ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。







U氏は愛人問題でしくじったわけであるが、「愛人」という言葉ですぐ思い出される映画は
『愛人 / ラマン』
(1992年;ジャン=ジャック・アノー監督)であろう。




(左) ジェーン・マーチ
(右) レオン・カーフェイ






日本の映画配給会社は、時たま、内容にそぐわない邦題を付けたり、内容を誤解させるようなプロモーションをしたりする。

この映画の場合、邦題は悪くないと思う。原題の "L'Amant" をそのままカタカナにして「ラマン」。ポスターにデザインされている赤い「情人」という中国語を「愛人」に変え、その前に付けて『愛人 / ラマン』。
でも、少し混乱させられた。
日本人の使う「愛人」には「不倫関係の交際相手、お妾さん」という意味が含まれる。一方、中国語では「愛人」は、ごく普通に「恋人・愛人」の意味である。こちらの方がこの映画に相応しい。だから、この「愛人」は中国語だろう、と私は勝手に思っていた。
だって、原題の「l'amant(ラ・マン)」は男性名詞だから、これは主人公のフランス人少女から見た中国人青年をさす言葉でしょ。女の人が男を「私の愛人」なんて言うかしら? 「私の恋人」とか「私のいい人」なんて言うんじゃないかな、普通は。まあ、これは余談。

 だが、プロモーションの方は、いささかミスリードの気味があった。
封切り時のチラシがヤフオクに出品されていたので、小さい画像を苦労して読んでみた。次はその一部。「少女は始めて自分の前に表れた愛に気づかず、男はその愛の激しさに溺れ震える。静かに燃え上がった愛は、未知の快楽に少女を導いていく。」
アマゾンで売っているブルーレイ・ディスクの解説にも、こう書かれている。
「中国街の秘密の部屋で欲望の赴くままに結ばれる二人。そこで少女は人生観を決定してしまうような激しい性愛の経験を刻み込まれるのだった。」
ポルノ映画と誤解してください、と言わんばかりの書き方ですね。もちろん、ポルノ映画に分類されたって一向に構わないのだけど、もしこれがポルノ映画だとするなら、「ポルノの限界を突破した最高傑作」と言わねばならないだろう。
私はVHSの時代に見ているのだが、案の定、このプロモーションのミスリードに惑わされていたようである。それほどの映画かよ、という印象しか持てなかった。
その後、DVDの時代になり、ジャン=ジャック・アノーの映画を次々と観て、そのたびに、何とすごい監督なのだ! と感嘆の声をあげた。待てよ、あの『愛人 / ラマン』もジャン=ジャック・アノーの映画だったじゃないか。もしかして面白い映画だったのかもしれんぞ。いや、きっと傑作に違いないと、思い始めた。
そしてDVDで見直して、打ちのめされました。ブルーレーイになったとき、また視ました。もう完璧じゃないの、この映画。






少女は着古した感じのベージュのワンピースを着ている。髪は少女らしく左右のお下げ。しかしカンカン帽は男物のようだ。



靴はヒールのある黒。大人の女が街で履くおしゃれなデザインのものだ。カメラは、少女の足と靴を執拗に撮り続ける。サイゴンへ向かうフェリーのデッキ。少女は手すりにもたれて遠くを見やり、片足を柵にかけたり下ろしたりを繰りかえす。
少女の足のあいだに、青年の乗ったリムジンが見える。青年の視線と観客の視線が、少女の足の間で交差する。



靴のアップ。たくさんのビ-ズが刺繍された手の込んだ造りであるが、生地には傷みが目立つ。



船着き場に着き、少女は桟橋を歩き始めるが、板の継ぎ目にヒールをとられてよろめく。

台詞もナレーションもなく、淡々とフェリーの乗り降りを追うだけで、映画は少女の孤独と焦燥を見事にあぶり出す。彼女は所在なげに振る舞ってはいるが、落ち着きどころのない精神と肉体をどう扱えばよいのか、見当が付かずに困り果てている。
この少女を華僑の青年はリムジンの中から視ている。彼の日常は経済的には何ら不安のないものだが、孤独と焦燥の日々を強いられていることは、少女と同じだ。だから青年は一瞬にして恋に落ちるのだ、同じ視線を共有している観客を共犯者として。



映画は、二度、少女が遠くにいる青年を見やることで終わる。一度は結婚式の新郎として華僑の人たちの渦の中にいる青年を。



そして最後は,フランスに帰る少女を見送りに来た青年を。しかし船のデッキから彼女が視るのは、建物のわきに隠すように止められた黒いリムジンだけなのだが。服装は最初のままだが、彼女はもう足を上げたり下げたりしない。泣くこともない。すくっと立って遠くを見つめ続ける。彼女を取り巻く環境の厳しさに変わりはない。だが、恋愛の体験が彼女を変えたのである。

少女が泣くのは、船がインド洋上を進む夜である。サロンから聞こえてくるショパンのワルツを聴いて、少女は泣き崩れる。ここで観客もすすり泣く。私なんぞは号泣しちゃった。



 ポルノ? 大いに結構。相手の心と感応しあうからこそ、愛欲の炎を燃えあがらすことができる。

 無粋な本文に戻るが、相手を昏睡させて手込めにするとか、女とみれば、だれかれ構わず性欲を剥き出しにするような輩は、映画のプロモーションにあるような「人生観を決定してしまうような激しい性愛の経験」を終ぞなすことなく一生を終えるのだ。そう、変態に未来は無い、のである。



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性犯罪者はなぜ、居直ることができるのか? 
      ----誰が日本的倫理性を崩壊させたのか。
                   平成30年05月21日



元号が昭和から平成に変わったころ


 元号が昭和から平成に変わったころ、就任後二ヶ月と少しで辞任してしまった総理大臣がいた。もう三〇年も昔のことだ。逝去されて久しくもあり、別に実名をだしても差し支えないのだが、今から話題にすることは故人にとって名誉なことでもないので、とりあえず "U氏" としておく。
 さて、そのU氏が総理大臣になったとき、多くの人は、あれっ?、と意外に思ったはずだ。何故なら、U氏の名は、総裁選の下馬評にはあがっていなかったのだから。
 周知のように、自民党とは政治理念で結束している一枚岩の政党ではない。政策や利害を異にする多くの派閥の寄り合い所帯である。その派閥がせめぎあい、牽制しあい、離合集散の動きを繰りかえし、そのなかで、うまく時流に乗って主流派となり得た派閥の領袖(りょうしゅう)が、党の総裁となり、自動的に内閣総理大臣になる。だがこの時、Uさんは、どの派閥の領袖でもなかったのである。
 悪い人では無い、と言うのが私の印象であった。なかなかの教養人・趣味人であると伝えられていて、事実、多くの著書をものにしていた。俳号を持ち句集も残している。地方の名望家の子息で文武両道に秀でた少年だったという。まさに昔の政治家の一典型ではないか。学徒出陣で朝鮮北部に配属され、武装解除後は2年間、ソ連での抑留生活を余儀なくされている。苦労人でもあるのだ。少なくとも、無知・無能という人格的欠損を権力欲で補充して、それがすべての行動原理となるような、そんな凡百の政治家ではない、と思っていた。ところが、U氏、たった69日で総理大臣を辞任してしまうのである。

 辞任の直接的原因は参院選の大敗であった。
 だが、これはU氏の責任ではない。前の竹下登改造内閣が、消費税導入、リクルート汚職、オレンジ・牛肉の輸入自由化、という失政三所攻めにあい、サンドバッグ状態で叩かれまくり、ついに支持率が 5%まで落ち込んで辞任。だが、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎(そう、安倍晋三君の父君だよ)らはリクルート疑惑の渦中にあって総裁選に名乗りを上げることができず、他の派閥の領袖たちも、苦戦を強いられる参院選を間近に控え「今、トップに立って責任を取らされること」をエスケープしようとしていた。あえて火中の栗を拾うという気概を持った政治家は、一人もいなかったのである。困り果てた自民党は、派閥の領袖ではなく、かつ、リクルート事件とも一切の関係を持たなかったU氏を「クリーンな人」だと担ぎ出して、むりやり負け戦の采配を振らせたのである。
 だから、Uさんは「参院選の敗北は、私の責任では無い」と言って総理の座に留まることもできたはずである。彼がそうしなかったのは、もう一つ、就任直後に彼自身のスキャンダルが暴かれていたからであった。

 今でも『文春砲』などと、大衆の下ネタ渇望を癒やすため、有名人のスキャンダルが乱発射されているが、この時は『サンデー毎日』が、U氏の女性スキャンダルをすっぱ抜いた。愛人を囲っているとか、囲っていた、とか …… 。ちなみに、この時の編集長はかの鳥越俊太郎氏だった。
 当時は、名をなした政治家とか実業家が「妾を囲う」ことなどごく当たり前のこと、それが「男の甲斐性」などといった台詞が、何のお咎めも無く通用していた時代である。じじつ『実話なんとか』とか『なんとか芸能』とかいったゴシップ雑誌は、ほとんど個人を特定できるほどの際どさで、政治家や有名人の「下半身事情」の有ること無いことを書き立てていた。だが、その記事で政治家が攻撃されることはまずなかった。誰でもしていることとして、お互いの非を暴き立てないことが不文律とされていたのである。U氏にとって不幸だったのは、それを『ワシントン・ポスト』が「セックス・スキャンダルが日本の首相を直撃」と記事にして、それに日本のマスコミが同調したことである。
 即、U氏は辞任した。スキャンダルに関して、一言の弁明をすることもなく。



三〇年後の今


 ちょうどこの頃、「セクハラ」という言葉が使われはじめた。私が使っている広辞苑は、パソコンソフトの付録で付いてきた(一太郎だったかな?)1991年の第4版であるが、すでに「セクシャル・ハラスメント」が見出し語に採用されている。調べてみると、続く1998年の第5版で、その日本語的4音節短縮形態である「セクハラ」も見出し語に追加されている。U氏の「女性スキャンダル」からすでに三〇年がたち、今日では「セクハラ」はすでに実効的な概念として市民社会のなかに定着している。さらに昨年秋からは "SNS" を上手く活用して、 "#MeToo" のムーブメントが世界的な広がりを見せている。日本でも、声をあげる女性たちが増えてきた。フェミニズムは確実に前進しているように見える。
 でも、実際はどうなんだろう。「ごく普通の男」や「社会」の方は、どう変わったのだろう。最近「女性スキャンダルを起こした男」の事例を見てみよう。
 だが、すぐに思いつく二件は、どちらも文章にするのがおぞましいほどの酷い性暴力である。ネットで検索すれば多くの記事に接することが可能なので、ここでは詳細は省略し、要点を記すだけに止める。

例一; 山口敬之
 『総理』『暗闘』と立て続けに安倍晋三のヨイショ本を書いた、自称ジャーナリストの山口敬之の場合は「強姦」である。それも薬剤で女性の意識を奪っての犯行であり、極めて悪質である。

例二; 福田淳一
 言わずもがなのことだが、財務省事務次官というのは財務省官僚のトップである。名前こそ「次官」となっているが、それは政府から来る「大臣」を上に奉っているだけのことで、官僚たちは、くるくる変わる大臣なんぞ「雇われマダム」ぐらいにしか思っていない。つまり福田淳一は実質的に財務省の最高権力者なのである。福田淳一の場合は、この権力を笠に着た典型的な「セクハラ」であった。それも、相手かまわず、所かまわず、時節かまわず、の常習的変態性欲の垂れ流しであり、これも極めて悪質である。
 
 この二人に対して、U氏の場合はどうだったかを思い出してみよう。記憶を頼りに書くと、月々のお手当だったか、手切れ金だったか、が、「指三本では少なすぎる」と、相手の女性が『サンデー毎日』の記者に愚痴った、と言うだけのことであった。今さら「真相」を探る必要もない。別れ話がこじれた、というだけのことである。仮にU氏が太っ腹で、「指六本」を提示していれば、相手の女性も黙って納得していたかも知れない。そんなレベル、せいぜい痴話げんかの水準の話である。

 こんな風に比較してみると、この三〇年で奇妙な逆転現象が起こっていることに気づかされる。
 U氏の問題とは、女性と上手く別れられなかったという不手際が露見した、というだけのことなのに、三〇年後の山口・福田の場合は、極めて悪質な性暴力なのである。サンプル抽出が恣意的である、などと言わないでほしい。「スキャンダルが露呈してからの男と社会の対応」を比較していただきたい。
 社会的意識の上澄みだけを眺めていれば、フェミニズムは確実に前進しているように「見える」。だが、スキャンダルを起こした「男」の倫理性は、著しく劣化しているではないか。さらに「社会」(正確に言えば、世論を誘導する国家権力の意志)は、声をあげる女性たちに急激に強圧的になっている。その文言は、フェミニズムの「フェ」すら理解していないではないか、と慨嘆させられるものばかりである。それを、お追従メディアやネトウヨと呼ばれる連中が、そうだ、そうだ、と騒ぎ立てる。この点を、少し詳しく見ておこう。



強姦魔-山口敬之の場合


 強姦魔山口敬之は、裁判所から逮捕状が出ていたにも関わらず、何故か、当日の朝になって逮捕を免れている。独立しているはずの司法権に対し、いったい誰が強権発動することが可能だったのだろう? ジャーナリズムが沈黙しているのが理解出来ない。そして最終的に検察審査会は「不起訴相当」という結論をだすのである。
 山口本人はどうかと問えば、何ら悪びれる様子もなく謝罪をする気配さえみせない。それどころか、飛鳥新社【注】が出している「月刊Hanada」に、『私を訴えた伊藤詩織さんへ』という『独占手記』を載せ、「詩織さん、あなたは性犯罪被害者ではありません。そして、自分が性犯罪被害者でない可能性があるということを、あなたは知っています」とか「これ(不起訴相当)により、刑事裁判によって私に犯罪者という汚名を着せようというあなたの企ては、最終的に失敗したわけです」などと平気で書いている。伊藤詩織さんが、あえて自分の名前で発言して、不退転の意志を示す勇気には拍手を贈りたい。だが、加害者である山口に、品性の一欠片も見いだせないイエロー・ペーパーの紙面で、「伊藤詩織さんへ」などと実名を口にする権利は無いはずだ。向こうが本名を明かしたのだから良いだろう、などと思っているのだろうか。気持ち悪いぞ、お前。
  【注】 安倍政権の御用出版社。参院選当日朝の新聞に、『徹底検証「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』という本の新聞広告を出したりしている。

 さらには "Facebook" で、「私は法に触れる事は一切していない」「当局の厳正な調査の結果、違法な行為がなかったという最終的な結論が出ている」「法的措置を含め断固たる対応を検討」「犯罪行為がなかったという最終的な結論が一年ほど前に出た後も、当該人物側がこの話をスキャンダルとして各種メディアに売り込もうとしていたことは察知していました」などと書き散らす。反省・謝罪どころか、恫喝に転じているのである。何という厚顔無恥。

 だが、これで驚きが終わるわけでは無い、この "Facebook" の書き込みに、何と、総理大臣夫人安倍昭恵が「いいね!」を付けているのである!


 性暴力を犯した側の男が居直り、謝罪どころか被害者に恫喝を加える。国家権力の中枢がそれを支援し、告発した女性に強圧的に振る舞うことを先導する。ヨイショ・メディアどもは、あれはハニートラップだったかもしれない、いや、あの女はもともと「反日」だった、などと、支離滅裂のネガティブ・キャンペーンを張り巡らす。



変態オヤジ-福田淳一の場合


 変態オヤジの福田淳一の場合も、まったく同じ展開をみせる。彼も山口と同様、自分がたいそう頭の良い男だと自惚れているようで、戸惑ったり畏まってみせたりせず、ダラダラとコメントを発しているが、もう、馬鹿丸だしなので、少しからかっておこうか。

 福田は当初、記者団にとりかこまれると「時には女性が接客をしているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」などと、自分の変態性欲を男のごく一般的な行動に希釈して表現してみせた。ウソをつくことなく、問われていることの核心をはぐらかしたつもりでいるのだ。でも、「お店の女性と言葉遊びを楽しむ」なんて、「しりとり」や「連想ゲーム」をしていたわけではないだろう。「おっぱい触っていい?」などとふざけてました、と白状しているのと同じじゃないか。
 証拠の録音を聴かされると、「自分の声は自分の体を通して聞くので、これが自分の声なのかどうかはよく分からない」と、今度はとぼけて見せる。だが、ここでも墓穴を掘ってますね。身に覚えの無いことなら、これは私では無い、私はこんなことは言わない、と言い切るのが普通であろう。「自分の声なのかどうかはよく分からない」という解説は、自分はそのようなことをしているという、身に覚えがあるからこそ出てくる台詞である
 つまり、福田は、嘘のつけないタイプの人間であり、悪人的能力も下の下なのである。

 財務省としてのコメントになると「相手が不快に感じるようなセクシュアル・ハラスメントに該当する発言をしたという認識はない」と強気に転じているが、これも笑止千万。被害を受けた側が不快・苦痛・屈辱を感じたから、セクシュアル・ハラスメントなんであって、誰も福田の認識なんぞ訊いてないぞ。
 山口と同様、「週刊誌報道は事実と異なるものであり、私への名誉毀損に当たることから、現在、株式会社新潮社を提訴すべく、準備を進めている」とメディアの恫喝に出ているが、この法的措置も辞さない、という啖呵は、知性・感性・倫理性の全人格的欠落を自ら暴いているようなものだ。もし、性的暴力が法廷で争われることになるなら、被害者は衆人の前で自分が受けた性的暴力の詳細を陳述しなければならなくなる。被害者にさらなる性的暴力を付加することになる。この当たり前のことすら理解していないから、財務省は、性的被害に遭った人は申告せよ、などと言うことができたのである。仮に、あくまで仮にであるが、法廷闘争となって、その結果、刑法・民法上ではお咎めナシとなった場合でも、それで倫理的責任まで消滅するわけでは無い。今、問われているのは、法律以前の人間倫理だったはずだ。
 つまり、福田は、セクハラという言葉を浸透させてきたフェミニズムの思想を、一行だに学習したことがないのである。最終的に福田は進退窮まって辞任した。それでもなお「あれはセクハラではない」と強弁している。セクハラについて真面目に考えたことがないのだから、セクハラだと思えなくて当然なのだろう。今頃は、悪い女に引っ掛けられた、あぁ、不運だった、と、嘆息しているに相違ない。

 終始福田を擁護し続けた財務大臣麻生太郎の言動に至っては、からかう気にもなれない。酷いを通り越して、悲惨である。彼の言動は度々マスコミで嘲笑的に取りあげられるが、意外と糾弾の対象とならないのは、無知と誤謬と非常識と無教養と無神経とが渾然一体となっていて、どこから批判すればよいのか分からないからである。つまり、付ける薬がないのだ。

 「相手の声が出てこなければ、どうしようもない」
 (女性記者が名乗り出ないとセクハラは証明できない、という意味か?)
 「福田の人権は無しってわけですか」
 「そんな発言(セクハラ発言)されて嫌なら、その場から去って帰ればいいだろ
 「財務省担当(記者)は、みんな男にすればいい」
 「(おっぱい触っていい、と言っても)触ってないならいいじゃないか」


 日本の恥。もう黙っていろ。



U氏は、何故、即、辞任したのか


 もう一度、30年前のU氏の場合にもどろう。
 痴話げんかレベルのスキャンダルで、U氏はサッサと辞任してしまった。会見で「明鏡止水の心境であります」とだけ述べ、スキャンダルに関しては一言の弁明をすることもなかった。
 現在の「女性スキャンダル」の悪質さや、当該の男たちの図々しいまでの居直りようを見るならば、U氏は別に止めずとも良かったのでは無いか? 先に「悪い人ではなかったと」いう印象を書いたが、改めてウィキペディアを見てみると、確かに好意的な人物評が多く引用されている。何点かコピーしておこう。

 石原慎太郎;「もしあの政権が続いていたなら、党の中にも、ある大事な変化があり得たのではないか」
 鈴木宗男;「国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、U内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」
 久米宏;(所信表明演説を聞いて)「大化けするかもしれない」
 ジェラルド・スミス(核拡散問題担当大使)「はっきりモノを言う初めての日本人だった」。事実、外相時代イスラエルを訪問したとき、当時は外相だったシモン・ペレスに「イスラエル軍は、占領地から全面撤退すべきだ。日本の繁栄は国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言ったそうである。

 でも、U氏は辞任した。何故か? 答えを探るのに、さほどの苦労はいらない。それまでの政治家の、ある一群の人たちの(断っておくが、すべての政治家がそうだったのではない)気質・考え・倫理観は、一体どういうものであったか? それをを思い浮かべれば容易に想像が付くだろう。

 たとい失政の責任が自分になかろうが、不祥事がほんの些細な事であろうが、自分が地位に固執することで政局が混乱し、党や国会運営に支障をきたすなら、自分は潔く身をひくべきである。自分が退くことで、悪の運気と穢(けが)れを祓い、党・国会・政局という場を再生させ、特別な場としての清浄性を保つのだ。

 U氏の出自を思い出していただきたい。彼が地方の名望家の子息で、文武両道に秀でた少年だったとことを。戦前のことだ、彼もまた、繰り返し『四書五経』を訓読し、日本の儒学者の著作を紐解いたに相違ない。これらの書物は、自然や社会の解析をするものでも無ければ、日常の利便性に供する知恵を授けるものではない。ほとんどが、権力の座についた者、権力の獲得を目指す者、権力に仕える者、の心得を説くものである。権力的構造というものは、出来上がった瞬間から、その機構を保持しようとする自律性を獲得する。それは、権力をさらに増大させ、敵対的な他者を排撃するように働く。自己増殖性は無限である。だから、何らかの瑕疵が露呈したばあい、その当事者、その部門ではなく、その最高責任者がその責を負うべきなのだ。これは、「今あるこの権力」が「権力機構の自浄力」をもちうるのか、という大きなテーマなのである。当事者・担当者の瑕疵であると、問題を卑小化させてはならない。



日本的倫理性を葬った人たち


 1980年代以降、わが日本人は、孔孟の教えからマルクス・ケインズの経済理論まで、数千年の実績を持つ古典から謙虚に学ぶことを止めた。その代わり、アメリカ流マーケティング理論を輸入し、その「即効的効率」と「リスク回避」と「大衆操作」の手法を無反省に模倣した。この理論は、「Aを投入すると、Bという成果物が得られる」という具合に、物事の因果関係を「一対一対応」に単純化するから、極めて分かりやすく見えた。親や先輩を真似て「古典」に向かったものの、その内容に踏み込むことの出来なかった知的劣等者どもが、これに飛びついた。勝手に決めつけるが(いや、そうに決まっているが)、安倍晋三しかり、福田淳一しかり、山口敬之しかり。いやいや、彼らだけではない、1980年代以降に高等教育を受けた世代のうち、マーケティング理論で手っ取り早く理論武装した人たちが、今、政治・経済・社会のリーダーになっているのである。

 だから、「女性スキャンダル」を起こしても、日本人的倫理性が彼らの良心を苛むことがない。逮捕され、有罪となり、投獄されない限り、「リスク回避」は成功していると、彼らは認識している。昨年来、安倍晋三は、次々とスキャンダルが露呈し、部下や信奉者に不祥事が相次いだが、それでも政権にしがみついていられるのは、同じ理由による。山口や福田が、性暴力の被害者がどんなに悔しい思いをしても平気でいられるように、安倍も、籠池夫妻を牢獄に閉じ込たまま、平気の平左で安眠を貪っているのだ。

 つまり、彼らは、日本的倫理性を喪失しても、ほら、こんな風に生きていけますよ、と言うお手本を、国民に向かって演じて見せているのである。

 そんな彼らが、「美しい日本」だとか「日本を取りもどす」などと曰う。

 日本精神を葬ったのはテメエたちじゃないか、バカヤロー

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              --性犯罪者はなぜ居直るのか?了-- 

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