という一項目があり、1972年の田中角栄から、2010年の菅直人まで、歴代の総理大臣や政府要人の謝罪発言がずらりと並べられている。安倍晋三だって、2007年に「……、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、……」と述べている。合計38回がリスト・アップされていて、ちょうど1年に1回の割合になるから、これはかなりの頻度である。確かに日本は謝罪しまくっているのである。ここでは、その質・内容は問わない。国家の中枢にいる公人としての謝罪なのだから、常識的で節度のある表現で十分である。ハマコーさんの様に土下座する必要はないし、地方議員のように号泣する必要もない。だが、問題はその先にある。
 せっかく謝罪しておきながら、その舌の先も乾かぬうちに、謝罪の精神とは矛盾することを次々としでかすのである。国会議員が集団で靖国神社に参拝する。大挙して日本会議に参集する。国務大臣や陣笠連中が平気でヘイトをぶち上げる。ゴリゴリの歴史修正主義者と対談したり、ヘイト集団と懇ろの間柄になったりする。さらには、『戦後五十年の国会決議』とか『戦後七十年の談話』などの、最も正式な国家としての歴史認識を提示する場面になると、謝罪の精神を台無しにしてしまうような曖昧さ、二枚舌的表現を持ち込むのである。


「サヨク」は何を批判しているのか


 一例だけ、最近の例を示そうか。平成27年 8月14日に『戦後七十年の談話』が出されたが、その数ヶ月前から、安倍は「侵略とか、お詫びとかは、もう書く必要がない」と言いだした。当然、中国・韓国、欧米のメディアからは猛反発を受ける。最終的には、アメリカから「そんなことをしたら先進国としての格好がつかないぜ、付き合い切れんな、もう」と恫喝されて、村山談話以来の「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「お詫び」という『謝罪ターム』は、談話の中に盛り込まれることになる。
 だが、発表された談話は、見てびっくり。
  https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

( 5行目、段落間の空白を含めてカウント)
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。
(54行目)
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 あれ、あれ、日本軍国主義の反省を表現するタームであった「植民地支配」「侵略」が、世界史一般の用語として使われている !

(63行目)
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省心からのお詫びの気持ちを表明してきました。

 あれ、あれ、「痛切な反省」と「心からのお詫び」は、以前の誰かがしてきたことであって、安倍自身は改めて「反省」も「お詫び」もしていないぞ !
 えっ、もしかして、もう二度と「反省」も「お詫び」もするもんか、と言いたいのか …… 、と、よく読むと、ありました、「もう日本は謝罪しないぞ」と暗に仄めかしている文章が。

(93行目)
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 これって、もう、詐欺のレベルですよ。


海外メディアは、きちんと誤謬を指摘している


 この『戦後七十年の談話』は、日本のメディアはほとんど論評を加えていないけれど、アジア諸国は勿論のこと、海外のメディアは、きちんとインチキを指摘している。
  http://lite-ra.com/2015/08/post-1406.html

★ ワシントン・ポスト
 → 日本の指導者、第二次大戦で謝罪に至らず。
★ ウォール・ストリート・ジャーナル
 → 日本の安倍首相は第二次世界大戦における直接的謝罪の手前で止めた。
★ ニューヨーク・タイムズ
 → 安倍首相は、歴史を“誰も非難できないような種類の歴史的ツナミ”として描くことで、日本の責任を希釈化した。
★ ロイター通信
 → 安倍首相は、彼自身の新しいおわびは表明しなかった。
★ 英国放送協会(BBC)
 → 安倍首相は、独自の新たな謝罪は示さなかった。
★ タイムズ
 → 恥ずべきほどなまでに、戦争中の日本の罪ときちんと向き合わなかった。
 → 原爆忌や終戦記念日で、日本は戦争の加害者というより、被害者であるという神話を維持している。

★ リベラシオン
 → 昭仁天皇の戦後70年における本心を紹介し、それと対比させる構成で安倍首相を「国家主義者」として批判的に談話を報じた。
★ ル・モンド
 → 安倍総理大臣個人として、過去の侵略や植民地支配に対する謝罪を一切行っていない


【理解できたかな? 橋下君】


 分かったかね? 橋下君。
 「サヨク・リベラル・戦後民主主義自虐史観派」は、党内右派の抵抗を牽制し保守の主流派に留まるために、詐欺師的手法まで駆使して、歴代の謝罪の積み重ね(これは歴史認識における、かけがえのない遺産である)を平気で台無しにする行為をするが故に、安倍晋三を批判しているのである。「とにかく謝らなきゃいけない。日本はものすごく悪いことをした」などといった、永遠なる坊主懺悔を強要しているわけではないのだ。
 喧嘩するにも値しない輩とやり合ったり、2チャンネルやツイッターで遊んでばかりいないで、少しは真面目に勉強をしてみることだね、橋下君。君が得意げに提案する「日本も悪いし、世界各国も悪い。日本と韓国だけの問題じゃなく、世界共通の問題として考えるべきだ」なんて論法は、3年前に安倍晋三が『戦後七十年の談話』で使用済みの中古品だ。安倍の論法を借用して,安倍に注文を付ける、なんてお笑い。「中間を取ったのは僕だけと自負している」に至っては、まさに「草不可避」。すでに、ニューヨーク・タイムズによって、「歴史を“誰も非難できないような種類の歴史的ツナミ”として描くこと」だとして論破されていることを学習したまえ。

 えっ? まだ分からない?
 だったら、一つの喩え話をしようか。
 子供どうしが喧嘩をして、その原因を作った側の親が謝りに行った。わだかまりはすぐに溶け、被害を受けた側の親が、「いやあ、子供のことです。子供は喧嘩をして成長するんです」と、謝罪の労をねぎらった。この台詞は「被害を受けた側」だから言えるのである。「被害を与えた側」が言ったとしたら謝罪にはならない。新たな喧嘩を売っているのと同じである。こんな常識も理解できないのか。あんた、弁護士だったんだろ。

   ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 


【追補】

 左のコラムで『無法松の一生』をとりあげたが、この映画に音楽を付けたのは團伊玖磨さんである。彼が『日本経済新聞』に連載した『私の履歴書』をまとめた一冊のなかに、本文でふれた『戦後五十年の国会決議』(1995年)を批判した一文が併載されている。資料として、それをコピーさせていただく。
 團さんの書く文章は、長年にわたって書き綴られたエッセイ『パイプのけむり』に見られるように、軽妙洒脱でユーモアに溢れたものであるが、この文章は、抑えきれない怒りで筆が先走りしたのか、強面で硬骨な文体になっている。

 團さんのことを知らない人のために蛇足をつけ加えておく。
 彼の祖父團琢磨は、三井三池炭鉱の経営を成功させ三井財閥の総帥となった人である。だが祖父は、1932年(昭和7年)菱沼五郎に暗殺されてしまう。伊玖磨さん8歳の時である。財閥の御曹司でありながら、彼は作曲家の道を選ぶ。1959年(昭和34年)皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子様との御成婚を祝し、『祝典行進曲』を作曲。このマーチは1964年の東京オリンピックでも演奏されたから、そのメロディーを知っている人も多いだろう。NHK専属の時代に作った童謡・ラジオ体操から、交響曲、合唱曲、吹奏楽、オペラ『夕鶴』・『ひかりごけ』まで、その作品・作風は幅広い。

 読み取っていただきたいのは、團さんのような優れた文化人が『戦後五十年の国会決議』という政治的動向に、どれほど敏感に反応していたか、という点である。たった20年前である。言うまでも無いが、團さんを始め、文中で引用されている、加藤周一さん、大岡信さんたちは、決して「サヨク」ではなかった、と私は思う。


團伊玖磨 自伝 『青空の 音を 聞いた』
     (『日本経済新聞社』2002年、123p.〜128p.)

『戦後五十年にあたって』

 本年 ―― 一九九五年の八月十五日は、日本の敗北による第二次世界大戦の終結から丁度五十年、日本はもとより世界の多くの国々、多くの人々にとって、この日はそれぞれ特別な意味を持った日であると思う。とりわけ、日本の植民地支配下、占領下にあった国々、地域の人々にとっては "解放" "勝利" の意味を持った特別な日である。私達は、その事の意味を、日本が過去と同じ誤った道を歩かないための重い礎(いしずえ)とするためにも、忘れる訳には行かない。
 今年はまた、日清戦争終結の下関条約締結百年にもあたる。日清戦争以来、理不尽な覇権を求めて朝鮮から中国東北へ、更に山東、華北、上海へ、あまつさえシベリアにも食指を動かし、盧溝橋事件を機として全中国へ、侵略によって富を得ようとする野望の道をひたすら歩んだ軍国日本の五十年。その間、日本が最大の被害を与えたのは中国に対してであった。一九三一年の柳条湖事件以来の日中十五年戦争での中国の死傷者は三千五百余万人、物質的損害は一千億米ドル以上と考えられている。
 かつて永い歴史の中で、文字、宗教・哲学、学問、芸術、医薬等々、巨大な文化の恩恵を受け、遣随・遣唐の使節・学生を送って善隣のよしみを通じたその"お返し"が軍国主義による侵略であった事は、日本をして、 "不信用" のレッテルを押された国にしたばかりか、その与えた余りにも巨大な損害に思いを致す時、戦後の日中国交正常化の両国共同声明の第五項、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」の世界的に有名な条項の大きさとの余りにも対照的な隔たり方に、私は強烈な恥を思う。
 同声明の前文には、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」の原則が記されている。然るに、日本社会の中に、時たまではあるにせよ、この原則に反し、原則を忘れ、或いは逆らう思潮が隠見するのはどうした事であろう。ここ一、二年の間にも、南京に於ける日本軍による中国人民大量虐殺を "でっち上げ" だと発言した法相や、太平洋戦争は侵略戦争ではなかったと発言した環境庁長官がいた。いずれもその発言のために大臣の座を失ったが、それだけのことで、そうした人物を閣内に入れた内閣の責任も追及されなかったし、そうした事態を生み出した日本社会の体質を反省する事も殆んどなかった。そして、この問題の極めつけは、「戦後五十年の国会決議」である。日本の過去の侵略も、それに対する謝罪も、不戦の誓いもあいまい、責任も亦あいまいな「決議」であった。「苦痛をあたえた」アジアの諸国民にとって、到底納得のいくものではなかったはずである。しかも、このあいまいな内容の決議さえ、ごたごたと反対するものが多く、なかなか決まらなかった。このことに私は大きな問題を感じるのである。
 加藤周一氏は「決議の内容は、あいまいである。日本の戦争を侵略戦争と認めるのか、認めないのか、はつきりしない。戦争全体の性格は別として、日本が行ったことのなかに『侵略的行為』があった、というだけである」「私は日本人として、日本の国会に、みずからの非を非とする明瞭な態度を望む。自国の責任を語るのに、他国を引き合いに出す往生ぎわの悪い態度には、倫理的な威厳がない」(六月二十一日付『朝日新聞』夕刊「夕陽妄語」)と述べている。
 大岡信氏は「日本語は決してあいまいではない。が、この決議は日本語を意識的にあいまいに使っています。責任をあいまいにする、それを目指して書いた文章であることは、歴然としている」「日本は過去にこういうことをしたということだけでもはつきり認めるべきだし、その認識を正確な言葉で発表すべきです。それをしないでいることが、対外的に、国内的に、どれほどマイナスを生んでいるか。特に次の世代の人たちへの歴史認識の教育をいかにだめにしてしまうか、責任を持って考えるべきです」(六月二十三日付『朝日新聞』朝刊「主張・解説」)と語っている。まったく同感である。
 一九四九年十月一日、中国人民共和国(原文のママ)が誕生した。戦後四年、長い苦難であった中国革命の道程とともに、それは今世紀最大の歴史的壮挙であった。しかし日中国交正常化まではそれからさらに二十三年の歳月を待たねばならなかった。
 日本中国文化交流協会の創立は一九五六年、戦後十一年、中華人民共和国成立後七年目であった。協会は来年四十周年を迎えるが、創立以来の十六年間は国交のない中国との文化・民間人の交流であった。文化交流を通じて中国人民との友好を深め、国交正常化へ機運を盛り上げる意義を思い、そのために働いた十六年間である。「ピンポン外交」「舞劇団外交」、各種展覧会等の展開を経て、日中国交正常化が実現した。それは日本の戦後の大きな課題の解決であり、アジアそして世界の平和への大きな貢献を意味したと思う。今更ながら、私達の協会の指導者達、中島健蔵、宮川寅雄、井上靖、千田是也の先生達、 "領導" の歴史観と正しさへの情熱、実行力の大きさを思い返すのである。

 重要な問題がある。それは被害者と加害者の問題の整理があやふやな事である。中国では「あの戦争は日本の一部の軍国主義者が起こしたもので、日本人民には罪がない。悪いのは軍国主義者である」という教育が早くから徹底している。日本があれほどの苦痛と被害を与えた中国と友好関係を再構築出来たのは、中国側のこうした教育にほとんど負っていると言ってよい。私はこのような中国側の教育努力に敬意を表するが、しかし、そうした日本の広範な一般大衆への温かい理解と思いやりを基調にした発言をよいことに、自分達を被害者に置き換え、加害者としての責任を逃がれようとする日本人の風潮を見逃す訳には行かない。私は、戦前、戦中、戦後を通じて観察を続けて来た"日本"及び "日本人" の姿の中に、決して一般大衆が責任のない被害者だったとは言い切れぬものを持っていた事を知っているからである。
 日本の「一部の軍国主義者」は戦争犯罪人として戦勝国側から厳しく追及され、断罪もされた。しかしそれは日本人がみずからの手で裁いたものではなかった。ここにその後に尾を曳くことになる不徹底さ、被害者と加害者の位置のあいまいさの原点を見る思いがする。戦犯として裁かれたものが内閣を組織する事が平気で通用した国。このこと一つ取っても、日本が、かつて重大な被害を与えたアジアの諸国に対して、国として厳粛に、誠意をもって対応しなかったこと、しようともしなかったことの証左である。今なお中国に残置されたままの旧日本軍の毒ガス弾、武力を背景に狩り集めた労工、慰安婦の問題、敗戦で紙屑となった日本軍の軍票等々、未解決で投げやりな問題は山のようである。
 私達は、先ず加害者、被害者の問題を整理し、あいまいさを払拭し、加害者として誠意のある態度で被害者に接する「公道」を作る事の重要さを述べたい。そのことを避けては、日本の世界的立場は確立されず、世界の中で孤立することが、どんなに恐ろしい将来に繋がるかは、既に一九三〇
年代からの日本の姿を振り返る事で理解されるだろう。だからこそ "不戦" の決議は必要だったのである。

 五十年前、私は二十一歳の青年だった。今七十一歳に老いるまで、日本の戦後五十年はさまざまな試行錯誤を展開した。ただ、その五十年間、一筋の光のように、強く、まぶしく、確として存在していたものは、文化・芸術の世界性と、平和世界実現のための文化交流の重要性、殊に、隣国であり、悠久の歴史の中に、我が国に量(はか)り知れぬ文化的恩恵を与え続けた中国との文化交流の重要性であった。
 日中間の文化・友好交流は、先に述べ、危惧したような諸問題を抱えながらも、特に民間交流は、双方の努力のもとに、着実に進展しつつある。もともと日中間の交流は国交正常化以前から始まり、民間による経済、文化の交流が、国交を促す形で発展して来た。民間交流の重要な面の一つ、人と人との交流、触れ合いも益々盛んになりつつある。
 日中文化交流協会は長年にわたる交流の経験の中で積み重ねて来た、そして創り上げて来た相互信頼の上に立って、両国の友好に更に邁進して行きたいと思う。
 日中友好、文化交流の未来は広い。私達はその広さを、更に広く、深いものに育て上げて行かなければならないと、戦争が終わってから丁度五十年の日に、改めて決意を新にするのである。


(「日中文化交流」一九九五年八月号)


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