映画は観終えたあとから、もう一つの楽しみが始まる。
                             何故この作品がこれほどまでに私を楽しませてくれたのだろう? 
                             今度は私がホームズとなりポアロとなって謎解きの森に分け入る。

















レコードやCDで、西洋古典音楽を聴きだしてから60年になる。

決して音盤収集家ではないのだが、さすがにこれだけ長いと所有する『魔笛』も8種類になっていた。

それを目的として買い求めたものが多いが、セットものに入っていたものや、人から頂いたものもある。

私には、収集音盤にランキングをつけるような趣味はないので、録音された時代順にそのジャケットを展示してみる。

西暦のあとに、指揮者の名前のみを記してある。

できる限り初出時のジャケットを探してみたが、厳密なものではない。









1957_Ferenc Fricsay






1964_Karl Bohm






1969_Sir Georg Solti






1980_Herbert von Karajan






1987_Nikolaus Harnoncourt






1992_Arnold Ostman







1995_William Christie






2004_Sigiswald Kuijken






























































































































シカネーダ-扮する
パパゲーノ





















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『魔笛』に聴くモーツァルトの本質

    残された時間は短い。
    じっくりとモーツァルトを聴こう。その3

                    2022/01/01



モーツァルトの音楽の本質とは? ―― 前回のまとめ


 ねえゾフィ、すっかりよくなったから、一週間のうちに命名日のおめでとうを言いに行きますと、ママに言っておいてね。

 この言葉を義妹のゾフィー・ハイベルに伝えてから、まる一日もたたないうちに、モーツァルトは死んでしまった。この一行には「モーツァルトと彼の音楽はどの様なものなのか」がそのまま表現されているように思える。前稿でそれを次のようにまとめておいた。

 心の底に深い悲しみとあきらめを秘めながら、それをおくびにも出さず、愛する人たちには快活・明朗にふるまってみせる。それが、軽薄だと受け取られようが、度が過ぎる冗談だと思われようが、かまうことなく。
 モーツァルトは、常にそのように生きてきた。
 彼の音楽もまた、そのようなものでなかったか。


 モーツァルトのこの言葉が発せられた頃、「アウフ・デア・ヴィーデン劇場」では『魔笛』が大好評のうちに連続上演されていた。ではその、歌芝居『魔笛』(K.620)で、モーツァルトとその音楽の本質を確かめてみよう。それが今日の目的である。


歌芝居『魔笛』のコンセプト


 『魔笛』が初演されたのは1791年9月30日。作曲者の死の二ヶ月と少し前のことである。指揮はモーツァルト自身。場所はシカネーダーの経営する「アウフ・デア・ヴィーデン劇場」(Theater auf der Wieden)。ちなみに、この劇場は「ウィーン郊外のヴィーデン地区の複合的な集合住宅建築(フライハウス)内の一角にあった」(Wikipedia)。市の中心部や歓楽街にある大劇場ではなかったのである。
 昭和の中頃まで、日本の大都市近郊の街には、一軒か二軒の小さな映画館や大衆演芸場などがあった。その規模をもう少しだけ大きくした劇場を想像してみよう。「アウフ・デア・ヴィーデン劇場」とはそのような劇場だったと考えて間違いないと思う。
 ただし当時の欧州では、様々な絡繰り・仕掛けを弄して聴衆を楽しませる「機械芝居」が大人気であった。『魔笛』でも、三人の童子は気球に乗って降りてくるし、夜の女王は雷鳴とともに出現する。岩山が割れ、水と火の試練があり、動物たちが舞台を駆け回る、などの趣向が盛りだくさんである。
 つまり、日本で言うなら、一昔前の見世物小屋と現代のUSJを混合させたような演劇空間を大衆は求めていたのだ。もっと具体例に引き寄せてみるなら、たとえば《引田天功と氷川きよしのコラボ・ショー》なるものを想定すれば、その観客層は《魔笛》のそれと一致するはずである。これが、いま風に言えば《歌芝居魔笛のコンセプト》だったのである。


検証の素材としての、映画『アマデウス』


 では『魔笛』は作曲家のどのような状況のもとで創作されたのか?
 それに格好の解析例を示してくれる映画がある。『アマデウス』(1984年:ミロス・フォアマン)である。この映画は、ピーター・シェーファーの原作と同様、モーツアルトの生涯を正確になぞっているわけではない。つまり「伝記映画」ではないのだ。モーツァルトの死にはサリエリの陰謀が絡んでいたという空想を中心軸に再構成された「創作」である。
 一般的に言って、描かれる対象が画家であれ音楽家であれ、伝記映画に面白いものはまず無いと言ってよい。なぜなら、主人公の生涯をストーリーとして描くのに忙しく、作者自身と作品そのものに対する共感表現が絶対的に不足している場合が多いからだ。

 だが『アマデウス』は違う。原作者と映画監督が再現しようとするのは、モーツァルトの生涯そのものではない。ここにあるのは、モーツアルトの生きざまと彼の音楽に対する絶対的な共感の表明である。自ずからそれは、アマデウスの音楽は何故あれほどまでに聴く者の心にしみいるのか、の謎解きとなる。例えばこんなシーン。

 サリエリがヨーゼフ2世に新曲を差し出す。所々つかえながらもヨーゼフはそれを弾く。そこにモーツァルトが入ってくる。初めての謁見である。ひとしきり『後宮からの逃走』にかんする議論があった後、ヨーゼフはサリエリの楽譜をモーツァルトに贈呈すると言う。モーツァルトはそれを拒む。もう頭の中に入っていますから、と。ヨーゼフはこの無礼な若者に、それなら弾いてみろと命じる。モーツァルトは軽快なテンポで弾き始めるが、これではダメだ、単純な繰り返しだ、弾くなら、ほら、こんな風に、と言いながら即興演奏を始める。すると極めて凡庸な初心者用の四拍子が、たちまちのうちに『もう飛ぶまいぞ、この喋々』になって行く。



 実際にそんな出来事があったはずがない。第一『フィガロの結婚』の作曲はもっと後のことだ。しかし、『フィガロの結婚』に魅入られた我々は、あの極めてシンプルな行進曲が、なぜ異常なほどの高揚感をもたらせて第二幕を準備するのかの《謎》を、始めて解かれたように感じ、驚喜する。
 このように、この映画が再現するモーツァルトの姿は、彼自身の生涯そのものとは違っている。しかし、作家のモーツァルトの音楽に対する共感が、映画を、彼の音楽を愛好する者を十二分に納得させるものに仕上げている。本当に何があったのか、はもうだれも確かめることができない。しかし、音楽という芸術の真実はこんな風に描くことができるのだ。

 以下、この映画から何点かの引用を行うが、本稿は『魔笛』や『アマデウス』の解説をするものではないので、充分な説明に立ち入る余裕がない。不明な点があれば、ネット検索をしていただきたい。十分過ぎるほどの情報が入手できる。


『序曲』


 映画では『レクイエム』の作曲依頼者はサリエリだった、ということになっている。
 訪問の際、仮面とマントを着用していたので、モーツァルトはその正体を知らない。モーツァルトの体調は著しく悪化していて、「死神」がやっってきたのだという妄想に取り憑かれる。仮面とマントが父レオポルドが着用していたのと酷似のものであったため、「死神」は自分の抑圧者であった父レオポルドと二重写しになる。
 『レクイエム』作曲の進行具合とモーツァルトの状況を探るために、サリエリはロールというメイドを送り込んでいる。そのロールが泣き顔でサリエリのもとにやってくる。作曲は進んでいるのか? としつこく尋ねるサリエリに対し、ロールは、あの家で働くことは止めさせてください、ご主人様は異常です、もう耐えられません、と訴える。



 モーツァルトは金に困窮し体調も悪化させているが、それでも酒浸りの毎日である。『魔笛』はどこまで書けたのかと迫るシカネーダーにモーツァルトは、それは頭の中にある、と混ぜ返し、馬鹿笑いする。コンスタンチェはシカネーダーを山師のごとく嫌っていて、貴方の才能を無駄にするような仕事は止めなさい、そんな当てにならない仕事より、すぐお金になる『レクイエム』を仕上げろ、とわめき散らす。また「死神」がドアを叩く。モーツァルトは怯えて隠れようとする。まさに修羅場である。それをのぞき見していたロールは、耐えられず逃げ出してきたのだ。

 再度、作曲は進んでいるのかね、と詰め寄るサリエリに、ロールは、ええ、進んでいます、ただし大衆オペラですが、と呟く。

 その時、背後で、『魔笛』序曲の冒頭、変ホ長調の和音がわずかに聴こえてくる。
 その響きの、何と美しいことか。どれほど憧れに満ちていることか。
 三年前に作曲された、交響曲第39番(K.543)が思い出される。珍しく序奏が付いているが、調性が同じ。ファンファーレ風の音型もよく似ている。




『夜の女王のアリア』


 モーツアルトは、フライハウスの東屋に籠もり、シカネーダーたちと乱痴気騒ぎを繰り返しながら『魔笛』の作曲を続ける。ほったらかしにされたコンスタンツェは愛想を尽かして湯治に出かけてしまう。コンスタンツェの母マリア・ツェツィーリアはモーツアルトの不甲斐なさをなじる。大写しにされるマリア・ツェツィーリアの顔。そのヒステリックな叫び声がモーツアルトに霊感をもたらし、画面はそのまま『魔笛』第二幕の、夜の女王のアリア『地獄の復讐が我が心に煮えかえる』に置き換わる。指揮するモーツァルトの顔はすでに土気色だ。



 曲はニ短調の序奏で始まる。一瞬、ドン・ジョバンニの地獄落ちのイメージがよみがえる。夜の女王は歌い始める。パミーナに「お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、お前はもはや私の娘ではない」と二者択一を迫り、最後には短剣を手渡し、ザラストロの殺害を強要する。曲もコロラトゥーラの超絶技巧を要するもので、最高音は「ハイF(3点へ音)」まで昇りつめる。興行師としてのシカネーダーは(おそらくモーツァルトも)、このアリアで聴衆をアッと驚かせ、拍手喝采を目論んでいたはずである。

 だが、この曲は、過激な歌詞の意味を超えている。
 超絶技巧で聴き手を驚かすという域をも、はるかに超えている。

 私たちが聴くのは、娘の成長につれ心理的に疎遠にならざるを得ない母親の嘆きである。いや、もっと一般的・普遍的な悲しみと憤怒の情に踏み込んでくる。時の移ろいと、世間一般との「調和」がもたらす軋轢で、次第に固定的なものとなる親しい人たちとの別離の悲しみ、どうすることも出来ない憤り、がそれである。




『パパゲーノのアリア』


 場面が変わって、シカネーダ扮するパパゲーノが舞台から合図を送る。指揮台から「鍵盤付きグロッケンシュピール」の前に移動しているモーツァルトの顔は、むくみきって真っ青である。それでも彼は、『パパゲーノ様のほしいのは一人の可愛い娘っこ』の序奏を弾き始める。

 パパゲーノ様が欲しいのは 一人の可愛い娘っこ。
 やさしい小鳩がいてさえくれりゃ わしはまったく有頂天!


 パパゲーノがここまで歌い、グロッケンシュピールの間奏が入るのだが、モーツァルトは演奏を続けたまま真後ろへ昏倒してしまう。



 死を主題とした音楽作品はたくさんある。間近に迫った死を意識して書かれた作品もある。でも、これらの死は、あくまで対象化された死である。対象化している主体は、まだまだ平常心を保った状態で、死からは十分に距離を確保している。
 しかし、この場面はそれらとは状況がまったく違う。モーツァルトは、まさに今、背後から死神に抱きかかえられようとしている。そのモーツァルトが創造し演奏するのは、死の恐怖とは対極にあるもの、《恋へのあこがれ》の唄なのだ。



 以上、『序曲』『夜の女王のアリア』『パパゲーノのアリア』の三曲の成立過程を、映画『アマデウス』がどのように描いているかを確認した。体調の悪化、金銭的困窮、機能不全的家族、社会的関係の軋轢、なかんずく《忍びよる死そのもの》が、そのまま《類いまれな美》に昇華されている。
 私が「モーツァルトと彼の音楽はどの様なものなのか」と問うていることの解答例の一つがここにある。


パパゲーノ とは 何者?


 歌芝居『魔笛』は、「大人の複雑な恋愛事情・愛欲事情をコミカルに描く」ダ・ポンテ三部作などとは違い、まったくのおとぎ話である。二組の男女が、様々な困難や試練を乗り越えてめでたく恋を成就させる、というだけの単純な筋立てである。
 その二組とは、タミーノ・パミーナ、それに、パパゲーノ・パパゲーナ。

 タミーノは生真面目で実直。テノールが割り振られて、冒頭から登場。パミーナのプロマイドを見せられて一目惚れ、以降パミーナへの憧ればかりを歌っている印象がある。
 パミーナは、ザラストロと夜の女王という対立軸の中心に位置する人物である。双方から迫られていつも深刻な葛藤の中にある。この難題を自力で解決する道が見いだせず、なんども自死へ向かおうとする。

 これに対してパパゲーノは、調子の良いお気楽者、うまく立ち回ろうとしてヘマばかりする。
 パパゲーナは、物語の最後の方になってやっと登場してくる。それも老婆の外見で。そしてパパゲーノのこれまたいい加減な「誓い」で、あっさりと美女に変身する。

 このように、タミーノ・パミーナ組が「主演格」に設定されているのだが、本来なら狂言回し的存在であるパパゲーノの方に圧倒的な存在感がある。作曲家自身の共感と思い入れも、パパゲーノに集中しているように思える。
 死の床にあったモーツァルトは、意識が覚醒している時には、今頃劇場では『夜の女王』が歌われている頃だろうと言いながら、パパゲーノの『おいらは鳥刺し』を口ずさんでいた、と伝えられる。

 モーツァルトがパパゲーノに示す近親感の正体はいったい何か?

 それにしても、パパゲーノとは、いったい何者。

 全身に鳥の毛を生やしているが、それは衣装ではなく、本当に鳥の毛を生やしているようにも思える。
 大きな鳥籠を背負っているが、それは何のため?
 第一幕の開始早々、『おいらは鳥刺し』と歌うが、「鳥刺し」ってどんな職業?

 歌芝居『魔笛』の謎に迫るには、今少し、この《パパゲーノの謎》にこだわってみるのが良いだろう。


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−−【その3】了−−    

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