ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。








 映画に出てくるガソリン・スタンドを集めてみました。何という映画かお分かりになりますか?
 私が見た映画ばかりなので、それほどコアな趣味のものは含まれていません。有名なものばかりです。ヒントとして、公開年度を入れておきます。
 答えは、下の方に。



A:1964年



B:1967年



C:1969年



D:1984年



E:1985年



F:1987年




G:1988年



















A: 1964年『シェルブールの雨傘』
     ジャック・ドゥミ

B: 1967年『卒業』
     マイク・ニコルズ

C: 1969年『イージー・ライダー』
     デニス・ホッパー

D: 1984年『ターミネーター』
     ジェームズ・キャメロン

E: 1985年
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
 ロバート・ゼメキス

F: 1987年『バグダッド・カフェ』
     パーシー・アドロン

G: 1988年『レインマン』
     バリー・レヴィンソン



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平成 27年 10月 17日 人件費を悪と考える経営 その1


 サイトを開設してから2週間になる。5本の記事を書いた。『安全保障関連法案』の成立に腹を立てて、急遽サイトを立ち上げ、一生懸命書いた。だが、今まとめて読みかえしてみると、期待していたほど気分の高揚が感じられない。普段なら、どんなに短くて稚拙なものであれ、自分の書いた文章には、何某かの愛着が湧く。今回はそれが感じられないのだ。
 理由はハッキリしている。政治批評なんて今まで書いたことがない。自分の好きなことを楽しんで書いているのではないのだ。当然出来上がりは美しいものではない。自分の吐き出した言葉の殺伐とした荒れように、気が滅入ってしまう。しかし、政治的状況を鑑みると、書くことを止めるわけにはいかない。

 で、今回は少し気分を変えよう。予定では『日本会議』の醸成する日本の概念を、もう少し丁寧に批判するつもりであったが、ちょっと脇へ置いておく。その代わり、経済の問題を取り上げる。身近な社会現象から入っていこう。例題として拝借するのは〈ガソリン・スタンド〉である。

今のガソリン・スタンドの典型的な姿


 ガソリン・スタンドがことごとく〈セルフ式〉に変貌したのはいつ頃だったろう? 
 古い新聞記事を検索してみると、2005年5月の記事に、全国で4000店舗がセルフ式になり、全体の8%を超えた、とある。ネット上では、なぜか最近のデータが見つからないのだが、一つヒットしたものによると、2014年にはガソリンスタンドの3割近くがセルフ・スタンドになった、と書かれている。
 そうすると上で、ことごとく、と書いたのは間違いになるのだが、この3割近くという数字は、私の実感とは大いにズレがある。数字が小さすぎるように思える。私の体験で言えば、最近の少なくとも3年間はセルフ・スタンドでしか給油したことがないのだ。

 データの正否はさておき、この〈セルフ式〉と言うやつ。不便というか、不埒なというか、とにかく癇に障るやつですね。
 例によって、液晶のタッチ・パネルで操作するわけだが、これがたいてい画面が暗くて汚い。給油機は屋外にあるから直射日光に曝されていることが多く、そうなるとほとんど識別不能。手のひらをパネルの上にかざしてわずかの日陰をつくり、やっと浮き出た文字に眼を凝らす。何々? まず、カードを入れろ、ですか。
 機械は、店々がてんでんバラバラに命名しているカードを、客の全員が周知しているかのように命令する。ふぅむ、これかいな、と、こちらが差し込むカードを次々と吐き出してくる。何でや、これでいけたはずやないかと、事務所に駆け込むと、同じ系列店なんですがこちらでは使えません、とか、このカードはICタグの新しいやつに変わっています、お作りしましょうか、とくる。ええわ、今日は急いてんねん、と給油機に戻り、支払い方法=現金を選択。
 途端に鳴り始める音声。どれか選べ、どこかを押せ、と言うのだが、何台も並んだ機械が一斉に喋っているから、どれがこの機械から出ている音声なのか分からなくなる。ただただ惑わされるだけなので、意識的に音声認識回路を遮断する。感度の悪いタッチ・パネルと、何度紙幣を入れても吐き出してくる投入口との格闘が終了すると、静電気除去シートに触れてから赤いノズルで …… 、と曰う。何やて、除去シートて …… どれや、これかいな、これのどこがシートや、シートいうたら平べったいものや、大きなボタンやないか、これ。
 給油を開始しても、さあ、こんなカードを作れ、とか、メールー会員になれ、とか、音声攻撃は続く。それにしても、どうすればこんな酷い音響の出る機械が作れるのか。ダイソーで売っている108円のAMラジオの方が何ぼかましやで。
 給油が終わると、レシートが吐き出されてくる。それを持って精算機まで行き、印刷されているバーコードを読み込ませると、お釣りが出てくる仕組みらしい。ところが、精算機のやつ、ピッ、と鳴らない。読み取り口にバーコードをギュウギュウ押しつけても、ウンとも、スンとも言わない。再び事務所に駆け込んで、引き籠もっている店員を連れてくる。すると店員、給油機のレシート吐き出し口に指を差し込んで、何枚ものレシートをつまみ出し、うち1枚を指す出す。客さんのはコレです。
 クレジット・カード兼用の顧客カードで給油した人は、お釣りを取る必要がないから、吐き出されたレシートを放置したまま行ってしまうのだ。それが何枚も溜まっていて、私のレシートは吐き出し口の奥の方で詰まっていた、という次第。店員は、すみません、とも言わず店舗へ帰っていく。ジロリとこちらに向けた最後の一瞥は、だから、カードを作りましょうか、と尋ねましたでしょう、と言っている。
 真冬でもビッショリと汗をかいて、車を発進させながら振り返ると、こっちの機械でも、あっちの機械でも、お兄さんや、おじさんや、お爺さんまでもが、必死になって液晶パネルに手をかざしているのでした。

 何度もバタつくのは厭だから、3千円ぐらいの定額でガソリンを補給することが多くなった。消耗部品などもガソリン・スタンドで買うことは無くなった。タイヤやバッテリーの交換などは、ディーラーに頼むか、オートバックスまで出かけるか、のどちらかだ。車検などもってのほか。ガソリン・スタンドですることと言えば、ガソリンを入れる以外は、洗車チケットを買ってしまったから、たまに、洗車機を通すぐらいのことか。おかげさまで、空気圧など確かめることもなく、ウインドウ・ウオッシャ液など空になったまま、何ヶ月も走り続けることになる。
 いつから、こうなってしまったのでしょう。

40年まえのガソリン・スタンドを懐かしく思い出す


 何事にでも〈昔〉を引きあいに出すのは、いささか気が引けるが、どうしても昔のことを思ってしまう。
 20代後半の私は、大阪市西区の小さな材木屋に勤めてた。ある日の夕方近く、急な注文が入った。小口の出荷には路線便を使うのだが、集荷に車を廻してくれる時間帯はとっくに過ぎており、こちらで路線便の営業所まで荷物を持ち込む必要があった。その頃私はまだ新米扱いで、専用の営業車をあてがわれていなかったので、営業車が帰ってくるのを待った。最初に帰っていたのは販売課長で、車を使いたい旨を言うと、課長は、エンジンがプスン・プスンとエンスト気味になる、たぶんプラグが汚れているからだと思うので、先にD(会社が契約していたガソリン・スタンド)へ寄って、プラグを掃除してもらえ、と言う。そして、こう付け加えた。
「たぶん(プラグの掃除代は)請求しないから、その代わり、満タンにしてやって。まだ、あんまり入らないと思うけれど。」

 Dに立ち寄ると、一番若い店員が出てきた。運転席に座ったままの私に、抜き取ったプラグを差し出して、汚れているようには見えないのだけれど、と言う。でも、エンストするといけないから、念のため、と掃除をしてくれる。ところが、目的地まで約半分といったあたりで、課長の言ったとおり、エンジンがプスン・プスンと言い始め、それを何回か繰り返した後、とうとうエンストしてしまった。
 何とか惰力で路肩に止め、ボンネットを開けてみたが、それは故障箇所を点検していると言う格好に見せるためであって、私には車の構造とか仕組みは全然分からない。幸い近くに公衆電話ボックスがあったので、Dに連絡すると、先の店員が出てきて、セル・モーターは回りますか? と聞く。セル・モーター、と言われても、良く分からなかったので、とにかく、何も回らない、と答えると、すぐ、そちらへ行きます、と返事が返ってきた。
 結末はまことに呆気なかった。プラグ・コードが抜けかけていた。ただ、それだけのことだった。私は運転者としての自分のお粗末さを詫びたが、Dの若い店員も、私も見逃していたので同罪です、と言って笑った。月末のDからの請求書には、この件の出張修理代は計上されていなかった。

ガソリン・スタンド 昔と今を比べると


 昔の想い出話を長々と書いたのは、現在のガソリン・スタンドのあり方と、比較してもらいたかったからだ。さて、
 昔と今と、では、どちらが〈顧客満足度〉が高いでしょうか?
 昔の店員と今の店員と、では、どちらが〈販売力ポテンシャルの向上〉に寄与しているでしょうか?
 両方とも、間違いなく〈昔〉だね。

 〈顧客満足度〉も〈販売力ポテンシャル〉も、マーケティング理論が持ち込んだ言葉だが、マーケティング理論が経営をいじくり廻した後の方が、これらの言葉の持つ意味がかえって減衰しているのは何故なのか。

 就職する側、つまり働き手にとってガソリン・スタンドの店員という職種は、昔は、安全牌的な意味を持っていたと思う。失業して次の仕事がなかなか見つからない時、とりあえずガソリン・スタンドに勤めるという手があった。前職が何であっても、若くても年を食っていても、あまり難しいことは言わずに採用してくれる所が多かった。屋外での立ち作業がほとんどだから決して楽な仕事ではなく、人の入れ替わりも多かったが、地道に技術・技能を習得していけば、メカニックとして結構重宝してもらえた。何よりも、接客業としての面白さがあった。それも、セールス・トークに依るものでなく、技術力・技能力でもって客に向かうのだ。実際、会社の先輩・同僚、あるいは身内にも、一時期ガソリン・スタンドに勤めた,という人がかなりいる。もちろん、正社員としての身分で。

 現在、セルフ式の店も少し様子が変わってきている様に思える。セルフ式とは極力人手を減らす目的で採用された形式のはずなのに、二人・三人と店員が控えている店が増えてきた。いや、店員と呼ぶにはふさわしくない。販促要員なのだ。彼ら彼女らは、挨拶をして客を迎えることはしないし、ガソリンを入れてくれるのでもない。こちらが、給油機を相手にしている時、そっと側に忍び寄ってきて、何やら囁くのである。今、こんなキャンペーンをやっています、とか、プレミアム何とかになると、さらにリッター当たり何円安くなるとか。機械が喋り続けているので、彼らの言うことは良く聞き取れない。こちらは暗くて感度の悪いタッチ・パネルや、なかなか千円札を飲み込もうとしない投入口と格闘している最中なのだ。勢い、断りの口調もぞんざいになり、うるさいな、あっちへ行け、に近くなっている、と思う。
 早々に拒絶されて、彼らは事務所の前あたりまで後退し、こちらが作業を続けるのをじっと見ている。話ぐらい、聞いてくれても良いじゃないか、このオッサン、と、きっと思っているだろう。

 店主は、せっかく人を雇っておきながら、なぜ彼ら彼女らに〈実質的な仕事〉をさせないのだろう。売り上げが芳しくないから販促活動要員を配置する、という考えなのだろうが、ガソリン・スタンドにおける有効な販促活動とは何かということが、真面目に考えられたとは思えない。キャンペーンや1円引きに客が飛びつくとでも思っているのだろうか。
 もう少し、考えてみよう。

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