ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。








自民党は、篭池を偽証罪で告発するぞ、と凄んでいる。今ごろ何をいきっているのだ、このピンぼけ野郎。止めた方が良いと思うな。
理由の1。ペテン師・詐欺師まがいの嘘八百という点で言うなら、篭池も、安倍も、松井も、同レベルじゃないの。目くそ鼻くそを笑う、の典型じゃん。
理由の2。教育者でありながら、あれだけのヘイト主義者であることがお咎めなしなのに、政府に楯突けば即告発なら、自民党の思想性が問われるよ。また海外メディアが騒ぎまっせ。アホかお前ら。

私に言わせれば、篭池・安倍・松井で騙しあいをしているわけだが、端から見ていてまったく面白くない。ペテン師・詐欺師としてのスキルが未熟すぎる。お互いの騙しあいに必死で、観客のことなど眼中にないではないか。



で、観客まで見事に騙してくれるアッパレな映画を思い出そう。

1973年には、詐欺師映画の傑作が2本ならんだ。

その1
『ペーパームーン』
ピーター・ボグダノヴィッチ監督

ライアン・オニール、テータム・オニールの実の親子が、赤の他人の二人連れを演じていて、それが次第に本当の親子みたいになっていく。ちょっとややこしいぞ、この関係は。


その2
『スティング』
ジョージ・ロイ・ヒル監督

『明日に向って撃て!』に続く、ジョージ・ロイ・ヒル、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードのトリオによる作品。騙されるものか、と必死に頑張っても、間違いなく騙されてしまいます。


『マッチスティック・メン』
リドーリー・スコット(2003)

詐欺師(ニコラス・ケイジ)の前に、10年以上前に分かれた元妻が育てている娘が現れる。詐欺の現場に同行してきて、親父以上の詐欺師的手腕を発揮する。次第に打ち解けてくる二人、と来れば、『ペーパームーン』を思い出させるのだが …… 。










人生幸朗・生恵幸子




桂米朝




古今亭志ん朝




三遊亭圓生




西条凡児





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ヘイト発言、人間の倫理性に対する攻撃 その3
                   平成29年03月30日



海外メディアは、森友学園問題の本質を正しく伝えている


 森友学園問題とは何か? 国有地払い下げが法外なディスカウントによって行われたことか? それに内閣総理大臣を始めとする政治家たちや、中央・地方の行政官たちが、陰に陽に関わっていた(らしい)ことか? 確かにこれは大きな問題であろう。だが、森友学園問題の本質がそこにあるとは思えない。籠池夫妻と政治家や行政官の関わりが、日本の権力機構中枢におけるヘイト主義の連鎖を浮かびあがらせた。森友学園問題とは思想的疑獄なのである
 籠池夫妻とは、「日本に在住する極めて少数派のK国・C国等の人たち」に対する醜悪な差別意識に、骨の髄まで侵蝕された人たちである。その籠池を、内閣総理大臣が、国会の答弁で「私の考え方に非常に共鳴している方」「教育に対する熱意は素晴らしい」と堂々と擁護した。

 世界の多くの国々では、次第に現実的な勢力になりつつあるヘイト集団に対して、政府や国家の責任者たちはあれこれと腐心して、今まで育んできたポリティカル・コレクトネスの流れを護って行こうと努力している。しかるに我が日本では、国家の首長が先頭を切ってヘイト主義の旗を振っているのである。私だけが偏執狂的にそう思い込んでいるのではない。海外メディアは、間違いなく、全て、森友学園問題とはそのような問題である、と報道している。
 "Buzz Feed"というサイトで、溝呂木佐季さんという記者が、英米の各紙が森友学園問題をどのように報じているのかをまとめている。各紙の記事タイトルをコピーしよう。
  https://www.buzzfeed.com/sakimizoroki/una?utm_term=.fjNDw1qlD#.nx6Mo5ApM

(英)ガーディアン
  安倍晋三と妻 超ナショナリスト学校に現金を渡したと責められる
(英)インディペンデント
  日本の安倍晋三首相とその妻 極右学校に秘密裏に寄付したと責められる
(英)タイムズ
  日本の議員らによると、安倍はナショナリスト学校に資金を出すために妻を使った
(米)ワシントンポスト
  日本の安倍首相 極右学校へ秘密裏に寄付したと責められる

 いかがですか? 安倍晋三とその妻が国有地の格安払い下げに関わった、などと言って騒いではいません。「超ナショナリスト学校」「極右学校」との関わりが問題だ、と言っているのだ。
 溝呂木さんの記事には、各紙の記事本文からの抜粋もあるので、そちらも少しコピーさせていただこう。各メディアが森友学園問題をどう認識しているのかが、さらによく分かる。

(英)BBC
 安倍首相は「日本の戦争の歴史について、歴史修正主義者的な見方をする右翼のタカ派だと多くの人から見られている」。「この首相は土地取引への関与を否定し、なんらかの証拠が浮上すれば辞職すると言っている」。
(英)インディペンデント
 「(森友学園は)大阪の右翼グループ」である。「この団体の学校は園児に天皇家の肖像の前で敬礼させたり、毎日国歌を歌わせたり、日本の戦前の帝国主義学校のカリキュラムを推進したりしている。そのカリキュラムは国家への犠牲を推奨し、子どもたちに市民ではなく臣民になるよう教える」。
(米)ワシントンポスト
 「(森友学園は)ナショナリスト学校」である。「森友学園が経営する幼稚園は、子どもたちに対して、日本の近隣国に対する安倍の強硬姿勢を褒めたたえさせ、『よこしまな』韓国人や中国人に関する資料を配布した」。
(米)ニューヨークタイムズ
 「(森友学園は)超保守主義教育グループ」である。「森友学園は大阪で幼稚園を運営する。そこでは子どもたちに19世紀の愛国的な勅語を唱えさせる。子どもたちは、日本やアジアの歴史教科書の中には日本の戦時中の残虐行為を誤って描いているものがあると教わる」。



芸人や、政府・行政 贔屓筋


 前回、森友学園問題を、単なる国有地払い下げディスカウントなどといったケチ臭い水準で攻撃しても、敵を追い詰めることはできないだろう、と書いた。なぜなら、政治家も官僚も、権限と責任を可能な限り分散配置し、慎重に錯綜した手順を踏んで、不手際・不祥事が発覚しても、誰が「悪代官」で、誰が「越後屋」であったのかが分からなくなるように行動しているから。それが権力機構の本性である。
 この予言(?)どおり、3月23日の籠池証人喚問をピークとして、森友学園問題は急速にニュース・ショー的鮮度を失いつつある。野党は、続いて安倍昭恵を喚問せよ、と主張しているようだが、そうだ、そうだ、と唱和する声は極めて微弱である。政府・与党は、さあ、野党・ジャーナリズム諸君、これで気は済んだだろうと、そそくさと「幕引き」に取りかかっている。野党・ジャーナリズムも、その政府・与党の動きにリアルタイムに同調し、23日の証人喚問におけるダルい追求ぶりを見せつけられた後では、もう第2幕など見たくもないでしょう、と言う「庶民の実感」を醸成させようとしている。
 昨今はそれを「芸人に」やらせるようだ。
声量の小さいコメンテーターにやらせるより効果的だ、と読んでいるのだろうか。

 25日(土)の朝だったか、たまたまテレビを点けたら、大阪の中年芸人たちが大勢集まって、ガヤガヤと騒ぎ立てている。司会格の男が、国会は1日の開催に6億なにがしの金がかかる、もう面白くもない証人喚問など止めて法律制定の審議に戻ったらどうだ、税金の無駄づかいだ、などと、にやつきながらだみ声を張り上げている。言い終わるより前に、ワッと賛同の笑いが起こる。かって島田紳助に対してそうであったように、その場の大将格に対するヨイショの度が過ぎて見苦しい。
 あの証人喚問から、僅か2日後の朝である。正確に言えば、1日半しか経っていない。にもかかわらず、これにて打ち止め、お後がよろしいようでと、幕引き気分を煽り立てているのだ。朝から厭なものを見てしまった。芸人が「谷町筋」の提灯持ちであるのは昔からであるが、いつから政府や行政が、芸人たちの「ひいき筋」に取って代わったのだろう。世も末だ。「一日六億円の損」などといった詭弁は、どんな台本作者が見つけてきたネタかは知らぬが、それを嬉々として演じてみせる姿はグロテスクである。太鼓持ちの風上にも置けぬ。
 そうだ、東野、お前のことだ

 「1日6億円の費用」とは、誰が計算した数値かは知らないが、それは「国会を1日開催したら、新たに6億円の費用が追加で掛かる」という意味ではないはずだ。「議員の報酬、職員の人件費、建物の維持管理、その他、国会運営に関わる費用を、一切合切合計して日割り計算したら6億なにがしになる」という意味でしょう。つまり「6億」といのは「固定費」である。国会を開催しようが、休会にしようが、1日6億円の費用が償却されている、ということであって、証人喚問で一日潰したからと言って、それで「6億、余計に掛かる」ことにはならない
 未成立の議案が発生するなら、会期を延長すればいいだけのこと。議員・職員に多少の「超過勤務」手当が付くかもしれないし、電灯・冷暖房等の費用が余分に掛かるだろうが、「1日6億という固定費」と比較すれば微々たるものでしょう。もし「1日6億」という金額にこだわるのなら、ヘラヘラ笑い・野次・怒号、大量の議員欠席、審議中の爆睡などで、日々それが無駄遣いされてることに対して怒れ。あれだけ国民の目を国会に集中させたのだ。その意味から言えば、籠池、殊勲甲、ではないか。


芸人が芸人でなくなる時


  話が芸人論に横滑りするのは不本意だが、この「芸人が芸人でなくなる」傾向について、一言述べておきたい。芸人の中には「ネトウヨ」的な奴もいる、というレベルの話なら、別にとやかく言うほどのこともない。そうではない。集団で、ごっそりと、ゾンビ化しているのだ。

 百人百様、人々は様々な考えを持っている。絶対に譲れないような信念を握りしめている人だっている。だが、寄席の木戸をくぐる時、我々の一人一人はそのような思念を「棚に上げておく」のである。だって、笑いを求めるのは、浮き世の憂さを忘れるためなのだから。芸人はそれを心得ていて、お客を現実世界に引き戻すような愚は犯さない。落語には権力者や障害者を笑いのネタにしているものがある。だから落語家は、出の前に客席の様子を確認して演題を決める。どんな話をしても差し障りがないと思われる時でも、まくらで政治や宗教の講釈を垂れたりしない。だいいち、それは不粋の極みである。くわえて、政治性・宗教性は、その人の外観からは推し量れないからだ。どんなに大勢や時流に便乗した話をしても、それを快く思えない人が一人でもいれば、一人の「ひいき」を失うのである。

 人生幸朗さんは世相を皮肉って笑いにした。そこには役人や政治家も登場した。だがそれは、誰もが他愛なく笑い飛ばすことができる権力構造一般のカリカチュアであって、個別の店や役所や政党を特定するものではなかった。漫才が終盤にさしかかると、「責任者、出てこい」と威勢良く叫ぶ。相方の生恵幸子さんが「責任者が出てきたら、どないしまんのん」と突っ込むと、「謝る、ごめんチャイ」と幼児言葉を交えてボケる。これがオチであった。最後には、観客はもちろん、笑いをとった対象よりも、さらに低い位置まで自分を落とし込み、しょせん芸人の戯言です、お気に障ることがあっても堪忍しておくれやす、と気分の緩和をはかって漫才は終わる。芸とは、芸人とは、このようなものである。

 何の話のまくらだったか、桂米朝さんが、芸人うちでは講談師だけが「先生」と呼ばれていた、という楽屋落ちを披露したことがある。確か、近頃は落語家とか漫才師などもいろいろな「賞」をいただけるようになった、誠にありがたい時代になったが、落語とか漫才とかいう芸は、じつは「そんな、大層なもんやおまへん、ほん、しょう(仕様)むないもんで …… 」云々、という流れのなかで出てきた言葉だったように記憶する。米朝さんは、講談師だけが「先生」と呼ばれていたことの理由を語らなかったけれど、確かに講談には、人生訓的な説教臭さを含む話がある。だが、講談師は人生訓を含んだ講談を語っているのであって、講談師が客に向かって説教を垂れるわけではないのだ。芸とは、芸人とは、このようなものである。

 古今亭志ん朝さんの場合。彼は、たびたび、しわぶき一つ無い国立劇場などの舞台で落語を演じるという羽目に陥った。そんな時、彼は、自分よりさらに「権威を持たされてしまった」先輩たちをいじってまくらにしていた。うちの親父からしてそうだったんですが、と始めるのだが、あの枯淡の域に達した落語家(もちろん名前は言わない)を連想させておいて、その好々爺がいかに酒好きであったか、とか、いかに妙齢のご婦人にご執心であったか、を語る。話はその先輩に対する敬愛の念にあふれていて、暴露話の下品に陥ることがない。観客も自分のすねの疵まで癒やされる感じがして、人の愚かしさをそのまま認める落語の世界にすんなりと導かれるのだ。芸とは、芸人とは、このようなものである。

 三遊亭圓生さんは、賞とか勲章などを度々授かっているが、こんな逸話を残している。ある授賞式の後、宴席が設けられていたのだが、いささか所用がございまして、と席を辞すと、サッといなくなった。彼は地下鉄に乗り、寄席に駆け込むと、いつも通りに、一席を伺った、のである。どんな名誉なことが起ころうが、それより自分の「ひいき」を大事にしていたのである。芸とは、芸人とは、このようなものである。

 故人を悪く言うのは気が引けるのだが、最後に、芸人であることから逸脱してしまった(と思える)人のことも書いておこうか。記憶に残るのは、たった一例であるが、それは西条凡児さんである。「歯に衣着せぬ物言い」で人気を博した漫談家であった。私は、こんな話がおまんねゃ、で始まる彼の漫談が嫌いであった。寄席番組が好きで、ラジオにかじり付いて待つのだが、今日の出演者に彼の名が告げられると、私は大いに失望した。でも我慢して最後まで聴いた。彼の話芸は巧みであった。
 しかし話が終わると、子供ながらに「毒舌」の対象に対する愛情が感じられない、と感じた。つまり人の愚かさを「人とはそのようなものだ」と容認して笑うのではなく、ある高みから断罪するのである。その高みとは、子供であった私の感覚から言えば、古くさい日本の家父長的モラルであった。『素人名人会』で出演者をいじっている間はまだ良かったが、『おやじバンザイ』(確か、西条凡児の〜、が付く冠番組だったはず)の司会するようになってからは、完全に頑固オヤジ(古い家父長的モラルの象徴)と同化して、自分自身が権威を持ってしまった。それを自分の政治力と勘違いしたのだろうか、舌禍事件を起こして「失脚」してしまう。芸とは、芸人とは、こんな風になってはならない、という見本のようなものである。

またも出ました、教育勅語なぜ悪い?論


 まぁ、一人や二人なら、こんな芸人がいてもいいだろう。嫌われ者を覚悟で孤高を守るのなら。私だって、悪口になると言いながら、西条凡児さんのことを懐かしく思い出しているのだから。
 だが現在は様相が違う、東野を始め大阪の芸人は、一斉にご意見を垂れ、雪崩を打って「西条凡児化」という崖っぷちに進んでいる。
 大阪の芸人たちよ。お前たちは、何時からそんな立派な人間になったのだ。
 アカデミズム・ジャーナリズムが思想的主導力を失い、ニュース・ショーの「コメンテイター」のお気楽な一言が、世論の雰囲気を形成するようになって久しい。さらに最近では、芸人たちが奇妙な権威を持って「持論」を開陳するようになった。××に対して○○が持論を展開、などと言う記事が、ニュース・サイトや2チャンネルに乱立している。

 でもね、言っておく。「持論」などと持ち上げられて、いい気になるな。その中身は「論」のレベルじゃないぞ。「大勢や時流に便乗して、自分が多数派の中に存在しているということを証明するための、2チャンネル・ネット掲示板むけ用語集の提供」に過ぎないではないか。ヘイト主義をまき散らす国家権力の、最端末の陣笠として、喋らされていることに気付きたまえ。
 一例を引こう。東野の「森友学園は飽きた、もう要らんわ」発言に呼応するかのように、森友学園問題終結の思想的落とし所として「森友学園は行き過ぎだけれど、教育勅語は悪くない」的発言があちこちから聞こえてくる。

 僕は教育勅語じたいは何にも悪くないと思います。なにを教育勅語に関して問題になっているのか、意味が分からないです。(略)お父さんお母さんを大切にしましょう、一生懸命勉強しましょう、まわりに感謝し、公の心で社会貢献しましょうみたいなことガッチリ書いてありますよ。何があかんの。ええことと悪いことがごちゃごちゃになってると思うんです。

 そうだ、小薮、お前の台詞だ
 「教育勅語、なぜ悪い?」論は、「押しつけられた憲法はいらん」論と同じくらい、ものを考える習慣を失った空洞頭には心地よく響くらしい。よろしい、次回、徹底的に論破してやる。レベルの低い議論になること必定であるが、やむを得まい。

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