ゴジラは怖い。神の火を盗んだ我々を罰しに来るのだから怖い。
                                        彼は繰り返し首都に向かい、権力の中枢を破壊しようとする。
                                        これが意味するところを噛みしめるべきである。



フランクリン・ルーズベルト
第二次大戦時のアメリカ大統領



ルース・ベネディクト
彼女は日本研究の専門家であったわけではない。どのよううな異文化もそのままま受け入れようとする寛容の精神を持った文化人類学者である。優れた女性の英知の多くがそうであるように、彼女もまた、同性愛者だとか共産主義者だとかいって批難された。アメリカ社会がすごいのは、風評がどうであれ、優れた才能にはきっちりと課題を与え、その報告を尊重して活用していることである。

『菊と刀』

『菊と刀』の日本語訳はたくさんあるが。私が読んだのはこの表紙。



二条城

稲荷山の遠景。何の変哲も無い山並みであるが、樹木の下には ……

こんな迷路が縦横に走っている。



日本軍の最大侵攻範囲
1942年8月頃。つまりたった8ヶ月間だけ威勢が良かったと言うこと。北東はアリューシャン列島の極寒の島、南は赤道を越えジャワ・ニューギニア、西は "水島ぁー" のビルマまで。日清・日露でなんとか勝てたのも、『兵站』という考えが無くても戦えた近隣での戦いだったから。

『国民抗戦必携』の表紙
絵はなかなか上手い、と思う。この冊子、時々ヤフオクに出品されてます。復刻版だと思うけれど。

『国民抗戦必携』の内容
背の高い ヤンキー共の 腹を突け
ちゃんと「5・7・5」になってます。

『朝日新聞』だってこんな風に同調していたんだ。



『レポート25号』の表紙
国立国会図書観デジタルコレクション、というサイトで見つけました。

『レポート25号』の第1ページ

   ページの上段へ

『改憲論』および『改憲論者』の徹底的批判 −− その11
                   平成29年01月08日



 もう何度聞かされたかも分からぬ改憲派の論法に、現憲法はGHQに押しつけられたものである、だから改正すべきである、という常套句がある。前回からこれを批判している。最初に、この理屈は論理水準の恣意的混交(つまり詭弁)であることを指摘した。続いて、『ポツダム宣言』、『松本試案』、『憲法草案要綱』、『マッカーサー草案』、等の内容を確認した。引き続き今回は、マッカーサーが憲法制定を急いだ理由、について述べる。続いて、マッカーサーがそう判断した根拠について述べる。そこに見いだせるのは、戦争という現実に向かう、徹底したリアリズムである。押しつけた、とか、押しつけられた、とか言うような、夫婦の家事分担を巡る口論レベルの理屈が、付け入る隙はどこにも見当たらない。


マッカーサーはなぜ新憲法の制定を急いだのか


 戦時中のマッカーサーは『アメリカ極東軍総司令官』であった。終戦の二週間後、彼は『連合国軍最高司令官』として厚木に降り立つ。12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、戦勝連合国11ヶ国で構成される『極東委員会』(FEC)の設置が決まり、その第1回会合が、1946年2月26日、ワシントンで開催される予定になっていた。マッカーサーはそれまでに、日本の武装解除、戦犯の拘束、旧権力の解体、等、一言で言えば、「ポツダム宣言の精神に則った新秩序の創出」をここまで進めてきたという、実績を作っておく必要があった。
 『極東委員会』の構成は、ポツダム宣言発信国の、米・英・中、の3カ国と、ソ連・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フランス・フィリピン・インド、の8各国である。この11カ国に共通するのは「日本の敵であった」という一点のみ。お互いの立場と利害を異にする国々の集合体である。会議が迷走したり、日本の現状にそぐわない結論が出されたりする可能性がある。特に社会主義国ソ連に主導権をとられてはならない。そこで、一項目でも多く、日本の新秩序の創出を実現させておく。もうここまで進めてきたのだという実績があれば、強いて後戻りを強要されることもないだろう。そのためには新しい憲法の制定を急がねばならなかった。
 新憲法は軍国主義を廃した徹底的に民主主義的なものでなければならない。そうでなければ『極東委員会』のメンバーを納得させることは出来ない。それともう一点、マッカーサーがこだわったのは、何らかの形態で天皇制を残す、という事であった。他国のメンバーは、決してそんな風には考えていないだろう。だが、そうしなければ無用の混乱を招くだけだ。日本の統治はうまく行かない。マッカーサーはそう確信していた。
 だが、これは、マッカーサー個人の思いつきではなかったのである。


『海外戦意分析課』の仕事とは


 1941年7月、米大統領フランクリン・ルーズベルトは、『戦争情報局』(United States Office of War Information : OWI)を設置する。

 戦時中のアメリカ国内の情報は統制されており、特定の情報は過剰に多くまたは少ないといった偏向のあるような状況であり、情報は混乱し、矛盾したものが多かったといわれる。また、なぜ世界大戦が起こっているのかについて理解する情報が不足していたため、アメリカの大衆は国際情勢を理解しておらず、他の連合国に対して怒りを露わにすることさえあった。こうした状況を改善するため、ルーズベルト大統領は戦争情報局を設置した。(ウィキペディア日本語版『戦争情報局』より) 
  
 1944年、この『戦争情報局』に、『海外戦意分析課』(Foreign Morale Analysis Division)が設けられ、社会学者や人類学者など、約30名のスタッフが雇用・配属される。その著書『菊と刀』で戦後日本でも有名になるルース・ベネディクトは、日本班の責任者であった。そこで何が検討されたか。ルース・ベネディクトの研究者ポーリン・ケントさんの『「菊と刀」のうら話』というレポートがネット上で読める。見事に要約されているので、その一部をそのままコピーさせていただく。

 1944年に入ると、戦争の中心がだんだんヨーロッパから太平洋の方へ移ります。そこで日本という敵国について情報を集める必要性が生じ、夏から海外戦意分析課が設立されます。ここでは日本の軍隊と市民はいつまで戦う気かを予想することが仕事の中心で、文化人類学以外にも、政治学、社会学、心理学、日本のことをよく知っている日系人などの専門家三十人ぐらいが集まって課が構成されました。ですから、ベネディクトが一人で日本のことを調べていたのではなく、大きな研究チームで行いましたので、早いペースでたくさんの情報を処理することができました。
 海外戦意分析課では、主に海外で捕虜となった日本の兵士の面接データを分析して日本人の考えていることを想定しました。例えば、日本人は天皇についてどう考えているかということも大きな課題でした。何千人のデータのうちの三千人ぐらいが天皇について何かをコメントし、そのうちたったの七人しか悪口を言っていません。ここから日本人にとって天皇が大変重要な存在であることが判明しました。連合軍にとって天皇はヒトラーのような存在で、当然死刑にすべきだと信じていました。しかし海外戦意分析課では、天皇を死刑にすれば日本の社会的秩序が一気になくなるだろうと予測しました。ちょうど終戦前、天皇の問題をどう扱うかを決める会議が行われ、情報局の代表として出席したのがレナード・ドゥーブ(Leonard Doob)という人だったのですが、彼女はベネディクトのことをよく知っていたしその判断力を尊敬していましたので、ベネディクトに相談しています。ベネディクトは、天皇を死刑にすれば日本人は絶望的になる、ヒトラーと同じように扱うことは事実の単純化にすぎない、などとアドバイスをしました。結局、会議ではプロパガンダで天皇の悪口を言ってはならない、天皇の死刑は占領に悪影響をもたらすだろうという方向づけがなされ、天皇を特別扱いにする結論となりました。

  http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn099.html

 日本に進駐する兵士たちに、特に将校に対しては、この天皇を共同幻想の最上位に置く日本人の精神のあり方は、心得るべき「情報」として徹底的に注入されたようである。日本ではどのように振る舞うべきか、日本人にはどのように接するべきか。当世風に言うならば、ほとんどマニュアル化されたものがあったように思える。それも単なる『べからず集』では無く、日常的・実践的なものとして。


個人的な体験で例証してみる


 私のささやかな体験を語ろう。戦後すぐ、私の家は、何人かの進駐軍兵士たちと交流があった。その中の一人にSさんがいた。接収した家に家族とともに住んでいたから、きっと将校か何かだったのだろう。我々一家は、彼の住居を訪問したことが何度かあったらしい。幼すぎて私にはその記憶が無いのだが、彼の所有する写真や8ミリフィルムには、父親に抱かれた私が写っている。そのSさんが1990年代の終わり頃、何度か日本にやってきた。すでに80歳代であった。
 その時、彼と一緒に京都へ行く機会があった。進駐軍時代、二条城の前に飛行機で降り立ったことがある、一度訪れてみたい、と言うのである。550cc の軽四で京都へ向かった。彼は狭い助手席に長い足を折りたたむようにして座っていたが、国道一号線を北上して名神の高架を潜ってしばらくすると、突然東に見える伏見の山並み(たぶん稲荷山あたり)を指さした。あの山の形を覚えている、あの峰とこの峰の間を飛んで、京都に入ったのだ。軍では、京都の上空を飛ぶ時は十分に注意することになっていた。中心部は重要な神社仏閣があるから迂回すること、特に京都御所の上空は厳禁である。天皇の居処の上を飛行したりしたら、それだけで日本人の怒りを買うこと必至である。だから、大きく南に迂回して京都盆地に入ったのだ、と。
 私は彼の記憶力の確かさに驚いたが、京都御所の上空だけは絶対に飛んではならないと言う禁忌が、これほどまでに徹底され、行動の基準として遵守されていたことに、さらに驚かされた。


敵の降伏で戦争が終わるのではない


 戦闘に勝利し、相手に降伏宣言を出させ、敵の本拠地を占領する。戦争映画の多くはこれでエンディングとなるが、これで戦争が終わったわけではない。相手を武装解除させ、人心を掌握し、あらたな社会形態と国際関係を作り出す。ここまで進めて初めて戦争は終わった、と言える。占領政策とは「戦争という戦いの後半」なのである。
 マッカーサーが憲法制定を急いだのも、その新憲法で天皇制を「日本の象徴として」存続させようとしたことも、アメリカの占領政策だった。その発端は、1941年7月、ルーズベルトによる『戦争情報局』設置までさかのぼることが出来る。1941年7月と言えば、真珠湾攻撃の5ヶ月前である。
 その『戦争情報局』に『海外戦意分析課』が出来るのが1941年の夏(正確な日時は確認できなかったが、上のポーリン・ケントさんのレポートによる)。これは、6月19日のマリアナ沖海戦のすぐ後である。この戦闘で、米軍は日本海軍の正規空母3隻『大鳳』『翔鶴』『飛鷹』を撃沈し、完全に制空権を確保した。この時すでにアメリカは、次の戦闘に対する戦略・戦術を練るとともに、ずっと先の敵国占領後の戦略策定に入っているのだ。

 ひるがえって我が大日本帝国の陸軍・海軍はどうだったか? 真珠湾攻撃のあと、日本軍は、東西南北のすべての方面に戦線を拡大した。その目的は何だったのか? 彼の地を占領した後どうしようとしたのか? どの歴史書や戦記物に当たってみても、明確な戦略的意図を読み取ることが出来ない。占領地を拡げること自体が目的であった、としか思えない。
 戦争末期、本土決戦が叫ばれるようになると、もう戦略・戦術と呼べるようなものは一切霧散してしまっている。1945年4月、大本営陸軍部発行の『国民抗戦必携』には、「銃、劍はもちろん刀、槍、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃庖丁、鳶口に至るまでこれを白兵戰鬪兵器として用ひる」とある。まさに、竹槍三百万本! 一人一殺! もう狂気しか残されていない自滅的号令が、戦略・戦術の全てとなっている。あえて米軍を上陸させろ。米軍の陣形が整う前に徹底的に叩け。あらゆる手段で敵を殺せ。多数の米軍戦死者を出せ。アメリカは女性上位の軟弱な国家である。これ以上自分の夫を殺されるのはイヤだと、一気に厭戦気分が盛り上がるだろう。これが歴史的資料の中に発見できる唯一の『敵国戦意分析』である。


薄汚いオッサンの『菊と刀』逆恨み


 改憲派の「憲法は押しつけられたモノ」論は、マッカーサーの新憲法策定への動きを、占領政策として認識することが出来ないことに由来する。今までに何度も、改憲派における戦争リアリティの喪失を指摘してきたが、これもその一バリアントであるに過ぎない。
 以前、『日本会議』の機関誌『日本の息吹』に掲載されている、『「義眼」を外して真実を見よう ―『菊と刀』の呪縛を解く/高橋史朗』という記事をからかった。(『日本会議』の正体を暴く その2) 中身は知らないし読む気もないが、この標題は、「毛唐のしかも女人ごときが、わが大和民族の心性を分析するとはけしからぬ」という他愛ない反発心で共感を得ようという、よこしまな意図が丸見えである。あるいは自分たちを、『恥の文化』に属するものとして類型区分されたことが気にくわないのかもしれぬ。しかしそれは、『菊と刀』という著作に対する批判にはならない。単なる『言いがかり』である。もう一カ所、ポーリン・ケントさんのレポートから引用させていただく。

 情報やプロパガンダについてベネディクトは多くのレポートや覚え書きを書きましたが、戦争が終わりに近づくと、戦後の日本の占領政策についても考える必要があることが明らかになりました。そこで海外戦意分析課では日本人の基本的な文化的行動、あるいは文化的パターン、価値観についてのレポートがあれば大変役に立つだろうと考え、その専門家として認められていたベネディクトにレポートの作成を指示しました。レポートは最終的に57ページとなり、「レポート25号―日本の行動パターン」(Report 25: Japanese Behavior Patterns) というタイトルがつけられました。そこでは恩と義理、義務、人情というキータームについて論じられていますが、このレポートが後に書かれる『菊と刀』の原型となります。ベネディクトが海外戦意分析課に入ったのは1944年9月上旬で、このレポートが提出されたのは終戦前でした。つまり、ベネディクトが日本文化を研究できる期間はたったの一年間、しかももっと驚くべきことは、このレポートがわずか2カ月ぐらいで書き上げられたことです。

 『レポート25号』は、米軍の日本占領政策のために書かれた。事の性質上、限られた分析資料を基に極めてタイトな準備期間でまとめられた。だがその内容は、今回述べたように、米軍の日本占領に実践的に生かされている。それでもってこのレポートの使命は、本質的には終わっている。あくまで戦争のためのツールであったのだから。後に『菊と刀』という著作に改編されたとはいえ、このレポート作成時の本質は変わらない。つまり、文化人類学者が、膨大な研究と長考の結果をまとめて、日本人の本質を解き明かそうとした『日本人論』では無いのである。
 だから日本人の我々がこれを読んで、我々の実際と違うところがあるぞと感じるのは自由であるが、それでもって著作を批判することは筋違いである。「義眼を外して」の高橋史朗は、「『菊と刀』の呪縛を解く」などと息巻いているが、ベネディクト女史は、もとより、高橋のような薄汚いオッサンの心理分析などする気など無いのである。高橋史朗は、もし『菊と刀』について述べるならば、保守系右派の学者であるという良心に従って、なぜ大日本帝国においては『敵の戦意分析』が不可能であったのか、を分析する責務を負わねばならない。すでに故人となった人の著作に向かって、負け犬が遠吠えするように、戯れ事に遊ぶ暇は無いはずである。

                  ページの上段へ


 −−【その11】了−− 『改憲論』と『改憲論者』の徹底的批判 目次へ