ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。




相撲といえばすぐに思い浮かべるのが『一本刀土俵入り』である。小学校へ入って間なしのころ、祖母が「どさまわり」の芝居小屋(今は大衆演劇という)につれていってくれた。その演目が『一本刀土俵入り』だった。私は舞台照明の目映さと役者の声の大きさに圧倒されていたのだが、クライマックス近くになると隣の祖母が泣いているのに気付いて戸惑った。普段から人前でメソメソするなと躾けられていたからである。そう言う大人が泣いていたからだ。

「これが十年前に、櫛、かんざし、巾着ぐるみ意見をもらった姐さんに、せめて見てもらう駒形の、しがねぇ姿の横綱の土俵入りでござんす」

演劇・映画はもちろんのこと、漫才などでも寸劇風に取りあげられることが多かったから、子どもたちも全体の筋はよく分からないものの、よくこの台詞の真似をして遊んだものである。


東映『一本刀土俵入り』
(1954年 昭和29年)
駒形茂兵衛:片岡千恵蔵
お蔦:高峰三枝子




大映『一本刀土俵入り』
(1960年 昭和35年)
駒形茂兵衛:長谷川一夫
お蔦:月丘夢路


原作者の長谷川伸は、日本の演劇・映画の一つの類型を創造した人だと思う。駒形茂兵衛、番場の忠太郎、沓掛時次郎、関の弥太っぺ、等々、主人公のネーミングもカッコイイ。

私は昔、佐藤忠男さんの映画評論に案内されて日本映画を観ることを始めたのだが、かれの評論のスタートは、長谷川伸の任侠物の分析であった。




ジェームス・ボンドの『007』シリーズは、どれもこれも荒唐無稽な話ばかりであるが、日本が舞台になっている『007は二度死ぬ』は、その最たるものだろう。


日本に上陸したジェームス・ボンドは、そのまま蔵前国技館に行き、支度部屋で横綱佐田の山からチケットをもらう。横綱がエージェントやってたなんて、知らなかったなー。

佐田の山が007にチケットを渡す


左から、佐田の山、大鵬、ショーン・コネリー・柏戸


この国技館は、以前の『蔵前国技館』である。



1909年に完成した初代国技館

それまでの相撲は屋外興行だったので、雨天ならば中止となった。国技館の完成で「晴雨にかかわらず10日間興行」となる。
ところが、場所が終わってみると、多くの力士が不思議と「5勝5敗」となるので、「11日間興行」としたそうである。これは桂米朝さんの落語『花筏』のまくらで聞いた。

『花筏』は、病気の大関花筏の代役として、大関になりすます「提灯屋の徳さん」が主人公である。大阪相撲が播磨の高砂へ巡業に行く、という設定である。


江戸落語では、この漫画の通り、主人公は七兵衛、巡業先は銚子と変わる。

さげは、
花筏、張るのがうまいなあ。
張る(貼る)のが上手いはず、
提灯屋の職人でございます。

面白い。
一聴をお勧めします。




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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その9
                   平成29年12月10日



すべての局が横綱Hの引退会見、TV中継の異様さ。


 先日(確か、11月29日だったと思う)の昼下がり、たまたまテレビをつけたら、ホテルの大きな会議室のような場所が映し出され、何やら物々しいアナウンサーの声が聞こえてきた。これから横綱Hの引退会見が始まるのだ、と言う。興味の埒外にある出来事なのでチャンネルを変えたら、そこでも同じ中継をしている。さらにチャンネルを変えてみるが、やはり同じ。何と、テレビ東京系の地方局を除くすべての民放が、定例番組を中断して、横綱Hの引退会見を実況中継しているのである。
 会見者はまだ現れていないようで、どの局のカメラも、無人の会見席と、背後の壁に掲げられた大きな『日の丸』を映し出している。引退とか辞職とかで言うのなら、まるで内閣総辞職の記者会見を待っているかのような物々しさである。

 このようなテレビ局の報道姿勢は、ハッキリ言って異常である。その日、その時間帯に、伝えるべきニュースは他に何もなかったのだろうか。横綱Hの記者会見が、他のすべての出来事より最優先で報じられるべきニュースだと、一体誰が判断しているのだろう。『国技』などど称しているが、たかがプロ・スポーツの一団体の、内部的不祥事に過ぎないではないか。


暴力横行は周知の事実、大衆の関心は?


 相撲の社会において暴行事件が起こったと聞かされても、別段驚きもしないのは、私だけではないだろう。相撲に限らず、多くの運動競技の世界において、稽古・訓練・躾などは、決して「お上品に」行われているわけではない。これは周知の事実である。運動競技だけではない。警察官や自衛官などの教育においても、ごく当たり前に、極めて強圧的な指導方法がとられている。時には、子どもたちの通う学校やクラブにおける「行きすぎた体罰」が表面化したりする。「しごき」という言葉があるではないか。暴力とは断言できなくとも、ほとんど暴力寸前の強圧行使を、教育の場であるという建前から、そう呼び変えているのである。

 「行きすぎた体罰」が批判されるとき、それくらい厳しく教育しないと自分の限界を超えられない、競技に勝利できない、実践(実戦?)の現場で使いものにならない、などという反論が必ず出現する。その実感の込められようから察するに、この考えは現代においても普遍的・一般的であるように思われる。また、その無遠慮さから察するに、この考えは当然受け入れられて然るべきであると確信しているようにも感じられる。
 逆に言えば、一般大衆は、様々な教育現場で「しごき」や「体罰」のある事を知ってはいるが、ことを荒立てることを避けて普段は知らん振りをしているのである。だから、一般大衆は、今回の事件が明るみに出たその瞬間に、横綱Hは相当な暴力を振るったに相違ないと見抜いている。

 マスコミは、横綱Hがどの程度の暴力を振るったのか、暴行なのか傷害なのか、その暴力の原因は何だったのか、どういう成り行きだったのか、力士と親方と相撲協会の関係に不整合があるのではないか、とかいう風に、憶測とコメントと持論開陳を延々と繰り返した。
 だが、一般大衆の関心は、そんな所には無かったのである。
 大衆は、事件発覚の後、横綱Hが自己弁護のためについた、ビール瓶では殴っていない、などという「ちょっとした小さなウソ」のために、心証をさらに悪くして、事態の収拾がつかなくなり、次第に窮地に追い込まれていく様を、恰好の見物(みもの)として楽しんでいたのである。


標的の形成と大衆の扇動


 一体いつ頃から、大衆は、こんなに意地の悪い趣味に耽溺するようになったのだろう。
 確かに、社会的地位を獲得した人たちに対する、ねたみ、そねみ、は何時の世でもあった。井戸端会議の声が急に低くなるとき、あるいは、酒精で自制心が酩酊し始めたときなど、ねたみ、そねみ、は止めなく次々と吐露され、地を這うメタン・ガスのように、大衆社会の底部にどんよりと滞留していた。それをすくい上げ、顕在化させ、言葉的意味づけを行い、公然と口にしてよい「話題」に変容させたのは、テレビのニュース・ショーである。この傾向が甚だしくなったのは、2009年(平成21年)の、あの覚醒剤騒動のころからだろうか。何十日ぶりかで保釈され、警察署から出てきた女性タレントSさんに浴びせられた無遠慮なフラッシュの閃光は、預言者や魔女たちに雨あられと投げつけられた石礫を連想させた。
 社会的な地位を獲得している人物が不祥事を起こす。その最初の段階で、彼ら彼女らが漏らした「ちょっとした小さなウソ」にこだわり、「意外な不誠実さ」を暴き立て、人格を貶め、彼ら彼女らの社会的地位が崩壊してゆくのを執拗に追い続ける。
 注意すべきは、発端となった「不祥事」そのものは、大した問題ではない、ということである。それは、何日も継続できるほどのニュース・バリューを持たない。「執拗に追い続ける」根拠となるのは、彼ら彼女ら「ちょっとした小さなウソ」をついたことにある。常識的人格のほころびに付け入るのである。

 本当のことを言っているのか?
 また、ウソを繰り返しているのではないか?


 こんな風に、市井のささやかな成功者の「小さなウソ」を劣情の支点として、大衆の猜疑心を煽り立てる。このような「標的の形成と大衆の扇動」がマスコミ報道の主要主題となっている。大手マスコミが、すでに赤新聞化・イエローペーパー化してしまっているのである。

 だが、マスコミが追求すべきは、もっと「大きなウソ」ではなかったか?
 横綱Hの引退会見と、まさに同じ、11月29日、国家行政レベルの「大きなウソ」が露呈した。それは心肝寒からしめるほどのウソの露呈であった。マスコミの報道は、なぜ、そちらに向かわないのか?


『核燃料リサイクル』の大ウソがばれたのだが ……


毎日新聞 2017年11月29日 06時40分

もんじゅ設計
廃炉想定せず ナトリウム搬出困難


 廃炉が決まっている高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)について、原子炉容器内を満たしている液体ナトリウムの抜き取りを想定していない設計になっていると、日本原子力研究開発機構が明らかにした。放射能を帯びたナトリウムの抜き取りは廃炉初期段階の重要課題だが、同機構が近く原子力規制委員会に申請する廃炉計画には具体的な抜き取り方法を記載できない見通しだ
 通常の原発は核燃料の冷却に水を使うが、もんじゅは核燃料中のプルトニウムを増殖させるため液体ナトリウムで冷やす。ナトリウムは空気に触れれば発火し、水に触れると爆発的に化学反応を起こす。もんじゅでは1995年にナトリウムが漏れる事故が起き、長期停止の一因になった。
 原子力機構によると、直接核燃料に触れる1次冷却系の設備は合金製の隔壁に覆われ、原子炉容器に近づけない。また、原子炉容器内は燃料の露出を防ぐため、ナトリウムが一定量以下にならないような構造になっている。このため1次冷却系のナトリウム約760トンのうち、原子炉容器内にある数百トンは抜き取れない構造だという。
 運転を開始した94年以来、原子炉容器内のナトリウムを抜き取ったことは一度もない。
 原子力機構幹部は取材に対し「設計当時は完成を急ぐのが最優先で、廃炉のことは念頭になかった」と、原子炉容器内の液体ナトリウム抜き取りを想定していないことを認めた。炉内のナトリウムは放射能を帯びているため、人が近づいて作業をすることは難しい。
 原子力機構は来年度にも設置する廃炉専門の部署で抜き取り方法を検討するとしているが、規制委側は「原子炉からナトリウムを抜き取る穴がなく、安全に抜き取る技術も確立していない」と懸念する。
 もんじゅに詳しい小林圭二・元京都大原子炉実験所講師は「設計レベルで欠陥があると言わざるを得ない。炉の構造を理解している職員も少なくなっていると思われ、取り扱いの難しいナトリウムの抜き取りでミスがあれば大事故に直結しかねない」と指摘する。【鈴木理之】


 原発は発電コストが安いと言うのはウソであった。
 原発が無ければ電力が不足すると言うのもウソであった。
 原発は地球温暖化防止に役立つという持って回った理屈も、論旨の立て方じたいがペテンであった。
 だが、原発における最大・最悪のウソは、高速増殖炉『もんじゅ』の稼働で核燃料リサイクルが可能になる、という「夢の原子炉」構想であった。
 その『もんじゅ』の廃炉が決定し、いざその工程を具体化する段になって、廃炉が極めて困難なことが始めて分かった、と言い出した。白々しいウソである。
 にもかかわらず、こんな工程で廃炉を進めますと『廃炉30年計画』という文書だけは作成してみせる。やりきる見通しも立っていないので、詳細は「追加申請」しますからと逃げる。今はとにかく誤魔化してしまえ、というやり方である。いつまでウソを重ねるつもりなのか。



昨年末、ドサクサにまぎれて


 原発は、当初から、使用済み核燃料を処理する方法が無い、と指摘されてきた。トイレのないマンションに例えられ(例えとしては不適切、生ぬるすぎる、と思うが)、子々孫々の代までツケを残すのか、と批判されてきた。「原子力村」の構成主体や原発推進派は、発電コストや安全管理の点に関しては、はばかることなく強弁を繰り返していたが、この「使用済み核燃料処理」の問題に関してはいつも歯切れが悪かった。
 だが、高速増殖炉『もんじゅ』さえ立派に稼働すれば、核燃料のリサイクルが可能になる。これで原発を維持・推進する根拠を獲得することができる。『もんじゅ』さえ動けば …… 、『もんじゅ』さえ動けば …… 、だから『もんじゅ』は『国家プロジェクト』として取り扱われたわけである。
 だが、『もんじゅ』の "歴史" は、ただただ悲惨の一語につきる。工事着工は1983年、稼働したのは1994年の250日のみ。実際に発電したのは100日程度。事業費累計は軽く1兆円を超えている。もし今後廃炉作業が進んだにせよ、その費用はいったい幾らになるのか。
 戦争は、いくら、勝て、勝て、勝ちます、と叫んでも、相手に打ち負かされれば敗北を認めるしかない。だが『もんじゅ』の場合、最高責任を持つ政府も、監督官庁の文科省も、運営主体の原子力機構も、設備を造った日立・東芝・三菱重工・富士電機などの国策企業も、30年以上、失敗という敗北を認める責任を先延ばしにしてきたのだ。

 そして昨年2016年12月21日、年末のドサクサにまぎれて、『原子力関係閣僚会議』(えっ、いつの間にそんなものが出来たんだ?)で廃炉を決定。同日の菅官房長官の記者会見で発表して、それで終わり。
 おい、おい、それはないだろう、旧自民党のT女史ではないが、違うだろー、違うだろー、と叫ばずにはいられない。『国家プロジェクト』だったんだぜ。使用済み核燃料処理の、唯一の切り札だったはずだ。その『国家プロジェクト』が、33年間、出来ます、出来ます、もう動きます、と誤魔化し続けて、挙げ句の果てに、やっぱり出来ませんでした、もう止めます、と言う。官房長官ごときが、一人出てきて、ウソでした、ごめん、で済む話ではないだろう。一般企業における不祥事発生の時のように、総理大臣以下、文科省、原子力機構、国策企業の一同がう打ち揃って、誠に申し訳ございませんでした、と深々と頭を下げるべきであった。反省とか総括とかは、それからの話だ。謝罪が済んでいないぜ、あんたら。 …… と、これは昨年末の話。


〈国家プロジェクトの大ウソ〉こそ追求すべき


 その一年後、2017年11月29日に、廃炉を実行する現場サイドが、もともと廃炉を前提とした設計になっていなかった、と言い出したのである。

 毎日新聞と福井新聞の記事を読み比べると分かるのだが、廃炉は困難と言い出したのは『原子力規制委員会』なのだ。これより先、『日本原子力研究開発機構』が『原子力規制委員会』に『廃炉30年計画』(正式名称は分からない)の草案を提出しているはずだ。ところが、作業の具体的内容の多くが『追加申請』となっている。つまり、現在では見通しが立たないことが多いのだが、とりあえず「総論」を承認してくれ、ここのところは「なあなあ」で済ませて欲しいという姿勢だったのだ。これに対して『原子力規制委員会』の更田豊志委員長が、記者会見でダメ出しをした。それが新聞記事になっているわけだ。

 見えてくるのは、当初は『国家プロジェクト』だとお祭り騒ぎではしゃいでいたのに、その失敗を認めざるを得ない段階に来ると、お互いに牽制をし始め、責任のなすりつけあいが進行している、という構図である。

 政府は、運営現場の責任だ、という姿勢を取り始め、
 原子力機構は、そもそも設計段階のミスである、そんな不良品だとは知らなかった、と被害者を装い、
 規制委員会は、問題点はきちんと指摘したぞ、当方は責任を果たしている、と弁明し始めている。


 マスコミ各社よ。そんなにウソと不誠実の追求が好きなのなら、この国家レベルの大ウソと責任逃れこそ追求すべきではないのか。
 繰り返し、確認しておく、横綱Hの引退会見も、規制委員会更田委員長の、『もんじゅ』は廃炉を前提とした設計になっていなかった、という会見も、11月29日のことなのだ。



追記
 今回は、安倍自民党によって、「北朝鮮の脅威」と並列して「国難」とされた、「少子高齢化」に関し、ヘイト主義という視点化から書くつもりでいた。しかし、マスコミ報道の堕落が止まるところを知らぬ勢いなので、こんな内容になりました。予定は次回に繰り延べます。


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 −−【その9】了−− ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 目次へ