ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。







今日は11月3日、文化の日である。
文化勲章が授与される日である。
でも、勲章なんかいらない、と受賞を辞退した人も多くいる。




先日、中丸美繪さんの『杉村春子 女優として、女として』を読んでいたら、杉村春子さんは受賞の決まった文化勲章を辞退した、という記述にであった。
「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」とか「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」とが言って、受賞を固辞したと伝えられている。
だが中丸さんは、それに加えて、あの文部省から賞など貰いたくはないと思っていたのではないか、と推察している。たしかに、築地小劇場、築地座、文学座、と続く彼女の歴史をたどれば、公演を成功させて劇団を存続させたいと奮闘しているのに、脚本家や劇団員の逮捕・監禁、脚本の変更、最後には上演禁止と、当局から弾圧を受け続けている。
私、忘れちゃいませんよ、そんなお上からのご褒美なんか、誰が貰ってやるもんか、ふん。



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杉村春子さん以外にも、文化勲章を辞退した人は多くいるようなので調べてみた。
ところが辞退する旨を伝えると、使いの役人は、それではこの話はご内聞に、決して他言なさらぬよう、と脅してかえるんだそうな。そのためか入手できる情報は少ない。辞退したことが確実な人は4名。辞退してと言われているが確かな情報が得られなかった人5名。それぞれの顔写真だけを掲げておきます。




河井寛次郎
1965年(昭和30年)受賞辞退




熊谷守一
1968年(昭和43年)受賞辞退




大江健三郎
1994年(平成6年)受賞辞退




杉村春子
1995年(平成7年)受賞辞退
成瀬巳喜男『晩菊』(1954)
右は上原謙



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ここからが、正確な情報が得られなかった人たち。「文化勲章を辞退したと噂される人たち」としておこう。
それにしても、この5人、はい、ありがとうございます、と喜んで、賞を受け取るような人は一人もいないぜ。役人どもは、どんな人だと考えていたのだろう。仮に受け取ったとしても、荷風みたいに、パパッと遊興して使い果たしてしまいそうだ。




千田是也
1904年(明治37年)生




吉行淳之介
1924年(大正13年)生




小沢昭一
1929年(昭和4年)生




岸田今日子
1930年(昭和5年)生
増村保造『卍』(1964)
右は若尾文子




永六輔
1933年(昭和8年)生













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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その7
                   平成29年11月03日



衆院選が終わったが ……、


 衆院選が終わった。自民単独で過半数、自公で3分の2超、という議席数は、投票日のずっと以前から新聞各紙がこぞって書きたてていた予想どおりであり、中には、自民単独で 300議席超、などと浮かれまくっている報道もあった。だから、この結果に改めて驚かされることもない。思い返せば、昨年7月の参院選だって、「改憲勢力が 2/3 以上の議席を占めた」のではなかったか。
 だが、この国はいったい何処まで堕ちてゆくのだろう、という思いが膨れあがる。
 私たちはまた一つとても大切なものを喪失したのではないか、
 このままこの流れを座視していて良いのだろうか …… 、

 国民が馬鹿になった、とは思わない。
 もともと、大衆とか庶民とかいう存在が、そのものとして、政治に対して「賢者」であった例しはないのだ。当たり前ではないか、我々は政治のなかで生きているのではない。テレビ・ラジオのニュースを聴くか、せいぜい新聞・雑誌を読むことによってしか、政治的状況をうかがい知ることはできない。国政どころか地元自治体の実態すら、それがどのように進行しているのか、さっぱり見当もつかない。政治的状況とは無縁な我々は、どう足掻いたって、政治的「賢者」になれるわけがないのだ。
 問題があるとするなら、それは政治家とジャーナリズムの側にある。
 今、彼らは、国民に何を与えようとしているか?
 政治家が選択枝を提示し、ジャーナリズムがその当否を論評する。国民は、この双方を見比べ、自分の実感で検証することで、投票に際して「賢者」として振る舞うことができる。これが議会制民主主義の基本的プロセスである。しかるに、今回の衆院選で露呈したのは、このプロセスがほとんど機能していない、という現実である。
 繰り返す、国民が馬鹿になったのではない、政治家とジャーナリズムが堕落したのである。この堕落が持続すれば、議会制民主主義は早晩破綻させられること必至である。選挙が終わって二週間がたった。お気楽な後追い論評がごまんと為されているであろうが、この「政治家とジャーナリズムの堕落」こそ国難であると、いったい誰が指摘しているだろうか。


投票日当日の朝、各戸配布された自民党『公約』


 投票日当日の朝、新聞受けに『この国を、守り抜く。/ 自民党 / 政権公約2017』というパンフレットが投入されていた。そのまま屑籠に投入しても良かったのだが、印刷物はスーパーの折り込みチラシでさえ目を通さずにはいられないという偏執狂的性癖から、ついつい読んでしまった。
 うっ、何だ、これは …… 、

 全体が醸し出す雰囲気は、まるでリクルート学生向け会社案内のよう。それもかなりブラック企業よりの。中身は好いとこ取りの寄せ集め。人をきちんと説得しようという論理的構成力ゼロ。企画会社(つまり電通である)の担当者が、前回どおりでイイッスよね、とヒヤリングもそこそこに、一晩徹夜して何とか間に合わせました、騙されても良いと思っている人だけどうか騙されてください、といった風の、にわかづくり感まるだし。
 最初は単なる選挙宣伝用のパンフレットだと思ったのだが、改めて表紙を見ると、そこにはくっきり『公約』と書かれている。何だって、これが『公約』? 念のため検索してみると、自民党の『 2017年 衆院選特設サイト』にも、これと同じものが『選挙公約2017』としてデーンと掲載されている。間違いない、これが自民党の『公約』なのだ。

 だが、どう贔屓目にみても、これは『公約』と呼べる代物ではない。恥ずかしくなるくらい初歩的な常識を確認せねばならないのだが、『公約』と言う場合、それが街頭演説で項目だけを連呼するものではなく、文書で丁寧に表現されるものならば、次のいずれかの論理構造(ちと、大げさな表現であるが)を持つはずである。

【A】政策の流れ(時間軸)から説くパターン
1) 前回の公約に基づく活動実績の総括。
2) (前項を受けて)今回の新しい公約の提示。

【B】現状分析(空間軸)から説くパターン
1) 産業・経済、政治・外交、教育・文化、の現状分析。
2) (前項を受けて)今回の新しい公約の提示。

 残念ながら、この『政権公約2017』はどちらのパターンにも当てはまらない。
 時間軸から説く「前回の公約に基づく活動実績の総括」もなければ、空間軸から説く「産業・経済、政治・外交、教育・文化、の現状分析」もない。あるのは、「言いっ放しの手前味噌」だけ。それも、もう止してよ、と言いたくなるマンネリ・ネタ。
 7・8ページには見開きで「アベノミクスの加速で、景気回復・デフレ脱却を実現します」とあるが、昨年9月の臨時国会衆議院における安倍晋三の所信表明演説を思い出す。記事にしたのでよく覚えている。【注1】 あれと何処が違うのかね。一字一句たりとも違わないと思う。もう、確かめる気にもならないけれど。
    【注1】『改憲論および改憲論者の徹底的批判−その5』(平成28年10月07日)


名目GDPの数値を引用しているが、これはペテン。


 上記のページは「アベノミクス5年間の実績」として7項目の数値を列挙している。一言で言えば、すべてデタラメである。数値を恣意的・作為的に引用して、あたかも「アベノミクス」が経済活動に効果的に働いたかのように錯覚させる、悪意あるミスリードである。いちいち検証する意欲も湧かないが、最初の項目だけでもコメントしておこうか。「GDPが増加した」というネタである。

   名目GDP 過去最高 50兆円増加
   493兆円(2012年 10-12月期)→ 543兆円(2017年 4-6月期)


 さきほど「騙されても良いと思っている人だけどうか騙されてください」と書いたが、これはその典型であろう。ニュース報道をまじめに聴いている人なら、経済状況をGDPで表現することの胡散臭さをとっくに嗅ぎ分けているはずである。
 GDP(Gross Domestic Product)は『国内総生産』と訳され、辞書的には「一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額のこと」と説明されているが、さて、そのGDPがどのように計算されているか、きちんと説明できる人がいるだろうか。私には出来ない。たぶん誰にも出来ないだろう、たとえ経済学や会計学に堪能な人であっても。

 GDPは、『内閣府』の『経済社会総合研究所』だけが算出しうる統計である。そこから四半期ごとに吐き出される数値を、我々は、はい、そうですか、と拝受するしかない。その算出が恣意的なものである、などとは言わない。何の根拠もないのだから。ただし、ここで使用される基礎データは、企業の財務諸表のように、帳簿に記載されてある数値をそのまま転記して作成する、といったものではないこと、つまり誰が計算しても同じ結果となるようなものではないことは、容易に想像できる。様々な機関の末端から、様々なデータが集められる。そのデータ提出の依頼や集計は、「取捨選択の判断」や「不確定要素の見なし」がなければ進めることは出来ないはずである。「恣意的」とまでは言えなくとも、「一定程度の操作性」が働くことは事実である。
 現の証拠に、発表されるGDPは、四半期ごとに変動するのは当然のこととして、「第1次速報」の数値が「第2次速報」で大幅に修正されるのは毎度のことであるし、「名目」と「実質」でもガラリと変化する。つまり、GDPとは実数値の集積ではなく、造り込まれた概念数値なのである。

 だから、GDPの数値は幾通りも存在する。『公約』はこれを悪用している。採用しているのは「名目GDP」である。なぜなら、この数値を使うと「GDP、50億円増」と言えるからである。でも、考えるまでもなく、「名目」より「実質」の方が実際に近いはずである。日本語のジョーシキである。そこで、同じ期間の「実質GDP」の数値に置き換えてみるとどうなるか?
 何と、GDP増加額は、50億円から一気に20兆円目減りして(!)、30億円になってしまう! 
私、何の操作もしていませんよ。公表されている「隣の表の数値」で置き換えただけ。【注2】
   【注2】http://ecodb.net/country/JP/imf_gdp.html

   実質GDP 30兆円増加
   499兆円(2012年 10-12月期)→529兆円(2017年 4-6月期)


「名目GDP600兆円達成」のため算定方法を変更していた。


 ミスリードはこれだけではない。「名目GDP 過去最高 50兆円増加」とあるが、この表現は極めて曖昧である。「過去最高」が、「前に書かれた、名目GDPの総額」を指すのか、「後に書かれた、GDPの増加額」を指すのか、よく分からない。が、いずれにせよ、「過去との比較」を言うのなら、絶対に忘れたふりをしてはならない事実がある。
 何処の誰が主導したのかは知らぬが、昨年12月に発表された(2016年 7-9月期)の第2次速報から、GDPの算出方法が変更されているではないか。
 「これまで付加価値を生まない『経費』として扱った研究開発費を付加価値を生む『投資』と見なし、GDPに加算する」(日本経済新聞 2016/9/15)という変更を行っている。新聞によって数値は若干異なるが、どの新聞も「この変更によってGDPは3%〜4%かさ上げされる」と試算している。金額にすれば約20兆円前後になると言う。
 この変更が過去のデータにまでさかのぼって行われているのか、(2016年 7-9月期)以前のデータはそのままなのか、さっぱり分からない。仮に、過去のデータまでさかのぼったとしても、膨大なデータ量に対して、さらに「判断」「見なし」「係数による加減」が加わって、データの純度はますます低下させられているだろう。一方、以前のデータはそのままだとするなら、これは完全なるペテン、20兆円を架空計上したことになる。GDPの増加は10兆円にしかならない

 いずれにせよ、この突然の「GDP算出方法の変更」は、安倍晋三政権が掲げる「名目GDP600兆円達成」に下駄を履かせるための措置であることは、バレバレの事実である。もともと国家的経済の統計数値であったGDPという概念を、政権擁護の道具に貶めたのである。利用できるものは何でも使う、というわけか。

 私は、GDPのことなどサッパリ分からぬ素人だが(玄人だって、分かっちゃいないだろうが)、素人なりに素朴な疑問を呈しておきたい。GDPとは「一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額のこと」であったはず。簿記・会計の用語風に言えば、「損益勘定の営業利益を国家レベルで合計したもの」と言い換えて大過ないだろう。実際、そのように説明しているサイトも多くある。だが「これまで付加価値を生まない『経費』として扱った研究開発費を付加価値を生む『投資』と見なす」というなら、それは「資産勘定」に計上すべき勘定科目であるはず。「損益勘定」に繰り入れたりしたら架空利益の捏造になってしまう。赤字会社における粉飾決算の手口じゃないの、これ。この『公約』に、そうだ、そうだ、と雷同したヤツ。誰でもイイから、この私を納得させてくれないかな。
 
 経済成長の実勢を知るには、こんな手垢にまみれた数値概念に付きあわされる必要はない。最も信頼性が高く分かりやすいのは、IMFが発表している『世界経済の見通し』だろう。それによれば、2017年の日本経済成長率予測は、かろうじて前回予測のマイナス成長を免れて、1.2%となっている。これは先進国中で最低の成長率である。



 いや、この経済成長率だって、企業の成長による内部留保の総和の話であって、個々の国民の家計・家庭経済が潤沢に回転することとは直接的には何の関係もない。GDPや経済成長率がどんなに良い数値で示されようが、我々が浮かれなければならない必然性はどこにもない。国民にとって大切なのは、自分たちの生活水準を的確に表現する数値概念である。
 GDPだって …… ? 増えたんだって …… ? で、それが、どうした。

 GDP以外の6項目に関しては、ここでは触れる余裕をもたない。各項目ごとのインチキを丁寧に解説しくれるサイトもあるので、興味を持たれる向きには、一度訪問してみてください。【註3】
    【註3】http://lite-ra.com/2017/10/post-3527.html



政策集団であることを止めた政党は、政党ではない。


 先ほど、この『公約』を、ブラック企業の会社案内のよう、と評したが、それは自民党を初め多くの政党が、すでに「政策政党」でなくなっていることの正直な反映である。「政策政党」なんて、辞書にも載っていない同義語反復を避けるなら、ズバリ、政党で無くなっている、と言い切ってもよい。
 法案提出や行政実務は官僚機構の欲するがままで、世論操作と選挙対策は企画会社のマーケティング手法に全面依存。議員という資格は一生をかけて奉職するものではなく、二流三流の能力しかもたぬ者たちの「割のいい職業」に成りさがっている。重用される条件は日本会議やら靖国参拝に同行することで得る「お仲間意識」であり、当用漢字・教育漢字すらルビなしでは読めず、答弁とか弁明の場では、釈明の「口上」さえ述べることができず平然と失語症を装う。もう何度こんな情景に付きあわされてきたことか。

 私は、保守主義や保守政党があながち悪いものだとは思っていない。日本は独裁国家ではないのである。与党があり、野党があり、中間政党もある。この構図において、政府・野党が保守主義であるのは当たり前のことなのだ。それは、政治理念とか政策とかいう以前の、政治的役割の問題である。だから、その与党における政策とは、経済界、財界、官僚のトップ、それに学者・有識者たちとの意見交流を踏まえ、与党の首脳陣が協議して作り上げるものだった。
 当然、野党からは「農民・労働者の立場に立っていない」という常套的反対論が出されたが、与党としては、「じゃあ、産業経済が停滞してもいいのかね」と自信を持って反論することができた。企業が栄えるとは、即ち、従業員の生活を豊かにすることであると、彼らは信じていた。じっさい、経営活動で得た剰余を、資本、経営、従業員に、「三方一両損」といった塩梅に分配する仕組みは、大切に保持されていたのである。

 しかるに、今の現状はどうだろう。党の首脳に政治理念なく、政策を立案・展開する能力なく、ただただ、選挙対策、国会対策、世論対策、等々、対策に「いいいネタ」がないか、このことだけに腐心・執心している。そこへ、じゃあ、こんな方法はどうです、とプランを持ち込むのが企画会社である。彼らは、どんな会社に呼ばれても、「御社は素晴らしい経営資源とマーケットをお持ちです、さあ中長期戦略を立てましょう」と、今ここにある経営不安を長期計画の夢物語のなかに溶かし込み、おだて上げて、倒産寸前の会社からコンサルティング料を巻きあげる。そんなプロフェッショナルたちである。

 以前、選挙スローガンを『キャッチ・フレーズ』と呼びかえて平気な神経を批判した。
 『アベノミクス』とて同じこと。だれの作った言葉かは知らぬが、これは間違いなく『マーケティング・ミクス』のモジリであろう。二十年、いや、三十年も前から、企業コンサルタントたちは、伝家の宝刀のごとくこの言葉を乱用した。そして多くの企業を無節操な事業拡大へと追いやった。そして今は、その言葉に踊らせて造り上げた遺物・残骸の処置に窮する時代となっている。『マーケティング・ミクス』という言葉を聞いて、複雑な思いに捕らわれる人たちだって多いはずだ。
 そんな古びた業界用語のモジリを、『政策』を訴える術語として、得々と口にできる精神が理解できない。


隠し味は「ヘイト」、これで大衆の愚昧なる精神に訴求する。


 もう一度『公約』パンフレットの全体を見てみよう。
 全編、これ、「やりました、やりました、こんなことをやりました、という、手前味噌」と、「やります、やります、こんなことをやります、という、言いっ放し」の羅列なのだが、最初と最後のページだけが、少し趣きが違っている。最初と最後は、支持者の心情に訴求し、支持を乞う内容となっている。政治的アジテーションになっているわけだ。

 冒頭は、自由民主党総裁安倍晋三の署名と顔写真入りのメッセージ。
 それは「北朝鮮の脅威、そして少子高齢化、この2つの国難を前に、今、政治には、明日を守り抜く重大な決断と実行力が問われています。 …… 」と始められる。
 末尾は、憲法改正への強い意志力の表明。
 「国民の幅広い理解を得て、憲法改正をめざします。」というドデカいプロレス活字の背後に、さらに大きく「6」という数字が記されていて、これが公約の締めくくりという扱いになっている。

 私には、この前後の部分が、「言いっ放しの手前味噌」以上の欺瞞であるように思える。
 アジテーションは、聞く者の政治的良心ではなく、大衆心理の愚昧なる部分、つまり、劣情に訴求するように発せられている。
 巧妙にカモフラージュされているが、これは、ヘイトである。
 何に対するヘイトか?
 一言で言えば、「戦後民主主義的なるもの」に対するヘイトである。


 今回は、この「戦後民主主義的なるものに対するヘイトを」テーマとする予定でいたが、GDPに関するまやかしの暴露に思わず力が入ってしまった。次回へ繰り延べる。


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