ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。





映画『誇り高き男』1956年 アメリカ 













『日本会議』ホームページのロゴ
縦書きで明朝体である。このホームページで、私が気に入った唯一の点。 
















『田母神塾―これが誇りある日本の教科書だ』 田母神俊雄 著 





『日本人の美徳 誇りある日本人になろう』 櫻井よしこ 著 





『誇りある日本の歴史を取り戻せ』 
渡部昇・田母神俊雄 共著
 




「誇りある国」取り戻す、と演説中の安倍晋三。自民党のホームページからの引用であるが、何時どこで行った演説なのか、さっぱり分からない。 




田形竹尾
「元特攻隊教官」なんて、威張って言ってます。


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 平成27年 11月 25日 『日本会議』の正体を暴く その1


 人はみな姿形が違うように、その考え方も千差万別である。世間には美しい人だけでなく「個性豊かな」人もいる。立派な理念だけでなく、どうでも良いような思いつきもある。それで良いのである。もし、世の中がすべて美男美女と公明正大なる思想で埋め尽くされているとしたら、そこはきっと窮屈で生きづらい世界であるに違いない。多様性こそ市民社会の持つ美しい特質の一つである。自分とは相容れない考えをもった人たちがいても、無視しあって共存できるという市民社会のもう一つの美質が健在ならば、さしあたって何の問題も起こらない。
 だから『日本会議』のような組織があっても別にかまわない、と私は思う。第二次世界大戦あるいは太平洋戦争をわざわざ大東亜戦争と呼び変えて、その敗北を未だに受け入れられない老人たちがいたって、別に良いじゃないか。仮にそんな人たちと間近に接することがあっても、そんなアナクロニズムを徹底させて生きるなんてさぞかし大変でしょうね、と心中ひそかに同情してあげればよい。

ホームページにばらまかれているイメージ用語


 しかし聞くところによると、国会議員のうち300名近くが『日本会議国会議員懇談会』に参加しているという。安倍内閣の閣僚に至っては大半が参加者らしい。そうなってくると話は別だ。頑固老人たちの床屋談義だと、笑って済ますわけにはいかなくなる。
 上の300名というのは超党派での参加だと聞いて二度ビックリ。何と自民党右派の陣笠だけではないのだ。オレはオマエとは違う、と相手に対して再異を際立たせる事だけが自己のアイデンティティーであるような党派・派閥が、『日本会議』の醸し出す曖昧模糊とした〈日本の概念〉のもとではたちまち融和してしまう。一体何が起ころうとしているのか?
       https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 『日本会議』はたいそう立派なホームページを作っている。ちょっと覗いてみようか。 
 このような場合、例えイデオロギーは受け入れられなくとも、彼らなりの理屈が展開されている、と思うでしょう。だって300名もの国会議員をシンパにしているのだから。
 だが一歩踏み込むなり、訪問者は愕然とさせられてしまう。思想とか理論とか呼べるものが何処にも見当たらないのだ。あちこちのページを巡って、そこに置かれてある文章をそれこそ腑分けするように読み解こうとしても、何も読みとれない。
 ここにあるのは、二種類の〈イメージ用語〉だけだ。これらだけが何とも気前よく大盤振舞されている。
 1. 嫌中、嫌韓、嫌左翼、嫌反日、などの「嫌悪感を喚起させるだけの」イメージ用語
 これに少し控えめであるが「嫌占領体制」が付け加わる。日本の右翼もどきは、行動原理は「対米従属」そのものなのに、心情の深部に「反米感情」を隠しているのが可笑しい。何と皮肉れた精神構造じゃないか。 
 2. 『誇りある国』『美しい日本』などの「実体のない」イメージ用語
 これは心神喪失後の残留イメージのごとく曖昧模糊としているが、どう見ても、(1.)の「嫌悪感を喚起させるだけの」イメージ用語の対概念としてしか存在していない。悪い悪い(1.)を前提として始めて成立しているのが(2.)。つまりこの概念は自立していない。当然、そこから幾多の思想が演繹されうるような原始的・源流的概念にはなり得ない。しかるに日本の右翼もどきは、ここから全てを取り出してみせる。

単なる〈悪口〉と、どこに向かって何を言いたいのか分からない〈宣言〉

 

 この二群の〈イメージ用語〉を任意にブレンドして頻発されるのが、この二つ。

 a. 批判・批評のつもりだろうが、単なる〈悪口〉
 b. どこに向かって何を言いたいのか分からない〈宣言〉

 悪口を言うのは簡単だが、他者の思想を正しく批判するのは骨の折れる仕事である。まず「貴方の言いたいのは、こういうことですね?」という確認がいる。普通この確認は、相手の言い分から引用を行ったり、相手の言い分を要約したりして行う。これが批判の入り口であり、この行程を通過しなければ批判の道には入っていけない。これが通常のやり方である。しかし『日本会議』のホームページはこの手順を踏もうとはしない。

  "現物" を見ていただくのが良いだろう。ああ、なるほど、と思っていただけるはずである。『日本会議』のトップページには記事の標題が並んでいるだけなので、『日本会議とは』というページが良いかと思う。意味不明の文章が4本も並んでいてそれはそれは壮観ですぞ。君を混乱の渦に落としこむこと必至である。
 その中から段落を一つ、 
「(前半)今日、日本は、混迷する政治、荒廃する教育、欠落する危機管理など多くの問題を抱え、前途多難な時を迎えています。(後半)私達「日本会議」は、美しい日本を守り伝えるため、「誇りある国づくりを」を合言葉に、提言し行動します。」 
                       http://www.nipponkaigi.org/about
 (前半)には「混迷する政治」「荒廃する教育」「欠落する危機管理」という言葉がならんでいるが、どの現象・誰の発言・どんなデータがそうなのか、等々が一切述べられていない。読み手がこの単語だけで「そうだ、そうだ、賛成、異議なし」と反応してくれることを期待した〈悪口〉もしくは〈野次〉レベルのものである。
 こんな(前半)が、何の脈絡も関連性も示さずに、(後半)の「美しい日本」「誇りある国づくり」の金科玉条的イメージ用語に繋がる。こんなものは「合言葉」にも「提言」にもならない。
 『日本会議』のホームページは、全体がこのような文章で埋め尽くされている。批判の対象にしようとしても、引用も要約もできない文章が並んでいる。思想どころか、どの一行をとっても、その一行の意味が成立していない。難物である。まぁ、悪口しか書かれていない文章を思想的に批判する、なんて端から来ない相談だけれど。
 さて、どこから入ろうか? 

『誇りある国』とはどういうこと?


 トップページにある『誇りある国づくりへ』というスローガンらしきものから検討してみよう。誇りある国づくり …… 、誇りある国づくり …… 、と繰り返し読んで気がついた。この日本語、少しおかしくないか?

 「誇り」という言葉ですぐ思いつくのは、私の場合1956年の映画『誇り高き男』である。いや、正確に言うとこの映画の主題歌である。封切り時、私はまだ8歳であって、当然映画は見ていない。この主題歌はけっこう流行ったものらしく、よく歌ったのを覚えている。 
 人差指で下唇を弾きながら「ビビビビ、ビン、ビン。ビビビ、ビン」とイントロをハミングしてから、歌い出す。「誇り高き男 シルバー 暗い荒野を ただ一人行く」。

 えっ? おちょくるな、何が言いたいのだ! て。
 いいえ、私は大まじめです。言いたい事はこうだ。良く聞け。
 ラ行五段活用動詞「誇る」の連用形「誇り」を用言につなげる場合は「誇り高き」とするのが慣用的ではないか、と。
 この「誇りある国づくりへ」というスーローガンを読んだとき、意味とか考え方とか言う以前に、語感自体がピンと来なかったのですね。言葉づかいとして変だ。そこで一生懸命「誇り」で始まる前方一致語を脳内検索してみた。そうしたら、出てきたのは、先の、誇り高き、以外に、××の誇りだ、誇りを持つ、誇りに思う、誇りを傷つける、誇りとする、等々であって、「誇りある」という用例は検索の網には引っ掛かってこない。
 一例だけ類似の使用例があった。「誇りあれ、誇りあれ、南中学校」というもので、何を隠そう、これは私が卒業した中学校の校歌なのだが、これとて「栄えあれ」「望みあれ」「誇りあれ」と一番・二番・三番の歌詞を五音で無理やり語呂合わせしたものだ。
 私がこう言ったからといって、必至になって「誇りある」の使用例を家探しするのは止めた方が良いよ、『日本会議』のシンパ諸君。墓穴を掘るに決まっているよ。

 思うに「誇り」とは「人間の精神にかかわる属性」として使用されるのが一般的で、「組織とか共同体にかかわる属性」としては使用されない、のではないか。これは私の感覚で言うのだが、自信はある。言語学の先生方、いかがでしょうか。
 これが『日本会議』のスローガンでなかったら、別にどうでも良い話なのだ。冒頭で述べたとおり、世の中とは公明正大なる思想だけで存在しているわけではない。しかし『日本会議』とは、何よりもまず「美しい日本、美しい日本語」を標榜する団体ではなかったか? その『日本会議』がかくも珍奇なスローガンを掲げて平気といこうことは、『日本会議』の主唱者どもが、実は、日本文化の事などちっとも大切に思っていない、ことの証明になっていないか? 誘蛾灯に引き寄せられる虫たちのように、『日本会議』の醸し出す曖昧模糊とした〈日本の概念〉に参集してくる300名の国会議員も同様。阿部一派も同様。

『誇りある』という言葉が好きな人々


 「誇りある」の使用例を家探しすると墓穴を掘るよ、と先ほど言った。実は「誇りある」がどんな風に使われているか確かめたくて、グーグルで検索してみたんです。すると、ずらっと出ましたね。「誇りある」は最近大流行なんですよ。ただし、ある特徴ある人々に限っての流行だけれどね。

『田母神塾―これが誇りある日本の教科書だ』田母神俊雄 著
『日本人の美徳 誇りある日本人になろう』櫻井よしこ 著
『誇りある日本の歴史を取り戻せ』渡部昇・田母神俊雄 共著
『「誇りある国」取り戻す』安倍晋三の演説 自由民主党機関紙「自由民主」第2549号
『誇りある日本をつくる会』初代会長 田形竹尾(※1)
『誇りある日本の会』(※2)

  註(※1) Wikipediaより引用; 日本陸軍航空隊の戦闘機操縦者(パイロット)。右翼団体「日本革命菊旗同志会」幹部。晩年に日本文化チャンネル桜設立発起人、設立後顧問。「誇りある日本をつくる会」初代会長。
  註(※2) 正体不明であるが、上の『誇りある日本をつくる会』が2011年に改称したものらしい。在特会と共にヘイトスピーチデモを行っているとの記事もある。

 これだけ並ぶと、額に汗して論証する必要など無くなってしまいますね。
 状況証拠がずらり。何の言い訳も出来ないでしょう、「誇りある」とはある特徴的な集団に帰属した人々をうっとりとさせる言葉だったのですね。
 猫にマタタビ、右翼もどきに「誇りある」。
 でもね、何度も言うが「誇りある」は今のうちに止めた方が良いと思うな、老婆心ながら。
 例えば「破局に至る」とか「破局を迎える」とかいった慣用的表現が使えず「破局する」で済ますのは美しい日本語ですか? 
 これと同じように「誇り高き」を使わずに「誇りある」に置き換えてよいのでしょうか? これ、正否というより言葉の品性の問題である。品性。あなたたちの好きそうな言葉だよ。
 私は、自分より若い世代が「お茶する」「ゲットする」などと言うのを聞いても、別に不快には感じない。逆に今までには無かった語感をもって響き、意味の拡張をもたらしているとも思える。「お茶する」には、「お茶でものみませんか」とか「茶ぁでも飲もか」とは違った、もっと新しい人間関係の雰囲気が感じられる。
 しかし老人が使う「誇りある」は違う。無教養のまま老いさらばえた男が、何か意味ある事を言おうとして藻掻いている。そんな響きしか感じとれない。

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 −−【その1】了−− 『日本会議』の正体を暴く 目次へ