ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。

教育勅語がとやかく言わずとも、
世界は「親孝行」と「父母を敬う」であふれている。


『日本基督教団』の雑誌はもちろん


カレンダーの絵柄になり


『親孝行の日』まである


『日本船舶振興会』のCM


同上、笹川良一 母を背負う


『十戒』セシル・B・デミル:1956


演劇の題材に使われ


温泉旅館のポスターになり
(伊豆 稲取温泉 浜の湯さん)


塾の販促にも活用され


いささか邪な使い方も


天保年間に出現した珍商売。親を背負い「親孝行でござい〜」と呼ばわりながら銭を乞う。実はこれ、一人の人間が人形を使って二人を偽装している。


親孝行と言えば中国が本場。教育勅語復活待望論者たちが、日本固有の美質のように言うのが可笑しい。
さて、親孝行と言えば『二十四孝』。孝行人間勢揃い。
この絵は冬に筍を掘り当てる孟宗。きれいな絵だ。


日本でも古典的説話として流通。これは歌川国芳の孟宗。


日本民話のように伝承され、
落語になり、
子供向けのお話にもなっている。


現代中国の親孝行絵本
英語教育との二足わらじ


こちらはインド
Sant Shri Asharamji Ashram さんのホームページにあった。Santが付くから偉い宗教家なんだろう。


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『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い?    その1
                   平成29年04月07日



 このところ、群雲が湧くように『教育勅語なぜ悪い?論』が頭をもたげてきている。森友学園問題の「幕引き」を急ぐ安倍政権が、森友学園問題の思想的落としどころとして『教育勅語』を有効活用しようとしているように思える。籠池にはすっかり騙されてしまったが、それは籠池が『教育勅語』を持ち出してきたからだ。教育勅語は悪くない、立派なものだ、という風に世論を納得させたいのだろう。
 そこで、3回まで書いてきた『ヘイト発言、人の倫理性に対する攻撃』を一旦中断し、先に「教育勅語復活待望論」を叩いておくことにする。3回ぐらいの連載で収めるつもりだが、どうなるか …… 。
 『教育勅語なぜ悪い?論』の批判、さて、どうする。
 もっとも手っ取り早い批判の方法は、このネトウヨめ! と一言叫んで終わりにすることである。レッテル貼りは駄目だ、とよく言われるが、それは、往々にして、レッテルが中身を上手く表現できていないからであって、この場合はレッテルと中身とドンピシャリと一致している。もう合同、完全一致である。と言うより、ネトウヨとは中身がなくてレッテルのイメージだけが全ての存在なのだ。だが私は、このネトウヨめ、と叫んで批判を終わらそうとは思わない。そうした場合、言いたいことを言うと批判される、などとねじ曲がった反抗心を抱くだろうし、もしかしてオレも右翼の端くれ? なんて勘違いして自惚れたりするかもしれないから。
 また、単に歴史の無知をさらしているだけ、少しは勉強しろ、などと諭してみることもしないでおく。不勉強を指摘されて、確かにオレは勉強が足らないと真摯に反省できるのは、少しでも勉強した経験を持つ者だけである。まったく勉強しなかったヤツに限って、不勉強を咎められると逆ギレする。


小薮は、教育勅語なぜ悪い、とつぶやくと、ウットリするらしい


 では、どんな方法で批判するのか?
 まず『教育勅語なぜ悪い?論』の「言葉使いそのもの」を吟味してみる。そして、そのような物言いで良い気分になっている人たちの心理を想像してみよう、と思う。
 結論を先取りするようであるが、『教育勅語なぜ悪い?論』とは、思春期あたりで成長を止め未発達のまま凝り固まった精神が、邪魔で目障りな常識を、最も単純な忌み言葉で排撃しているだけのものである。それを腑分けするのに、歴史学・政治学などの鋭利なメスはいらぬ。初歩的な心理分析というピンセットが一本あれば、それで十分である。
 前回の最後で、小薮の言いぐさを紹介した。もう一度それを引用しよう。

 僕は教育勅語じたいは何にも悪くないと思います。なにを教育勅語に関して問題になっているのか、意味が分からないです。(略)お父さんお母さんを大切にしましょう、一生懸命勉強しましょう、まわりに感謝し、公の心で社会貢献しましょうみたいなことガッチリ書いてありますよ。何があかんの。ええことと悪いことがごちゃごちゃになってると思うんです。

 ぼんやりと読み過ごせば、この小薮の言いぐさは無邪気な独白のようにも聞こえる。だが、ちょっと待てよ。面倒くさいが、一度教育勅語の原文を読んでから、この小薮の台詞を読み直してみよう。
 どうでしょうか? すぐにピンと来るでしょう。
 そう、小薮は教育勅語など読んでいない、のである
 まぁ、教育勅語は短い文章であるし、保守・反動派が販促ツールとして使って、まるでアンパンマンかピカチューのようにあちこちに貼り付けられているから、小薮もチラ見ぐらいはしたかもしれませんが。
 小薮は、「お父さんお母さんを大切にしましょう、一生懸命勉強しましょう、まわりに感謝し、公の心で社会貢献しましょうみたいなことガッチリ書いてありますよ」と言うが、もし教育勅語を読んでいたとするなら、それをこんな風に要約するには、よほどの予断と偏見が必要だろう。
 あまり気が進まないけれど、私が要約してみましょうか。流れに沿って箇条書きにしてみます。

1、皇室が徳をもって治め、臣民は忠義と孝行でそれに応える、これが日本である。
2、教育とは、この忠義と孝行を身につけることである。
3、十一の具体的実践項目で忠孝を体現し、緊急時には己を捨てて永遠なる皇室を守れ
  (下線部の原文:一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)
4、国民は、この忠孝の行動によって天皇の臣民となる。それは祖先から伝わる忠孝の再現でもある。
5、以上は皇室の祖先が残された教訓である。すべての臣民はこれを遵守すべき義務をもつ。

 国語の入試問題に「この文章の趣旨を××字以内で書け」というのがあるが、その制限が「25文字以内(句読点含む)」だとするなら、次のようになるだろう。

  忠孝の実現のため、戦争になれば、天皇のために死ね

 教育勅語が「ガッチリ書いて」いるのは、こういうことである。小薮が引用しているのは、忠孝を体現するために羅列された十一項目のうちのいくつかであるが、それは、天皇の臣民として立派な死を全うするために獲得すべき資質として提示されているのであって、人間性の成長・開花のために素養を身につけよと言っているのではない。このような読み違いは現実的には不可能である。だから、小薮は教育勅語など読んでいない、と判断するしかないのである。

 小薮は教育勅語を読んだのだが、前後の段は難しくて、中央部分の十一項目だけが理解できたのかもしれぬ、と擁護する意見があるかもしれないが、それは出来ない相談である。なぜなら、彼は、教育勅語には書かれていないことまで引用している! のだから。原文と、小薮の引用を対比してみよう。

  (教育勅語 原文)      (小薮の引用)
   父母ニ孝ニ         お父さんお母さんを大切にしましょう
   學ヲ修メ          一生懸命勉強しましょう
  (該当する原文なし)     まわりに感謝し 
   進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ  公の心で社会貢献しましょう

 なぜ、こういうことが可能なのか? ろくすっぽ読んでもいない教育勅語から文言を引用し、さも一家言ありげに、僕は教育勅語じたいは何も悪くないと思う、などとうそぶいてみることが。
 理由は単純なことである、もう幾たび繰り返されたかもしれぬ、保守・反動派の「教育勅語復活待望論」をただ口まねしているだけ、なのだ。口吻だけではない、教育勅語の何が悪い、と言い放つ時に生じる「快感」まで模倣している。十年一日、単純な軍国主義反対を叫ぶ左翼・民主派に楯突いてやった、という「快感」を。さらには、ああ、わが日本民族だけが、他の近隣諸国には無い徳目の伝統を持つのだ、という「快感」を。


稲田も、教育勅語なぜ悪い、とつぶやくと、ウットリするらしい


 小薮が模倣した「教育勅語復活待望論」は、例として取り上げるのに、どれを選択して良いか分からぬぐらいたくさんある。最近の例を挙げるなら、3月8日、参院予算委員会での稲田朋美防衛相の答弁がそうだ。
 社民党の福島瑞穂議員が、稲田が雑誌の対談で「教育勅語の精神を取り戻すべき」と発言していることに触れ、「今でもその考えは変わらないのか」と質したのに対し、こう答えている。

 教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません。
 私は教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行とか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持している。
 教育勅語に流れている核の部分、そこは取り戻すべきだと考えている。
 教育勅語自体が全く誤っているというのは私は違うと思う。これは(防衛相としての)所管ではありませんけれども...。そして、今も三重県の現職の国会議員を輩出されている皇学館高校では、教育勅語の碑を校庭に置き、また、父母の日に教育勅語を全文写させている、そういう学校もある。その精神の核自体は道義国家を目指すというのは、目指すべきだと思う


 いやはや、稲田の読み違いにも凄まじいものがありますね。教育勅語のどこを読んでも「道義国家」に相当するような言葉は見当たらないよ。稲田の造語か? いや、そんなことはないだろう。教育勅語の現代語訳はたくさん出回っている。その中から、選りに選って、とんでもない意訳・曲解訳のものを選んだのだろう。自分の言い分にピッタリのやつを。
 でも、何が可笑しいって、『道義国家』などと大上段に振りかざしているものの、ではその「核の部分」とは具体的には何かと言えば、「親孝行」と「友達を大切にする」なんだって! もう、金返せ、のレベルだぜ。「親孝行」と「友達を大切にする」を言うのに、何故、わざわざ『教育勅語』だの『道義国家』を持ち出してくる必要があるのか? そんなもの、ごく当たり前の、全世界・全時代共通の、普遍的モラルじゃないか。
 どこでも良い、新興宗教の広報か社務所を訪問して、パンフレットを一冊もらってくることだ。たいてい、両親を大切にしよう、というモットーが書いてあるはずだ。日めくりカレンダーに一日一行ずつ書いてある人生訓にも、かなりの頻度で、両親を大切にしよう、が出てくるはずだ。昔、『日本船舶振興会』が山本直純、とか、高見山を使って流していたCMも、お父さん、お母さんを大切にしよう、と叫んでいた。そうそう、映画『十戒』の最後の方で、チャールトン・ヘストン扮するモーセが、シナイ山にこもって授かる石版にも、五番目に、父母を敬え、と刻まれてあった。
 両親を大切に、を自戒の言葉にするのなら、日めくりカレンダーの該当ページを捨てずにおいて、額に入れて鴨居の上にでも掲げておけばよい。それをわざわざ、教育勅語だの、動議国家だのと、御大層なものをを持ち出してこなければ安心できないとするなら、教育勅語復活待望論を口にする人たちには、よほど親不孝者がそろってるのだろう。


全員で、教育勅語、なぜ悪い


 しかし、呆れかえるのはまだ早かった。
 とうとう内閣まで「教育勅語を教材として用いて、何がわるい」と言い出した。閣僚の一部じゃないよ。全員で閣議決定したんだって!

 政府は3月31日の閣議で、教育勅語を学校教育で使用しないよう求める質問主意書に対し「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」とする答弁書を決定した。一方で教育勅語について「教育の唯一の根本とするような指導は不適切だ」とも明記した。
 質問主意書は民進党の初鹿明博衆院議員が、1948年に衆院は教育勅語の排除を、参院は失効をそれぞれ決議したことを踏まえ提出した。
 初鹿氏は、稲田朋美防衛相が教育勅語に一定の評価を示した国会答弁は排除決議に反すると指摘。これに対し、答弁書は「政治家個人の見解であり、政府として答える立場にない」と回答するにとどめた。
   毎日新聞4月1日(共同)


 もう支離滅裂、閣僚あげてのご乱心、どこからどう批判して良いのかも分からない。
 「(教育勅語が)憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」というが、現憲法は、教育勅語に端を発する「臣民化教育」を否定する立場で制定されたものだ。どう曲解したって「教育勅語が、憲法や教育基本法に反しない形」になることは無い
 稲田の答弁は政治家個人の見解であり、政府として答える立場にない」と言っておきながら、それとまったく同じ論旨を閣議決定している。否定と肯定が循環している。

 さらには …… 、と、指摘したいことはたくさんあるが、ここではあと一点だけ確認しておこう。

 それは、稲田も安倍内閣の閣僚も、野党の議員から「お前(たち)は、教育勅語を肯定しているらしいが、本当か?」と質されたときに、「教育勅語なぜ悪い?」と居直りの決めポーズをしてみせていることである。この時、彼ら彼女らの脳髄は、「十年一日、単純な軍国主義反対を叫ぶ左翼・民主派に楯突いてやった、という快感」で満たされているに相違ない。教育勅語は、現実的な概念としての実体を喪失し、架空の「二次元的幻覚」として彼ら彼女らを支配している。快感の由来は「左翼・民主派に楯突いてやった」ことにしかないのだ
 普段は教育勅語のことなどまともに考えたこともなく、その文面さえろくに読んだこともないのに、野党・ジャーナリズムからの問いかけがトリガーとなって、「二次元的幻覚」としての教育勅語と、「左翼・民主派に楯突く」ことの快感が出現する。快感原則は伝播する。しかし、伝播する先は、同じような発想形態を持つ「ネトウヨ症候群的大衆」でしかないのだ。安倍政権は、そんな存在を、支持層として増大させているのである。元谷や、長谷川や、小薮のような。

 小薮について言えば、最近、もうこれ以上くだらない話題はない、という話題を振りまいていたようだ。
 彼は、新幹線で座席の背もたれをマックスまで倒したら、後ろの乗客に怒られてしまったのだそうだ。それが、どうにも納得できないらしく、こんなツイートをした。

 新幹線のリクライニングを倒してもいい角度までしか倒れない椅子にしていただけないでしょうか。マックス倒したら怒られました。怖くてどこまで倒してよいかわからないよ。倒せるけど怒られるグレー角度を存在させないで、基準ちょうだい、マックス倒していいと思ってた。
 倒してよい角度おせーて?


 自分がなぜ注意を受けたのか、を考えようともしていない。彼にあるのは、ただ、注意を受けたことの不愉快さだけである。それを自分で処理できなくて、椅子の仕様やJRのせいにしようとする。その自分の言い分を認めてほしくて、不特定多数にツイートする。
 単なる、わがままなガキじゃねえか。
 新幹線の椅子とは、半世紀間、ずっとそうだったんだ。
 どんな場合でも「マックス倒していいと思」うような人間は、究めて希だろう。
 「まわりに感謝し、公の心で社会貢献しましょう」という教育勅語の精神は、何処へ消えたんじゃ?
 こんな人物じゃ、「一旦緩急」あっても、屁の突っ張りにもならんだろう。

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 −−【その1】了−− 『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い? 目次へ