ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。
『冒険ダン吉』(島田啓三)
『少年倶楽部』に連載
1933年(昭和8年)
  〜1939年(昭和14年)

『冒険ダン吉』は戦前・戦時中の子供向け絵物語である。それを戦後生まれの私がなぜ知っているのかと言えば、友達の家とか医者の待合室などに、ごく普通に置かれていたからである。街の小さな本屋さんでも、書棚の隅には戦前からのものがまだ置かれていた。
買ってもらった絵本の中にも、兵隊さんに席をゆづりませう、というページがあって、電車の車内で子供が兵隊に席を譲る場面が描かれてあった。ガラガラに空いた車両風景であるのに、大まじめで席の譲り合いをしている。ほとんど吉本新喜劇の可笑しさであった。子供は、大人が望んだり心配したりする事とは、まったく別の点に関心を抱き面白がるものなのだ。

ダン吉が漂着した島は「野蛮島」であり、原住民は「蛮公」、各人は名前ではなく「1号」「2号」と呼ばれている。原住民はどう贔屓目にみても、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの人には見えない。
今日から見れば滅茶苦茶な設定であるが、少なくともダン吉は「蛮公」を侮蔑・罵倒の言葉としては使用していない。だから我々も「お話」として読むことが可能なのだ。
その言葉が「過去において差別語として使われたかどうか」ということより、「今、どのように、どのような言葉として、使われているのか」と言う点のほうが、重要なのだ。


『タンクタンクロー』(阪本牙城)
『幼年倶楽部』に連載
1934年(昭和9年)
  〜1936年(昭和11年)



一文菓子屋には『タンクロー飴』が売られていた。タンクタンクローも戦前・戦時中の漫画である。
この絵はなかなかシュールだ。飴の箱には、このタンクローがデザインされていた。
飴は、ぼんやりと甘いだけのミルクキャラメル風のものであったが、せっせと買い求めては食べ続けた。
一箱5円だったからであるが、タンクローの絵柄が気に入っていたからかもしれない。

ネットで『タンクロー飴』の写真を見つけたが。残念ながら、記憶にあるものとは一致しない。


ターザンを演ずる
Johnny Weissmuller
オリンピックで大活躍した水泳選手であった。

名前から分かる通り、オーストリア・ハンガリー帝国からのドイツ系移民である。後年のSchwarzeneggerもまたしかり。アメリカ映画ムキムキ・マンの伝統か。

『ターザンの逆襲』1936年(昭和11年)の日本公開ポスター
戦時中は『鬼畜米英』というスローガンが多用されたが、多くの歴史書は、開戦まで「反米感情」なるものは目立って存在していなかった、と述べている。誰のエッセイだったか忘れたが、アメリカ映画を見終わって映画館を出たら日米開戦の号外が流れていて戸惑った、という回想があった。まさに煽り立てられた「反米感情」だったわけである。このポスターも、その通りの雰囲気を伝えている。



『支那の夜』1940年(昭和15年)

戦後『蘇州夜曲』と改題してリバイバル
李香蘭こと山口淑子さんと原節子さんは奇しくも同じ1920年(大正9年)の生まれである。山口淑子さんには日経新聞の『私の履歴書』に連載した『李香蘭 私の半生』という自伝があり、原節子さんには石井妙子さんの書いた『原節子の真実』という伝記がある。どちらも戦争が自立を目指す精神に何を強要するのか、の優れたドキュメンタリーになっている。どんな歴史書を読むよりより、あの戦争とは何であったか、がよく分かる。



 
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『改憲論』および『改憲論者』の徹底的批判 −− その7
                   平成28年11月11日



 大阪府警の機動隊員が、沖縄・高江ヘリパッド建設に反対する人たちに向かって、土人、シナ人、と罵倒できる心理的根拠はどこにあるのだろう。極めて不愉快であるが、新聞等の伝えるところから、彼ら二人の「発言」をなるべく正確に再現しておこう。

  男性巡査部長(29歳) 「何処(どこ)掴(つか)んどんじゃコラ、ボケェ、土人が」
  男性巡査長 (26歳) 「黙れ、こら、シナ人」


 彼らは、地図上を直線で結んでも1200キロ離れている大阪から「出張」してきて「警備」の任に就いているのである。地元の住民たちと地縁的・血縁的関係は無い。ましてや何の仕事上・金銭上の遺恨もないはずである。ほとんど初対面と言って良い。そんな他者に向かって、事の性質上、言葉の遣り取りが多少荒っぽくなるのは当然だとしても、何故あれほどまでに侮蔑と憎悪を吐出することができるのか? その「心理的根拠」は何か?

 と、書き出していたら、鶴保庸介とかいう『沖縄及び北方対策担当大臣』が、この「沖縄土人発言」に関して、とんでもない意見を述べているというニュースが伝えられた。言及する価値のない、というより、言及するだけで当方の品位が落ちてしまう、というレベルの発言なのだが、他でもない『沖縄及び北方対策担当大臣』の発言だ、看過するわけにはいかぬ。
 ちょっと調べてみたらこの男、俗物性を純粋培養してその上に無節操というシロップを垂らしたような経歴の持ち主だが、そんなことは今はどうでも良い。ニュースで伝えられているのは 11月8日の参議院内閣委員会での発言だが、それまでに何度も同じ趣旨の発言を繰り返しているらしい。つい、うっかり、口を滑らせた、ものではない。得々として述べている「持論」なのだ。



小学生段階の人格形成が未達の『沖縄及び北方対策担当大臣』


沖縄「土人」発言
鶴保担当相「差別とは断定できない」
参院内閣委「言論の自由はどなたにもある」とも

 鶴保庸介沖縄・北方担当相は8日の参院内閣委員会で、沖縄県の米軍北部訓練場の工事反対派に大阪府警の機動隊員が「土人」と発言した問題について、「『土人である』と言うことが差別であると断じることは到底できない」と述べた。沖縄側の新たな反発を招きそうだ。
 鶴保氏は「人権問題であるかどうかの問題で、一方的に決めつけるのは非常に危険だ。言論の自由はどなたにもある」と発言。共産党の田村智子氏は「差別的な侮蔑用語以外に使われた例を聞いたことがない」と追及したが、鶴保氏は「差別用語とされるものでも過去には流布していたものもたくさんある」などと反論した。
 民進党の福山哲郎幹事長代理は8日、鶴保氏の発言について記者団に「沖縄の歴史を理解しない不穏当な発言だ」と述べた。機動隊員の発言を巡っては、金田勝年法相が10月25日の参院法務委員会で「事実の詳細が明らかではない」としながらも、差別用語に当たるとの認識を示している。
                                      【野原大輔】
              毎日新聞2016年11月8日 16時10分(最終更新 11月8日 20時52分)


 このニュースを聞いて、はるか昔、小学校の頃を思い出した。
 友達同士の口喧嘩。言葉の応酬が行き詰まると、劣勢に立たされた方が、相手の身体的特徴など(一般的には欠点とされている)をとらえて嘲りの言葉を発することがよくあった。と言っても、子供同士の他愛ない戯れである。たいていの場合はそれで場が白けて口論は終わりになるのだが、時たま、執拗に嘲りの言葉を繰り返すヤツもいた。周りの誰かが見かねて、そんなことは言うべきではない、とたしなめると。逆に、勢いづいてこう言うのである。

  ほっとけ。言論の自由や。

 まだ小学生であるから、反駁する適切な言葉を持たないのであるが、誰もがこれは『負け惜しみの屁理屈』でしかないことを直感し、その場は一瞬にして、勝負あり、の雰囲気となる。言論の自由だ、と居直った方の負けが決まるのである。たいていの子供は、一度や二度は、口喧嘩の相手の身体的特徴をとらえて、罵りの言葉を発した経験を持っているだろう。その結果、口汚く罵った自分の方が、集団への親和性から外れてしまったことを悟り、しばらくは後悔の念に苛まれる。何度かそのような経験をして、子供は自分の属する集団の中で「してはならないこと」を学習してゆく。倫理性という人格形成の一過程なのである。
 どうやら鶴保大臣は、この「小学生段階における人格形成」を素通りしてきたようである。
 もう少し付け加えるならば、あの時代(1950年代の後半)、子供たちは盛んに「言論の自由」とか「男女同権」とかいった言葉を口にした。新聞やラジオで大人たちが頻りと使う言葉を真似るのは、今も昔も変わらない。小津安二郎の何という映画だったか、お転婆ぶりをからかわれた若い女性が「おじさま、封建的よ」と明るく反発してみせる。これらの言葉の使われ方は、最初は理念として提示された概念が、しだいに戦後民主主義の実態を獲得してゆく過程を象徴している。だから子供たちは「ほっとけ。言論の自由や」という発言が、言葉の悪意ある誤用であることを即座に見抜いたのである。このように歴史的な「由緒正しい」意味を持った言葉を、鶴保は、好き勝手放言しても咎められない権利という風に「悪い方へ換骨奪胎」して平気である。日本語に対する鈍感さと歴史感覚の欠如は、許容のレベルを超えている。

 中学校・高校と進むにつれ、『言論の自由』という概念は『世界人権宣言』とか『日本国憲法』に由来するものであることを習う。内容に少し踏み込んでいけば、そこには、言論の自由とは何か、が見事に定義されているのを知る。当時の私の理解で言えばこうなる(現在も変わりはないが)。

 『世界人権宣言』における『言論の自由』とは、
 自らが自由に思考し、自由に表現し、他者からの自由な表現と交わり、自由に討議されることによって、初めて我々は正しい知識を得て真理に至る事が出来る。この過程が成立するために『言論の自由』が保証されなければならない、ということである。
 勝手気ままに、他者を嘲ったり、罵ったりすることが『言論の自由』である、などとは何処にも書かれていない。

 また『日本国憲法』における『言論の自由』とは、
 国家権力は、国民の『言論の自由』を保証しなければならない、ということである。
 国家権力やその構成員が、国民に向かって、嘲りや罵りの言葉を発することが『言論の自由』である、などとは何処にも書かれていない。

 『世界人権宣言』も『日本国憲法』も、第二次大戦という人類史上最悪の暴力行為は、国家権力による国民の『言論の自由』剥奪がもたらしたものである、という大反省から起草されたものである。

 以上は、私が理解した内容をそのまま書いている。厳密な定義にはなっていないかもしれないが、私はこれを「中等教育における基礎知識」として獲得してきたわけである。
 どうやら鶴保大臣は、この「中等教育における基礎知識の獲得」も怠ってきたようである。

 新聞記事によれば、共産党の田村氏は「差別的な侮蔑用語」であると詰め寄ったとある。民進党の福山氏も記者会見で「沖縄の歴史を理解しない不穏当な発言だ」と述べたとある。確かにその通りなのだが、私には、鶴保大臣への批判として的を射たものとは思えない。そのような「社会的概念」は何度繰り返したところで、鶴保大臣の脳髄に届くことはない。聞く耳を持たぬ者には「社会的概念」のご高説など「念仏」にしか聞こえていないのだ。相手は、小学校レベルの倫理性も、中等教育レベルの基礎知識も、常識的な言語感覚・歴史感覚も欠いた人間なのだ。そのような"屑"に対しては、"屑"に対する戦い方、というものがあるだろう。吸血鬼を永遠に眠らせるためには、その胸に木の杭を打ち込む必要があった。般若心経や念仏では往生しないのである。彼の人格そのものを撃て。
 人格の攻撃は出来ない、と言うのなら、日本国の大臣として目前にいる鶴保の政治性を撃て。「人権問題であるかどうかの問題で、一方的に決めつけるのは非常に危険だ。言論の自由はどなたにもある」という鶴保の言いぐさは、『世界人権宣言』と『日本国憲法』の基本的理念を甚だしく蹂躙するものである。彼はそのことに気付いておらず、「持論」を展開する快感に酔っている。このことを、なぜ、即座に指摘出来ないのか?
 共産党の田村氏も、民進党の福山氏も、間違いなく『護憲論者』のはずだ。対面する者の言質に「違和感」を抱かないのか? 相手は「政治家」の面をひっさげて面前にいるのだ。だったら、その「政治家」としての資質を彼がまったく持ち合わせていないことを、なぜ、暴いてやれないのだ。

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『世界人権宣言』(第19条)
 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

『日本国憲法』(第21条)
 1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

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教育が不徹底だったから「不適切発言」が出た、のではない


 本題に戻ろう。大阪府警の機動隊員が、沖縄・高江ヘリパッド建設に反対する人たちに向かって、土人、シナ人、と罵倒できる心理的根拠はどこにあるのか、という問題である。要点は二つある。

1、動画や写真(「不適切発言」のあと、後方に配置され、抗議する人々を凝視する二人の姿が写真に撮られている)で驚かされるのは、彼らが反対派住民に対して、激しい侮蔑と憎悪を剥き出しにしていることである。事の性質上、言葉の遣り取りが乱暴になるのは当然のことである。「お上品」な表現が相応しい場面ではない。しかし、彼らが吐出している侮蔑と憎悪は「警備上の行きがかり」の域を遙かに超えている。
 もし自分が機動隊員だったら、と想像してみる。配置につく、警備の対象となる人たちと遭遇する、激しい言葉の応酬、身体と身体が触れあう、もみ合いとなる、制すれば制するほど相手はこちらに突っかかってくる。当然平常心ではいられない。かなり興奮せざるを得ないであろう。ここまでは私も認める。だが、動画や写真から伝わってくる侮蔑と憎悪の激しさは、これとはまったく別次元のものである。
 じゃあ、大阪府警の機動隊員には、感情を抑制することが出来ないような「情緒不安定」な者ばかりが採用されているのだろうか? そうではないだろう。
 何かの結果、そうなった、のだ。

2、侮蔑や憎悪を表現するにしても、土人、シナ人、と言う表現がなぜつかわれたのか?
 「土人」という言葉は、日常用語としてはすでに「死語」となっている。
 1997年(平成9年)『アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律』が施行された。この時まで『北海道旧土人保護法』が存続していたということを、ほとんどの日本人は知らない。子供たちが『冒険ダン吉』や『ターザン』に慣れ親しんでいた時代は遙か昔である。現在の日常生活においては、マスメディアやネットや映画など、どれをとっても「土人」という言葉に遭遇することは極めて希である。
 では、なぜ、29歳の男性巡査部長は、土人、と罵ることができたのか?

 「シナ人」という言葉に関しても、同様の疑問が生じる。
なぜ、26歳の男性巡査長は、同じ日本人に向かって、シナ人、と罵ることができたのか?
 私の子供の頃には、戦争を体験した世代の大人たちの中には「支那人」という言葉を使う人が多くいた。戦時中まではごく当たり前に使っていた言葉であるから、自然と口を衝いて出てくるのである。ラーメンは『支那蕎麦』と呼ばれていたし、『支那の夜』という歌もまだラジオから流れていた。(なかなか良い曲だ、と思う)
 その後しばらく経って(1960年代のなかば頃か)、テレビで国会中継を見ていると、自民党の議員が、ついうっかり「支那」とか「ロシア」とか言うと、社会党の議員が色めき立って抗議の声をあげたのを思い出す。当該の自民党議員は、反論するでもなく、即座に「中国」とか「ソ連」とか言い直し、それで騒ぎはスッと収まるのである。一度は差別的な意味合いを込めて使われた言葉であるし、不愉快に感じる人もいるのだから「支那」という言葉は使わないようにしよう、といった極めて冷静で常識的な気分を、誰もが共有していたように感じられた。学校の地図帳を広げてみると、九州・琉球列島と中国東岸との間の海には、まだ、きっちりと「東支那海」と記されていて、私は、これはこのママで良いんだろうか、と思ったりもした。しかし「東中国海」と呼び変えてみても、まことに収まりが悪く、それ以降はこの点にこだわることもなかった。こんな風にして「支那」という言葉は、やんわりと、差別的用語として使用されることを停止したのである。
 話を蒸し返したのは石原慎太郎である。東京都知事になった頃からだろうか、彼は「支那、支那、」と連発するようになる。故意にそうしているように見えた。記者がたしなめたりすると、ギョロ目を剥いて、支那じゃないか、支那を支那と言って何が悪い、と居直ってみせた。マスコミが叩かなかったのは、単なるアナクロニズム(時代錯誤)であり、たいした影響もないだろうと判断したためか、それとも、言葉の差別というテーマを取り上げることが、おっくうになっていたためか、そのあたりはよく分からない。いずれにせよ、ジャーナリズムが批判的精神を喪失した分だけ石原は奇妙に勢いづいて、東京都による尖閣諸島購入計画なるものをぶち上げたりした。この空虚な「益荒男ぶり」が、今日の「嫌中」「嫌韓」ムードをリードしたことは事実である。
 しかし、この石原でも、同じ日本人に向かって、シナ人、と罵声を浴びせかけることを教えたりはしていない。これは、いかに「嫌中」ムードに浸食されていようが、普通の日本人なら思いつかない作法である。 だが、26歳の男性巡査長は、黙れ、こら、シナ人、と叫んでいるのである。
 男性巡査長は、自分の思いつきで、そう言ったのだろうか? そうではないだろう。
 何かの結果、そうなった、のだ。

 何の結果か? 回りくどい言い方は止そう。
 大阪府警が、機動隊員たちを教育・訓練した結果、そうなった、のである。
 「警備の対象者」を侮蔑し憎悪するように教育したから、そうなった、のである。
 「警備の対象者」を侮蔑し憎悪するように教育することは、国家権力の暴力装置構成員育成の場では、当たり前のことなのである。

 大阪府の最高責任者である松井某は「売り言葉に買い言葉で言ってしまうんでしょう」と二人を擁護した。大阪府警は二人を「戒告の懲戒処分」としたが、その理由として「軽率で不適切な発言で、警察の信用を失墜させた」と述べている。例によって権力の長は、「当事者の不適切な発言」として問題を処理しようとしているわけだ。このレベルの引き下げに、批判の水準を合わせてはならない。

 ヘリパッド建設に反対する住民たちによって、他府県から派遣された機動隊が、国家権力の暴力装置としての素性を暴かれた。これが事の本質である。

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 −−【その7】了−− 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 目次へ