ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。







戦後初の内閣、東久邇宮内閣が最初にした仕事は、進駐軍兵士向け「慰安所」の設置であった。ポツダム宣言を受諾して敗戦を迎えたという大局がまったく見えていない。近年、オオサカの橋下某が、沖縄米軍基地の矛盾を、兵士の性欲処理の問題に矮小化した。なるほど彼は「戦後レジーム」以前の政治家の、正統的な末裔なのである。


『特殊慰安施設協会』の新聞広告
「急告 / 特別女子従業員 募集 / 衣食住及高級支給 前借ニモ応ズ / 地方ヨリノ応募者ニハ 交通費ヲ支給ス」と読める。


看板は「WELCOME 安浦ハウス」


『静岡新聞』昭和20年11月12日号
「近日中には正式な外出がゆるされよう、そこで折角の外出を楽しんでもらをうと県で米兵を対象とした慰安施設の設置を急いでゐたが」云々













9月27日、両者の会談前に撮られた。翌日の新聞は、天皇のマッカーサー訪問を報じたが「不敬にあたる」として、この写真は掲載しなかった。その翌日、GHQが禁止処分を取りやめさせ、やっと新聞に掲載された。

















































『人間宣言』のあと、天皇は全国巡幸を始められる。




















幣原喜重郎『外交五十年』


どうしても「憲法は押しつけられた」ものにしたい改憲論者が、驚くべき歴史の捏造を行っている。
小学館『少年少女日本の歴史』の第20巻『新しい日本』で描かれた、マッカーサー・幣原会談の漫画である。
A) 1993年3月の第33刷までは、第九条提案をしているのは幣原になっているのに、↓


B)1994年4月の第35刷では、マッカーサーの意見となっている! ↓

C)さらに現行版では、この項目自体が消去されているらしい。
 シルヒトマンさんは、新旧の違いを著書に載せたり、はがきにして首相官邸前デモで配ったりされたそうだ。頭が下がります。







マッカーサー(左)とホイットニー(右)。アメリカのオークション・サイトに出品されていた写真である。











































憲法改正案が衆議院で採決されているところ。9時の位置の最前列で起立していない議員が何名かいる。天皇制存続を否定していた共産党の議員たちか? 70年たって、起立・賛成の保守派が改憲論を唱え、着席のまま・反対の共産党が護憲の中心となっている。








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『改憲論』および『改憲論者』の徹底的批判 −− その12
                   平成29年01月18日



 改憲派の「現憲法はGHQに押しつけられたものである、だから改正すべきである」という常套句を批判している。前回までに、1946年2月13日の『マッカーサー草案』提示までの歴史的事実を確認をした。引き続き今回は、それ以降、同年10月6日の貴族院本会議での『帝国憲法改正案』の修正・可決までを調べてみる。日本の政治社会において、新憲法案は、どのように受け止められ、どのように議論され、どのように姿を変えてきたのか?
 一連の流れから見えてくるのは、立場を超えて新しい時代の仕組みを作り上げようとする合理的精神と、どう藻掻いても『国体』という共同幻想から脱却できない頑迷さとの、せめぎ合いである。押しつけた、とか、押しつけられた、とか言うような対立軸は、どこにも存在しない。

 経過は錯綜していて、下手な文章に編むとかえって解りづらくなる。そこで出来事を時系列にまとめ、リストとして表示してみる。予定を少し拡大して、前々回・前回で述べた「前史」までさかのぼって、改めてリスト化したい。すでに述べたことと重複するが、憲法制定の初発から着地までを「通史」として一覧した方が、「合理的精神と頑迷さとのせめぎ合い」がよく見えてくるはずである。急がば回れ、である。必要な場合だけ、若干のコメントを付加する。
 極力簡素化を狙ったのだが、やはり仕上がりは極めて読みづらい。しかし、我慢して目を通していただきたい。そうすれば、今後一切、改憲派の「現憲法はGHQに押しつけられたものである、だから改正すべきである」という呪文に惑わされずにすむはずである。

 作成にあたっては幾つもの書籍・資料を参考にしたが、記述内容が食い違う場合がよくあった。
 『その10』で述べた、1946年2月13日の『マッカーサー草案』の提示にしても、ある資料では「GHQのホイットニーが、日本の外務省に出向いて伝えた」とあるし、別の資料では「吉田外相と松本国務大臣がGHQに出向いた」とある。今となっては、別にどちらでも良いと思うのだが、正確であるに越したことはない。
 そこで、最も信頼性の高い資料を紹介しておく。それは『国立国会図書館』のホームページにある『日本国憲法の誕生』というコーナーである。「トップ」>「電子展示会」>「日本国憲法の誕生」とたどれば、ページに行き着く。歴史的資料の点数が多く、すべて原本が読め、添えられた解説も正確・端的である。ぜひ一度、閲覧されることをお勧めする。私の駄文に付き合うより数段有意義だと思える。この記事でも、その解説を何度か引用させていただいた。
   http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html


新憲法案名称の確認


 最初に、次々と出現する「新憲法案」の名称を再確認しておこう。みな似たような名称なので、書いていて混乱すること度々であった。識別しやすいように頭に(A)、(B)、という風に記号をつけてみた。もちろん、これ以外にも憲法案はたくさんあった。興味のある方は『日本憲法の誕生』を見てください。

(A)『憲法草案要綱』
  1945年12月26日、民間の『憲法研究会』が内閣に提出。続いて、GHQにも提出。
(B)『憲法改正要綱』(松本試案)
  1946年 2月 8日、内閣の『憲法問題調査委員会』が、GHQに提出。 
(C)(マッカーサー草案)
  1946年 2月13日、GHQ民政局長ホイットニーが、内閣に提示。
(D)『憲法改正草案要綱』
  1946年 3月 6日、内閣が発表。
(E)『憲法改正草案』
  1946年 4月17日、内閣が発表。(D)の口語訳。
※現在自民党が私的に作成しているのも『日本国憲法改正草案』である。極めて紛らわしい。


1945年(昭和20年)


09月27日 天皇、米大使館公邸にマッカーサーを訪問。
 マッカーサーは出迎えなかったが、会談の後は玄関まで天皇を見送った、と言われている。以降、両者は合計11回会談を繰り返す。これらの事実から、お互いを「立場は違うが、話の通じる相手」として見なしていたように想像できる。

10月04日 マッカーサー、近衛文麿(国務大臣)に、憲法改正の必要性を示唆。
 同時に『自由の指令』を示す。『自由の指令』の内容は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など。

10月05日 東久邇宮内閣、これらの指令は実行できない、と総辞職。
 東久邇宮内閣は、ポツダム宣言受諾によって鈴木貫太郎が総辞職した後に成立した、戦後初の内閣である。東久邇首相は、内閣発足後すぐに「国体維持」と「一億総懺悔」というスローガンを述べていた。つまり、天皇を頂点とする国家体制はそのままだが(国体維持)、すべての国民は反省せよ(一億総懺悔)、と言っているわけだ。これでは、敗戦・被占領という事態に陥ったのは、ひとえに「国民に責任がある」ことになる。マッカーサーの示唆・指示が「理解できなかった」のは当然のことだろう。
 ここで忘れてはならないことがある。東久邇内閣の成立は 8月17日だが、まさにその日、近衛文麿(国務大臣)は「良家の子女の純潔を守れ」と騒ぎ立てた。自分たちが煽り立てた「鬼畜米英」という観念をそのまま引きずり、自分たち自身がパニクったわけである。翌日の 8月18日、橋下政実(内務省警保局長)は、「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」と「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達する。つまり「占領軍向け性的慰安所」を早く作れ、というわけだ。早々と26日には『特殊慰安施設協会』(Recreatioin and Amusement Association :"RAA")が設立され、27日には大森海岸の料亭『小町園』が慰安所第一号に指定される。"RAA"の資本金は大蔵省が保証し日本勧業銀行が融資。建設に必要な資材や、営業に必要な生活什器、衣服、布団、そして約1200万個のコンドームは東京都と警視庁が現物提供した。なんと迅速な対応であることか。
 どうやら東久邇・近衛コンビにとっては、兵士の性欲処理だけが戦争のリアリティであったようである。それにしても、内務省警保局長の名前が「橋下」というのは偶然の一致にしては出来過ぎである。70年後、オオサカの橋下も同じような発言をし、顰蹙を買ったにもかかわらず平然としていたことは、記憶に新しい。

10月09日 幣原喜重郎内閣成立。

10月11日 マッカーサー、幣原喜重郎(首相)に、「憲法の自由主義化」を要求
 同時に『五大改革指令』を出す。『五大改革指令』の内容は、選挙権付与による婦人の解放、労働組合の奨励、より自由な学校教育、秘密警察の廃止、経済機構の民主化。

10月25日 内閣に『憲法問題調査委員会』(委員長:松本烝治)を設置。

10月29日 民間の『憲法研究会』(提案者:高野岩三郎)、結成。
 憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。
  −−『国立国会図書館』HP > 『電子展示会』 > 『日本国憲法の誕生』より


12月26日 民間の『憲法研究会』、(A)『憲法草案要綱』を首相官邸に提出
 続いて、GHQにも提出。
 (憲法研究会は、)研究会内での討議をもとに、鈴木が第一案から第三案(最終案)を作成して、12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。
 なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。
  −−『国立国会図書館』HP > 『電子展示会』 > 『日本国憲法の誕生』より


1946年(昭和21年)


01月01日 天皇、『人間宣言』。
 年頭の天皇詔書。官報によって公示された。
 ネット上のブログなどで、この官報の文面を示して「天皇は人間宣言などしていない」と主張している例をいくつか見かけた。曰く、「人間宣言」などとは何処にも書かれていない、と。そうだ、そうだ、その通りだ、と賛同するコメントも多数寄せられている。私には、これらの記事の意図が理解できない。「神格化否定として中途半端である」と、詔書の革新性が不徹底であることを非難しているのか、「マスコミが勝手に人間宣言などと命名した」と、戦後ジャーナリズムの「左翼的偏向」を批判しているのか。おそらく後者の方か。「戦後レジーム超克論」の尻馬に乗って、戦後史を読み替えようとしているのだろう。
 だが、官報に掲載される天皇詔書に『標題』が付かないのも、当世風の『キーワード』が使用されないのも、当たり前のことである。以下に、詔書の中間部分を抜粋するが、『人間宣言』という要約は的確であると思える。天皇はこの後、長期に渡る全国行幸に出られる。『人間宣言』の具体的実践以外の何であろうか? 詔書を「人間宣言でない」と強弁することは、この天皇の持続的意思までも貶めることになるだろう。不埒者め。だが、天皇個人の「お気持ち」を無視し逆撫でするのは、安倍晋三や『日本会議』が率先してやっている。
 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
  −−官報號外 昭和21年1月1日 詔書 [人間宣言](一部抜粋)


01月24日 幣原・マッカーサ会談。
 幣原は、マッカーサーに、天皇制の護持と平和主義・戦争放棄の考えを伝えた。この会談で新憲法の大筋に関して、幣原・マッカーサー間に大筋での合意があったと思われる。幣原自身の著書『外交五十年』(1951年4月:読売新聞社、中公文庫で復刊されている)や、彼の秘書官であった平野三郎が残した『平野文書』(1951年2月:国会図書館の憲法調査会資料に保管されている)で、史実の肉声を聞くことができる。彼は年末に風をこじらせて肺炎となり、その病床で「つくづく考えた」と言う。その結果を伝えたのが、この会談であった。『平野文書』にはこうある。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。  −−『平野文書』より
 幣原の提案と松本試案の間には大きな隔たりがあるが、これは、幣原の閣僚に対する主導力が不足していたからだと思われる。政治的マキャベリズムが行使できる人ではなく、理念で動く人であったようだ。四度の外相時代には国際協調路線をとり、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結する。軟弱外交と非難され、政界を退く。戦後は、数少ない親英・親米派として、首相に担ぎ出された格好であった。
 改憲論者は、この日の「幣原からの憲法案の提示」という事実が大嫌いなようである。嫌いが昂じて、捏造という愚挙をしでかす輩までいる。日本在住のドイツ人クラウス・シルヒトマンさんが訴えておられる内容を、東京新聞が記事にまとめているので、是非ご一読ください。当該の漫画は、ネットで見つけて、左のコラムにコピーしておきました。
 『東京新聞』2016年11月6日 朝刊 『入れ替わった9条提案 学習漫画「日本の歴史」』
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201611/CK2016110602000107.html

02月01日 『毎日新聞』、『憲法問題調査委員会試案』全文をスプーク報道
 これは内閣の『憲法問題調査委員会』が作成中の(B)『憲法改正要綱』(松本試案)のプロトタイプである。
 松本委員会の憲法改正作業は厳重な秘密のうちに進められていたが、2月1日、『毎日新聞』第1面に突如「憲法問題調査委員会試案」なるスクープ記事が掲載された。これは正確には、松本委員会の内部では比較的リベラルな、いわゆる「宮沢甲案」にほぼ相当するものであった。しかし、毎日新聞が「あまりに保守的、現状維持的」としたのをはじめ、他の各紙も、政府・松本委員会の姿勢には批判的であった。この『毎日新聞』によるスクープ記事は、GHQが日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、独自の草案作成に踏み切るターニング・ポイントとなった。
  −−ウィキペディア『松本試案』より


02月03日 マッカーサー、ホイットニー(民政局長)に、憲法草案作成を指示。
 この時『マッカーサー三原則』を示す。その内容は、a)天皇の地位は国民主権に基づく、b)戦争の放棄、c)封建制度の廃止。

02月08日 松本烝治(憲法担当国務大臣)GHQに(B)『憲法改正要綱』(松本試案)を提出。
 この要綱は、正式な政府案として閣議で了承されたものではなかった。日本政府は、GHQの内部で憲法草案作成の作業が進行していることを全く知らなかったため、この案に対するGHQの意見を聞いた後に、正式な憲法草案を作成することを予定していた。
  −−ウィキペディア『松本試案』より


02月13日 ホイットニー、(B)『憲法改正要綱』(松本試案)を拒否
      代わりに(C)『マッカーサー草案』を提示
 ホイットニーの駄目出しは「現在の日本政府の改正案を保持したままでは天皇の地位を保障することが難しいこと、提示した草案の如き改正案の作成を日本政府に命じるものではないが、これと基本原則を一にする改正案を速やかに作成し、その提示を切望することなど」(ウィキペディア『松本試案』より)であった。
 『憲法改正要綱』(松本試案)に対する返答があるものと思っていた吉田茂(外相)・松本烝治(憲法担当国務大臣)は、突然の事態に衝撃を受けた、という。

02月15日 白洲次郎(終戦連絡事務局次長)、ホイットニーに手紙で譲歩を求める

02月18日 松本烝治(憲法担当国務大臣)、『憲法改正案説明補充』を提出。再度説明を試みる。

02月19日 GHQとの交渉経過が閣議に報告される。閣議は紛糾。
      幣原は『マッカーサー草案』を原案として採用し修正することを決める

02月21日 幣原・マッカーサー会談。最終的な意見調整

02月22日 閣議『マッカーサー草案』の受け入れを決定。
      幣原、天皇に、『マッカーサー草案』を奏上。
      天皇、天皇制の存続が認められな場合でも『マッカーサー草案』を受け入れると表明。

02月26日 『極東委員会』、ワシントンで第1回会合

03月06日 内閣、(D)『憲法改正草案要綱』を発表。
 天皇象徴性・戦争放棄・国民主権、は『マッカーサー草案』通り、修正点は二院制を復活させたこと。GHQ、これを承認。各政党も賛成。天皇制廃止を主張する共産党のみ反対。

03月07日 新聞各紙、(D)『憲法改正草案要綱』を掲載
 この要綱の発表が突然であったこと、また、その内容が予想外に「急進的」であることについて、国民は大きな衝撃を受けたが、おおむね好評であった。
  −−『国立国会図書館』HP > 『電子展示会』 > 『日本国憲法の誕生』より

 
04月10日 戦後初の総選挙。単独で過半数を制した政党はなかった

04月17日 内閣、(E)『憲法改正草案』を発表。
 国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)は、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出した。これが主たる契機となり、1946(昭和21)年4月2日に、GHQの了承、また、閣議の了解を得て、ひらがな口語体によって憲法改正草案を準備することとなった。口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得た。この案を参考として、実質的には、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局次長、渡辺佳英法制局事務官らの手により、4月5日に第一次案が完成した。4月16日には幣原首相が内奏し、法令の口語化はまず憲法について行い、憲法の成立施行後は他の法令にも及ぶことを伝えた。次いで4月17日、憲法改正草案が発表された。
  −−『国立国会図書館』HP > 『電子展示会』 > 『日本国憲法の誕生』より


05月22日 幣原喜重郎内閣総辞職、吉田茂内閣成立

05月27日 『毎日新聞』、(E)『憲法改正草案』に関する世論調査結果を掲載
 賛成の比率、象徴天皇制:85%、戦争放棄:70%。

06月08日 枢密院、『憲法改正草案』を可決。

06月20日 『帝国憲法改正案』を、第90臨時帝国議会に上程。  

10月06日 帝国議会、『帝国憲法改正案』を修正・可決。
 議論の中心は次の二点であった。
1)この憲法によって「国体は変わるのか否か = 主権は天皇にあるのか、国民にあるのか」
 つまり、まだ多くの議員が旧来の「国体」イメージから脱却できずにいた、と言うことである。議論の結果、「主権は国民にある」ことを確認。憲法条文に次の修正を加えることになる。
  a) 前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し」を追加。
  b) 第1条に、象徴としての天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」を追加。
2)この憲法によって「自営のための武装も禁止されるのか」
 吉田茂は、「多くの戦争が防衛の名のもとでの侵略戦争であった。戦争放棄に例外はない」と述べた。衆議院の憲法改正委員会委員長芦田均の意見で、いわゆる「芦田修正」が付け加えられる。
  c) 第9条第2項に、「前項の目的を達するため」を追加。
 これにより、「自衛のための武力は保持できる」という「解釈」が可能な文面になった。後に吉田は、解釈をそちら方へシフトさせてゆく。

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 −−【その12】了−− 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 目次へ