ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。






二年前、古写真研究家石黒敬章氏が『琉球処分』直後の様子を生々しく伝える写真を公開した。
うち2枚を引く。

「琉球処分」のあと、首里城歓会門の前で銃剣を持って並ぶ明治政府の兵士。
熊本鎮台の兵隊が派兵された。


「やんばる」の老夫婦
写真の裏には 「ヤン原人」と書いてある。
「原人」という呼び方は、そのまま大阪府警機動隊員の「土人」という罵りにつながっていると感じる。













柳原良平のアンクルトリスが、
Hawaiiへ行こうと呼びかけた。
でも100名の当選者のうち、実際にハワイへ行ったのは30名程度だったらしい。それほど異国は遠かった。


『兼高かおる 世界の旅』のオープニング
この時、映像に出現する飛行機は必ず、右から左へ飛んでいることに気付いた。そう言えば、スーパーマンもそうだった。謎である。



ジェット機の垂直尾翼には、このロゴがあった。
ひたすら格好が良かったが、現在このマークの付いた航空機は飛んでいない。


『ハワイの若大将』(1963年)
ヤング・ガイ、青春ジャンプ、若さで行こうハッスル作戦、なんてコピーを見ると、それまで若者がどれだけ抑圧されていたのか、と思ってしまう。


1965年
シルヴィ・バルタンは、ドライヴ・ウェイに春が来りゃ、と日本語で歌った。
アイドルという言葉が定着したのも、スナックでママたちが、イエー、イエー、と合いの手を入れるようになったのも、彼女の功績であろう。


1966年6月29日
タラップを降りるビートルズ
大人たちは、彼らの長髪とシャウトする歌声、それに熱狂する日本の若者たちに戸惑い、反発のみ感じていたようだ。
一人淀川長治さんだけが「お稚児さんみたいに可愛い」と絶賛していた。流石である。


ツイッギー
1967年10月18日に来日
スカートの丈が短すぎぎることが、人々の度肝をぬいた。しかし男たちの好奇心を尻目に、女性自身の自己主張意識が瞬く間にミニスカートを一般化させた。













小野寺信
ヤルタ協定は密約であった。そのため「日本側は全く知らず、なおソ連に希望的観測をつないでいた」などといった俗説が伝えられていたが、それは真っ赤なウソである。
優れた諜報武官であった小野寺は、亡命ポーランド政府参謀本部からその核心部分を得て、公電で日本の参謀本部に伝えている。
上層軍属がこれを握りつぶしたのである。


『パリは燃えているか?』
(ルネ・クレマン 1966年)
パリを破壊しろというヒトラーの命令を、コルティッツ将軍は無視して連合国に無条件降伏。
だから、今のパリがある。


捕虜として尋問を受ける鉄血勤皇隊の少年たち
尋問する米軍政要員の姿と撮影したカメラマンに、相手を正当に「子供だ」と見なしている雰囲気が感じられるのが、せめてもの救いである。
6月17日の撮影。


読谷村の鍾乳洞(がま)
上陸した米軍はここに住民たちが避難しているのを見つけ、決して殺したりしないから降伏しなさいと説得した。しかし鬼畜米英と教育されていた人たちは応じず、集団自決を図った。その数80名、うち六割は子供だったという。
現在でも花束が絶えることがない。庶民でもこのくらいの気遣いはするのだ。



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『改憲論』および『改憲論者』の徹底的批判 −− その6
                   平成28年10月26日



 米軍北部訓練場(沖縄県東村、国頭村)のヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)移設工事を巡り、現場警備に大阪府警から派遣された2人の20代の男性機動隊員が、工事への反対活動をする人に「ぼけ、土人が」などと差別的な暴言を吐いた問題で、沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事は19日、「(土人は)未開の地域住民を侮蔑する意味を含んだ言葉で、県民としても知事としても言語道断で到底許されず、強い憤りを感じている」と述べた。知事は近く県警本部長に会って機動隊の適切な管理を求める。
 また、菅義偉官房長官は記者会見で「不適切な発言を行ったことは大変残念」と指摘。「許すまじきことなので、警察庁においてしっかり対応すると報告を受けている」と述べた。そのうえで「地元の村から早く(北部訓練場の約半分の)返還を実現し、国立公園に指定してほしいと要望を受けている」と語り、年内に工事を終える考えを改めて示した。
 一方で大阪府の松井一郎知事は、当時の様子をネット動画で見たとした上で、「表現が不適切だとしても、府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と自身のツイッターに書き込んだ。さらに「出張ご苦労様」とねぎらいの言葉も投稿した。
 この発言を巡り、府警は近く、隊員から事情を聴く方針を固めた。事実関係を確認の上、処分を検討する。 【佐藤敬一、田中裕之、青木純、堀江拓哉】
    毎日新聞2016年10月20日 01時06分(最終更新 10月20日 10時11分)
    http://mainichi.jp/articles/20161020/k00/00m/040/136000c


 今回はこの記事にある「男性機動隊員が、工事への反対活動をする人に「ぼけ、土人が」などと差別的な暴言を吐いた問題」について書く。ただし「不適切な発言をした」とか「しなかった」とか、「暴言を吐いているのは反対派も同じ」とか「不適切な発言をしたが、ものの弾みでそうなっただけ」とかいった、「ものの言い方」の是非を論じようとは思わない。いま沖縄県国頭郡(くにがみぐん)東村(ひがしそん)および国頭村(くにがみそん)で進行している政治的状況の総体から、「差別的な暴言を吐いた問題」だけを抽出してものを言ってはならない。

  「反対活動をする人」が何に怒り、なにゆえに我が身を賭してまで反対を続けているのか。
  なぜ、大阪くんだりから機動隊員が「出張」しているのか。
  なぜ、あの若い隊員が憎悪を込めて人を「ぼけ、土人が」と罵ることができるのか。

 我々が知らねばならぬのは、これらの「騒動」の底流を流れる「沖縄問題の本質」である。


おそらく松井は、歴史的事実としての「琉球処分」を知らないだろう


 私も含めて、現場における具体的事実の連鎖をまったく知らない部外者は、報道される出来事の一局面をとらえて、お気楽な感想や批評などを並べ立てることが可能である。現の証拠に、記事にある松井某という大阪の遊び人風情のオッサンは、ツイッターの記事を批判されてもへこたれず、「売り言葉に買い言葉で言ってしまうんでしょう」と応じている。おそらく "You Tube" にアップされている動画の激しい言葉の応酬などを観て、汚い言葉を吐いているのは反対派だって同じじゃないか、という心証を得ての発言であろう。しかし、このオッサン、先鋭化せざるを得ない政治的局面でのやりとりを、飲み屋での酔客どうしの他愛ない口論と同じレベルで論じて、澄まし顔を決めこんでいる。どうして急に「日常の庶民的感覚」を持ち出してくるのだ。お前だって、政治家の端くれだろうが、松井よ。
 「具体的事実の連鎖」と言ったが、松井らのノホホン面に向かって喋るなら、一体どこまで溯って説明してやらねばならぬのか途方に暮れてしまう。1871年(明治4年)の廃藩置県から始まる「琉球処分」の歴史的事実から説明せねばならぬのだろうか。今ここで松井のために歴史教科書的な概略を書く余裕もないが、ノホホン面の松井の脳細胞にはその歴史的事実の一片すら存在しないだろうから、「琉球処分」の最終段階だけは確認しておこう。要点は次の二点である。お前らは歴史的事実を正視するのは大嫌いだろうが、黙って読め。

(1)1879年(明治12年)3月27日、琉球処分官松田道之は、軍隊400名と警官160名を率いて首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告し、450年間続いた琉球王国を滅ぼした。
(2)翌1880年(明治13年)、これに反発する清国に対し明治政府は、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清国領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。

 (1)に付いて言えば、首里城開城にあたっては「多少荒っぽいことをやったかもしれない」といった程度の認識はしているかもしれないが(現に今もしているのだから)、(2)に関しては、お前らには、まさに正視したくない歴史的事実であろう。この提案を清国はいったん受諾した。あの李鴻章がただ一人頑張って反対しなかったら、この時に沖縄の西半分は清国領になっていたのだ。
 ともあれ、この、

  (1)「沖縄を武力によって威嚇し、必要とあらば実際に武力を行使する」と、
  (2)「沖縄を都合良く道具として利用する」の二点が、

 大日本帝国ならびに日本国の沖縄に対する基本姿勢である。「琉球処分」以来一世紀半近くになるが、これはまったく変わらない基本姿勢である。
 こう説明しても松井なんぞは、そんな昔の話どないや言いうねん、と日本国大阪府知事という地位(だから機動隊委員を「出張」させることができたのだろうが)をかなぐり捨て、大阪の遊び人オッサンになりきり、無垢で無邪気な「庶民」に擬態して「ATフィールド」を張り巡らすだろう。よろしい、それなら、われわれ「庶民」だって、沖縄に対しては同様の大罪を犯しているのだ、という点まで掘り下げてみようか。たいていの日本人、つまり、大和人(やまとんちゅう)の最大の罪は、

  (3)「沖縄の歴史と現実に対する無知と無関心」である。

 日本政府の政策と同じように、一般人の姿勢も一貫してずっとそうだった。



いかにして大和人は、沖縄のイメージを形成したか


 松井らは、書物に書かれている歴史的事実には大変な拒否反応を示すようなので、"エビデンス"とするにはふさわしくないかもしれないが、私個人の古い記憶の中から一例を引いてみたい。誠に些細で卑近な例であるが、私には、この記憶が大和人の沖縄認識を如実に表しているように思える。半世紀近く経った今でも忘れることができない。

 1967年(昭和42年)頃だったと思う。受験生だった私はよく深夜ラジオを聴いていた。旺文社の大学受験ラジオ講座が深夜12時に終わると、そのままズルズルとラジオを聴くことが癖になってしまっていた。その時、頻繁に出現したスポット・アナウンスがあった。沖縄への旅行を勧める旅行会社のCMなのだが、女性の弾んだ声が、我々にこう語りかけていた。

    ドルを使って、お買い物!

 それが、どうした? と言われないためにも、少し「前史」を述べる必要があるだろう。

 1960年(昭和35年)、日米安全保証条約改定の政治の季節が過ぎ去ると、成立したばかりの池田内閣は『所得倍増政策』なるものを打ち出した。経済成長とは国家とか社会の事ではなく「貴方の給料が二倍になることなのですよ」というイメージで訴求したのである。12歳の少年だった私は、政治のスローガンを個人の欲得感情にすり替えたものだ、と怪しんだが、事実その後、世の中はそんな風に進んだ。
 『レジャー・ブーム』という言葉が生まれ、翌1961年(昭和36年)のメーデーには、「米よこせ」とか「安保反対」とかいった文言に変わって「本格的なレジャーよ、やってこい」というプラカードが現れたという。「トリスを飲んで、ハワイへ行こう」というCMが流れたのもこの年である。「森永コーラス、ぐいと飲んで、旅に行こうぜ、5万円」とクレージー・キャッツが歌ったのは、彼らの『五万節』(1962年(昭和37年)リリース)のモジリであるから、その少し後の事だろう。
 私は日曜朝の『兼高かおる世界の旅』をよく見た(朝食も食べないまま、だらだらとテレビを観るのが楽しかった。まだ日曜の朝なのだから、という意識は心地よいものです)。まだモノクロの放送だったが、Nat King Cole の歌で馴染んでいた "Around The World" のメロディーを背景に "PAN AM"というロゴが入ったジェット機が飛ぶオープニングは、不思議なぐらい少年の心を浮き立たせた。
 私はよく知らないのだが、加山雄三の『若大将シリーズ』は、『大学の若大将』『銀座の若大将』『日本一の若大将』と続いた後、三作目『ハワイの若大将』(1963年(昭和38年))で一気に日本を飛び出し、その後は、若大将はまだ大学生であるにも関わらず、国内・国外を股にかけ、エレキバンド、水泳、水上スキー、スキューバダイビング、クルーザー、アルペンスキー、柔道、駅伝、フェンシング、サッカー、アメリカンフットボール、モーターレース、…… と好き放題してます。(この節は全部ウィキペディアの丸写しです)
 この社会全体の「レジャー啓蒙」キャンペーンは素晴らしく効果を発揮して、現実世界においても、1965年頃には、冬の連休前の大阪駅コンコースには、信州方面への夜行列車の座席を求めてスキーヤーたちが長蛇の列を作りようになっていたし、夏休み明けには、与論島は最高だった、と日焼けした顔をほころばす同級生もいた。まだ極めて少数派だったけれど。

 連合国の進駐軍と言っても、実際はアメリカ軍が旧日本軍の武装解除を行ったのだけれど、その二十年後、今度はシルヴィ・ヴァルタン(1965年)、ビートルズ(1966年)、ツイッギー(1967年)という仏・英からの狙撃兵が相次いで上陸し、解放の遅れていた若者たちの「封建的感覚」という甲冑を撃ち砕いた。娘たちは、ドライブウエイに春が来りゃ、イェイ イェイ イェイ イェイ、と見事に腰をくねらせて歌い、少年たちはお父さんのポマードとチックを借用することを止め、お小遣いでヘアー・リキッドを買うようになる。
 しかし兼高かおるの何巡目かの旅から放送がカラーになっても(調べてみると、1964年(昭和39年)から一部がカラー放送となり、1967年(昭和42年)からは全放送がカラーとなった、とある。)、加山若大将がどんなに気軽に外地を飛び回っても、普通の青少年にとって海外旅行はまだまだ夢のまた夢だったのである。1964年(昭和39年)には海外への観光旅行も自由化されていたが、外貨持出しも「一回500ドル」という制限があったし、為替レートは「1ドル=360円」の固定であった。

 そんな時代に、ラジオの深夜放送にかじり付いている若者に向かって、沖縄旅行を薦める「ドルを使って、お買い物」というCMが流れたのである。海外旅行には行けない若者に、海外ではないが手軽に海外旅行の気分が味わえる場所として沖縄が提示された。これが我々の世代への沖縄出現の姿であった。当時、ラジオ大阪の深夜放送で人気のあった笑福亭仁鶴さんの『浄瑠璃コーナー』をもじって言えば、沖縄とは「日本のようで日本でない、ベンベン。アメリカのようでアメリカでない、ベンベン。」ということになる。
 少しばかり歴史の本などを読み始めていた私には、このCMはまこと腑に落ちないものであった。そんな風に沖縄を表現して良いのだろうか、これは非道く不謹慎なことではないのか …… 。しかし、同じような違和感の表明とか意義申し立ては、どこからも聞こえてこなかったように記憶する。1960年の安保改定をピークとして、日本社会は次第に「政治性」を失っていた。「安保体制」はそのままであったはずなに、同盟はともかく総評でさえ、組織労働者の賃金を引き上げる春闘で平均賃上げ率の要求数値を出す以外、労働運動における主導力を失っているように思えた。まさに『所得倍増計画』を左側から支えるだけの存在に成り下がっていたわけである。

 そして1970年(昭和45年)を過ぎるあたりから、日本人の海外旅行者は年間100万人を越えるようになる。そして1972年(昭和47年)の沖縄返還を期に沖縄への旅行者もうなぎ登りに増えた。彼らは行く先々で、広大な米軍基地に行く手を阻まれて戸惑っただろうが、やがてこう思い始める。

    基地があるから経済的にも潤っておるに相違ない

 これが平均的な大和人の沖縄認識である。


国会議員の八拾五人 物見遊山か 靖国詣


 お前の記憶にある大昔のラジオCM一本で、わが日本民族の沖縄に対する意識はこうだと決めつけるとは何事だ、阿呆ぬかせ、と松井は言うかもしれない。だが、沖縄の歴史と現実に関しては、忘れてはならぬことが山ほどあり、今から知らねばならぬこともたくさんあるはずだが、「わが日本民族の沖縄に対する意識」は、残念ながら、この粗末な挿話一つで十二分に言いつくされている。
 高度成長の熱に浮かされ政治感覚を喪失すると共に、日本という国家権力が人々に強いた理不尽の象徴的な存在としての沖縄を見失った。そして幾ばくかの満腹感のあとは、少しばかり毛色の変わった余暇を求め、そこに「ドルを使って、お買い物」という沖縄を再発見したのである。CMスポットから半世紀近く経つが、大和人の意識は当時のままだ。納得できないのなら、それを端的に示す直近の例をあげようか。

 10月18日、大阪府警の「機動隊員が、工事への反対活動をする人に「ぼけ、土人が」などと差別的な暴言を吐いた」まさにその日に、『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』と称する団体が、85人も、超党派で、靖国神社を参拝しているのである。
    http://mainichi.jp/articles/20161018/k00/00e/010/131000c
 何度も同じ事を言うが、靖国神社を参拝することで「身の引き締まる思い」をする人がいても構わないと思う。憲法『第十九条』には「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」とある。だが「国会議員が集団で」となると事情は違ってくる。憲法の『第二〇条三』には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と明記されている。
 しかし何故、このような自明の理を、わざわざここで書かねばならぬのか? 
 私は憲法の条文を盾に取って彼らを批判し、それで済まそうとは思わない。彼らが一生懸命憲法を学び、一つの確信を得て行動しようとしているのなら、私も憲法の条文を巡って批判を組み立てるだろう。しかしそうではない。彼らの行動はそういう水準のものではない。咎め立てするであろう批判者の視点を意識しながら、してはならぬとされていることを敢えてしてみせる。そう、男子中学生がよくやるチキン・ゲーム的遊戯を再現しているに過ぎない。中学生の悪ガキは、自分という存在を確かめたいがために、学校とか社会とかの壁に向かって行く。だが 85人の国会議員は一体何の壁に向かっている、というのか? いまや国家レベルで侮蔑とイジメの対象としようとしている「反日思想」への付和雷同的反感があるだけではないか。
 『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』に集まる者どもは、間違いなく『日本会議国会議員懇談会』への参集者でもあろう。もっと有り体に言えば、流動的な政党・派閥の動きの中にあって(政治的情勢が流動的なのではない、念のため)、どちらに転んでも自分の立つ瀬があるように、多数派への恭順証明を得ようとしているだけの事である。

 このようなけち臭い自己保身の共同行動(なんたる矛盾!)が、結果として憲法が定める処をないがしろにしている。そのことに本人たちは気付いてもいない。そんな彼らが、憲法改正の必要性を痛感し、日本国・日本民族・日本文化を必死で守ろうとしている、といったポーズをしてみせる。下手な役者どもめ。これこそ現在の「憲法問題」の実質的な中身であろう。
 それにしても『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』などと言う、物見遊山的な生ぬるさは何だろう。まるでTDLかUSJへ遊びに行くといったノリではないか。看板の文言が恥ずかしくないのだろうか。どこまで政治の厳しさから逸脱すれば気が済むのだ。



彼らが「英霊」と言うとき、沖縄は彼らの前から消滅する


 それほどまでに「大東亜戦争に命を捧げた英霊たち」に鎮魂の意を現したいのなら、靖国神社などへ行かずに沖縄へ行け。お前たちの大嫌いな歴史的事実を述べようか。
 1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍は、沖縄本島中部の西海岸、現在の読谷村(よみたんそん)から茶谷町(ちゃたんちょう)にわたる一帯に上陸し、わずか2日間で東海岸に到着し沖縄を南北に分断すると、その後わずか20日間で北部を制圧する。アメリカ軍の記録によると「信じられないほど簡単な上陸」だったと言う。

 しかし、これは、アメリカ軍を沖縄のなかに引き入れて戦いを長期化させ、本土攻撃を遅らせ、アメリカ軍の犠牲をより多くして、本土決戦を有利に展開するための作戦だったのです。つまり、沖縄は本土決戦のための「捨て石」と位置づけられていたのです。
    楳澤和夫『これならわかる沖縄の歴史』88p.

  だからこの後の、南部の首里(しゅり)、さらには最南端の摩文仁(まぶに)の攻防戦は熾烈を極めた。
 沖縄県福祉・援護課による「推定戦死者数」を記せばこうなる。

  本土出身兵       6万5908人
  沖縄県出身軍人軍属   2万8228人
  一般住民       9万4000人

 軍属には軍籍があるから、正確かどうかは別として、戦士者の数が一桁まで記されているが、一般住民の死者数には「約」が頭に付いている。死を数値で現すのは冒涜でしかないが、さらに「約」と付けなければならないのは何と無念なことか。約9万4000人という数は、戦前と戦後の住民台帳を比較し引き算しただけ、実際はもっと多い、という説があるが、その説の通りだと思う。どちらにせよ、住民の四人に一人は死を強いられたのだ。
 『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』のメンバーたちは、どの程度まで、この歴史的事実を知っているのだろうか。いや、知ろうとしたのだろうか。一時は盛んに映画などが作られたから、観光スポットとして『ひめゆりの塔』ぐらいは知っているだろうが、実際の「ひめゆり学徒隊」や「従軍看護婦隊」や「鉄血勤皇隊」のことなど 、さらには洞窟(がま)での集団自決など、どこまで知っているのだろうか。

 1945年(昭和20年)4月1日という、米軍の沖縄上陸の日付に注意していただきたい。この二ヶ月前に、すでにヤルタ会談が終了している。衆知のようにこの会談は、すでに勝負ありと見た連合国側の戦後処理のための会談であった。ソ連の対日参戦も含むその内容は直ちに日本に伝えられた。(多数の証言がある) だが軍部上層は一切見て見ぬふりをした。欧州においては、東部戦線も西部戦線も前線はすでにドイツ国内まで狭められており、3月には、もはや挽回できぬと悟ったヒトラーは、どうせ負けるのなら皆壊してしまえという『ネロ指令』を出す。これ以上戦争を続けても負けを重ねるだけであることが明白になっているのだ。
 にも関わらず軍部は戦争を終わらせようとはしなかった。何故か? 一言で言えば「戦後の国体維持」のためである。少しでも有利な条件で終戦させて交渉に臨もうとした。「国体維持」などと言えば聞こえが良いが、彼らが純粋に皇国史観を信奉していたとは思えない。ズルズルとここまで敗北を重ねてきたことに、どう責任を取るべきなのか。最後までこの決断ができなかった、というだけのこと。単なるヘタレである。

 ドイツでは、ヒトラーの『ネロ指令』に従う上級軍属はいなかった。それは自国さえも焼き払う「焦土作戦」であったから。戦いの最後に、彼らは理性を取り戻す勇気を出したのだ。
 だが日本ではそうならなかった。
戦後になってから、あの時は逆らえる雰囲気ではなかった、と上級軍属たちは平然と述懐している。その後の半年間で日本は焦土と化す。その「最後の始まり」が米軍の沖縄上陸なのだ。
 だから彼らはA級戦犯なのである。そんな戦犯たちを合祀しているから、日本人なら、靖国神社など参拝してはならぬのである。


 「約9万4000人」という数値を、歴史書は「戦死者数」と書くが、私はどう呼んで良いのか分からない。『みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会』のメンバーたちなら、「英霊」などと軍国回顧趣味的感傷性にまみれた言葉を平気で使うだろう。その時彼らは、沖縄を永遠に見失うのだ。



大阪の遊び人、松井のオッサンに戻ろう


 あの "You Tube" の動画は、作家の目取真俊(めどるま しゅん)さんが投稿したものである。「工事への反対活動をする人」の一人である。活動のなかで逮捕されたりもしている。彼は「自分たちの発言も決して穏やかなものでないことを十分に理解して」アップしているのだ。それは、彼には訴えたいことがあるからである。誰にか? 目の前の機動隊員の背後に見える、我々「大和人の無関心」に対してであると、私には思える。
 そこを松井はまったく理解できないようだ。報道カメラ・マンが撮ったニュース映像だ、とでも思っているのだろう。だから「汚い言葉を吐いているのは反対派だって同じじゃないか」といった取り違えをして平気である。終わりの見えない戦いを強いられている「工事への反対活動をする人」は不幸の連続の中にいるように見えるが、とり違えようのないメッセージを素直に受け取る機能まで喪失した松井の脳髄こそ、最も不幸であると指摘して、今回は筆を置く。このテーマは、まだ終わらない。

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 −−【その6】了−− 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 目次へ