ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。

本文で私の高校入学について書いている。それは1964年(昭和39年)のこと。では、その年の出来事は?


東京オリンピック
ポスター一つとってみても、現代日本における創造力の減衰を認めざるを得ない。今となっては、どこの国もやりたがらないオリンピックを、嬉々としてやりたがる時代錯誤にはあきれるより他はないが、開催の是非より以前に、計画を進める行政や政治家たちの実務遂行能力の低下を、きっちりと指摘する人がいないのが不思議だ。


東海道新幹線開通
夢の超特急、といわれた。
オリンピック開会と同日に開通、なんて、何と困難な課題設定をするのが好きな国民であったことか。


アイビー・ルック 流行
VAN の石津謙介さんが提唱者。 JUN と共に、男の子のオシャレに市民権を与えた。
その象徴的存在が、アンソニー・パーキンスさん。『サイコ』の変態兄さんを演じた人だ。


男の子、と言えば、この年『平凡パンチ』が創刊。
大橋歩さんの表紙が素敵だった。
"THE MAGAZIN FOR MEN" ということはヌード写真がたくさん掲載されているということ。それが恥ずかしいと感じた初心な男子は、『朝日ジャーナル』を上に2冊重ねてレジに並んだ。私のことじゃないよ。そのため『朝日ジャーナル』の部数は激増した。これはウソ。


雑誌と言えば、漫画雑誌『ガロ』創刊もこの年。
1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた(ウィキペディア)、とある。凄いね。
残念ながら私はリアルタイムの読者ではなかった。でも貸本屋時代の『忍者武芸帳』は読んでいる。ザラッとした紙の質感が忘れられない。



漫画と言えば、赤塚不二夫『おそ松くん』のイヤミ氏が 「シェー」を始めたのも、この年だったそうな。
でも、ウィキペディアの解説を読んでも、何のことだかさっぱり理解できない。漫画の表現力とはすごいものだ。
右腕または左腕を垂直に上げ、手首を手の平を下に向けるように直角に曲げる。反対側の腕は肘を曲げ、ひじから先を床と平行とし、手のひらは自分もしくは上を向かせる。同時に左脚または右脚を上げて膝を曲げ、膝から先を床と平行または膝の角度を鋭角に曲げ、反対側の片脚で立つ。垂直に上げる腕と膝を曲げる脚は、反対でも同じ側でも、全体が左右反対でも問わない。


勅使河原宏監督の『砂の女』が公開
バー『カトレア』のマダム、岸田今日子さんが、ここでは妖艶に「おんな」を演じている。この映画の岡田英次さんは、限りなくマルチェロ・マストロヤンに似ている。双方とも、ふんだんにエロティシズムを放出。


エロティシズム、と言えば、『飢餓海峡』(内田吐夢監督)の、三國連太郎、左幸子のコンビがまき散らすフェロモンもすごいぞ。
これらの映画を観ると、日本人全体の性的リビドー低下をつくづく思い知らされる。


アンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』の日本公開もこの年。もう奇跡としか言いようのないできばえの映画なのに、DVDで見る事が出来ない。誠に不幸。映画屋さんの怠慢である。You Tube にはアップされているが、残念、フランス語は分からない。


文学では、
田邊聖子さんの『感傷旅行』とか


柴田翔さんの『されどわれらが日々』が芥川賞を取っている。恥ずかしいぐらいカッッコイイ題名だ。

あと、この年に発売された新商品。
写真だけ並べておきます。








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『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い?    その9
                   平成29年09月15日



 親孝行しましょう、と当たり前のモラルを説いて何が悪い、と、教育勅語復活待望論者たちはしたり顔で言う。これは無邪気を装った詭弁である。この連載では、様々な角度からその詭弁の構造を暴いてきた。
 詭弁を弄するものが自分の詭弁に無自覚でいられるのは、曖昧な言葉遣いが習い性になっているから、である。『親孝行』をキーワードとして使いながら、「親孝行と言う言葉が、実際、どのように使われているのか」については、とんと関心が向かない。これは理屈以前の問題、日本語使用における意味と感覚の希薄化、つまり日本語的美意識の喪失という問題である。だから懇切丁寧に誤りを指摘されても、その意味が理解できない。ことさら「日本的なるもの」を賛美する人たちなのに、まこと由々しきことではないか。
 私は、『親孝行』とは、風刺的・戯画的に使われるのが一般的で、もし大まじめに使われるなら「つまるところ個人を責め苛む言葉でしかない」と述べてきた。例題として、私の父親の場合をあげ、『その7』でその前半を書いた。今日はその完結編である。本文に入る前に、ぜひ『その7』を読んでおいて頂きたい。ドライヴインの看板でしかないのに、そこに書かれた『おやふこう』という言葉に、父は異常なまでの嫌悪感を示したのであった。


口入れ屋、再興は、してみたものの …… 、


 戦争による約十年のブランクの後、父は寿司職人の『口入れ屋』を再興させた。先代(私の祖父)を継ぐ二代目として。身代を継ぐことを目的に父は養子にとられたのだから、当然そうすべきだ、と父は考えていたに相違ない。それが先代に対する供養であり、親孝行の実践である。ただし、ただ単に再興しただけではダメだ。先代の時代と同じ水準まで商売を繁盛させなければならない。そうなって始めて、この親孝行は真に実現される。こんな風に、祖母を初め、戦前からの古参の幹部職人たち、あるいは馴染みの得意先など、周囲はこぞって無言のプレッシャーを父に加えた。まだ若輩者で大した実績も上げていないのに、二代目、所長、会長、などと盛んに持ち上げられ、戸惑いながらも悦に入っていた父の姿を、私は覚えている。

 戦後の一時期には、この稼業もまだ十分に持続していけるように見えた。復興とは、元に戻すことなのだから。だが、時代はすぐに変わってゆく。雇用者に対する教育的仕組みを持たない個人商店が、職人的ギルド組織の窓口である口入れ屋を通して、即「使いものになる」従業員を確保する。この便利な仕組みは、高度成長社会へ向かう流れのなかで徐々に崩壊してゆく。個人商店は有限会社・株式会社へと法人化し、人材の教育制度を育みながら恒久雇用化を進めてゆく。職人たちの方も、包丁一本サラシに巻いて、という流れ者的美意識から脱して、安定した株式会社の社員になろうとした。職人たちはたいそう律儀で、会社の社員となった後でも口入れ屋の会員であり続けたが、頻繁に「紹介手数料」をもたらす存在では無くなっていた。
 戦後民主主義の流れの中、法律も行政も、口入れ屋には極めて冷淡・冷酷であった。旧社会が残した中間搾取の悪弊の一つ、といった程度の認識であったようだ。既得的利権は年ごとに侵蝕された。「法定手数料」の料率を見て、子供の私も、よくこれで商売が成り立つものだ、と不安になったものだ。いわゆる自由化・規制緩和が進み、人材派遣業が脚光を浴びるようになるのは1990年代半ば、例のグローバル化の時代であり、父の没後のことである。

 にもかかわらず、口入れ屋は人を扱う商売であり、当然人の出入りが多く、派手な商いぶりを装わざるをえなかった。だが、その経営的内実は、借金に借金を重ねてやっと経営を維持している有様であった。破綻を免れていたのは、何人もの人を雇う必要がなかったこと、商材を仕入れる必要がなかったこと、等々の理由による。つまり、不渡りを出すリスクがなかったから。借金返済を先送りにする言い訳さえできれば、なんとか凌いでいけたのである。
 子供だった私は、遅い午後、誰もいない「帳場」を机代わりにして、本を読んだり宿題をしたりするのが常だったが、突然の訪問者や受け取る電話の相手が、借金取りか否かを即座に判断して、借金取りなら、慇懃(いんぎん)に対応し、最終的には上手くはぐらかしてしまう術を心得た。そのようなものの言い方をする私を、実際を知らない友人の親たちは、大人のような口を利く利発な子だ、と都合良く勘違いしてくれた。それ以来、私は、人から褒められると気分が悪くなるという奇妙な癖が付いてしまった。まったく余談であるが。


あの時代、「貧しさ」は、ごく当たり前の標準だった。


 小学校の四年生ごろだったと思う、授業参観に父親がやってきた。
 周りの児童たちが、かわるがわる後を振り向きながら、あれがS(私の苗字である)のお父さんや、と囁きあっている。小学生の子供にとって、級友のお父さんという存在はたいそう気になるものであるが、それ以上の興味が示されていた。父親は二十二歳の時に私を儲けた。だから、たいていの子供たちの父親よりうんと若かった。仕事がら人前に出ることも多かったので、隅のほうに身を潜めたりせず、保護者の群れの中央にスクッと立っていた。光沢の良い背広を着て、微笑みを浮かべている。とにかく、目立っていた、のである。これが級友たちがざわついた理由である。
 だが、私がこのことを明確に記憶しているのは別の理由による。両親が授業参観に来たのは、前にも後にもこれ一回きりだったからである。いや授業参観だけではない、入学式・卒業式・学芸会・運動会など、保護者も参加する学校行事に、私の両親がやってくることはついぞなかったのだ。

 父親は私の教育にほとんど関心を示さなかった。終業式の日など、通知表は真っ先に父親に見せるのだが、チラリと一瞥して、まあまあ、やな、の一言を返すだけだった。通知表はそのまま戸棚にストンと置かれ、始業式の前日に、私が父兄の認め印を押すまで開かれることはなかった。だが、父親の無関心に、とりわけ不満があったわけでは無い。父親とはそんなものだ、と思っていた。なまじ父親のエゴにコントロールされるより、自分の勝手気ままに志望校や専攻を決めることが出来る方が、よほど幸せである。私は、親に過大な期待を抱かせるほど成績優秀ではなかったし、叱咤激励を繰り返さなければ脱落してしまうような勉強嫌いでもなかった。だから、無関心という対応が丁度頃合いだったのだ。

 だが、母親の場合は違うだろう。母親が子供に向けるエゴは、家系とか家業に由来する実利的な事情からは無縁で、もっと生理的な愛情に根ざしたもののように思える。母親は子供を支配しようとするし、子供もその支配に甘えたり抵抗したりしながら自我を形成してゆくのである。しかし私の場合、その母親も、私の通う学校には一度もやって来なかった。それは、何故か。その理由に、私はうすうす気付いていた。だが、ハッキリとそうであると認識することはなかった。なぜなら、そう思いたくなかったからである。
 授業参観やら入学式やらに着てゆくのに適当な衣服を持っていなかった。理由はただこれだけである。
 冠婚葬祭は待ったなしである。だから留め袖とか喪服の類はある。どんなに無理をしても、これらはそろえておかねばならない。だが、そういった式服以外の、訪問着とかワンピースとかの衣服はなかなか新調することができない。たまに誂えても、すぐに流行遅れとなり普段着に降ろされてしまう。別に普段着でも良いじゃないか、というのは子供の理屈で、母親が授業参観に出るには、ちょっとおしゃれな洋服を新調する必要があったのである。よほど捌けた「新婦人」なら別だったのだが。

 だが、自分の両親の教育に対する無関心とか、おしゃれ着を新調するだけの経済的余裕が無かったことなどを、ことさらあげつらうのは誤りであろう。あの時代、たいていの親は、自分たちが生きるのに必死で、子供の教育にかまける余裕など持たなかった、と言うのが当たり前でなかったか。過去の記憶は、いたずらに美化しても、卑しめてもならない。冷静に思い返してみよう。小学校の授業参観の日、教室は、我が子が勉学する姿を一目見んとする母親たちで賑わっていたであろうか? 否、閑散としていた。五十人を超える児童数に対して、参観する親たちは十人を超えることはまず無かった。それも、たいていは父親たちであった。男なら、授業参観だからといっておしゃれ着を新調する必要はない。普段仕事で着用している着古した背広のままで良かった。あの授業参観の日、級友たちが私の父親に対して非常な興味を示したのは、父親が新調した背広を着ていたからである。新調したおしゃれ着で着飾ってやってくるのは、ほんの数人のお母さんたちであって、同じ事を男がしているのが、子供には珍しかったのである。


我が家の場合、貧しさの認識に「ねじれ」があった


 この時代、親は貧しくて当たり前であった。私たち一家の居住地域はミナミの盛り場であり、家業が繁盛して派手な暮らしぶりの家もあったが、時代の一般的な貧しさに変わりはなかった。一般大衆が、大量消費の波に呑まれ、中産階級意識に惑わされ、貧困から脱したと錯覚するようになるのは、もう少し先、高度成長よりあとの時代のことである。ただ私の家の場合、その貧しさの認識に奇妙な「ねじれ」があった。私が述べたいのはその事である。

 私が子供のころ、高校進学にあたって第一志望としたのは、公立高校であった。授業料が安いという絶対的な理由に加えて、お金の力を借りて進学するのは勉強をおろそかにしてきた生徒のすることだ、という意識が、公立高校の「格」を上昇させていた。だが、当然のことながら、受験生のすべてが合格するわけでは無い。そこで、公立高校の受験前に、「滑り止め」として私立高校を「併願」受験しておくのが、一つのパターンになっていた。何せ、戦後ベビーブーマーの第一波である。生徒の数は前年までの二倍になっているのに、公立高校の定員はせいぜい微増という程度に止まる。恐怖に駆られた受験生たちが、私立併願に殺到する。私立高校としては、ここはビジネスと割り切って、定員数の何倍もの合格通知を出した。併願受験生は、公立高校に受かれば間違いなく公立を選ぶことを承知していたからである。
 さて、首尾良く私立の併願受験に合格した生徒には、一つの葛藤が待ち受けていた。「とりあえず併願で受験しておいた」のである。実際に入学金を払うかどうかまでは決めていない。入学金は安くはなかった。お父さんの給与月額の詳細は知らなくとも、お父さんのポケット・マネーで払えるような額でないことは分かっている。公立高校の受験が終わっていれば、合否判定はまだでも、その感触・手応えで判断することも可能だが、そこはよくしたもので、私立高校は試験後早々に合否の通知を出し、入学金の納付期限はきっちり公立高校の試験日より前を指定してくるのだ。

 私の親しい友人の話を思い出す。彼の妹さんの併願受験の際、なんとか入学金を工面したものの、実際に払うべきかどうか大いに迷ったと言う。決断を託されたお父さんと彼が、やっぱり払っておこう、いや止めておこう、と校門の前を何度も行きつ戻りつしたらしい。この、金額はなんとか工面できてもおいそれと私立高校の入学金は払えない、と言うのは、当時の一般家庭のごく標準的な「貧しさの水準」だったと思う。私はこの逸話を、懐かしく、また、ほほえましく思い返すことができる。なぜなら、家計の現状を家族のみんなが理解していて、何度も相談を繰り返し、最終結論を一家の長に託すという、ドメスティック・デモクラシー(家庭内民主主義)とでも言うべきものが、きちんと機能しているからである。

 我が家の場合は違った。先ほど、「私の家の場合、その貧しさの認識に奇妙なねじれがあった」と書いたが、その「ねじれ」がここに出現する。

 私に、学校名を特定して私立併願受験を勧めたのは父親であった。家の菩提寺の住職がその高校の教員を勤めていて、その勧誘を断れなかったのだ、と私は推察した。先祖代々の墓は、その寺で一二を争う大きな地所を占めていた。成功した祖父が、生前に自分の墓を作っておいたのである。その最大地所の檀家である以上、父としては、檀那寺に対して「旦那然と」振る舞うしかなかったのであろう。
 幸いにも私は、私立併願、続いて公立と合格することが出来、当然の筋書き通り公立高校に進学した。
 そのしばらく後のことである。父に来客があった。その側を通り過ぎようとすると、まあ、お前も座れ、と父が言う。しばらく雑談が続いたが、突然、父は私の高校進学を話題にし始めた。そして意外なことを言うのである。

 この子は私立にも合格したのだが、実は入学金を払ってません。大丈夫や、お父さん、必ず公立に合格できるから私立の入学金など払う必要は無い、無駄になるだけや、と言いますねん。ほんま、親孝行な子ですわ、と。

 アッ、と声をあげるほど驚いたのだが、客人の手前、父を問い糾すことも出来ない。私は曖昧に笑うしかなかった。住職から合格通知の電話を受けたのは父親だった。受話器を置くなり、期待したほどの成績やなかったけど合格は間違いないそうや、さあ、入学金、準備しとかなあかんわ、わっはっはっはっ、と笑っていたのは、つい先日のことだ。それを聞けば、誰だって、父親は入学金を払うつもりでいるのだ、と思うだろう。
 会長(父は、商売上の立場として、こう呼ばれていた)の息子さんのことや、よう、勉強でけはりまんのやろ、とか煽てられて、気持ちよくなったのだろう、ポロッと実際を漏らしてしまったのだ。ただし事実経過は捏造して。


「ねじれ」をもたらしたのは、親孝行という抑圧


 このような「ねじれ」は何時ものことだった。わが家族は誰もがそれに悩まされ続けていた。だが、例として示すのは、この一つだけに止めておきたい。すでに個人となった父のことを悪く言い、貶めることがこの稿の目的では無い。私だって辛い。この稿の目的は、「親孝行という言葉は、つまるところ個々人を苛む言葉でしかない」ことを、生身の例で示すことにある。そのため、いま少しだけ理屈を述べておく必要がある。

 「さあ、入学金、準備しとかなあかんわ」と言ったとき、父は本気だったはずである。彼は随分とお人好しで、目的意識的に人をだますことが出来る人間ではなかった。それは無邪気と言えるほどだった。ただし、我が父における不幸は、自分の経済の現状にきちんと向き合うことが出来なかった、という点にある。彼は、出来もしないことを簡単にホイホイと請け負った。家族に惨めな思いをさせてはならない、商売を繁盛させて当たり前、つまり親孝行を全うして当たり前、と言う肥大化した意識が彼を押しつぶし、現実を直視することを妨げたのである。

 自分は、先代のおかげで何一つ不自由なく育てられた。だから自分も同じ事が出来なければならない。今度は自分の番だ。先代と同じように商売を繁盛させよ。経済的な問題で家族に心配をかけるな。惨めな思いをさせてはダメだ。出来るはずだ、それが甲斐性ということだ、それが親に対する恩返し、親孝行というものだ …… 、

 この心意気は間違いなく、父の心情のデフォルト(初期設定)であった。だが、現実は、その思いに寄り添ってくれるわけではない。その結果として、債務不履行(ありゃ、これもデフォルトか)に陥らざるを得ず、面目を保つために父は「黙っている」ことで誤魔化すのである。こちらは父の前言を忘れてはいないのだが、それを問いただす気力をすでに失っているのだ。

 こう言ったことが度重なると、祖母が金銭的な尻ぬぐいをしなければならないこともあった。そんなとき祖母は、子供の私に向かって愚痴るのである。

 お父ちゃん(父のこと)は甲斐性なしや。
 お祖父さんは、家族や息子にこんな惨めな思いをさせることはなかった。
 それは、それは、立派な人やった。
 それに引き替え、お父ちゃんは …… 、
 親不孝もんや。

 前にも述べたが、私はお婆ちゃん子で、祖母には多大の恩義を感じている。両親の学校行事への不参加を、ギリギリのラインで補ってくれたのは祖母であった。学費や学用品の不足を補ってくれたのも祖母であった。しかし、繰り返し父をなじる祖母の声に、まるで自分が責められているように身を固くしていた自分を思い出す。

 確かに父は勤勉な人ではなかった。しかし、口入れ屋という商売は、勤勉でさえあれば成功する、といった類の稼業ではなかった。腰の軽さ、人の気を逸らさぬ会話能力、臨機応変の対応ぶり、等々。父が有能な口入れ屋であったことに間違いはないのだ。時流が味方をしなかった、というだけのことである。
 現実を直視できないほど父が客観性に乏しかった、とは思えない。祖父の代と同じように商売繁盛ができていない、不本意である、いつかきっと、いつかきっと、という思いが彼の目を曇らせた。自分は親孝行が出来ていないという心理的抑圧が、そうさせたのである。

 バブル経済が真っ盛りのころ、父は多大の借財を背負って病に倒れた。オレがなんとかしてみるから、ゆっくりと養生すれば良い、と私は言った。何の当てがあったわけでもない、父のあまりの憔悴ぶりに、そう言うより他はなかったのである。私は父にとって従順な子供ではなかった。一貫してそうであった。だが、あのとき父は、そんな私に向かって、有り難い、有り難い、こんな息子を持ってワシは幸せものや、と繰り返した。もう三十年も昔のことだが、あの瞬間を冷静に思い返すことは未だに不可能である。こみ上げてくるのは、ただ、ただ、無念さ、である。

 これが、「親孝行とは、つまるところ個人を責め苛む言葉でしかない」ということの実例である。

 だから私は、お気楽に、親孝行が大事、などと遊び半分ではしゃぎまくる馬鹿どもが許せないのだ。

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 −−【その9】了−− 『教育勅語なぜ悪い? 論』は、なぜ悪い? 目次へ